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正岡貞雄のブログ一覧

2020年12月01日 イイね!

動画付き①親孝行ベスモ組vs,#16極悪シミちゃんPB号

動画付き①親孝行ベスモ組vs,#16極悪シミちゃんPB号〜メディア対抗筑波4耐第2回ガチンコバトル実録公開〜

最初の20秒は我慢して欲しい。何しろ本編集用に用意した私用のVTRテープを、あの新婚「えむしい34」君がやっと動画用に変換してくれた「作品」だ。実際には1991年3月号のベスモ本編に10分のコーナーとして仕上げたものだが、見方によってはまるで「親孝行辺須紋組ロードスター」チームのピットクルーになった気分でご覧いただける内容かもしれない。

 大井貴之、田部靖彦の両君の素顔まる見えだし、あの極悪シミちゃんもいい味を出してくれている。ピットウォークでは懐かしい勇者も登場。

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 まあ、いろいろと説明するより、実物をどうぞ。何しろ1時間37分の長尺。完走しなくて結構。ともかくチャレンジあれ。意外と‥‥‥。






Posted at 2020/12/01 21:13:09 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーッキトに生きる | 日記
2020年11月29日 イイね!

追悼! 矢口高雄という『元気な星』との別れ

追悼! 矢口高雄という『元気な星』との別れ〜本物の「雪深い秋田の農家育ちの少年」ここにあり!〜
 
 11月26日朝の「矢口高雄さん死去 釣りキチ三平」(朝日新聞)の訃報は背後からガーンと不意打ちされた感じだった。まさかあれほどお元気だった矢口さんがこの20日、膵臓癌で逝かれていたとは!

 この2年ほど、ご無沙汰していた己れが迂闊だった。81歳だった。葬儀は親族で行った。秋田県の横手市増田漫画美術館によると、後日、「偲ぶ会」を予定している。

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 そして『朝日』は丁寧に故人の経歴や業績をフォローしてくれる。
ーー秋田県西成瀬村(現横手市増田町)に生まれた。増田高校を卒業後、地元の羽後銀行(現北都銀行)に12年間勤務したが、漫画家への夢をあきらめきれず、30歳で退職し単身上京。『週刊少年サンデー』(小学館)に掲載された「鮎」で漫画家としてプロデビューした。
 73年には「釣りキチ三平」「幻の怪蛇バチヘビ」を発表し、釣りブームやツチノコブームを巻き起こした。同作品は講談社出版文化賞(児童まんが部門)を受賞、76年には「マタギ」で日本漫画家協会大賞を受賞した。奥羽山脈に山間部で生まれ育った原体験を元に、自然と人間との関わりをテーマにした作品を描き続けた。

「朝日」の矢口さんへの哀悼の想いは、さらに翌27日の『天声人語』にバトンタッチされていた。

 まず、矢口さんの漫画家デビューまでの苦しい道のりを、改めてなぞったところで▶︎中学卒業時、東京のブラシ工場への集団就職が内定したが、恩師が両親を説得してくれて高校へ。卒業して地元の銀行に職を得る▶︎辞表を出して30歳の春。幼い娘が2人いた。周囲の反対を押し切って上京、多摩川に近い部屋を借りて(正岡註:目蒲線矢口渡駅。ペンネームの由来)描き始めたが、不安は尽きない。「妻子を養えるだろうか」「銀行に残ればよかった」。毛布にくるまって泣いたという▶︎訃報に接し、代表作『釣りキチ三平』を四十数年ぶりに読み直した。天衣無縫の少年が世界の川や海に挑む。さおのしなり、きらめく水面。どの絵にも心が通い、少しも古びていない‥‥‥こう「天声人語」氏は書き継いだ。
 そして転調する▶︎「どんどん道草を食おう」「寄り道をしよう」。講演ではそう語りかけた。自身、学校帰りに虫を採り、野の草や実をかじった経験が財産になったという。「すぐに漫画家にならず、銀行に勤めたのもよかった」とも語った▶︎「雪深い秋田の農家に生まれ」。永田町あたりでそんな名乗りを聞いたばかりだが、矢口さんも正真証明のその一人。ボツや挫折、不安をすべて肥やしにして、50年に及ぶ画業を豊かに結実させた。

