回想の中山サーキット 第2章
第22回東京モーターショー開幕(昭和52年=1977)に焦点をあてて創刊した『ベストカーガイド』(当時の呼称)は順調に成長して、8年目の1985年7月号から月2回刊にシフトチェンジした。編集長は勝股優君(現在は三推社から社名変更した講談社BCの会長)でクルマのニュース、スクープものは彼に任せて、総編集長のわたしは、カーマガジンという専門誌を、いかにして一般誌並みの質感のあるものに高めていくか、に腐心していた。
*創刊8年目に月2回刊にシフトチェンジ。それを記念して連載開始。その面白さに唖然!
まず五木寛之さんに連載小説をお願いした。カーアクションロマン『疾れ! 逆ハンぐれん隊』が、7月26日号の誌面を、挿絵・村上豊画伯とのコンビで飾ったあの時の晴れやかな高揚感を、いまでも忘れることができないでいる。
徳大寺有恒、黒澤元治コンビは脂がのって、絶好調。そこへ東大宇宙航空研出身でレーシングカーの設計者である舘内端さんを「風の仲間」として加えた。彼には未来を見つめる特別な役割をお願いした。それが紀行ドキュメント『卑弥呼の国へクルマでようこそ!』であった。
*カラーページ付きの特別待遇ではじまった新企画
その連載第1回のターゲットにモノづくりの原点として「備前焼の窯元」を選んだ。旅の道連れは、当時出たばかりのHONDAクイント・インテグラと、そのエクステリアを担当した在間浩主任研究員で、『炎の祭典』と呼ばれる備前焼の窯だしシーンに立ち会いながら、クルマと備前焼に共通する不思議な符合を語り合う。そしてその備前焼の瓦を美しく、屋根いっぱいに広げてみせる、300年前に備前藩主が庶民教育のために建てられた「閑谷学校」へと、足を伸ばし、さらに山ひとつ向こうにある「中山サーキット」へと続くクルマの旅がはじまる。「閑谷学校」については「ベスモ同窓会」の後半のステージに選んだ理由などを含めて、このあと、詳しく触れるつもりだ。
*真ん中が日産レーシングスクールの「同期の桜」次男の昭さん。
*この旅に同行した私服姿の吉川とみこ選手
旅の同行者は、わたし以外に、もう一人いた。女性ドライバーとしてF3にまでステップアップしてきた当時のレース界の花、吉川とみ子さんであった。山ふところに抱かれるようにして現れた中山サーキットに着くと、喜び勇んでインテグラでコースへ出る。
1.6リッター、16バルブを唸らせて、グランドスタンドに陣取ったわたしたちの前を疾駆していく。
舘内「サーキットにインテグラは似合うね」
在間「走っているときに美しい、これがデザインの大切なところなんです」
なるほど、閑谷学校の静と中山サーキットの動の中で、インテグラは二つの顔を見せている。閑谷学校の伝統の重さの中ではインテグラは少し恥ずかしそうに小さくなっていたが、ここでは生き生きしている。
そんなことを語り合っているわたしたちのもとへ、体格のしっかりした青年が挨拶にやってきた。ここのオーナーの次男坊である棚田昭さんであった。実はわたしたちが中山サーキットへやってきたきっかけは、彼にあったのだ。
この取材紀行の3年前、やむなく編集長を兼任した余波として、星野一義や長谷見昌弘らを講師陣に持つ日産レーシングスクールを受講する破目となり、いつしかモータースポーツの世界と親しくなってしまうのだが、そのときのスクール受講生でTSサニー乗りの実力NO.1が、ここに登場した棚田青年で、つまり「同期の桜」という仲であった。
その彼から、中山サーキットの存在を知らされていて、いつしかわたしの中で、炎の祭りである備前焼、教育の道場であり人間の営みの永遠性を問いかける閑谷学校、そしてクルマとドライバーの修練の場であり、レースという現代の祭りの広場である中山サーキットがひとつとなって、いつか企画として仕上げたいと考えていたテーマに育っていたのである。
