~「GT開幕戦」&「ベスモ同窓会」への道・第3回~
ハッと気がついた。30年ほど前には一世を風靡したその色を見て、30回目の誕生日を目の前にして、桜花が散るように、菅生で逝ったあのレーシングドライバーの命日が、今日であった、と。そしてこのことを、その日一日は黙っていよう、と心に決めた。
4月7日の朝、8時。岡山国際を舞台にしたスーパーGT開幕戦が決勝の日を迎えていた。
雨にたたられた前日が嘘のように、穏やかな日差しのふりそそぐ瀬戸内・中国地方は平和な佇まいがよく似合う。すでにサポート役の波田さんは、駐車場から山口ナンバーのHONDAストリームをホテルの玄関へ回してくれていた。その後ろに高知ナンバーのハイエースが控えている。

「おはようございます」
朝の挨拶をしながら、目の覚めるような、派手な色のブルゾンを羽織った青年が近づいて来る。前夜、同じ駅前のホテルで合流し、近くの串焼き割烹で夕食を一緒にした小松青年(みんカラHNはFRマニア)である。彼に関してはすでに2012年7月12日の『ご無沙汰した理由~あるいはその言い訳として~』の章の後半と、8月20日の『ミンミン蝉の歌う朝に~みんカラ仲間との「筑前の小京都・秋月行」②』で紹介済みなので、そちらを参照願いたい。
「黒澤さんに見てもらおうと思って、局長からいただいた《レイトンブルー》を着てきました」
「うん、きみなら似合うね」
若々しさと、明るさが匂い立つ。小松君も満足そうだ。何回か、わたしが袖を通したことのある、レイトンハウスカラーのサーキット専用ブルゾンであった。
去年の秋、九州オートポリスでのスーパーGT第7戦に大分に在住する大学生、小松道弘君にわたしの代理でガンさんの応援に行ってもらったのはいいが、薄着の彼は雨と霧、そして寒さにすっかりやられてしまった、という。その御苦労賃として、同じ大分にある妻の実家で保管してあったブルゾンを進呈していたのである。
「レイトンハウス・レーシングチーム」。
ひところのわが国のレーシングシーンを賑わせたばかりか、F1チームまで運営した「時代の寵児」だった。アパレル事業もヒューゴ・ボスと提携するほどの勢いで、ついにはホテル事業まで手がけた。それが、バブルの崩壊と同時に金融不祥事を問われて、消滅して行った記憶も、いまではすっかり薄れていたはずが、そのエメラルドグリーンを連想させるパステルカラーの色彩に出会うと、「レイトンハウス」に関するさまざまな記憶が悲しげに蘇えってくる。
ちなみにファッション誌ライターであった徳大寺有恒さんは、その色を「ミントグリーン」と呼んだ。そのほうが、色にこめられた儚さが伝わってくる。
*岡山での3日間をサポートしてくれた波田ストリーム
岡山市内を抜け、山陽自動車道を東へ。追尾してくるハイエース(高知からやってきた小松青年のお父上、健一氏がハンドルを握っている。なにしろベスモ創刊からの愛読者だというから、運転にも年期がはいっている)に気配りしながらのカリスマ教官、途中で追い越し車線を、団子になって「ドーン」と疾走していったポルシェ911の軍団の無作法さに、ピクリとも反応しない。
「ああ、スーパーGTのサポートレースでポルシェのカレラカップがあるんで、その関係者が先を急いでいるんだろうね」
助手席に陣取ったわたしから声をかけた。
「そうでしょうね。全車が特注ナンバーの911をつけていましたから」
さすが波田さん、しっかり観察していた。
和氣ICで下の道に降りた。このあたりは古代、大和王朝をバックアップしてきた和氣一族の発祥の地である。物なりのいい田畑が広がり、山と川がそれをそっと包み込んでいるこの盆地は、明日香の里を連想させる「何か」が感じられるのだ。JR山陽線を跨いだあたりから、波田さんはサーキットへの裏道にコースをとる。昨日、岡山空港からアプローチした時に、田部君に教わったルートが、NAVIに記憶されているから、迷いもなく、桜が満開の和氣の里を抜けて、日置川ぞいに山間の道へ入ろうとしていた。
