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2016年06月06日

新連載の予告=『局長』が局長になるまでの『仕事』を掘り起こす

新連載の予告=『局長』が局長になるまでの『仕事』を掘り起こす  創刊期の「週刊現代」で「プロ野球専門」となったばっかりに……

【左の写真は1970年、Roma郊外、アッピア街道にて。カメラマンは誰だったのだろう? 当時の熱々カップル、石坂浩二か浅丘るり子のどちらかです】

 北九州で生まれ育って、なぜ阪神タイガースをプロ野球が復活した昭和21年(1946)以来、ずっと贔屓にしているのか。

 なぜ「ソフトバンク・ホークス」、ちょっと譲って、大下弘、中西太、豊田泰光、稲尾和久といういまだに語り継がれる最強スター軍団、三原脩監督が率いて圧倒的に強かった「西鉄ライオンズ」のファンでないのか。


*世間の人が出勤で出かける頃、やっと帰宅した時代。さかしまに生きる、自嘲気味にそういったが、それが嫌いではなかった。

 時間に追われているからと言って「何シテル?」の140字で身辺の出来事をまとめて胡麻化すのは、まあ目をつぶるとして、デイリースポーツと阪神ネタばかりは許せない!

 などなど、誰も面と向かって、指摘をしてくれなくっても、それくらいのことは自覚している。

 そんな時、みんカラ編集部から「6月9日でみんカラをはじめて5年が経ちます!〈この一年のみんカラの思い出を振り返ろう〉というお祝いのメッセージが届いた。おお、そうだよ。こちらもその気で、これまでの「5年分」を「局長の仕事」として単行本にまとめようと、動き出したところじゃないか。


*講談社社友会の会報。今度出るのが113号とか。

 さらに、そんな時、講談社の『社友会』から、「社友サロン」に入れる原稿執筆の依頼が届いた。その会報には、折にふれ、寄稿してきたが、いまでも記憶に残るのは『告訴第1号』と題したエッセイである。これまで秘めてきたが、当時の関係者はほとんどが、彼岸の人となっているからもういいだろう、というので掲載したものだが、次の社友会の集まりで、そんな話は初めて聴きましたよ、とかなりの反響があった。

 その事件とは? 当時、週刊現代の編集者だったわたしの担当記事を、「大毎オリオンズ」というプロ野球の球団を経営し、かつ大映という映画会社の社長であった永田雅一氏(通称ラッパ)が「週刊現代」を告訴する、と大見得をきったことに始まる「企業ドラマ」であったのだ。ちょっと、その一文を紹介しようかな? 実はこれ、6年目を迎えるわたしの「みんカラ」の新連載予告にするつもりで、用意していたものなのである。


*1961年8月1日付けの「スポーツニッポン」。クレジットを見ると「和田」と記者名が明記してある。なんのことはない。わたしの担当する「スポーツページ」で内職原稿を書いていた「プロ野球担当」の常連記者グループの一人ではないか。

 これが、「ベストカー」&「ベストモータリング」の原点だよ、とこの際、胸を張って宣言しておこう。では予告編としての『告訴第1号』、エンジンのStartボタンをプッシュする……。

告訴第一号      正岡貞雄

──私は昭和三四年三月、早稲田大学教育学部社会学科を卒業し、同年三月(誤植ではなく、この年、週刊誌創刊準備のため、ひと月早く繰り上げ入社となった)講談社へ入社しました。そして、週刊現代の編集部員として、現在に及んでおります。週刊現代の編集長は松井勲です。週刊現代の本年八月十三日号は七月三十一日に都内に一部発売され、八月一日より八日までの間に全国で発売されました。
 
こんな書き出しではじまる私の「供述書」が、かれこれ六〇年近くも眠ったまま蔵われている。表題は「大映関係供述書」とあり、一九六一(昭和三六年)八月一五日午前九時五〇分から午後三時五〇分まで、東京地検536号室で池浦泰雄検事に編集担当者として事情聴取を受け、その供述内容を、許しを得て書き写したものだった。もちろん会社に報告するためである。 

──この号の編集会議で、あれだけ実力のある大毎オリオンズの成績が、特に今シーズンは非常に不振なのは、チーム内の人間関係になにか欠陥があるのではないか、ということと、次に球団のオーナーの関係において何か不自然な点があるのではないか、ということと、さらに、大毎のフランチャイズとしての新球場を東京に建設するということは、野球ファンにとって大きな関心事なので、その実際の進行状況をも取り上げたいと提案しました。そこで他の編集部員も賛成し、松井編集長も、よかろう、と申し、私が取材・執筆を担当することとなりました。(以下、略)


*全5段を使った新聞広告。その号の「Top記事」だったのがわかる。「大毎オリオンズ」がどこの「前身」か、わかりますか?  