 この心に染みる矢口さんへの「贈る言葉」。身体中がポカポカして来た。そしてわたしも動いた。確か、折に触れ、矢口高雄さんからいただいた「色紙」を本棚や、陶器や食器類を並べたリビングの棚から、取り出すことにした。

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 おお、ありました。2004年は申(さる)年だったのだろう。猿が目を剥き口元はギュッと噛みしめ、生きて行くことへの『闘志』を伝える『不言』の文字が添えてあった。もう一枚は、わざわざわたしの姓名を書き記し、三平君が今にも竿を撓らせながら釣り針を海に放つ瞬間を捉えた、ダイナミックな筆遣いのものである。おお、そうだった。矢口さんと関わった濃縮な日々の記憶が蘇って来た。

 2003年の春、67歳になったわたしは「ベストモータリング」を発行する講談社の関連会社「2&4モータリング社」から解放されて、自由になったらぜひやってみるつもりだった「正岡一族 ルーツ探しの旅」に取り組み、四国・愛媛県の山間部に通い、さらに「源義経・北行伝説」の足跡をプリウスを駆って追い、青森県竜飛岬までに足を伸ばすなど、結構、賑やかな日々を楽しんでいた。。

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*正岡氏最後の主城・豊臣秀吉四国征伐により落城

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*平泉義経堂の義経像

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*津軽半島三厩の義経渡海伝承の碑とプリウス




 そこへ講談社時代、野球部で本来はサードを守るわたしが、ピンチの時だけリリーフで登板して投げる「魔球」シンカーを、苦もなく受けてくれた川鍋捷夫捕手がわたしを訪ねて来た。「ヤングマガジン」で「頭文字(イニシャル)D」を立ち上げ、そのころは「少年マガジン」の担当部長となっていた。

「今度、矢口高雄さんの『釣りキチ三平』平成版CLASSICを月2回刊で創刊するんだけど、そこで『元気の出る対談』というのをやりたいんだけど知恵を貸してくれないか」
「恐ろしく誘惑的な企画じゃないか。例えば、いまパリダカールラリーで一躍勇名を馳せた増岡浩君なんてどうだ!?」
「ああ、いいね、それ。じゃあその次にヤックンこと、薬丸裕英にしたいね」

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*矢口高雄HPより

 話はトントン進んで、早速、構成作家として自由が丘の矢口高雄邸で打ち合わせをすることになった。それから3年に近い日々を、通算28人のゲストを迎え、矢口さんと共有することになるのだが、さらにロシア領のカムチャッカにまで足をのばすことになるなど、思いも及ばない豊かな果実を持つ日々が訪れる‥‥‥。                         (この項、つづく)
Posted at 2020/11/29 21:03:26 | コメント(3) | トラックバック(0) | この人に逢いたい | 日記
2020年11月16日 イイね!

メディア対抗ロードスター《お目見え戰》の真実を追う

メディア対抗ロードスター《お目見え戰》の真実を追う〜お待たせしました。幻の動画をどうぞ!〜

 いそいそと夜の道を、集合場所のファミレスまで急いだ。どうしてこんなに、不具合続きの股関節から膝にかけての一の脚が、スッと伸びてくれるのだろう。

ここからは、11月2日更新の「ヤリス試乗記」の締めのくだりを引き継ぐとしよう。
‥‥‥10月最後の土曜日、ベストモータリング同窓会の若手幹事グループから呼び出しがかかった。なんでも「九郎田一馬」が念願のNB6C マツダロードスターSGリミテッド(5MT)=17年落ちを入手したこと。「えむしい34」君がなんともキュートな伴侶を射止めたことなどの報告会をやりたい、とのことだった。この呼び出しが契機となって、幾つもの眠ったままの「以下、次回更新まで」を解凍していく気になりはじめたのは、ありがたい。

