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2014年08月18日

鎮魂の夏…『長崎の鐘』と『終戦の日』の狭間で

鎮魂の夏…『長崎の鐘』と『終戦の日』の狭間で ~マジェスタ『音羽ニュル』攻略に換えて、あえて伝えたくなったたこと~

 日を置かずに書き継ぎます、と予告しておきながら、勝手に夏休みに突入してしまったこの1週間。それでも、そのフリーな時間を楽しみ、あれこれと想いをめぐらせていた。それは70年近くも昔の「心の傷」と呼ばれるもので、それをいまさら当BLOGにアップしてどうなるものか、正直、迷っていた。

 どの新聞、どのTVも8月15日の「69回目の終戦の日」にむけて定番特集を組んでいる。ま、当方までがそれに歩調を合わせることもなかろう、と一旦は思いとどまっていたところ、TBS系のニュース番組が靖国神社の大鳥居の前あたりで、お祭り気分の若者たちを呼び止めて、「太平洋戦争で日本が戦った相手はどこの国だったか」とインタビューしているのを見て、コロリと気持ちが変わってしまった。

「え!? 中国でしょ」「いや、韓国だろ?」「本当にアメリカと戦ったの、嘘でしょ!」
 最初はやらせかと、疑ったくらいの、信じられないような反応が集められていく仕組みだった。それが案外、この国の若者層の素直な姿かもしれなかった。

 風化していく記憶。ゾッとさせられた。やっぱり、どんな形でもいい。わたしなりに「生きてきた証(あかし)」を残しておこう。改めて、そう心に決めたこの夏は、今が真っ盛りなのだろうか。
 
 鎮魂の夏、『長崎の鐘』を聴きながら……最初に、こんな見出しのタイトルを決めてから、わたしはこう書き出していた。

台風11号に日本列島が翻弄された8月10日の朝になって、やっと遠くの方で発信されているらしい微かなミンミン蝉の声を聴いた。それでも、安心した。異常気象のせいで、近辺の蝉たちが死滅してしまったのか、それとも涼しいところへ避難していったのか、などと気になっていた。

 そんな夏を迎えて……8月9日になると、決まって蘇ってくる『地獄絵のような痛哭の記憶』がある。


*長崎平和公園の「長崎の鐘」


*長崎平和公園の乙女の像。1986年に訪れたときのもの。

1945(昭和20)年8月9日、午前11時02分、長崎市北郊の浦上地区へ、原子爆弾が投下された。上空500メートルで炸裂。巨大な熱線(放射能)と化した火球は、一瞬のうちに、爆心付近の人々を即死させ、さらに爆風となって4キロ以内の建物と人々吹き飛ばし、やがてあちこちで火災を発生、生き残った長崎の人たちに致命的な原爆ケロイドの傷跡を残していった・・・・・・。

記録によれば、当時の長崎の人口は24万人、そのうち12万人が罹災し、その年の12月末には死者の数は7万を超えてしまったという。

 8月6日の広島市被爆から3日目の惨劇である。それから、69回目の「原爆の日」。慰霊式の模様がTV中継され、鎮魂の鐘がしめやかに打ち鳴らされる。その光景をみながら、否が応でも、国民学校(当時はそう呼んだ)4年(9歳7ヶ月)のあの頃に、わたしは引き戻されてしまう。

 もちろん、広島が「ピカドン」にやられたことなど、10歳にもならない少年が 知るよしもなく、「警戒警報」のサイレンが禍々(まがまが)しく鳴り響く8月8日の朝を迎えた。


*八幡製鉄所を空襲するB29。昭和19年6月の最初の八幡空襲。NHKアーカイブ『戦争証言』より

 いやな予感はあった。前夜もまた、そのころは決まって夜間は近くの花尾山の山腹に掘られた横穴式防空壕に集められ、町内の人が肩を寄せ合って、蝋燭の灯りをたよりに不安におののく夜を過ごしていた。

 午前10時になる10分ほど前に、家の様子見と、食料補給のため、ともかくも、母と就学前の弟二人と、まだ2歳の妹を防空壕に残し、防空頭巾をかぶっていったんは外へ出て、わが家へ通じる松林の間を抜ける小道を駆け下っていた。と、そのときだ。巨大な鳥がヒュンという奇声を発しながら、頭上を通り過ぎたような気がした。ザワザワッと松林が総毛立った。
と、ビシッ、ビシッと音を立て、土煙の列が体の真横を駆け抜けていった。

 何が起こったのか。呆然と空を見上げると、銀色に光る翼を左右にスイングしながら、松林の向こうへ消えていく……。

 それが爆弾を抱いて飛来するB29の前後を掩護(えんご)する、いわば露払い役のアメリカ空軍攻撃機、P47-サンダーポルトによる機銃掃射だと知るのは、随分後になってからで、それよりも、その直後から、わたしの目前で繰り広げられていく白昼の地獄絵は、いまも思い起こすだけで総毛立ってしまう惨(むご)いシーンの連続であった。