『卑弥呼の国へ…』はこのあと、奈良の明日香の里、日向の高千穂の里、そして騎馬民族発祥の地・韓国などを1年間にわたって訪ね、それなりに注目される連載企画に育っていく。舘内さんは、その後、この連載に手を加えて『2001年 クルマ社会は崩壊する』(講談社・三推社 1987年刊)という、自動車が21世紀に生き延びる知恵を求めて旅をする単行本にまとめ上げている。
*近く「ConTenDo」から電子書籍として復活予定
いまやEV車研究の第1人者となった舘内さんの本質を知る、絶好の本なのだが、すでに絶版となってしまった。そこでかねてより、この本を「電子書籍」として復刻させる準備をすすめてきたが、近く上梓できる。ぜひ、ご一読あれ。
さて、本題にもどると、2回刊化して3号目から、三本目の柱企画を登場させた。題して『闘う男』。その第1回は、日産レーシングスクールで親交を深めた星野一義に焦点を合わせた。第2回は当時のマツダでリクルート戦線を取り仕切っていた「元・広報課長」、そして第3回目に、いよいよ「中山サーキット」を自力で築き上げた男・棚田史朗さんに、ご登場願うことにした。舘内さんの『卑弥呼の国へ…』で登場してからわずか3号後のことであった。
題して『草レース家族の強烈ど根性を知れ!』。さらに、こんなサブタイトルまで用意した。『備前岡山の山里深い中山に、男の意地で拓いた手造りサーキット物語』。ここはじっくり、導入部からお読みいただこうか。

*中央が棚田史朗さん。左が長男の博史、右が次男の昭と自慢の息子たち。(1985年当時)
★ ★ ★
男は――新幹線京都駅で買い求めた萩の家の弁当を膝に、赤穂線の固い椅子に揺られながら、めし粒とともに「鈍行」の旅を噛みしめていた。
相生(あいおい)と岡山を結ぶ瀬戸内海沿いの赤穂線は山陽の陽光の下をゆっくり、ゆっくり進んでいく。この地方の陶工たちが丹念に土をこねるように、その走りは実に丁寧で、ゆがみがない。
だが、目的地の中山サーキットに着くためには、まだまだ、ゆっくりの旅をかみしめなければならなかった。むかし、黄銅石をはこんでいた片上線に乗り換えなければならないこと、そして、その片上線が備前片上駅からでているのか、西片上駅に接続しているのか、新幹線相生駅の国鉄(当時の呼称)職員さえ知らなかった。
男は西片上駅に狙いを定めて下車した。折よく発車する小さなディーゼル車(車両はもちろん1両)に飛び乗ったものの、名も知らぬ瘤のような山々の間を、まるで人目を避けるようにトコトコと……。おいおい、大丈夫か。それも20分ほどの不安で終わった。
帽子がまだキマッていない若い車掌サンが「中山」であることを告げに来てくれた。
――そこはだれもいない無人駅であった。15メートルほどのホームと1坪ほどの駅舎、野草が生い茂り、周辺は4、5軒の民家が点在するのみ。

*残念ながら、平成3(1991)年に片上鉄道は廃線となり、中山駅もいまはもう、ない。
遠ざかるディーゼル車、尾を引くように山並みにむかって伸びる単線レール、灼熱の太陽……ああ。
実りを待つ青いイネがあたりの田んぼを鮮やかに染め上げている。そこはまぎれもない山里であった。
とりあえず、と男は思った。山側へ向かえばよかろう……田んぼに沿って、くねるような道を進むと、不思議なものだ、サーキットの匂いがする。鈴鹿やFISCOの強烈なそれとはちがう。もっと、ほのかな、ミルクのようなヤツ。
東京を発ってすでに6時間が経過しようとしている。この地、中山に日本ではじめての個人サーキットを拓いた棚田史朗の「闘い」のストーリーが、やっと、ここからはじまる。
(以下、次回更新へ)
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ベストモータリング同窓会 | 日記
Posted at
2013/06/08 16:45:13