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 7年半前、黒澤元治さんがLEONチームを率いて参戦することが決まり、応援を兼ねて岡山へ行くことになった。それならば「ドラテク道場」として思い出深い中山サーキットで「ベストモータリング」のかつてのファン有志にも声をかけ、走行会をやろうか、と。

これが「ベスモ同窓会」の始まりで、その後、中山サーキットと東京のミーテイングイベントを交互に開催、それがわたしの体調の都合のせいで、3年前から滞っていた。

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それでも「ベスモ育ち」を大事にしている若者たちが、いまだに「局長」とわたしのことを大事にしてくれて、ことあるごとに集合し、情報交換を続けてくれる。

そんなわけだから、予約してあったファミレスの席に腰を落とすや、まず話は来年のスーパーG T開幕戦が岡山国際サーキットになるかどうか?の見通し会議となった。それがダメなら河口湖の富士カームにしましょうよ、などと盛り上がる。

 かといって、コロナ厄禍の終息までの道のりがまだ見えない。結論はどうしても「様子見」に落ち着かざるを得なかった。

 一段落したところで、持参した紙袋から古びたV T Rテープを取り出し、「えむしい34」君に手渡した。

「これ、巣籠もり断捨離で出てきた貴重なやつだ。みんカラで紹介したいので動画に変換してくれるかい?」
「いいですよ。あ、筑波のメディア4耐が始まるきっかけになったF I S C Oのレースでしたね」
 さすが、「えむしい34」君。かつてベスモ収録の「幻のセナ足」がどの号だったか、探しあぐねていた時、一発でとどけてくれた御仁である。

 ま、6月2日にアップした【幻の『プレス対抗MAZDAロードスター戦』in FISCO』(クリック)にその舞台裏が詳しいので、こちらからもう一度、ご訪問あれ。

 こうして虫のいいわたしの願いがやっと動画化されているので、ひとまず「観戦」願いたい。



「よっしゃ。もう一度、改めて15分テープを再生してみるか」と見栄を切った最後のくだりが、やっと現実になったわけであるが、この動画から遠い記憶がいかに怪しくなっていたか、思い知らされた。例えば‥‥‥。


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「みんカラ」のスペシャルブログ執筆陣仲間の吉田匠さんと、安川さんに貰った「1コーナー」の写真の話をする機会があって、あの時、トップグループを追って300Rをうまくこなしたのに、ダンロップコーナーの出口で一緒にクルリとやりましたね、と笑い合ったのを思い出す」

 と書き起こしているが、ダンロップコーナーの出口でくるりと回ったのはわたしだけで、トップグループ3台を追う吉田匠さんは、7周目の100R 進入でくるりとやっていたのがよくわかる。

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 このあと、やっと入手した『モーターファン別冊 ユーノスロードスターのすべて』の収録されている当該レースの2P記事と照合しながらのレポートをお届けしたい。   (次回更新まで)
  
■ 当動画は15分24秒で一旦完了し、10秒あまりの間隔を置くと「89年ミラージュCUP」戰の予選アタック第1コーナーの模様が収録されています。どうぞお立ち寄りを。ゼッケン12が小生。横島久君らミラージュ乗りのアタックぶり。昔のF I S C Oの第1コーナーも懐かしいですね。。




Posted at 2020/11/16 23:55:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2020年11月02日 イイね!