 空いっぱいに、200機を超える図体のでかい怪鳥の集団が、我が物顔に舞っている。そして、お腹を開くなり、黒いものを振り撒き始めたのである。
ドーン、ドーン。地響きとともに、火柱が上がり、それが炎となって拡がってゆく。
 
 前年(昭和19年=1944)の6月に八幡が第1回目の空襲に見舞われた後、父が軍属として召集されたこともあって、我が家は糸屋の商いをたたんで、山手に住まいを移していた。斜面に石垣を積み重ねて建てられた2階家で、松林が隣接しており、見晴しだけは抜群だった。


現在の北九州市八幡東区を背後の皿倉山から眺望すると……なんと平和な夜景だろう。

 機銃掃射を受けた後、どうやって山腹の防空壕へもどったのか、記憶が定かではない。ただうわ言のように、母や周りの大人に報告し続けたという。

――八幡の町が、製鉄所が焼けちょるよゥ! 

  なんと午前10時から2時間にわたって、わたしの生まれ育った町・旧八幡市は200機に及ぶB29 爆撃機から投下された焼夷弾攻撃によって、炎上し、火の海となり、あっという間に焦土と化してゆくのを、まだ10歳にもなっていない少年の心に焼き付けて行ったのである。

 記録によれば、この日、八幡の町に投下された焼夷弾は45万発を超えたといわれ、八幡の市街地部分の20%あまりが壊滅した。犠牲者はおよそ3000人。



*昭和20年8月8日 防空体制はすでに無力化し、なすがままに焼夷弾の雨が降った……


*焦土とかした八幡の街 製鉄所よりそこに働く社員住宅がターゲットだった。

 航続距離に限界のある,B29爆撃機が北西の方向に消えて行った午後、八幡の町に黒い雨が降り始めたのを、なぜか記憶している。

 八幡は洞海湾に沿って帯状に広がる坂道の町である。その雨に打たれながら、助けを求めて被災した人たちが、続々と山手に向かって、這うようにして上がってくる。水をくれ、助けてくれ。薬をくれ。そのうめき声と、ボロボロになった着衣の下から覗く焼けただれた肌が、その時の光景の痛ましさを増幅してしまう。

 その日の夕方、我が家に白い海軍士官の軍服をボロボロにした被災者の一人が、倒れるようにして転がり込んできた。9歳年上の兄、昭次であった。短剣だけはしっかりと左腰に携えていた。
 どうして、神奈川県鵠沼で無線通信の見習い士官として戦っていると聞かされていた兄が、なぜ空襲のさなかに八幡に帰ってきたのか。

 兄・昭次はそのまま、半死半生の状態で8月15日の終戦の日を迎えた。
                      (この項、続く)


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Posted at 2014/08/18 02:48:09

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この記事へのコメント

2014年8月18日 7:22
親父、お袋からよく大空襲のことはよく聞かされていました。空襲により、たまたま翼と翼の間にあったところだけを残して焼け野が原になったこと。八幡駅前の防空壕の被害がひどくかなりの戦士者がでたことなど。この8月8日の空襲の話や写真を見るたびに、長崎が北九州の代わりになったということを思い出します。本来は、小倉に投下される原爆が空襲により目標が定まらず、B29は基地に帰還する燃料がないので、長崎に投下した話を。もし、北九州に投下されていたらと思います。こうした歴史は、語り継ぐ必要がありますね。
コメントへの返答
2014年8月18日 22:47
あなたのお父上とは同じ時代、同じ地域で、同じ体験をしました。

八幡駅前の東寄りの尾倉地区に、あの当時は小伊藤山と呼ばれた丘陵があって、そこに掘られた横穴式防空壕で200人を超す人々が亡くなられ、その鎮魂の証しとして平和を祈る乙女の像が、労働会館前のロータリーに建立されましたが、いまも同じでしょうか。
2014年8月18日 10:56
さらっと触れられているところですが、局長自身かなり際どい状況を体験されているのですね。

青森市も北海道との物流の根幹である青函連絡船をターゲットにした攻撃に再三さらされ、東北では最大規模の空襲(7月28~29日)を受け、市街地の8割以上が焼失しました。
その中心部で生まれ育った私の父は、局長より少し年下なのであまり多くの記憶はないそうですが、母(私の祖母)に背負われ郊外に逃げる途中、振り返ったら花火みたいに明るかった、という記憶があると話してくれたことがあります。

なお、東北新幹線新青森駅周辺はその爆撃開始地点(市街地=東方向に爆撃)で、元々腰まで埋まってしまうような田んぼだったそうで、その周辺は新幹線に合わせて区画整理されたのですが、その過程で焼夷弾が多数見つかっており、発見されると同時に火柱が上がった(空気に触れると発火する)そうです。