 早速、一九六一年当時の状況を確認するため、国立国会図書館に足を運んだ。朝日・毎日・読売三紙の縮刷版を開くと、八月一日つけの各紙に「週刊現代」の広告はきっちり掲載されていて、そのトップ記事が「クーデター寸前の大毎オリオンズ=永田・宇野・田宮をめぐる暗流」だった。さて、告訴報道の方はどうだったかな?
 主要三紙の八月中旬までを洗って見たが、どこにも見当たらない。
 遠い記憶をまさぐる。八月一日、出社すると、松井編集長と一緒に、役員室に呼び出され、いきなり、編集担当の専務から言い渡された。「大映の永田雅一社長(大毎オリオンズのオーナー)が今回の記事で告訴するといっている。直ぐにうかがって、とにかく謝ってき給え」と。
 松井編集長が抗議する。「記事には自信がある。永田ラッパと徹底的に闘わせてください」あの時の彼の気迫が効を奏したのか、野間省一社長が「受けて立とうじゃないか」とおっしゃったことから、事態はいっきに進捗したものだった。

 そうだ、スポーツ新聞を洗ってみよう。
マイクロフィルムで閲覧できる仕組みになっていた。大毎オリオンズなら「スポーツニッポン」だ。手続きをして映写機に取り組む。
 八月二日の第一面左側の六段を使って、永田ラッパが鳴り響いていた。「優勝はできるさ」という大見出しに「永田大毎会長 週刊現代を告訴」というコピーが付けてあった。記事の内容は、オリオンズの優勝を妨げ、内紛を起こさせる謀略以外のなにものでもないが、許せないのは新球場建設問題に関する記事で、資金難から某社に移るとか、サギ行為だとか、名誉毀損も甚だしい。したがって名誉毀損と営業妨害という立場から講談社並びに編集責任者を告訴する……この記事が出たところで、永田ラッパは一松定吉弁護士を代理人として東京地検に告訴状を提出することになる。
 
 恐らく、講談社にとって、こうした大袈裟な告訴事件は、初めてのことではなかったろうか。顧問弁護士は、宮崎直二という、かつて湯西川事件解決で名を馳せた老齢の方がただ一人いるだけ。そこで急遽、砂川事件の主任裁判官から弁護士に転身したばかりの伊達秋雄氏を起用する力の入れようだった。社長主催の打ち合わせは柳橋の料亭が使われることも多く、事の重大さを改めて思い知らされた。

 争点は、記事の後半で展開した『おシャカになるか南千住球場』と小見出しのある部分だった。永田ラッパがその年の六月に構想を明らかにした新球場建設が一向に進展してないことを取材・指摘した点だった。大毎オリオンズの親会社である大映では東京スタジアムを建設することを一つの目的に入れて、新株を募集を募集している点を衝いたのが、逆鱗に触れたという訳である。

結果からいえば、東京スタジアムは、翌一九六二年六月に、俄仕立てのままオープンしたものの、スタジアムの建設費すら償還できず、球団はロッテに売却され、一九七三年には閉鎖されてしまう。

 手許にある「供述書」を読み返してみると、兜町界隈ではその頃から大映の末路を予言しており、球場建設段階での関係官庁へのゴリ押しぶりも目に余るものがあったのがうかがえる。


*創刊当時の「週刊現代編集部』。いまだに健在なのは3人だけ。後列、向かって左から2人目に伊藤寿男さん(テーミス編集主幹・FRYDAY創刊編集長)と前列右端の名田屋昭二君(ペントハウス創刊編集長) 

八月末、永田雅一社長と野間社長が都内某所で会談し、和解、成立。雑誌ジャーナリスムの一員として、かけがえのない体験をさせて貰った私は、かねてから希望していた「日本」編集部へ転籍していくことで、一件は落着した。

●社歴 1959年入社、週刊現代配属 62~64年、日本編集部 64~72年、ヤングレディ編集部 72~74年、再び週刊現代 74~76年、月刊現代 76~77社長室 77年、講談社関連事業開発のため、退社。三推社、2&4モータリング社を設立。02年、退職。

 ある意味、これがわたしの「ファーストラン」だったかもしれない。その想いを確かめるために、近く、NIKONカメラを携えて、南千住の「東京スタジアム」の跡地が今どうなっているのか、プログレを駆って、訪れるつもりだ。
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Posted at 2016/06/06 18:09:20

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この記事へのコメント

2016年6月6日 20:46
こんばんは。ベストモータリングの正岡局長の始まり、私には想像できないほど激戦な始まりだったのですね。びっくりです。連載楽しみにしてます。
コメントへの返答
2016年6月6日 22:57
当時の「ありのまま」の姿を、やっと言い残しておく気になってきました。まだ元気があります。だから本にして、なんて悠長なことは言わず、書きとどめておきます。

果たして、みんカラ仲間の心に残ってくれるのか、ま、気にせずにやってみましょう。
2016年6月6日 22:40
こんばんは、現在崩壊しかけの実家(人ではなく家屋の方です)を何とかすべく住宅メーカーやら工務店やらをウロついています。
どんどん「ピッカピカのFR車」の夢が遠のきつつあります(笑)