久しぶりのNEW CAR試乗記

久しぶりのNEW CAR試乗記

ヤリスが眠っていた虫を‥‥



 まるまる5ヶ月の勝手な休息、どうぞお許しあれ。

 有難いことに「みんカラ仲間」「Face bookつながり」の知己から「どこかお悪いのか?」「何かあったのか?」などと、多くの励ましをかねた様子伺いを頂戴している。
まあ、コロナ、コロナで何をやってもモチベーションが昂まってこないこの半年。充電を兼ねた休息だと、己れに言い聞かせ、週3回のランニングマシン、ストレッチ体操は欠かさず通い続けているうちに、ランニングマシン(トレッドミル)にいたっては2分を5.5km/hの速度で歩き、続けて3分間、6.3〜6.8km/hのテンポで走り、それを5回やってクールダウン。近頃は無理なく完走できるようになったのが嬉しく、こうやって報告する気になった次第。体重も2kg近く減量できた。

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 そうした日々の中、しっかり一本だけ試乗記をまとめ上げているので、「みんカラ復帰」の挨拶がわりに紹介したい。わたしの所属する「RJC 自動車研究者ジャーナリスト会議」では年間活動のハイライトである2021年次カーオブザイヤーを、独自の工夫を凝らして催行すべく、各メーカー、インポーターの協力を得て、9月28日のVWの T-ROC、T-Crossを皮切りに、対象ニューカーたちの試乗機会を用意してくれていた。
 その中でわたしが試乗記執筆を担当したのが、TOYOTAヤリス。秘かに「今年はこれかな?」と興味満々。いそいそと試乗に赴いたのは、10月20日の朝であった。

ヤリスが眠っていた虫‥‥  

 新世紀に突入した2000(平成12)年から連れ添ってきたT O Y O T Aプログレ NC300 iRを、2018年 の暮れに断腸の想いで手放してしまった。その日から2年近く、S U VのR A V4以外のT O Y O T A車に全く触れることがなかった。
 それが2021年次R J Cカーオブザイヤーの選考対象車であるヤリスを試乗できる機会に恵まれ、久しぶりにT O Y O T A車の「いま」と対話することができた。

エンジンとモーターとの違いが感知できない
 ピックアップしたのは「ヤリス」「GRヤリス」「ヤリスクロス」の3タイプあるのうち、最量販モデルの「ヤリス」のハイブリッドGである。なんでもヤリスは2020年の4月、5月、7月、9月とランキング1位で、4-9月の上半期で販売台数(普通乗用車)でも1位だという。

 黄ばみ始めた神宮外苑銀杏並木の下で待ってくれていたヤリスGは、コンパクトカーらしく小ぶりながら引き締まったボディから、W R Cを戦い抜いた戦士のオーラを強く感じさせる。そのせいか赤を主調にした配色が似合っている。ルーフ、ドアミラー、フロントグリルを黒く染めた押しつけがましい色合いまでが、妙に新鮮な魅力を感じたのはなぜだろう。ちなみに、このボディカラーをメーカーでは「コーラルクリスタルシャイン✖︎ブラック」と呼んでいる。

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 さて、試乗開始。説明員はいない。手探りでエンジンの始動を試みる。ブレーキペダルを踏み、スターターのプシュボタンを押してやり、ハイブリッドのシステムを起動した。次にゆっくりとシフトレバーをNにセットしてから、手動式のサイドブレーキを解除した。ありがたいことにT O Y O T A車は、どのタイプもスイッチなどの位置や使い勝手に差異がないように配慮されていて、初めての出会いでも、T O Y O T Aユーザーなら違和感なく対応できるようだ。

 ひとまず銀杏並木を絵画館へ向かって直進し、噴水にぶつかったところで左回りの外苑周回路にはいる。

 走り出して5分。首を傾げてしまった。このスタートして加速に入るまでの上品な挙動はなんだ。どこまでが電気モーターによる走りなのか、どこで1.5ℓ、3気筒のガソリンエンジンにバトンタッチされたのか、全く感知できない。まるではじめから6気筒3ℓエンジンを走らせてでもいるような快適で高品質な時間‥‥‥。

