創刊期の「週刊現代」で「プロ野球専門」となったばっかりに……
【左の写真は1970年、Roma郊外、アッピア街道にて。カメラマンは誰だったのだろう? 当時の熱々カップル、石坂浩二か浅丘るり子のどちらかです】
北九州で生まれ育って、なぜ阪神タイガースをプロ野球が復活した昭和21年(1946)以来、ずっと贔屓にしているのか。
なぜ「ソフトバンク・ホークス」、ちょっと譲って、大下弘、中西太、豊田泰光、稲尾和久といういまだに語り継がれる最強スター軍団、三原脩監督が率いて圧倒的に強かった「西鉄ライオンズ」のファンでないのか。
*世間の人が出勤で出かける頃、やっと帰宅した時代。さかしまに生きる、自嘲気味にそういったが、それが嫌いではなかった。
時間に追われているからと言って「何シテル?」の140字で身辺の出来事をまとめて胡麻化すのは、まあ目をつぶるとして、デイリースポーツと阪神ネタばかりは許せない!
などなど、誰も面と向かって、指摘をしてくれなくっても、それくらいのことは自覚している。
そんな時、みんカラ編集部から「6月9日でみんカラをはじめて5年が経ちます!〈この一年のみんカラの思い出を振り返ろう〉というお祝いのメッセージが届いた。おお、そうだよ。こちらもその気で、これまでの「5年分」を「局長の仕事」として単行本にまとめようと、動き出したところじゃないか。

*講談社社友会の会報。今度出るのが113号とか。
さらに、そんな時、講談社の『社友会』から、「社友サロン」に入れる原稿執筆の依頼が届いた。その会報には、折にふれ、寄稿してきたが、いまでも記憶に残るのは『告訴第1号』と題したエッセイである。これまで秘めてきたが、当時の関係者はほとんどが、彼岸の人となっているからもういいだろう、というので掲載したものだが、次の社友会の集まりで、そんな話は初めて聴きましたよ、とかなりの反響があった。
その事件とは? 当時、週刊現代の編集者だったわたしの担当記事を、「大毎オリオンズ」というプロ野球の球団を経営し、かつ大映という映画会社の社長であった永田雅一氏(通称ラッパ)が「週刊現代」を告訴する、と大見得をきったことに始まる「企業ドラマ」であったのだ。ちょっと、その一文を紹介しようかな? 実はこれ、6年目を迎えるわたしの「みんカラ」の新連載予告にするつもりで、用意していたものなのである。
*1961年8月1日付けの「スポーツニッポン」。クレジットを見ると「和田」と記者名が明記してある。なんのことはない。わたしの担当する「スポーツページ」で内職原稿を書いていた「プロ野球担当」の常連記者グループの一人ではないか。
これが、「ベストカー」&「ベストモータリング」の原点だよ、とこの際、胸を張って宣言しておこう。では予告編としての『告訴第1号』、エンジンのStartボタンをプッシュする……。
告訴第一号 正岡貞雄
──私は昭和三四年三月、早稲田大学教育学部社会学科を卒業し、同年三月(誤植ではなく、この年、週刊誌創刊準備のため、ひと月早く繰り上げ入社となった)講談社へ入社しました。そして、週刊現代の編集部員として、現在に及んでおります。週刊現代の編集長は松井勲です。週刊現代の本年八月十三日号は七月三十一日に都内に一部発売され、八月一日より八日までの間に全国で発売されました。
こんな書き出しではじまる私の「供述書」が、かれこれ六〇年近くも眠ったまま蔵われている。表題は「大映関係供述書」とあり、一九六一(昭和三六年)八月一五日午前九時五〇分から午後三時五〇分まで、東京地検536号室で池浦泰雄検事に編集担当者として事情聴取を受け、その供述内容を、許しを得て書き写したものだった。もちろん会社に報告するためである。
──この号の編集会議で、あれだけ実力のある大毎オリオンズの成績が、特に今シーズンは非常に不振なのは、チーム内の人間関係になにか欠陥があるのではないか、ということと、次に球団のオーナーの関係において何か不自然な点があるのではないか、ということと、さらに、大毎のフランチャイズとしての新球場を東京に建設するということは、野球ファンにとって大きな関心事なので、その実際の進行状況をも取り上げたいと提案しました。そこで他の編集部員も賛成し、松井編集長も、よかろう、と申し、私が取材・執筆を担当することとなりました。(以下、略)
*全5段を使った新聞広告。その号の「Top記事」だったのがわかる。「大毎オリオンズ」がどこの「前身」か、わかりますか?
