~八幡と小倉の空が晴れていたなら~
「残暑見舞い」代わりにクルマ当てクイズを試みたところ、想像を超えるスピーディな対応があって、結局、群馬県高崎市の「サンデ」さんを正解者第1号と認定、ガンさんのサイン入り本を贈らせていただくことにした。
あ、正解はジャガーXF 2.0 プレミアム ラグジュアリー。ギンギンのスポーツカー、Fタイプを試乗したあとだけに、その妙に優雅な動き具合がジャガーのDNAか、などと感じ入って、早速、夜の「音羽ニュル」を攻めたくなったほどである。
さて、急ぎ足で夏が終わりそうだ。こちらも「鎮魂の夏」を急ぎ足で書き上げなくては。前回(8月23日アップ)は風船爆弾の存在を紹介した後、八幡大空襲のさなかに、白い海軍見習士官姿の長兄・昭次が、火の海を掻き分け、半死半生の状態で、わが家にたどり着いたところまでだった。
布団に倒れ込んだまま、昏々と眠りつづけていく兄・・・・・・。
「神様、兄(あん)ちゃんを、どうか助けてつかぁさい」

*鳥野神社
ぼくらはひたすら祈るしかなかった。夜が明けると、すぐ傍の鳥野神社に弟を連れて祈願にいった。かしわ手をうち、思いっきり頭を下げ、お賽銭替わりに、秘蔵の宝貝を奉納した。
神社の高台から見下ろした前田と平野の町は、炎こそおさまったものの、まだ燻(くすぶ)り続け、その余熱と煙がさらに雲を呼び、重々しい空模様の1945(昭和20)年8月9日の朝を迎えていた。・・・・・・太平洋戦争終結の日まで、あと一週間たらずだった。
焼夷弾に焼かれ、煙にまかれそれでも、地元の人だけが知っている堀川の底を這いずりながら、いくつかの町をくぐり抜けて、山手のわが家にたどり着いた兄・昭次はそのまま、昏々と眠り続けている。医者がいるわけじゃない。町内会で調達してきた火傷薬と、包帯代わりの白い晒(さらし)帯がたよりだった。
「昭ちゃんを死なすわけにはいかんとよ」
自分のすべてを注ぎ込むような、あのときの母の看病ぶりを思い出すと、いまでも熱いものが、知らず、こみ上げてくる。兄はその名前から解るように昭和2年(1927)生まれ、大正元年(1912)生まれの母とは15の歳の差がある。兄は実の母親の顔を見ることがなかった、と聞く。
三男坊だった父・徳一は遠賀川筋の主要な町、直方の酒造家・福原家へ養子入りしたものの、妻はるゑの産後の肥立ちが悪く、生後間もない兄を遺して旅立たれてしまう。
それからの詳しい話は知らないが、福原氏が廃家、正岡姓に戻った父は兄・昭次の手を引いてそのころ、北九州でもっとも発展途上にあった八幡に出て、やもめ暮らしをしながら、当時の生活必需品であった糸を取り扱う商人として再出発をする。
そしてわが母・澄子とめぐり逢い、新しい所帯をもつ。昭和11年1月、わたしが生まれる。兄・昭次はその時、姉のように若い新しい母と9つ年下の弟を、どんな気持ちで迎え入れたのだろうか。
その辺の時代のわが家の雰囲気は、当BLOGのスタートとなった
「ファーストラン」で触れたつもりなので、よろしければ再読いただければ幸い。