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WRC戦士のオーラを強く感じさせる。そのせいか赤をメインにしたボディカラーもよく似合う。

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 トヨタの本気まざまざ。クロスやG Rにも試乗したい

 1周、1400メートルほどの周回路を2周半してから、国立競技場の脇でヤリスを停めた。近く世界中が熱狂するはずの新しい舞台をバックにして、この新しい魅力の塊を記念撮影しておきたかった。

 ここから市街地走行に入った。外苑西通りに滑り込み、そこから一気に大京町を抜ける坂道を駆け上がり、四谷4丁目を右折して20号線を一気に外濠の半蔵門を目指した。と、右側を伴走するヤリスG。同じカラーリング。ホイールだけはメーカーオプションがおごられている。


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 最近のトヨタにはデザインに凝っているモデルが多い。ヤリスのリアデザインもかなり複雑だ。R20 で遭遇して半蔵門までランデブーランしたヤリス仲間

 四谷3丁目、麹町を通過。ランデブーランが続く。ドライバー氏もこちらを意識している。こうしたケースはその車がヒットしている証拠で、気分もいい。やがて半蔵門にぶつかる。当方、そこを左折して次なる撮影ポイント、千鳥ヶ淵公園に向かうため、左折のウインカーを出し、左端車線に移る。その動きを確認したのだろう、ランデブーランの相棒はハザートランプを点滅させた後、ダッシュをしながら右折ラインへと進入していった。
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 定刻5分前、スタート地点の銀杏並木通りで次の会員試乗者にヤリスをバトンタッチしながら、心に決めたことがある。ヤリスには6速のM T車があって、これが絶品のお薦めマシンだという。加えてスポーツマインドを追求したG Rヤリス、S U Vタイプのヤリスクロスを順次、味見して行きたいな、と。T O Y O T Aの本気が窺えた。

 八十路半ばにして、またムズムズと蠢くものがある。

  ☆   ☆   ☆   ☆

 この試乗記は、R J C 自動車研究者ジャーナリスト会議のホームページ
 http://www.npo-rjc.jp(クリック)
に掲載されていて、同じ会員の中川和昌さんが「トヨタ ヤリス(2)」として、ヤリスの真髄を正確に見抜いたレポートで共演しているので、ぜひあわせてご一読いただきたい。

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 1999年にTOYOTAがコンパクトカーの世界戦略車として送り出したヤリス。日本仕様は「ヴィッツ」。その4代目にあたる新型車が、満を辞して国内でも「ヤリス」を襲名するまでの開発ストーリー‥‥いずれ、取り組んでみたいものだ。

 そんな想いを温めながら、10月最後の土曜日、ベストモータリング同窓会の若手幹事グループから呼び出しがかかった。なんでも「九郎田一馬」が念願のNB6C マツダロードスターSGリミテッド(5MT)=17年落ちを入手したこと。「えむしい34」 君がなんともキュートな伴侶を射止めたことなどの報告会をやりたい、とのことだった。

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 この呼び出しが契機となって、幾つもの眠ったままの「以下、次回更新まで」を解凍していく気になりはじめた。      (以下、次回更新まで)
 

Posted at 2020/11/02 20:04:30 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2020年06月02日 イイね!

幻の『プレス対抗MAZDAロードスター戦』in FISCO

幻の『プレス対抗MAZDAロードスター戦』in FISCO〜「巣ごもり断捨離」もまた楽しからずや、の精神で①〜

 1989年7月の富士スピードウェイで発売直前のユーノス・ロードスター(欧米ではミアータの名前で、既に発売)がレース用にロールバーを装備し、自動車メディアの走り屋さんによるスプリントレースを挙行したのが大受けだった。それが先頃、30周年目を迎えた『メディア対抗ロードスター4時間耐久レース』(筑波サーキット)に発展したことを知る人が、どれほどいるのだろうか?