早速、一九六一年当時の状況を確認するため、国立国会図書館に足を運んだ。朝日・毎日・読売三紙の縮刷版を開くと、八月一日つけの各紙に「週刊現代」の広告はきっちり掲載されていて、そのトップ記事が「クーデター寸前の大毎オリオンズ=永田・宇野・田宮をめぐる暗流」だった。さて、告訴報道の方はどうだったかな?
主要三紙の八月中旬までを洗って見たが、どこにも見当たらない。
遠い記憶をまさぐる。八月一日、出社すると、松井編集長と一緒に、役員室に呼び出され、いきなり、編集担当の専務から言い渡された。「大映の永田雅一社長(大毎オリオンズのオーナー)が今回の記事で告訴するといっている。直ぐにうかがって、とにかく謝ってき給え」と。
松井編集長が抗議する。「記事には自信がある。永田ラッパと徹底的に闘わせてください」あの時の彼の気迫が効を奏したのか、野間省一社長が「受けて立とうじゃないか」とおっしゃったことから、事態はいっきに進捗したものだった。
そうだ、スポーツ新聞を洗ってみよう。
マイクロフィルムで閲覧できる仕組みになっていた。大毎オリオンズなら「スポーツニッポン」だ。手続きをして映写機に取り組む。
八月二日の第一面左側の六段を使って、永田ラッパが鳴り響いていた。「優勝はできるさ」という大見出しに「永田大毎会長 週刊現代を告訴」というコピーが付けてあった。記事の内容は、オリオンズの優勝を妨げ、内紛を起こさせる謀略以外のなにものでもないが、許せないのは新球場建設問題に関する記事で、資金難から某社に移るとか、サギ行為だとか、名誉毀損も甚だしい。したがって名誉毀損と営業妨害という立場から講談社並びに編集責任者を告訴する……この記事が出たところで、永田ラッパは一松定吉弁護士を代理人として東京地検に告訴状を提出することになる。
恐らく、講談社にとって、こうした大袈裟な告訴事件は、初めてのことではなかったろうか。顧問弁護士は、宮崎直二という、かつて湯西川事件解決で名を馳せた老齢の方がただ一人いるだけ。そこで急遽、砂川事件の主任裁判官から弁護士に転身したばかりの伊達秋雄氏を起用する力の入れようだった。社長主催の打ち合わせは柳橋の料亭が使われることも多く、事の重大さを改めて思い知らされた。
争点は、記事の後半で展開した『おシャカになるか南千住球場』と小見出しのある部分だった。永田ラッパがその年の六月に構想を明らかにした新球場建設が一向に進展してないことを取材・指摘した点だった。大毎オリオンズの親会社である大映では東京スタジアムを建設することを一つの目的に入れて、新株を募集を募集している点を衝いたのが、逆鱗に触れたという訳である。
結果からいえば、東京スタジアムは、翌一九六二年六月に、俄仕立てのままオープンしたものの、スタジアムの建設費すら償還できず、球団はロッテに売却され、一九七三年には閉鎖されてしまう。
手許にある「供述書」を読み返してみると、兜町界隈ではその頃から大映の末路を予言しており、球場建設段階での関係官庁へのゴリ押しぶりも目に余るものがあったのがうかがえる。
*創刊当時の「週刊現代編集部』。いまだに健在なのは3人だけ。後列、向かって左から2人目に伊藤寿男さん(テーミス編集主幹・FRYDAY創刊編集長)と前列右端の名田屋昭二君(ペントハウス創刊編集長)
八月末、永田雅一社長と野間社長が都内某所で会談し、和解、成立。雑誌ジャーナリスムの一員として、かけがえのない体験をさせて貰った私は、かねてから希望していた「日本」編集部へ転籍していくことで、一件は落着した。
●社歴 1959年入社、週刊現代配属 62~64年、日本編集部 64~72年、ヤングレディ編集部 72~74年、再び週刊現代 74~76年、月刊現代 76~77社長室 77年、講談社関連事業開発のため、退社。三推社、2&4モータリング社を設立。02年、退職。
ある意味、これがわたしの「ファーストラン」だったかもしれない。その想いを確かめるために、近く、NIKONカメラを携えて、南千住の「東京スタジアム」の跡地が今どうなっているのか、プログレを駆って、訪れるつもりだ。
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つれづれ自伝 | 日記
Posted at
2016/06/06 18:09:20