~「局長の仕事」流山異聞②~
流山で得た収穫は、いろいろとある。中でも、新撰組局長という男について、もう一歩踏み込んで「逢ってみたい」という気になったのが、いい。
まず、手元にある「玉手箱」を久しぶりに書棚から取り出した。
『司馬遼太郎 短篇総集』は総ページ1076。函入りで厚さは8センチ。53本の短篇作品が収められていて、当時(1971年・S46)で定価2800円。今ではほとんど入手不可能な貴重本。
司馬さんといえば「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」などで、「時代の群像を含む人間の成長を追い、歴史の推移を捉える長編ものの名手で知られているが、同時に珠玉といわれる短篇の書き手でもある」(尾崎秀樹・文芸評論家)。
その短篇は、概ね初期に書かれたものが多く、それがやがて司馬さんの中で発酵し、途轍もなく新しい魅力をたたえた「交響曲」に成長するわけだが、作品の原点を理解する上で、この『短篇総集』は大事なネタにもなってくれる。
ところが、である。長編で『新選組血風録』『北斗の人』という新選組を題材とした傑作がありながら、この短篇の中に「近藤勇」だけを描いたものはなく、「芹沢鴨の暗殺」「虎徹」あたりで、その姿・形が少々、読み取れる程度。どうやら司馬さんは土方歳三や沖田総司には心を通わせていながら、彼らがリーダーとして担いでいた近藤勇という存在が、相当にお嫌いらしかった。ちなみに司馬さんは神戸で育った。関東人の無骨な土の匂いが性に合わないらしかった。
そこでもう一つ、別の作品集からアプローチしてみた。
こちらは2007年(H19)に刊行されている『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(かいこう)』(中央公論社刊)というエッセイ集で、ズバリ、近藤勇を直線的に取り上げたものを発見した。『葛飾(かつしか)の野』というタイトルがつけられていた。
少し紹介してみようか。こう書き出す。
「江戸のころは葛飾から百姓が季節のものを売りにきた。百万とか二百万とかいわれた、江戸のぼう大な人口を養っていた農業地帯のひとつである。
葛飾というのは、万葉集に出てくる可豆思加のことであろう。南は東京湾に発し、北は茨城県(下総=しもうさ)、群馬県(上野=こうずけ)の境に接するというほどにひろい野で、江戸の詩人菅茶山(かんさざん)も、
〈荒原百里、みどり縦横たり〉
と、この景をうたっている。新選組の領袖(りょうしゅう)、近藤勇(いさみ)が最後に身を託した場所は、この葛飾の流山(ながれやま)であった」
そして、近藤勇たちが京都から江戸に逃げ戻ってからの様子を、簡潔に記している。彼はあくまでも主戦論を唱え、恭順派の徳川慶喜や勝海舟の対官軍外交の邪魔になった。勝はこの近藤に五千両の軍備と兵器を与えた。
「甲州(山梨県)を鎮めればどうか」
甲州一国は旧幕領で、まわりの地方と合わせて百万石。それを自由にしろと勝は暗に勧めたのだ。追い出し策だったが、その政略に、近藤は乗った。
司馬さんは考察している。このひとは上昇気流に乗っているときは、京都での活躍のように無類の能力を発揮するが、ひとたび気流から外れると、ただの平凡になってしまう型のひとだったかもしれず、その証拠に、江戸から甲州街道を西へ甲州に向かうときの彼の行装は、大名行列そのままであった、と苦々しく描いている。長棒のついた塗り駕籠に乗り、沿道の村々で酒宴を催しながら進んだ。甲州街道ぞいの武州の村々は彼の故郷だけに、いわば故郷に錦を飾ったつもりであったろうが、官軍はすでに京を出発して東進しつつある現実を、どれほど認識していたのだろうか、やはり二流の人物にすぎなかったようだ、と冷やかに斬って捨てている。
「近藤は浮かれ散らして甲州に入ったが、すでに一足違いで、甲州は土佐の板垣退助を司令官とする官軍に占領されていた。勝沼で一戦し、配下の新募兵は灰を吹き散らすように四散し、近藤もふたたび東へ逃げた。
流山を再挙の地とした。
ここも旧幕領で、江戸中期からミリンの生産地として知られ、このため町にはその醸造と貯蔵のための大きな倉庫も多い。そのうちの一軒を兵営とした」
ここまで読んで、慌ててわたしは『葛飾の野』の出典を確かめた。(「高知新聞」一九六八年六月十三日朝刊ほか、三友社配信)と明記してあるじゃないか。それで得心がいった。この一文は「高知新聞」をはじめとする地方紙連合に連載されたものとわかる。それも、一九六八年、つまり昭和43年のことだ。
