~マジェスタ『音羽ニュル』攻略に換えて、あえて伝えたくなったたこと~
日を置かずに書き継ぎます、と予告しておきながら、勝手に夏休みに突入してしまったこの1週間。それでも、そのフリーな時間を楽しみ、あれこれと想いをめぐらせていた。それは70年近くも昔の「心の傷」と呼ばれるもので、それをいまさら当BLOGにアップしてどうなるものか、正直、迷っていた。
どの新聞、どのTVも8月15日の「69回目の終戦の日」にむけて定番特集を組んでいる。ま、当方までがそれに歩調を合わせることもなかろう、と一旦は思いとどまっていたところ、TBS系のニュース番組が靖国神社の大鳥居の前あたりで、お祭り気分の若者たちを呼び止めて、「太平洋戦争で日本が戦った相手はどこの国だったか」とインタビューしているのを見て、コロリと気持ちが変わってしまった。
「え!? 中国でしょ」「いや、韓国だろ?」「本当にアメリカと戦ったの、嘘でしょ!」
最初はやらせかと、疑ったくらいの、信じられないような反応が集められていく仕組みだった。それが案外、この国の若者層の素直な姿かもしれなかった。
風化していく記憶。ゾッとさせられた。やっぱり、どんな形でもいい。わたしなりに「生きてきた証(あかし)」を残しておこう。改めて、そう心に決めたこの夏は、今が真っ盛りなのだろうか。
鎮魂の夏、『長崎の鐘』を聴きながら……最初に、こんな見出しのタイトルを決めてから、わたしはこう書き出していた。
台風11号に日本列島が翻弄された8月10日の朝になって、やっと遠くの方で発信されているらしい微かなミンミン蝉の声を聴いた。それでも、安心した。異常気象のせいで、近辺の蝉たちが死滅してしまったのか、それとも涼しいところへ避難していったのか、などと気になっていた。
そんな夏を迎えて……8月9日になると、決まって蘇ってくる『地獄絵のような痛哭の記憶』がある。

*長崎平和公園の「長崎の鐘」

*長崎平和公園の乙女の像。1986年に訪れたときのもの。
1945(昭和20)年8月9日、午前11時02分、長崎市北郊の浦上地区へ、原子爆弾が投下された。上空500メートルで炸裂。巨大な熱線(放射能)と化した火球は、一瞬のうちに、爆心付近の人々を即死させ、さらに爆風となって4キロ以内の建物と人々吹き飛ばし、やがてあちこちで火災を発生、生き残った長崎の人たちに致命的な原爆ケロイドの傷跡を残していった・・・・・・。
記録によれば、当時の長崎の人口は24万人、そのうち12万人が罹災し、その年の12月末には死者の数は7万を超えてしまったという。
8月6日の広島市被爆から3日目の惨劇である。それから、69回目の「原爆の日」。慰霊式の模様がTV中継され、鎮魂の鐘がしめやかに打ち鳴らされる。その光景をみながら、否が応でも、国民学校(当時はそう呼んだ)4年(9歳7ヶ月)のあの頃に、わたしは引き戻されてしまう。
もちろん、広島が「ピカドン」にやられたことなど、10歳にもならない少年が 知るよしもなく、「警戒警報」のサイレンが禍々(まがまが)しく鳴り響く8月8日の朝を迎えた。

*八幡製鉄所を空襲するB29。昭和19年6月の最初の八幡空襲。NHKアーカイブ『戦争証言』より
いやな予感はあった。前夜もまた、そのころは決まって夜間は近くの花尾山の山腹に掘られた横穴式防空壕に集められ、町内の人が肩を寄せ合って、蝋燭の灯りをたよりに不安におののく夜を過ごしていた。
午前10時になる10分ほど前に、家の様子見と、食料補給のため、ともかくも、母と就学前の弟二人と、まだ2歳の妹を防空壕に残し、防空頭巾をかぶっていったんは外へ出て、わが家へ通じる松林の間を抜ける小道を駆け下っていた。と、そのときだ。巨大な鳥がヒュンという奇声を発しながら、頭上を通り過ぎたような気がした。ザワザワッと松林が総毛立った。
と、ビシッ、ビシッと音を立て、土煙の列が体の真横を駆け抜けていった。
何が起こったのか。呆然と空を見上げると、銀色に光る翼を左右にスイングしながら、松林の向こうへ消えていく……。
それが爆弾を抱いて飛来するB29の前後を掩護(えんご)する、いわば露払い役のアメリカ空軍攻撃機、P47-サンダーポルトによる機銃掃射だと知るのは、随分後になってからで、それよりも、その直後から、わたしの目前で繰り広げられていく白昼の地獄絵は、いまも思い起こすだけで総毛立ってしまう惨(むご)いシーンの連続であった。
空いっぱいに、200機を超える図体のでかい怪鳥の集団が、我が物顔に舞っている。そして、お腹を開くなり、黒いものを振り撒き始めたのである。
ドーン、ドーン。地響きとともに、火柱が上がり、それが炎となって拡がってゆく。
前年(昭和19年=1944)の6月に八幡が第1回目の空襲に見舞われた後、父が軍属として召集されたこともあって、我が家は糸屋の商いをたたんで、山手に住まいを移していた。斜面に石垣を積み重ねて建てられた2階家で、松林が隣接しており、見晴しだけは抜群だった。

現在の北九州市八幡東区を背後の皿倉山から眺望すると……なんと平和な夜景だろう。
機銃掃射を受けた後、どうやって山腹の防空壕へもどったのか、記憶が定かではない。ただうわ言のように、母や周りの大人に報告し続けたという。
――八幡の町が、製鉄所が焼けちょるよゥ!
なんと午前10時から2時間にわたって、わたしの生まれ育った町・旧八幡市は200機に及ぶB29 爆撃機から投下された焼夷弾攻撃によって、炎上し、火の海となり、あっという間に焦土と化してゆくのを、まだ10歳にもなっていない少年の心に焼き付けて行ったのである。
記録によれば、この日、八幡の町に投下された焼夷弾は45万発を超えたといわれ、八幡の市街地部分の20%あまりが壊滅した。犠牲者はおよそ3000人。

*昭和20年8月8日 防空体制はすでに無力化し、なすがままに焼夷弾の雨が降った……

*焦土とかした八幡の街 製鉄所よりそこに働く社員住宅がターゲットだった。
航続距離に限界のある,B29爆撃機が北西の方向に消えて行った午後、八幡の町に黒い雨が降り始めたのを、なぜか記憶している。
八幡は洞海湾に沿って帯状に広がる坂道の町である。その雨に打たれながら、助けを求めて被災した人たちが、続々と山手に向かって、這うようにして上がってくる。水をくれ、助けてくれ。薬をくれ。そのうめき声と、ボロボロになった着衣の下から覗く焼けただれた肌が、その時の光景の痛ましさを増幅してしまう。
その日の夕方、我が家に白い海軍士官の軍服をボロボロにした被災者の一人が、倒れるようにして転がり込んできた。9歳年上の兄、昭次であった。短剣だけはしっかりと左腰に携えていた。
どうして、神奈川県鵠沼で無線通信の見習い士官として戦っていると聞かされていた兄が、なぜ空襲のさなかに八幡に帰ってきたのか。
兄・昭次はそのまま、半死半生の状態で8月15日の終戦の日を迎えた。
(この項、続く)
ブログ一覧 |
つれづれ自伝 | 日記
Posted at
2014/08/18 02:48:09