いやー、実に激しいファーストランですね。多分私の世代ではよほどの野球ファンでない限り、かつてロッテマリーンズには前オーナーがいたなど知る由もないと思います。
うん、実に続きが気になります。
コメントへの返答
2016年6月6日 22:53
社会人になって3年目。ほとんどキミと同じ年令ですね。

月給は1万円足らず。残業代とか、特別な手当もつかず、しかもまともに帰宅できず、ベッドもない。椅子を並べて、やっと仮眠をとって。そんな日々に見た夢はなんだのか? まだ、カローラもサニーも生まれてなかった時代です。いつもお腹を空かせていました。
2016年6月7日 0:27
こんばんは。

民事はちょっとだけやったことがありますが、私自身は当事者では無かったので想像が付きません。

先日の同窓会でのお話に関連しますが、「上に立って責任は取るが、全てを部下に任せる」ことができる強さをこの頃から既にお持ちだったんですね。

コメントへの返答
2016年6月7日 10:46
こちらからは、今日は、になってしまいました。

まあ、こんな昔話をする人も少なくなってしまいました。想いをつなぐ、心を託す、そんな一環として、少しばかり頑張ってみましょうか。

時々、空気を注入してください。そちらはいかがですか?
2016年6月7日 22:11
こんばんは。
日本が、重厚長大産業からソフトウェアの産業も育ってきた時代へ変わってきた時代の息吹を感じました。
20年を経過すると忘れられる世の中ですが、その更に30年前、生きた歴史ものとして拝読したいと思います。
コメントへの返答
2016年6月7日 22:58
ありがとう。一人でもあなたの声が聴けたこと、一つ一つ、確かめながら、綴り続けます。

今だから気づく「真実と矛盾」。出版社系週刊誌のや明け時代。あまり語られていませんね。例えば「トップ屋」という言葉はご存知ですか?
2016年6月7日 23:44
早速のご返答、ありがとうございます。
「トップ屋」、という言葉は、昭和40年代期の太陽にほえろ!では度々使われております。事件をすっぱ抜く新聞関係者、特に七曲署署長には厄介な存在として扱われておりますが、特ダネ専門のフリー記者でしょうか?
昭和50年代も半ばに差し掛かると聞かなくなるセリフですが、番組のカラーが変わったのか、世の中が変わったのか、わかりませんでした。
コメントへの返答
2016年6月8日 2:14
昭和30年代の「トップ屋」は一人の有能なライター、あるいは新聞記者が中心になって、取材から原稿のかき揚げまで、編集部から請け負っていました。
「週刊新潮」「週刊文春」を舞台に活躍したのが梶山季之。彼の周りには作家志望の若い書き手が集まり「梁山泊」さながらでした。女性自身が草柳大蔵。週刊現代は?
そんな話、興味ありますか?
2016年6月8日 22:12
こんばんは。

週刊新潮は、非新聞社系報道雑誌として、初めて成功したモデルである、ということは、高校生の時の社会科の先生がおっしゃっていました。しかし、雑誌編集の仕組みを知らなかった私としては、取材も編集もすべて社員が行っているものだと思っていました。ましてや、女性雑誌は三種の神器で時間に余裕ができた都会の婦人向けに雑誌社が作った、程度の認識しかありませんでした。

私が幼少の頃にお世話になった、講談社の「たのしい幼稚園」小学館の「学年誌」にも、おそらく創設者の思いがあったのでしょうね。

そんな、産業が生まれて育つ黎明期のお話を、ぜひ伺ってみたいです。
コメントへの返答
2016年6月9日 22:14
いまの週刊文春、いろいろ時代を動かすスクープを連発していますが、その取材の最先端で体当たり的な取材をしているのは「社員編集者」ではありません。つい先頃まで「写真週刊誌」で鍛えられていた、あるいは支えていた連中をに、新しい仕事の舞台を提供している。この構図がわかれば、この世界の盛衰がおわかりいただけるはずです。
2016年6月23日 6:42
永田ラッパで有名な永田さんのお姿を初めて拝見しました。自分の生まれる前からお仕事をされていた「局長」の歴史を楽しみに拝見していきたいと思います。
コメントへの返答
2016年6月30日 1:41
こんばんは。やっと、約束の連載に取り掛かりました。カビに生えた60年も昔の話ですが、何かのお役に立てば、と期待しているのですが。どうぞよろしく。

スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「最初に訂正。16日に激突するのは「パドレス」戦でした。さて15日の虎の巨人戦は見事に土壇場で逆転負け。大山の3ラン、近本のタイムリーで4:0とリードしながら、6回、伊藤将司が代打坂本に3ランを浴び救援したハート何とかという初めて知る右腕が7回に代打に同点2ランを献上。隙あり。」
何シテル?   08/16 10:14
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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