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2014年08月27日

鎮魂の夏② 8月9日、もしもあの時・・・

鎮魂の夏② 8月9日、もしもあの時・・・  ~八幡と小倉の空が晴れていたなら~

「残暑見舞い」代わりにクルマ当てクイズを試みたところ、想像を超えるスピーディな対応があって、結局、群馬県高崎市の「サンデ」さんを正解者第1号と認定、ガンさんのサイン入り本を贈らせていただくことにした。

 あ、正解はジャガーXF 2.0 プレミアム ラグジュアリー。ギンギンのスポーツカー、Fタイプを試乗したあとだけに、その妙に優雅な動き具合がジャガーのDNAか、などと感じ入って、早速、夜の「音羽ニュル」を攻めたくなったほどである。



 さて、急ぎ足で夏が終わりそうだ。こちらも「鎮魂の夏」を急ぎ足で書き上げなくては。前回(8月23日アップ)は風船爆弾の存在を紹介した後、八幡大空襲のさなかに、白い海軍見習士官姿の長兄・昭次が、火の海を掻き分け、半死半生の状態で、わが家にたどり着いたところまでだった。

 布団に倒れ込んだまま、昏々と眠りつづけていく兄・・・・・・。
「神様、兄(あん)ちゃんを、どうか助けてつかぁさい」


*鳥野神社

 ぼくらはひたすら祈るしかなかった。夜が明けると、すぐ傍の鳥野神社に弟を連れて祈願にいった。かしわ手をうち、思いっきり頭を下げ、お賽銭替わりに、秘蔵の宝貝を奉納した。
 
 神社の高台から見下ろした前田と平野の町は、炎こそおさまったものの、まだ燻(くすぶ)り続け、その余熱と煙がさらに雲を呼び、重々しい空模様の1945(昭和20)年8月9日の朝を迎えていた。・・・・・・太平洋戦争終結の日まで、あと一週間たらずだった。

 焼夷弾に焼かれ、煙にまかれそれでも、地元の人だけが知っている堀川の底を這いずりながら、いくつかの町をくぐり抜けて、山手のわが家にたどり着いた兄・昭次はそのまま、昏々と眠り続けている。医者がいるわけじゃない。町内会で調達してきた火傷薬と、包帯代わりの白い晒(さらし)帯がたよりだった。

「昭ちゃんを死なすわけにはいかんとよ」
 自分のすべてを注ぎ込むような、あのときの母の看病ぶりを思い出すと、いまでも熱いものが、知らず、こみ上げてくる。兄はその名前から解るように昭和2年(1927)生まれ、大正元年(1912)生まれの母とは15の歳の差がある。兄は実の母親の顔を見ることがなかった、と聞く。

 三男坊だった父・徳一は遠賀川筋の主要な町、直方の酒造家・福原家へ養子入りしたものの、妻はるゑの産後の肥立ちが悪く、生後間もない兄を遺して旅立たれてしまう。
 それからの詳しい話は知らないが、福原氏が廃家、正岡姓に戻った父は兄・昭次の手を引いてそのころ、北九州でもっとも発展途上にあった八幡に出て、やもめ暮らしをしながら、当時の生活必需品であった糸を取り扱う商人として再出発をする。
 そしてわが母・澄子とめぐり逢い、新しい所帯をもつ。昭和11年1月、わたしが生まれる。兄・昭次はその時、姉のように若い新しい母と9つ年下の弟を、どんな気持ちで迎え入れたのだろうか。

その辺の時代のわが家の雰囲気は、当BLOGのスタートとなった「ファーストラン」で触れたつもりなので、よろしければ再読いただければ幸い。


*手元に残った兄のスナップ写真はこれだけしかない。戦後の解放期、どこかの海辺でギター演奏を楽しむのが何よりの楽しみだった。

 兄・昭次が福岡県立八幡中学校(現在の県立八幡高校)に進学、キリリと学帽をかぶり、足元を白の脚絆で締め上げて、まっすぐ胸を張って通学していた姿を、わたしは眩しく見送った記憶がある。情熱を剥き出すような「九州男児」の激しさを、彼はまったく持ち合わせず、いつも穏やかな微笑みを浮かべていた。

 数学とか、理科が得意で、中学を特級(4年)で修了すると、東京の電信・電波の専門学校へ。が、戦局逼迫に従い、18歳になった彼までが海軍の電信連絡関係の見習士官として狩り出され、神奈川県の某所で特訓を受けたのち、戦地に赴く手筈だったという。

 ふるさとへ帰れるのはうれしい。が、恐らく、これが最後の別れとなるのかな、と心を決めて西へ向かう列車に乗った、という。
8月6日の夜、列車は広島の手前で止まってしまう。なんでもとんでもない爆弾が落とされ、列車は前へ進めないと知らされる。