   ☆   ☆   ☆

Face Bookを舞台にした『秩父困民党事件』の資料整理も目処が立ったところで、引き続き「巣ごもり断捨離」の手を、かねてから家人に要請されていた「出窓」の下の空きスペースにシフトチェンジした。入れっぱなしだった段ボール箱がゴロゴロと、出るわ、出るわ。

「おお、ここに入れておいたのか」と驚かされるビデオテープやCD類の中から、かねてからその行方を気にしていた1986〜90年の「自動車レース関係V T R」が3箱も出て来た。わたしが活字媒体の「ベストカー」から、そのエネルギーをビデオマガジン「ベストモータリング」にシフトチェンジした時代と関わりの深い「資料」たちであろうか。



 数えてみると全部で36本もあった。「富士フレッシュマン」のE X Aと、そこからステップアップした「ミラージュCUPフレッシュマン戦」とその上のクラス「エキスパート戦」を、わたしのスキルアップのために8ミリカメラで収録したものが主だっていたが、その中で3本ばかり、異色のものが‥‥‥。

① P R E S S  E U N O S ロードスターレース
② 西仙台ドリームC U P
③ J A F 鈴鹿グランプリCIVICレース

①の「89年ユーノスロードスターレース」なら4時間耐久の第1回ということになる。それならば生涯でたった一度の、お立ち台真ん中でのシャンペンファイトをする自分の姿を、もう一度この目で確かめたいものだ。



 手にしたV H Sテープは何ともお粗末で、怪しげな造りだ。録画した映像が消去できないように、一度は「爪」を折られている側面の四角い空間に、セロテープが貼られている。しかも15分しか録画できない短尺物だ。警戒心が先に立つ。

 ともかく、これもテープと同じように辛うじて生き残っているV H Sカセットテープの再生器に、久しぶりのお仕事をお願いした。おお、なんと無事に、テープが吸い込まれて行くではないか‥‥‥。

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 いきなりモニターに映し出されたのは、水玉模様の真っ赤なロードスターのボディ。車番⑥。間違いなくわたしが搭乗した「あいつ」だ。

 富士スピードウェイをFISCOと呼んでいたあの時代、ビッグレースはもとより、年間8〜9戦が組まれるフレッシュマンレースの1戦1戦を丁寧に撮り続けてくれたことから、「サーキットの鉄人カメラマン」の称号で呼ぶ安川肇さん。その彼が何かの折に、2枚のモノクロ写真をプレゼントしてくださった。独特の風合いで焼き上げたもので、写真というよりは墨絵と呼びたくなる作品だった。

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 その安川作品のモデルであったはずのEUNOS ROADSTARが、なぜここに?
 
 疑いはすぐに解消する。てっきり筑波を舞台にした「第1回メディア耐久」が出てくるものと思い込んでいた。そこへ意に反して、富士スピードウェイのパドックで出番を待っているシーンが登場してきたからだ。

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 腕組みしたわたしが、雨傘を手にした当時の『ルボラン』誌編集長・清水猛彦さんと話し込んでいるシーン。パドック独特の喧騒の中、何を会話しているのか、V H Sテープから聞き取ることはできなかった。そうだ、この様子を画像にして清水猛彦さんに届けてみよう。どんな展開になるか、やりとりにスピード感のあるFace Bookに舞台を選んで、試みることにした。その上で後刻、本舞台の当Special Blogに再録してみたい。

●幻の『プレス対抗MAZDAロードスター戦』序章
(Face Book=2020/5/29/14:59発信)

 親愛なるF B仲間、清水猛彦、鈴木直也、前田保さまに報告します。
去る5月25日のことでした。「巣篭もり」で鬱屈しているご様子の清水さまに「激励のエール」の意をこめて、断捨離活動中に古い段ボール箱から発見した1989 年のレースもののビデオテープのイントロ場面を、スマフォカメラに撮ってF Bのコメントやりとり欄に送信いたしました。