それならば、司馬さんは執筆する段階で、この近藤勇の敗走に関する「史料発見」のニュースを、当然、ご存じないわけだ。
流山市立博物館の生涯学習部による「新選組と流山」レポートによると……。
「慶応4年(1868年)4月2日大久保大和と名乗る近藤勇を隊長とした幕府公認の治安隊(実態は新選組の生き残り)が流山に駐留してきた。
この流山駐留について、従来の研究では、会津入りを果たすための中継地として、約2週間の駐留が行われたものと考えられてきた。しかし、昭和50年(1975)に足立区西綾瀬(当時の五兵衛新田)の金子家から慶応4年3月から4月にかけての動向を示す貴重なる文書が発見され、歴史の空白を埋めることになった。
金子家資料によれば、慶応4年3月6日に甲州勝沼で板垣退助の率いる官軍に敗れた甲陽鎮撫隊150名は江戸に敗走。13日夜には浅草から五兵衛新田の金子家へ入った。この夜、大久保大和を先頭に48名、2日後には約50名の第2陣が内藤隼人(土方歳三)に率いられて金子家に入った。
これ以降、4月1日まで隊士の徴募をおこなったあと、4月2日未明から午前中にかけ、総勢200余名が流山への移動したのである。流山での駐留は、本体が酒造家長岡家へ、分隊は光明院、流山寺などに宿をとったと見られている」
結局、この金子家史料発見後は、地元・流山を中心とした近藤勇捕縛の顛末を記した石碑や史資料の記述は、「流山駐留」をわずか三日足らずで、四月三日の夕刻には縛についた、と現在は書き換えられていたのだ。
そのため、『近藤勇陣屋跡』や『新選組流山本陣跡』の記述を読んだ時には「うん?」と温度差を感じたものだが、その訳がわかった。
新選組に関しては、子母澤寛さんの聞き取り集「新選組始末記」を下敷きにして小説や映画、TVドラマが生まれている。司馬さんにしてからが、子母沢さんに敬意を表して話を聴きに訪問しているくらいだ。だから、流山の近藤勇についてはそれまでの「通説」の域を出なかったわけか。
もう少し、司馬さんの『葛飾の野』を続けよう。
〈(醸造元の一軒を兵営として)近郷の百姓の子弟を徴募して銃器を渡しているうちに、官軍の一部隊に包囲された。この段階になって、
「恭順する」
と、にわかに言いだした。かれの副将であり幼な友達でもある土方歳三(ひじかたとしぞう)は大いに反対し、その無駄を説いたが近藤が聞かず、ここで土方は東北で戦闘を継続すべく近藤と別れた〉
近藤はこのまま敗北を覚悟しての戦闘を続けるか自害するか、いずれかの道しかないはずであったが、恭順という名での降伏を選んだ。
しかし、板橋で斬られた。官軍の指揮官は土佐人であった。
土佐軍には、旧陸援隊士が多くまじっていて、自分たちの領袖の中岡慎太郎と海援隊領収の坂本龍馬を殺したのは近藤であると、この時期の土佐人は信じていた。
捕縛後近藤はそれについてきびしく訊問され、「私ではない、あれは見廻組(みまわりぐみ)のやったことである」といったが、彼らはきかず、ついに首をはねられた。
〈その近藤の屯所のあとを、私(司馬さんのこと)が訪ねたのは春もまだ早いころであったが、ミリン蔵にはもう蚊が出ていた。「ミリンのあまい匂いがしますから、蚊が寄ってくるのです」とその持ち主の家の人が説明してくれた。
町には小高い丘があり、旧幕府の代官所跡がある。丘からの葛飾の田圃を一望に収めることができる)
どうやら、坂本龍馬たちを生んだ「地元紙」を意識した一文であったか、といささかの「未消化感」が残った。
そこでもう一歩踏み込むと、三好徹さんの『史伝 新選組』(光文社2004年7月刊)が待っていてくれた。三好さんには沖田総司をテーマにした『六月は真紅の薔薇』(週刊現代連載)があるが、最近のものは読む機会がなく失礼していた。なにしろ、わたしが「週刊現代」から「日本」という総合月刊誌に移ってから、親しくご一緒に仕事をしている懐かしい直木賞作家(第58回)である。読売新聞社会部のエース記者でもあり、彼の史資料調査力は並外れたものがあり、教わるところが多かった。
*右が三好徹さん。同じ直木賞作家の生島治郎さんと。
その彼が『史伝 新選組』の中で「流山の近藤勇」を描いているではないか。そして相変わらずの「斬れ味」にうっとりさせられた……。
(この項、続けます)