 仕方がない。歩いて広島を抜けて、その先でまた汽車に乗り継げばいい。兄がどのルートで原爆の直撃を受けた直後の広島を通過したのか、今では知るよしもない。が、後年、そのときに放射線で被爆していたのではないか、と思える症状がいくつか出て、兄はいつも、心身ともに、その不安と闘い続けなくてはならなかった。


*8月8日の八幡大空襲で完全に破壊された八幡製鉄所の平野地区社宅

 インターネット上にその当時の様子を伝える記録はないだろうか、とサーフィンしていると、『私の八月十五日』という特集があって、その中に『その日に汽車で熊本から神戸へ」と題した、当時大学2年生だった方の記録が目にとまった。

 兄の里帰りとよく似たコースなので、トレースしてみた。その方は神戸在住で、工学部に籍を置いていたため、徴兵検査も済ませ、勤労動員にも狩り出されていたものの、卒業までは入隊を猶予されていたという。8月5日の夜、友人と二人で神戸を発ち、翌6日の朝、7時に広島を通過している。

「カンカン照りで暑い朝の広島駅のプラットホームは綺麗に打ち水され、通勤のサラリーマンや学生達が忙しく構内を行き来して活気に溢れていました」

 その朝の光景が目に浮かぶ。広島を出て直ぐ、二人の大学生はブラインドを降ろして眠りに入った。と、ガーンと大きな衝撃を感じ、ブラインドを開けてみると、汽車は宮島と岩国の間を走っていた。

「宮島の向こうの空に大きな雲がむくむく湧きあがっていました。畠では鍬をかついだお百姓さんたちが走っていました。あれはひょっとして呉軍港の火薬庫でも爆発したのと違うかな、などと話していました」

 お祖父さんの住む熊本に落ち着いた後、2、3日して真っ赤な小便が出たのに驚いた、とも記していているのに、兄のことと関連して、わたしは注目した。

 山陽本線、鹿児島本線と鉄道の大動脈はどうにか機能していたようだ。
 その1日後、兄は同じ足取りで原爆投下直後の広島を通過、8月8日、B29による焼夷爆弾攻撃の洗礼を受けているさなかの八幡に降り立ってしまったのだろう。

 8月9日の動きを『北九州市史』は「原爆2号機の目標となった小倉」と題する章で、こうまとめ上げていた。松本清張、火野葦平といった作家を生んだ土地柄。結構、ドキュメントタッチで凝った纏め方をしていて、興味深かった。「歴史的事実」として平衡感覚を保って記述している姿勢がわかる。

――(昭和20年)8月9日午前2時49分、原子爆弾(プルトニュウム239型)を搭載した米軍のB29「ボックスカー号」(機長スウィニー少佐)は、中部太平洋マリアナ諸島にあるテニアン基地を離陸し、機首を九州へと向けた。

 午前8時20分、鹿児島県屋久島上空。そこで先発した米軍気象偵察機から小倉方面視界良好との報告を受信。が、ここで一つのトラブルが発生した。屋久島上空で合流する予定になっていた観測撮影機が現れない。このため屋久島上空で約45分間旋回したが、ついに同機は撮影機との同行をあきらめ、テニアンを同時に発進した計測器積載のB29との2機編隊で小倉へ向かった。


*B29爆撃機(『北九州市史」より)


*「北九州市史」より

 午前9時50分、目的地小倉の上空に到達。このころ、2時間前までは快晴だった空に雲が広がりはじめていた。さらに雲だけではなく、前日の北九州地区(特に八幡)の八・八空襲のために生じた煙が、風向きによって小倉方面をすっぽり覆っていた。その煙の有り様は、あたかも傷ついた母がわが子を守ろうとするかのようであった。
 
 ボックスカーのビーハン爆撃手には、小倉の街がまったく見えなかったわけではなかった。が、彼は、小倉造兵敞を目視した上で原爆を投下するように、と厳命されていた。

 ボックスカーは弾薬倉を開けたまま上空を旋回したが、造兵敞をとらえることはできなかった。トラブルも重なった。補助燃料用のパイプの故障。さらに屋久島上空で燃料を予定外に消費していた。このため、ボックスカーは燃料切れになる可能性さえ出てきた。雲と煙の切れるのを待つ余裕はなくなった。

 2機のB29は、小倉の上空を三回旋回したのち、小倉への原爆投下を断念して、第二目標の長崎へと機首を西へ向けた。(『小倉に原爆が落ちた日』)

 ボックスカーは南下して熊本方面から島原半島を経て、長崎へと飛行した。午前10時58分、長崎上空。しかし長崎も視界が悪く、目視による投下は不可能にみえたため、レーダーによる投下準備にとりかかったが、ビーハン爆撃手は寸時、雲間から長崎製鋼所を確認した。彼はすばやく投弾ボタンを押した。