「1989年7月撮影のF I S C Oパドックでのあなたと小生との2ショットですが、何のレースか憶えていますか?」と。

 早速、清水さまから返信がございました。「確かにわたしですね。しかし、ユーノスロードスターレースは筑波で、わたしも出場しました。それがF I S C Oとは不思議。覚えなし。到頭、認知症に罹ったのかな?」

 その猛彦さんコメントを待っていたように、元 MAZDA広報の前田保さまからも、助け舟と覚しきメッセージが届く。

「この写真を、ご覧あれ」と。それは第1回プレス4耐レースの結果表。
 実はその第1回の栄光ある覇者が「ベストモータリング」チーム。大井貴之、田部靖彦に編集長のわたしが加わった。業界最速の称号をかち取ったそのシーンが見たくって、いそいそとその古いテープを再生してみたのがことの始まりでもありました

 猛彦さんへ第2信を。
「やっぱり、あなたでもご存知なかったか。年号が平成となったあの年、発売直前のユーノス・ロードスター(欧米ではミアータの名前で、既に発売)がロールバーを装備して、自動車メディアの走り屋さんによるスプリントレースをF I S C Oで挙行し、その予行演習を経て、それが先頃、30周年目を迎えた『メディア対抗ロードスター4時間耐久レース』(筑波サーキット)に発展したものです。なにしろレースイベントの最後に押し込んだものだから、決勝がスタートした時にはすっかり陽が落ち、それに霧雨という最悪のコンディション。あちらこちらでスピンの連続でした、優勝はC G誌の熊倉さんでした」

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と、即座に反応が届きました。いまやベストカー誌を中心に活躍中のCARジャーナリスト、鈴木直也さんからメッセージが届く。
「優勝したのはドライバー誌の三角さん。あと一周あればぼく(鈴木直也)が抜けたのに、と口惜しい想いをしたので憶えています」
 え!? 直也さんも出ていたのか。ともかく古いV H Sの、素人の撮ったテープ。#5がトップでチェッカーを受けたのはわかるが、エントリーリストも手元にない。不明なことが多すぎます。早速、確認する道筋を考えた結果、かつてそのレース写真を、何かの記念に2枚を送ってくれた人物に頼ることにしました。一枚は水玉模様の#6ユーノスを駆る小生、もう一枚はスターして第1コーナーを抜けて、第2コーナーへ駆け下りる集団を、見事に、そして鮮明に捉えたモノクロの紙焼き。
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「サーキットの鉄人カメラマン」の異名を持つ、安川肇さんです。幸い、ちょうど1年前に「富士フレッシュマン同走会」(同窓会ではありません)でお一緒しています。多分、彼なら当日のプログラムをお持ちのはず。
まず、そこから《真相追求》をはじめます。直也さんには、早速、FISCO名物の第1コーナーの飛び込み合戦の画像をお送りしましょう。いろんな記憶が蘇るに違いありません。ご一報ください。

●暗闇&ウエット路面と闘った8周レースの真実
 (Face Book発信=5/31/21:49)
〜幻の『プレス対抗MAZDAロードスター戦』(その1)〜
 手がかりを「サーキットの鉄人」安川肇さんに求めた。彼の収集能力とデータ管理の完璧さなら、間違いなく答えを出してくれるはず。
 5月27日(水)の朝、9時になるのを待って、コールしたが留守電になっている。お昼になっても、残念ながら安川さんからの反応がない。
「もう1周あったら、トップの三角さんを抜けたのに」と挿入コメントで悔しがった鈴木直也君をはじめ、他にどんなメディが参加し、他にどんなドライバーが走ったのかも、ほとんど記憶がない。なんといっても、31年も昔の話である。
 1989年は年号が平成に改元された年。セルシオがデビューし、日本カーオブザイヤーのグランプリに輝いた。海外ヨーロッパ取材に多忙を極めた年でもあった。わたしの主宰する「ベストモータリング」も軌道に乗りはじめていた、というより大井貴之、田部靖彦の両腕が「創り手」として少しはホンモノになりはじめていた。土屋圭市君もレギュラーキャスターとして加わり、中谷明彦君と組んで『The疾る!ユーノスロードスター』というスペシャル版を世に問うたりして‥‥‥。
 そんな風に眠ったままの記憶をまさぐりながら、安川さんからの電話を待った。正午に2度目のラブコール。これもダメだった。が、2時になって受話器が嬉しそうにハミングする。安川さんからのものだった。