*手元に残った兄のスナップ写真はこれだけしかない。戦後の解放期、どこかの海辺でギター演奏を楽しむのが何よりの楽しみだった。
兄・昭次が福岡県立八幡中学校(現在の県立八幡高校)に進学、キリリと学帽をかぶり、足元を白の脚絆で締め上げて、まっすぐ胸を張って通学していた姿を、わたしは眩しく見送った記憶がある。情熱を剥き出すような「九州男児」の激しさを、彼はまったく持ち合わせず、いつも穏やかな微笑みを浮かべていた。
数学とか、理科が得意で、中学を特級(4年)で修了すると、東京の電信・電波の専門学校へ。が、戦局逼迫に従い、18歳になった彼までが海軍の電信連絡関係の見習士官として狩り出され、神奈川県の某所で特訓を受けたのち、戦地に赴く手筈だったという。
ふるさとへ帰れるのはうれしい。が、恐らく、これが最後の別れとなるのかな、と心を決めて西へ向かう列車に乗った、という。
8月6日の夜、列車は広島の手前で止まってしまう。なんでもとんでもない爆弾が落とされ、列車は前へ進めないと知らされる。
仕方がない。歩いて広島を抜けて、その先でまた汽車に乗り継げばいい。兄がどのルートで原爆の直撃を受けた直後の広島を通過したのか、今では知るよしもない。が、後年、そのときに放射線で被爆していたのではないか、と思える症状がいくつか出て、兄はいつも、心身ともに、その不安と闘い続けなくてはならなかった。

*8月8日の八幡大空襲で完全に破壊された八幡製鉄所の平野地区社宅
インターネット上にその当時の様子を伝える記録はないだろうか、とサーフィンしていると、『私の八月十五日』という特集があって、その中に『その日に汽車で熊本から神戸へ」と題した、当時大学2年生だった方の記録が目にとまった。
兄の里帰りとよく似たコースなので、トレースしてみた。その方は神戸在住で、工学部に籍を置いていたため、徴兵検査も済ませ、勤労動員にも狩り出されていたものの、卒業までは入隊を猶予されていたという。8月5日の夜、友人と二人で神戸を発ち、翌6日の朝、7時に広島を通過している。
「カンカン照りで暑い朝の広島駅のプラットホームは綺麗に打ち水され、通勤のサラリーマンや学生達が忙しく構内を行き来して活気に溢れていました」
その朝の光景が目に浮かぶ。広島を出て直ぐ、二人の大学生はブラインドを降ろして眠りに入った。と、ガーンと大きな衝撃を感じ、ブラインドを開けてみると、汽車は宮島と岩国の間を走っていた。
「宮島の向こうの空に大きな雲がむくむく湧きあがっていました。畠では鍬をかついだお百姓さんたちが走っていました。あれはひょっとして呉軍港の火薬庫でも爆発したのと違うかな、などと話していました」
お祖父さんの住む熊本に落ち着いた後、2、3日して真っ赤な小便が出たのに驚いた、とも記していているのに、兄のことと関連して、わたしは注目した。
山陽本線、鹿児島本線と鉄道の大動脈はどうにか機能していたようだ。
その1日後、兄は同じ足取りで原爆投下直後の広島を通過、8月8日、B29による焼夷爆弾攻撃の洗礼を受けているさなかの八幡に降り立ってしまったのだろう。
8月9日の動きを『北九州市史』は「原爆2号機の目標となった小倉」と題する章で、こうまとめ上げていた。松本清張、火野葦平といった作家を生んだ土地柄。結構、ドキュメントタッチで凝った纏め方をしていて、興味深かった。「歴史的事実」として平衡感覚を保って記述している姿勢がわかる。
――(昭和20年)8月9日午前2時49分、原子爆弾(プルトニュウム239型)を搭載した米軍のB29「ボックスカー号」(機長スウィニー少佐)は、中部太平洋マリアナ諸島にあるテニアン基地を離陸し、機首を九州へと向けた。
午前8時20分、鹿児島県屋久島上空。そこで先発した米軍気象偵察機から小倉方面視界良好との報告を受信。が、ここで一つのトラブルが発生した。屋久島上空で合流する予定になっていた観測撮影機が現れない。このため屋久島上空で約45分間旋回したが、ついに同機は撮影機との同行をあきらめ、テニアンを同時に発進した計測器積載のB29との2機編隊で小倉へ向かった。

*B29爆撃機(『北九州市史」より)