 11時2分、原爆第2号は爆発した。2機は投下と同時に東方へ反転して沖縄へ向かった。午後1時、ボックスカーは沖縄の米軍基地へ着陸、燃料はわずか数ガロンしか残っていなかった、と。

――長々と『北九州市史』から引用した「原爆第2号機」の軌跡。もしも、あの時、小倉の空が晴れていたならば、間違いなくわたしはこの世にいなかっただろうし、惨禍は想像を絶するものとなっていただろう。
 
 被害状況のシミュレーションでも、爆心から3キロ以内の2万2400所帯の家は焼かれ、戸畑、八幡でも火災が発生し、火事嵐などによって、上空に雨を降らす上昇気流が生まれ、小倉より西の地域では、死の灰と呼ばれる放射能降下物を含んだ黒い雨が降っただろう、と予測している。

 原爆の被害は、投下されてその時だけではない・・・・・・焼け跡に家族を探しに来た人、救護活動の人。だれもが放射能の影響を受ける。

 実際の戦争において原爆搭載機が目標地に飛来しながら、被爆を免れた都市は、世界史上、小倉のほかには存在しない。北九州市民はこの意味を、改めて考えてみる必要があるのではないだろうか・・・・・・『北九州市史』はこう締めくくっている。



 いま、北九州市の市庁舎のある小倉勝山公園内には、1976(昭和51)年8月に長崎市から寄贈された『長崎の鐘』が据えられ、平和を願い、死者たちの無念を鎮める鐘の音を聴くことができる。

 来年の夏こそ、北九州に帰って、ぜひこの鐘を鳴らし、生かされているこの生命に感謝し、今はなき両親、兄の墓前に白菊の花を供えよう。そう、こころにきめた「鎮魂の夏」は、やがて終わろうとしている。蝉の声もミンミン蝉から、蜩(ひぐらし)にバトンタッチされる。
 

*こちらはわたしの大学2年の夏(1955年)、八幡の大空襲でもっとも被害の激しかった小伊藤山を取り崩してでき上がったロータリーに建立された「平和を祈る乙女像」の前で。

 最後に兄・昭次の「それから」からである。8月15日の『玉音放送』のあったあと、むっくりと起き上がり、とにかく帰隊しなくては、と一歩踏み出したところで崩れ落ち、9月になってから上京したように記憶している。

 混乱と窮乏の時代だった。結局、一旦は上京して電信関係の専門学校に復学したものの、健康も芳しくない。八幡に戻ってきて有機化学関係の知識を買われて三菱化成に入社、後半は洞海湾の浄化に力をつくすなど、環境問題に専念、残念ながら1992年、65歳で逝ってしまう。


*1976年当時の長兄・昭次

 アルコールはほとんどやらなかったが、ちょっとでも入ると顔の半分が急速に赫(あか)く染まってしまう。
「これが広島でやられた後遺症よ」
 
 ふと思い出した。兄が愛用していたあのギター、今でも彼の家に残っているのだろうか、と。          
 さて、いよいよNew Carが立て続けに登場してきた。忙しくなった。スバルのWRX STIとS4。次回はその話題からはじめたい。

 (この項、おわる)
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Posted at 2014/08/27 09:26:38

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この記事へのコメント

2014年8月27日 19:21
こんばんは。今年の夏は短く終わりそうですね。

刺激的と耳にして、またRモデルだと思ったのが勇み足でした。しかし2リッターターボがジャガーに搭載されるなど、少し前まで想像出来なかったものです。

「長崎は原爆投下の第一候補ではない」事は平和学習で学びましたが、北九州にそれ程の裏側があるとは思いませんでした。きっと雲が街を守ってくれたのでしょうか。
そしてお兄様の奇跡的な復活と放射能の恐怖、私の語彙力では表せない感情を抱きました。

マジェスタとW205Cクラスは如何でしたか?

コメントへの返答
2014年8月27日 19:58
恐らく、みなさん、コメントしにくい内容だったでしょう。わざわざの感想、ありがとう。

マジェスタの初代を駆ったその年、兄が逝き、本当はマジェスタに乗った時、兄のことを想い、この「鎮魂の夏」へと連環していったのです。実はそこを書きたかったのです。

W205は近く3日ばかり、じっくり試乗できそうです。
2014年8月27日 19:39
同じ地区に親父がいたので、もし原爆が落とされていたら私も恐らく、いなかったでしょう。母は、八幡製鉄所病院にいたので、救護で放射能に汚染されていたかもしれません。いずれにせよ他人事ではない思いです。ロータリーのモニュメントの意味初めて知りました。
コメントへの返答
2014年8月27日 20:01
ひとつ、歴史の歯車がずれていたなら…この命、とても大事なものと、あらためて受け止めています。