*和気清麻呂像。奈良朝末期、称徳天皇(女帝、孝謙天皇の重祚=2度目の即位)の寵愛を受けて朝廷をほしいままに動かし、ついには天皇の座をねらったといわれる弓削道鏡の陰謀を阻止したものの、天皇の不興を買い、薩摩に幽閉された硬骨の高官として知られる。
「ちょっと、停めて。川のむこうに見える、あの神社に寄って行きましょう!」
指さしながら、わたしは波田さんを制した。「和氣神社」の立て標識が目に入り、ひらめくものがあったのだ。パワースポット特有の人を招きよせる磁力が、そこにはあった。和氣清麻呂を祀った神社だったのだ。
「そうだ。ガンさんチームの戦勝祈願をしていきましょう!」
11時25分、小松青年の待ちに待った「ピットウォーク」の時間が来た。彼は入場観戦券(7350円)とは別に3000円のパスを買い込んで(もちろん、支払いは同行した父上だろうが)いそいそと、マッドブラックで統一されたLEONチームのピットへと人垣をかき分けていた。
ガンさんが、目ざとく小松青年に気づいてくれた。
「おお、よく来てくれたね。それにしてもそのレイトンブルーのブルゾン、全然、色が褪せてないね。よく目立つよ」
ガンさんも記憶をまさぐっていた。1986年の秋、作家の五木寛之さんらと「風の仲間」を結成して、MACAOグランプリのギアレースにGr.Aシビックで出場したが、その時のチームスポンサーが「レイトンハウス」だったこと。それも元をただせば、その年からガンさんは萩原光(あきら)をファーストドラーバーとして、「レイトンハウス」のメルセデスベンツ190E-2・3-16で Gr.Aに参戦した縁があってのことだった。
その流れのなかで、どうしても消すに消せない悲しみの記憶があった。それがその頃〈モータースポーツ界のプリンス〉として注目を集めていた萩原光の炎上死である。もちろん、サーキット場でそのことに触れることは、お互いにしなかった。
27年前のその記憶。レースが無事に終ったところで、一度、まとめておこう、と思った。なぜなら、あのプリンスが菅生のコース・インを最後に見送ったのが、ガンさんだったのだから。ご本人も、「追悼 東北・菅生で萩原光が風になった日」と題して、こう記していた。
――4月7日早朝、ぼくは仙台市のホテルを発って菅生サーキットに向かった。寒い朝だった。桜の季節なのに、真冬の寒風が狂ったように吹き荒れていた。
菅生に着くと、すでに光(あきら)がいた。冗談のいえる男じゃないのに、なぜか、いつになく明るい表情の光だった。
「早く着いたんだね」
ウィナーズサロンで光とレーシングスーツに着替えながら、ぼくは光の到着の早さを意外に思って、話題にした。
「ええ。きのう(4月6日の鈴鹿耐久レース)、やっちゃって走行不能になったものですから」
鈴鹿の午前中のウォーミングアップでクルマ(日産グループCカーR86V)が炎上、本番に出場不可能だったということだ。その分、予定が繰り上がって、ぼくより早い菅生入り……。
「あっちにいても出場は無理だったでしょうね」
光はちょっぴり照れたような顔で、鈴鹿での経緯を話した。それは攻撃性にあふれていて、まさに光の今年の走りを象徴するかのようだった。
ぼくと光は、レイトンハウス・レーシングチームのメイトとして、今年はグループAに参戦し旋風を巻き起こすべく、意欲を燃やしていた。特に光は、チームのファーストドライバーであったから、その張り切りようはすごいものだった。
菅生サーキットにやってきたのは、だから、チームのMBのテストのためであった。
それにしても、光は陽気であった。コースに渦を巻くような寒風をものともせず、時にヘタなジョークを飛ばし、自分で笑いころげた。
その笑顔はまさしく満開の桜だった。
*この笑顔が、今でも心に残っていて、それがまた悲しみを誘うてしまう。
この後も、ガンさんの追悼の記は続くのだが、それは次回更新まで。