その朗報の一方で、デビュー当時からグラビア撮影や対談、入江美樹との婚約・結婚取材で交友のあった、同学年の世界的オーケストラ指揮者・小沢征爾氏の訃報が届く。また一つ、同世代を生きた巨星が墜ちて行った。ベラ・イン・本木(入江美樹の日本名)は健在だろうか。彼女が征爾氏と婚約したとき、講談社から詩集『愛のいたみ』を出版した。洒落た判型(縦17㎝、横15㎝)の詩集で、その段取りを彼女は任せてくれたのを思い出す。手元に1冊だけ残っていた。
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2月10日。帝国ホテル内のレストラン『讃アプローズ』で娘夫妻と孫娘、それに姪夫妻が加わって『米寿』の祝いを。ピンクのニットをプレゼントされた。
2月19日、残りの左目手術。今度は利き目のほうだから、いやでも期待が高まる。眼帯を外した、メスの入った右目のほうは、瞼まわりがベタつくような不自然さに違和感が残っているものの、ともかく老眼鏡に頼らないで済むのが、率直に嬉しい。
そのせいだろうか。それからの物事への取り組みに新しく直面しても、真っ直ぐに深く、熱く対応しはじめたのが自覚できる。
翌日、あっさり、左目の眼帯もはずしてもらえた。お! 快適に視力が稼働している。それは一時的なものかもしれないが、こころが浮き浮きと弾んでくる。ともかく、眼鏡の世話にならずに、手元に溜まったままのクルマ関係の専門誌やメーカーからの新車情報に目を通し、いまだに所属しているジャーナリスト・研究者会議からの連絡にも、チェックを再開した。
どうやら、前年の秋に『JAPANモビリティーショー』と呼称を変えたクルマの祭典のプレスデイでは、あっさり、左ハンドルのデモカーでお披露目しただけだったメルセデスの新世代Eクラス、W214型が、やっと千葉幕張メッセで開催された東京オートサロンで、ジャパン・プレミアとして詳細が明らかになり、各専門誌の繰り広げる先行試乗記や特集企画で盛り上がっている模様じゃないか。
そんな賑わいの中で、先ごろ『徳大寺有恒さんのポルシェ愛にふりまわされた「二人」の再会』を執筆してご縁のできた交通タイムス社のMOOKスタイルマガジン『AWE』から季刊で発行されている『only Mercedes』誌も、素早く、W214の東京オートサロンデビューに先駆けて『名車の予感』とタイトルして、2024年1月号(12月1日発売)VOL218で特集、そのきびきびした展開ぶりに惹きつけられた。
「自動車のメートル原器である〈Eクラス〉。フルモデルチェンジした最新モデルの海外インプレッション、歴代Eクラスの中古車バイヤーズガイド、そしてEクラス前夜のモデルからBEVであるEQEまで、気になるEクラスの情報が満載です」と前置きして、『国際試乗会インプレッション』から『最善は最高だったか:W124 E500再試乗、80年代と90年代を駆け抜けた:W124をカタログで振り返る……など、と視力を取り戻しつつあるわたしをワクワクさせてくれ、その誠実な編集力は、3か月後に発行される4月号へとバトンタッチされていた。
ホッと一息ついたところで、放置したままだった白内障の手術のきっかけを与えてくれた作家・五木寛之さんに、施術の結果と感謝の意をまだ伝えてないことに気づいた。3歳と4か月年上の五木さんとは1961年、『さらばモスクア愚連隊』で『小説現代新人賞』を手にして文壇デビュー、翌年、『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞した直後、『ヤングレディ』という女性週刊誌で、そのころ新劇界のプリンスとして売り出し中だった石坂浩二さんとの対談をお願いしたのを契機に、以来、さまざまなかたちで60年を超す交流を重ねてきた。中でも、わたしが講談社の総合月刊誌の編集長から、社長室秘書を経由してクルマ専門誌を立ち上げ、やがてはビデオマガジンの開発まで手掛けて行くのだが、その始まりも五木さんのさりげない一言からだった。
作家の藤原審爾さんのお供で滋賀県・信楽焼の窯場巡りをしたときの、私のGC10…。
1973年だと記憶している。その頃はどこに行くにもスカイラインGC10で駆けつけたものだが、若手作家を招いてヨーロッパでの文壇講演会を、講談社が日本航空広報室から打診され、その調整の会を伊豆・小室山の麓にある『龍石』という料亭旅館で催され、佐野洋、三好徹、生島治郎の仲良しトリオと一緒に五木さんも招かれた。その会が終わって帰京する運びになったとき、五木さんからGC10に乗ってみたいから、横浜まで送ってくれるか、という。「わたしでよかったら・・・」と引き受けたものの、伊豆スカイラインから芦ノ湖スカイラインを経由して長尾峠を下って御殿場で東名高速に合流するルートは、アップダウンの激しいコース。五木さんも心得たもので、揺れの大きな後部座席は避けて、助手席でしっかりとシートベルトを締めている。こちらもフットブレーキによる減速はできるだけ避けて、マニュアルシフトの2、3速を使い分けながら長尾峠の下りをクリアした。