共通の空気、大事にしましょう。
2014年8月27日 21:01
こんばんは。朝晩は初秋が感じられる気候になってきました。そして広島は土砂災害から1週間が経ち、決死の捜索が夜通し続けられています。また、カープやサンフレッチェをはじめとするスポーツ界も一緒になってこの災害を乗り越えようとしています。それは喪章と一緒に戦ったマエケンの熱投が証明してくれたと思います。

本題に入りますと、今は亡き私の祖父も仕事関係で小倉に行っていましたので、あの日北九州が晴れていたら私も居なかったかもしれません。私が知らない事が多々あること痛感しました。年末、父の書斎を覗いてみます。
コメントへの返答
2014年8月27日 21:11
マエケンの喪章付けての熱投、魅入られました。

広島の災害、いつも胸が痛みます。

もしもあの日の北九州の空が…いろいろとかかわってきますね。ともかく、それぞれの生命、なによりも慈しんで行きたいものです。
2014年8月27日 22:54
長崎市のことがあるのでいいねを押しづらいですが、北九州について大変勉強になりました。

わたしも地元のことをもっと知りたいと改めて思うようになりました。

コメントへの返答
2014年8月27日 23:23
そう、それぞれが地元のことを語り合う。そして輪が広がっていく。

そんなコミュニケーション、いいですね。
2014年8月28日 22:14
日本の製鉄の中心の八幡製鉄所 そして小火器(小銃や機関銃)等の日本最大の生産を誇る小倉兵工廠 更に門司を始めとした海運の要所 これだけの条件が揃えばある意味標的に入らない方がおかしい位です。


前にも述べた様にB-29の本土空襲の最初が八幡でしたし 門司港は最終的にB−29の機雷投下により完全に封鎖されてしまった事実、 無論日本も周囲に多くの航空基地や強力な高射砲部隊(三式12センチ高射砲等のB−29に対応可能な高性能高射砲)を配備していましたね。



長崎投下の日は最終的に築城等からの迎撃も向かっている等の事もあり長崎へ変更という節もあるのである意味日本の防空はこの時は小倉を救ったかもしれません。




因にもし小倉に投下されていた場合は小倉や八幡そして門司更には対岸の下関も被爆し広島をも上回る犠牲が出ていたであろうとの見方が大きいです。 こういうのも失礼かもしれませんが不幸中の幸いだったといえるかも。




しかし長崎以上に衝撃的だったのは同日に始まったソ連の満州侵攻でしょう。 ソ連仲介による講話を柱にやっていた当時の 政府 軍部 にはこれ以上の事は無いでしょう。 コレが敗戦への決定打となったのは疑い用がありません。
コメントへの返答
2014年8月29日 20:28
本日は130年前に起こった『秩父事件』をムックにする交渉で、秩父に行ってきました。

当時の日本の「輸出」の主力は「絹」でした。先日世界文化遺産に選ばれた「富岡製糸場」もその一環で生まれたものですが、ヨーロッパの大の山襞でシコシコと繭を育てていた農民が食べていけなくなり、国に救済を求めたにもかかわらず、無視されます。

そこへ当時、さかんになってきた「民権運動」に目を開かれた男たちが立ち上がる。それが「秩父事件」です。

10年前に『草の乱」というタイトルの映画が創られましたが、「凄い男」たちが描かれていました。

その男たちをムック本にしようと、取り組んだところです。
2021年5月11日 10:55
思いを巡らせながら拝見しました。

私の祖父は鹿児島出身。

当時、長崎三菱造船所に勤務してました。

8月9日は、休みで山越えの宿舎に居たため直撃は免れてます。
翌日の救助活動で被爆してます…。

父親の代で、八幡に住むようになったのも、何かの縁でしょうか…。

予定通り、八幡地区に原子爆弾が直撃してい
たら…💦

今日の、ベストモータリングは無かったでしょう…💦
コメントへの返答
2021年5月12日 20:24
新しい沖縄での日々。いかがですか? 落ち着いたら「今帰仁(なきじん)城」とか「座喜味城」とか、まるでイタリア、ギリシャあたりの古城の趣をたのしめるグスクめぐりをポルシェでぜひ。
6年前にアップした「ふるさと八幡」のあの記憶。まとめておいてよかった。コンタクト、ありがとうございました。

スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「突貫小僧の3番森下のまずい面が露呈して延長11回、2死満塁をものにできず巨人にしてやられた。勝負は8回裏の同点無死満塁で打席に立った森下が力みすぎて、自打球を左膝上にあて。なんとかで席に立ったのはいいが³三塁ゴロ併殺で好機の芽をつで9回で退場、その結果11回の逆転機に不在。残念!」
何シテル?   05/23 12:48
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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