当時の記憶を知る人が少なくなっていくので、今ある記録集以上に沢山の人が持っている記憶を語り継いで行っていただきたいと思います。
終戦間際になって招集され、終戦時には中国地方に居た亡祖父(教師であり、片親で一人っ子だったため最後の最後に招集されたようです)から話を聞けなかったのが非常に悔やまれます。
コメントへの返答
2014年8月18日 16:48
丁寧なコメント、何度も読み返させていただきました。

青函連絡船までターゲットになっていた話、はじめて聴きました。そして新幹線の区間整理で掘り起こされた焼夷弾の炎上。

それぞれが語り継ぐ「鎮魂の夏」。続けたいものです。
2014年8月18日 19:12
この戦争への過程を探りながら辿り着く終戦への道のりは非常に複雑で解釈次第で180°違ってくる程です。


八幡はB29がサイパンから飛び立つ以前から中国大陸の桂林等から飛来していましたね。 その影響もあり1944年の中国大陸における大陸打通作戦(一号作戦)に繋がります。 戦争末期になると製鉄所のあった 釜石 室蘭 等は艦艇による艦砲射撃を受け施設や市街地に壊滅的な打撃を受けています。


かくいうわが故郷佐伯も佐伯海軍航空隊基地への攻撃のため 爆撃機 空母艦載機等による空襲を受け終戦一日前の8月14日にも空襲を受け死者を出しています。



出来事一つ一つの積み重ねといいますか 一つの判断により 次の判断への 布石 制約 が出来て それが判断の幅を自らの判断で狭め行き詰まっていくという悪循環。



結局一人一人が少しの自覚を持って心の片隅にでもあの戦争の惨禍を置いておければ良いと自分は思っています。
コメントへの返答
2014年8月18日 21:23
久しぶりの「ゆーさくワールド」ですね。

航続距離6000kmの大型爆撃機の完成と、サイパン,テニヤン基地がワンセットとなって原爆投下計画が実施されたのは、ご存じの通り。それに先立って敢行された中国大陸からの空襲作戦。その微妙な絡み合いが八幡。小倉と長崎とを別の世界へ導いてしまう。
そうした連合国軍の作戦に火をつけたのが日本陸軍による重慶爆撃。目配りしたい,歴史的事実。
2014年8月18日 22:51
こんばんは。

残念な事に、昔修学旅行で語り部の方々が私たちに思いを伝えている中寝ている人間が何人かいました。他にも平和学習に関して軽視した発言をしたもの、認めたくないですがこれが現状なのかなと肩を落とした記憶があります。

今は亡き祖父が戦時中海軍にいた頃、フィリピン沖で撃墜され周りが海に散っていった話をよくしていました。その話になると祖父は必ず最後に、「戦争なんか最初から負けるがわかっちょったにね。」と締めくくっていました。
「鎮魂の夏」を伝える、これはやはり経験された方でないと勤まる仕事ではないと考えさせられました。
コメントへの返答
2014年8月18日 23:03
元気ですか?

もう少し、この「鎮魂の夏」を掘り下げてみるつもりで、兄・昭次の写真を探していたら、NHKで「長崎原爆」の爆風の凄さをドキュメンタリーで放映しはじめました。

ぼく自身、青年期にはこのテの記憶を話したり、書いたりすることを恥ずかしいものと避けていたような気がする。それがいまになって……不思議ですね。
2014年8月19日 0:17
こんばんは、真夏の照りつける日差しは何処へやら?梅雨に逆戻りしたかのようなお盆連休になってしまいました。如何お過ごしでしょうか。

8月6は登校日、8月9日は平和学習の一環で幼年期から父親に連れられ毎年長崎を訪れていました。そして知覧にも尋ねました。戦争の怖さ、そして命の尊さ、平和に過ごせる有難みを子供ながらに感じたのを鮮明に覚えています。

先日のニュースで長崎の語り部の方がこう仰っていました。「昔の平和学習は学校引率者が事前に下見され、当日は1~2時間くらい被爆体験を喋ったけれども、今は下見にくる学校も減り、当日も30分~1時間程度となった」。

学習内容が多様化し、それだけに時間を割くことが出来ないのかもしれませんが、もっと時間をかけて学び、自らが考え、それを後生へと伝える、それが本当の平和学習だと感じています。
コメントへの返答
2014年8月19日 7:38
ご無沙汰です。「男旅」は楽しく読ませていただきました。タカタ……いつになったら行けるのかな。

9月4日には千葉・舞浜で藤原大明神と久しぶりにお目にかかれそうなので、楽しみにしています。
「鎮魂の夏」……続けます。

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「1週間前の当欄で紹介した虎のドラフト第1位の伊原左腕が、聖地甲子園でも巨人相手に6回を4安打1失点と好投、ホンマモンと一安心。もう一つ、先の広島戦の3失策てスタメン落ち中の木浪が9回に代打で登場、快速の守護神マルチネスから右翼線に2塁打して大逆転劇を期待させてくれたのが光った。、」
何シテル?   04/28 11:49
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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