*「北九州市史」より
午前9時50分、目的地小倉の上空に到達。このころ、2時間前までは快晴だった空に雲が広がりはじめていた。さらに雲だけではなく、前日の北九州地区(特に八幡)の八・八空襲のために生じた煙が、風向きによって小倉方面をすっぽり覆っていた。その煙の有り様は、あたかも傷ついた母がわが子を守ろうとするかのようであった。
ボックスカーのビーハン爆撃手には、小倉の街がまったく見えなかったわけではなかった。が、彼は、小倉造兵敞を目視した上で原爆を投下するように、と厳命されていた。
ボックスカーは弾薬倉を開けたまま上空を旋回したが、造兵敞をとらえることはできなかった。トラブルも重なった。補助燃料用のパイプの故障。さらに屋久島上空で燃料を予定外に消費していた。このため、ボックスカーは燃料切れになる可能性さえ出てきた。雲と煙の切れるのを待つ余裕はなくなった。
2機のB29は、小倉の上空を三回旋回したのち、小倉への原爆投下を断念して、第二目標の長崎へと機首を西へ向けた。(『小倉に原爆が落ちた日』)
ボックスカーは南下して熊本方面から島原半島を経て、長崎へと飛行した。午前10時58分、長崎上空。しかし長崎も視界が悪く、目視による投下は不可能にみえたため、レーダーによる投下準備にとりかかったが、ビーハン爆撃手は寸時、雲間から長崎製鋼所を確認した。彼はすばやく投弾ボタンを押した。
11時2分、原爆第2号は爆発した。2機は投下と同時に東方へ反転して沖縄へ向かった。午後1時、ボックスカーは沖縄の米軍基地へ着陸、燃料はわずか数ガロンしか残っていなかった、と。
――長々と『北九州市史』から引用した「原爆第2号機」の軌跡。もしも、あの時、小倉の空が晴れていたならば、間違いなくわたしはこの世にいなかっただろうし、惨禍は想像を絶するものとなっていただろう。
被害状況のシミュレーションでも、爆心から3キロ以内の2万2400所帯の家は焼かれ、戸畑、八幡でも火災が発生し、火事嵐などによって、上空に雨を降らす上昇気流が生まれ、小倉より西の地域では、死の灰と呼ばれる放射能降下物を含んだ黒い雨が降っただろう、と予測している。
原爆の被害は、投下されてその時だけではない・・・・・・焼け跡に家族を探しに来た人、救護活動の人。だれもが放射能の影響を受ける。
実際の戦争において原爆搭載機が目標地に飛来しながら、被爆を免れた都市は、世界史上、小倉のほかには存在しない。北九州市民はこの意味を、改めて考えてみる必要があるのではないだろうか・・・・・・『北九州市史』はこう締めくくっている。
いま、北九州市の市庁舎のある小倉勝山公園内には、1976(昭和51)年8月に長崎市から寄贈された『長崎の鐘』が据えられ、平和を願い、死者たちの無念を鎮める鐘の音を聴くことができる。
来年の夏こそ、北九州に帰って、ぜひこの鐘を鳴らし、生かされているこの生命に感謝し、今はなき両親、兄の墓前に白菊の花を供えよう。そう、こころにきめた「鎮魂の夏」は、やがて終わろうとしている。蝉の声もミンミン蝉から、蜩(ひぐらし)にバトンタッチされる。

*こちらはわたしの大学2年の夏(1955年)、八幡の大空襲でもっとも被害の激しかった小伊藤山を取り崩してでき上がったロータリーに建立された「平和を祈る乙女像」の前で。
最後に兄・昭次の「それから」からである。8月15日の『玉音放送』のあったあと、むっくりと起き上がり、とにかく帰隊しなくては、と一歩踏み出したところで崩れ落ち、9月になってから上京したように記憶している。
混乱と窮乏の時代だった。結局、一旦は上京して電信関係の専門学校に復学したものの、健康も芳しくない。八幡に戻ってきて有機化学関係の知識を買われて三菱化成に入社、後半は洞海湾の浄化に力をつくすなど、環境問題に専念、残念ながら1992年、65歳で逝ってしまう。

*1976年当時の長兄・昭次
アルコールはほとんどやらなかったが、ちょっとでも入ると顔の半分が急速に赫(あか)く染まってしまう。
「これが広島でやられた後遺症よ」
ふと思い出した。兄が愛用していたあのギター、今でも彼の家に残っているのだろうか、と。
さて、いよいよNew Carが立て続けに登場してきた。忙しくなった。スバルのWRX STIとS4。次回はその話題からはじめたい。
(この項、おわる)