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 こちらの抱えている状況を説明すると、よく憶えていて、すぐに『公式プログラム』の表紙、公示&目次、タイムスケジュール、大会組織表、第9レース/エントリーリストがF A Xで送られてきた。これでやっと『プレス対抗ロードスタースプリント戦』の正体が見えてくる。

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 該当のレースは「’89 富士フレッシュマンレース第5戦」の第9レースに組み入れられていて、出走21台。車検は前日に済ませ、公式予選は16:15 分から15分間。決勝スタート16:40分/10周が予定されていた。
 さて肝心のエントリーリスト(別掲画像参照)。
てっきりCGの熊倉重春さんだと思い込んでいた青のマシン⑤はdriver誌の三角明孝さんだし、赤いマシンの#22が熊さんだったのか。
鈴木直也さんがコメントでいっていた「熊倉さんが車載カメラで15分間も実況レポートしたカーグラT V、あれが抜群に面白かった。だれかYouTubeにアップしてくれないかな」という意味が、改めて生きてくる。どなたか、お願いします。
当の直也君は⑨、このあと30回の開催を重ねる「4時間耐久」で出場28回、優勝回数8回をやってのける#19斎藤慎輔さんは「MMレーシングチーム」とあるからモーターマガジン誌からの出場だろう。
 ともかく、業界の走り屋、錚々たるメンバーが揃っていた。
① 飯塚昭三 ②鈴木俊治 ⑦吉田匠 ⑧横越光宏 #11町田英明、#22 熊倉重春‥‥‥そこへプラスして⑩岩貞るみこ #23 佐藤久実‥‥‥若手で③杉野勝秀 #17 奥山文彦。 

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ここまでわかれば、「幻のプレス選抜スプリントレース」のV H Sテープを改めて「謎解き」がてらに鑑賞してみるエネルギーが湧いてくる。

そこへ鈴木直也君から、コメントの続編が届いた。
「せっかく予選でトップをとったのに、スタートのミスで一気に中団までドロップしていたのが、あの1枚の写真でわかりました」
 そうか、そうか。安川さんの捉えた第1コーナー、7位で走るぼくの右後ろ、8位にまで落ちていたとは。ともかくあのレース、コーナーでちょっとでもアクセルを踏みすぎると、すぐにくるりと回ってしまった。
 そういえば「みんカラ」のスペシャルブログ執筆陣仲間の吉田匠さんと、安川さんに貰った「1コーナー」の写真の話をする機会があって、あの時、トップグループを追って300Rをうまくこなしたのに、ダンロップコーナーの出口で一緒にクルリとやりましたね、と笑い合ったのを思い出す。
  
よっしゃ。もう一度、改めて15分テープを再生してみるか。
                  (この項、続く)

Posted at 2020/06/03 00:31:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「巨人とのゲーム差13。球児の采配は先を見据えていて小気味いい。BSNHK中継の京セラでの対竜第2戦。開幕から5勝をあげながら、その後2か月、勝ち星から見放されている新人井原を起用。立ち上がりで2点を奪われてもひたすら熱投した左腕に『いいところまで戻ってきた』と合格点を。◎だね!」
何シテル?   08/21 12:43
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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富士のヘアピンで息絶える! ~ミラージュCUP闘走の記憶・第2幕~ 
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