〜あの先輩編集者のお陰でイロイロと〜
1959(昭和34)年創刊の『週刊現代』で、その駆け出し編集者としての「ファーストラン」に焦点を合わせようとすると、どうしても「天皇制に石を投げる世代」の舞台裏に触れざるを得なかった。
その結果、わたしの「みんカラ」BLOGの若い仲間たちにとって、霧の向こうの、何がテーマなのか、およそ食欲のわかない、縁の遠い内容だったろう。
それを承知の上で、「天皇制」がどうだというのではなく、あの時代の空気にくらべて、平成の時代に、国民に親しまれる皇室のあり方に心を砕かれた天皇、皇后さまの目指されたものを、その好ましい温度差を、感じ取って欲しくてあえてアプローチしてみた。それともう一つ、今の時代に比べて、稚拙かもしれないが、ひたむきに真実を伝えようとした当時のメディアの、乱暴だったが自由な空気を、それとなく紹介したかったのかもしれない。
ブログをアップしたのが、土曜日(23日)の午後2時半。それからの半日、およそいつもの熱い反応が感じられないまま、ひっそりとした日曜の朝を迎えた。
日曜の朝はなんとなく、午前8時からのTBSの『サンデーモーニング』にチャンネルを合わせてしまう。関口宏司会の長寿番組である。その中でも「喝!」「天晴れ!」の「週刊・ご意見番」はなんとなく見てしまう。張本勲氏については、功罪いろいろの評判はあるが、ま、ゲストを従えての時代劇っぽい登場の仕方は、嫌いじゃない。これだけ長く続いているのは、それだけの役割をはたしているからだろう。この日のゲストはボクシングの元世界チャンピオン、内藤大助さんだった。
司会の関口宏が早速、イチローの「メジャー通算3000本安打」達成に向かって「あと4本!」のフィーバーぶりに、水を向ける。言下に張本勲が斬って捨てる。
「これからイチローのいるマーリーンズは地元で10連戦でしょう。きっと当初は先発で起用しないで焦らしておいて、最後までお客の気を引き、最後にドカンですよ。向こうの球団の常套手段です。最後の4連戦にヤマを持ってくるでしょうね」
天晴れな回答だと思う。フィリーズ戦にはチマチマと代打中心の起用で、7月29日からのカージナルス戦にフィーバーのピークを企んでいる。恐らく、張本予言はズバリ、当たるに違いない。
前置きはここまでにしよう。実は過日、週刊現代創刊期の写真探しをしていたら、その張本勲氏がプロ野球選手になりたての頃、一緒の撮った写真が出てきた。場所は東京駅、夜のプラットホームである。スポーツシャツに厚手のツイードの上着。まだ春が浅い時期ではなかったろうか。
多分この時の張本選手は新人王をとった次の年、つまりプロ2年目の19歳だったろう。その若さにしては、なんという落ち着きのある、いい笑顔をしているのだろう。そして、右手にカメラのストロボを握って、真ん中で嬉しくてしようがないふうに顔じゅうで笑っているのが小生で、向かって右手のお相撲さんのような巨漢が、週刊現代の先輩編集者である萱原宏さん。指導社員として何かとわたしの面倒を見ていただいていた、忘れられない御仁である。
愛称「萱さん」。裏ではこっそり「関取り」と呼んでいた。拓大相撲部出身だとかで、大相撲の内幕に通暁していて、創刊号の柱記事の一つ、「八百長相撲はやめてくれ」はほとんど「萱さん」が書き上げたものだった。週刊現代に配属される前は「講談倶楽部」。だから海音寺潮五郎、山本周五郎、山岡荘八といった時代もの作家との親交が深く、創刊5号目から執筆が予定されていた松本清張さんの本来の担当は彼にきまっていたが、彼はその挨拶にサポート役としてわたしを松本清張宅に連れて行った後は、原稿の受け取り、挿絵画家への原稿渡しなど、すべてをわたしに任せてしまう、おおらかな先輩だった。
もう一つ付言すれば、彼の父親が講談社創業期の功労者で雑誌部門を取りしきっていた「伝説の編集者・萱原宏一」の子息で、何かにつけ、その「ぼんぼん気質」が彼に影響していたように思える。
そんなことを懐かしく思い出しながら、改めて「創刊3号」の目次を点検してみるとグラビア企画の末尾に『話題の人…山本八郎、張本勲』とある。早速、そのページを確認する。あ、これだった! 夜行列車の窓から体を乗り出して、新聞を買っている二人の青年。
話題の人 〜パ・リーグ戦線異状あり〜
フライヤーズの人気男 右 張本勲外野手(18)
左 山本八郎三塁手(21)
捕手から転向した八ッチャンこと山本急造三塁手が、ぽろぽろエラーをするやら、それを上廻る大当たりで大向こうを唸らしたら、同じ浪商の後輩、ハリこと張本外野手が、持ち前の強心臓で大物をカッ飛ばしてファンの度肝を抜いた。
元気すぎてとかく話題の多い二人だが、パ・リーグをかき乱す台風眼的存在として注目されている。
間違いなく、創刊3号の取材時の写真だった。ということは、ここに写っている「張本勲」は入団した年の4月のものではないか。これで18歳とは驚きだったが、嬉しいのはともにデビューしたての1年生同士だったということ。ちなみに彼らの所属する「東映フライヤーズ」はいまの「日本ハム・ファイターズ」の前身で、この時の監督は巨人を追われた水原茂だと思っていたが、調べてみると、それは2年後のことで、この年は現役時代、「神主打法」で鳴らした岩本義行だった。
東映フラヤーズの監督となった水原は、1961年のシーズンこそ終盤まで南海ホークスと優勝争いをし、結局は2位におわったものの、次の年には日本シリーズで阪神タイガースと戦い1分2敗から4連勝して日本一に輝いている。その軌跡にあわせて、張本勲はONと謳われた長島、王と肩を並べる、プロ野球界の看板選手に成長していった。
取材が終わって、東京駅から社旗を立てたハイヤーで、音羽文京区の講談社まで萱原先輩とカメラマン氏はバックシートに、わたしは助手席に乗って、意気揚々と帰っていった。わたしとカメラマンがハイヤーから降りると、そのままハイヤーは萱原先輩をのせたまま、街中へ、再び走り出した。
何日か経って、わたしは大久保房男編集長の呼び出しを受ける。
「キミは新人のくせによう働くなあ。この1ヶ月で、ハイヤーの使用のNO.1はキミだと庶務課から報告があったぞ」
「え⁉︎ ぼくがハイヤーを、ですか? たしかに萱原さんに言われて、松本清張さんのお宅に挨拶にいくとか、蔵前の大相撲部屋の撮影とか、伝票はすべてわたしの名前で出しましたけど……」
「そうか、それでわかった。これからは伝票出す時は、編集長の判をもらうようにしなさい」
編集長のいう本当の意味がよくわかったのは、それから3年後の「告訴第1号事件」なのだが、ともかく、カッコよく社旗を立てて、という「夢のような時間」はそれから先、2度と訪れなくなった。
創刊1年目の「週刊現代」は号を重ね、扱うテーマも試行錯誤をかさねながら、苦闘し、それでも確実に成長していく……。が、その裏で、何日も徹夜を重ね身も心もボロボロになりかかる編集部員も出はじめた「残酷物語」も、この際、触れておきたいが、それは、次回に。
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つれづれ自伝 | 日記
Posted at
2016/07/29 02:23:31