『ベストカーガイド』創刊号掲載
横浜の丘の上のマンションに着いたとき、「パーシャルを使ったブレーキングとアクセルワーク、気配りが効いていてとてもよかった」と労をネギらってくれる。実は五木さんがガンメタのポルシェ911Sのオーナーであることを知ったのはその2年後で、『ベストカーガイド』を立ち上げる時のスペシャル企画として、スカイラインの生みの親、桜井真一郎さんとの対談に臨むときだったし、つい先ごろの追想のなかでもこう記している。
若いころは、車の運転が趣味だった。
趣味というと品よくきこえるが、いわゆるカーキチの類だった。自分の車を持てなかった時期は、写真を集めたり車のカタログを壁に張ったりしていた。
池上に住んでいたころ、日曜日の午後など国道沿いのベンチに座って、日が暮れるまで車が走るのを眺めていた。
この五木さんの追想にあるように、とんでもないクルマ通だった。「通」というのは五木さんの謙遜。じつはクルマの正体を見抜いた、むしろ、もっと過激な「アジテーター」でもあった。
――あの世界を混乱の淵に追いやったドイツの独裁者ヒトラー総統が、国民の魂を麻痺させた手口を知っていますか? ビートルとアウトバーンですよ。国民に「一家に一台の車を」という構想を持ちかけ、毎週5マルクずつ払いこめば、4年後には990マルクのKdF-Wagen(カー・デー・エフ=国民車)が手に入る、と。大衆は熱狂した。33万人が予約に殺到します。しかし、第2次世界大戦が勃発し生産は中止され、かわりにカー・デー・エフをベースにした軍用小型車が製造され、積立をした国民に対して、納車は1台もなく、アウトバーンは忠実に実現された、と。クルマは人々の心を捉えるメディアなんですよ。
クルマはメディアか。その言葉が深く、熱く、わたしを捉えた。そして……。
あれは1979年の初秋だったろうか。眼下に札幌の夜景がきらめいていたから、当時のプリンスホテルのスカイラウンジで、真夜中の珈琲を飲みながら、五木さんとおしゃべりを愉しんでいた時の話だった。あの頃の五木さんは休筆活動に入っていて、長い未完の小説を抱えて書き続けているときより、気ままに動き回り、ぼくらを誘い出しては旅、音楽、クルマ、この国の古代史のおしゃべりを聴かせてくれる。時には未知の土地、国へ一緒に旅ができたものだ。
だからこそ、はじめての休筆のあと(’71年秋から3年)のあとは『凍河』『戒厳令の夜』、2度目の休筆で『風の王国』『ヤヌスの首』という、とびっきり新鮮な視点をもち、それでいてまるで年代物のワインを味わうような、香り豊かなコクにある作品にめぐり逢える。「ああ、あの時の旅はそんな狙いだったのか。あれが五木さんのなかで発酵すると、こうなっていくのか」と。そのたびに嬉しく納得し、このあとのあとクルマ雑誌創刊の特命をうける決意を固めたのを思い出す。
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白内障の手術から2か月余りが経って……。 雨上がりの関越自動車道を練馬の流入口から北へ、E220Dアヴァンギャルドのステーションワゴンで、50㎞ほど先の花園インターをめざした。遠く、江戸時代。外出のままならぬ大奥や商家の女性たちが落ちく夕陽の落ちゆく北西の山並みの向こうを、西方浄土と想いを定め、手を合わせたという。そこが山襞に囲まれた「影の国」秩父盆地への経由地である。そこからは秩父の中心市街までは30㎞、R140(彩甲斐街道)はかつて武州鉢形城の城下町として栄えた寄居町から、そのあたりでは玉淀川の別名を持つ荒川を遡るようにして南下し、秩父のシンボルの一つである武甲山と真正面から対面できるポイント、秩父巡礼二十三番札所『音楽(おんらく)寺と十三賢者の石地蔵とを結ぶ、自然なままの『巡礼みち』まで足を伸ばしてみようと、『AMW』の西山編集長にサポート役をお願いした。
■秩父札所「23番 音楽堂」隣接の13賢者石像群に逢いに行く
最初のパーキングエリア三芳で小休止。ニューカーの試乗ドライブは、1年半ほど前に所属するRJCカーオブザイヤーの選考試乗会で、恒例の『モビリティリゾートもてぎ』内の特設テストコースを、スバルのWRX S4を皮切りにBMW2シリーズ・アクティブツアラーまで、第1次選考でベスト6に選ばれた国産車、輸入車の最終チェックをして以来だ。
実は『AMW』に新世代のEクラスを試乗したい旨を伝えたところ、立ちどころにE200を用意してくれたのはいいが、当日は強烈な雨降りで、午後になってやっと小降りに。行き先も荒川河川敷にあるさいたま市の秋ヶ瀬公園あたりなら、と変更。味見試乗で軽くジャブ攻撃のやり取りをしながら、いつの間にか最初の試乗車E200dに同化していったあたりから、次回は取り組みたい。