
裏山で獲ってきたクワガタやカブトムシを売って、堂々と「商売」をしていた高典少年の「それから」をつづけよう。少年期から青年期へ、舞台は京都から、東京へ。
クルマと出会ったことで、松本高典青年は人生設計を、一大変更をする。
電気か機械のエンジニアとして、発明品をひねり出し、特許をとる。その夢のために日大の理工学部に入ったものの、どうやら先輩たちを観察してみると、日立、東芝、日本鋼管のサラリーマンエンジニアになるのが関の山じゃないか。これでは、特許で儲けてリッチになるなんて、夢のまた夢。(
アグネス・ラムちゃんと彼女の愛車カルマンギア)
変わり身は速かった。車の世界に狙いを絞った。まず伊藤忠自動車販売へ入社する。1962(昭和37)年である。まだ国産大衆車の覇権をめぐって、カローラとサニーが激突する時代には、もう少しの時間が必要だった。
2年後、先輩のヒキがあって、西武日産へ移り、セールスマンとしての実績をつくりながら、脇目もふらずに貯金に精を出した。
ところが、その貯金のほとんどを失いかける災難が襲いかかる。それがJAX設立の遠因となるのだから、高典青年、並はずれた運気の持ち主であった。
ことの起こりはこうである。その頃、カーセールスにはふたつの販路があった。一つは、ユーザーとの直取引。もう一つは、修理工場との取引である。その修理工場との親密なつき合いで、彼はしくじった。頼まれて、個人的にも10万円、15万円と都合してやる。その総額が80万円に達したころ、修理工場が倒産。取り立てに行ってもお金は返ってこなかった。
やむなく会社に辞表を出して、貸金代わりに引き継いだ修理工場の経営に没頭するが、この商売は手間がかかるだけで、もうけは薄い。そこで方針を転換する。
*ツーリングカーレースではスタードライバーの高橋国光ともジョイント
*ついには富士グラチャンレースにチームとしてもエントリー。ドライバーには当時人気絶頂の桑島正美を起用
1968(昭和43)年。環状8号線で、中古車センターを始める。これが当たった。
「売れましたねェ。まだまだ、中古車センターが少なかったこともあるけれど、50坪ほどの土地に、常時、14~15台の中古車を並べておくと月に50~60台が売れたんです。仕入れてきて、店でワックスをかけていると、お客さんが寄ってきて『コレください』そんなふうだった。
大晦日(おおみそか)の日なんかは、地方から出稼ぎに来ている人たちが郷里にクルマを土産に乗って帰るっていうんで、現金を持って買いに来る。名義変更はあとでいいって騒ぎで、夜の12時まで営業していましたよ」
こんなメルヘンチックな時代が、この国に間違いなくあった。それがJAXの前身である大協自動車の半世紀前の姿である。
1975(昭和50)年、社名を《ジヤクス・カーセールス》に改める。地方ではジヤクス・カーセックスと読み誤られたり、電話を取り継がれる際に、「ジャカスカさんからだよ……」といわれたり、エピソードは限りなくある。そして、社業の発展とともに、JAXは自動車の販売業界に不動の地位を固める。
JAXと名乗り始めて10年目、その実績は凄かった。月間平均販売台数、外車150台、国産車250台。売上高55億円。外車輸入ディーラー国内第3位。社名も《ジヤクス・カーセールス》から《ジヤクス》に変更した。業界を舞台とした活躍も一段とスピーディに、ダイナミックとなる。フィアット、アウトビアンキの総代理店、1984年のシーサイドモーターの倒産で空白となっていたランボルギーニの日本代理店に。
1986(昭和61)年、キャピタル企業から「ルノー輸入権」がJAXへ移る。
1987(昭和62)年、民族系インポーターとして初めて東証に株式を上場する。
ここまでになるために、「昆虫売りの少年」はつねに大胆に行動するだけではなく、きめこまかくアイディアを駆使して、広告宣伝に新機軸を打ち出し続けてきた。たとえば――。
中古車をショールームに堂々と展示したこと。自動車専門誌に値段入りで中古車を並べて見せるフォーマットを創りあげたことである。この広告ページを出稿したことで、松本青年、いや松本高典社長は「クルマ情報」と「カーマガジン」のあり方に、興味を持った。と、そこへ、カーマガジン側から広告料金の値上げを宣言された。
「中綴じのいわゆる週刊誌タイプのクルマ雑誌が、急速に部数を伸ばしてきたのは有難いこと。出稿側としても喜ぶべきことなんだが、1ページあたり3倍の広告料金をいわれたんじゃ堪んない。じゃ、いっそ、自分たちの手でクルマ雑誌を創って対抗しようじゃないか――。となって、環八中心に、元気のいい中古車専売の仲間に声をかけたら、ドドッと40社余りが賛同してくれた。1社100万円を出し合ってグループを結成したわけです」
みんな、若くって、威勢がよくって、まあ、ソコソコにお金も持っているから、話は早かった。かといっても、国産車中心のグループと、外車で勝負しているグループとでは、主張する狙いは共有できても、アプローチする方法論などで、お互いが譲れないものが、すぐに噴出してしまう。その調整に神経をすり減らした時期もあったが、ともかく、グループで新会社をつくった。
新雑誌創刊という『錦の御旗』は、とてつもなく魅力があった。しかし、雑誌つくりは素人。問題は編集制作をどこと提携するか、だった。販売・販路の問題もある。広告だけは自分たちで賄える。
当初、クルマ雑誌を発行しているモーターマガジン社(ホリデーオート誌)、交通タイムス社(カートップ誌)とも折衝したが、不調に終わる。結局、海陸出版という出版社を買い取り、新しくグループで「ベストカーガイド社」を設立する方向を打ち出して、総会を開くところまで漕ぎつけた。
ここでも松本社長のアイディアは、すでに動き出していた。渡米してニューヨークやカリフォルニア州のクルマ事情を視察した際に、ハワイに立ち寄り、そのころ人気絶頂だったアグネス・ラムを訪ね、彼女の愛車、カルマンギアを買い取り、創刊誌の目玉企画として読者とのオークションを用意したほどだ。
さて、ここに一枚の、少々色の褪せた写真がある。「ベストカーガイド社設立総会」の模様を捉えたショットで、1977年のカレンダーがめくられたばかりの時期のものである。
中央でマイクを前に、発言中なのが松本高典JAX社長。向かって右側で薄く目を閉じているのが、原自動車の原信雄社長、一人置いて、背中と横顔を見せているのが、西武モータース販売の藤崎眞孝社長である。左端でサングラス風のメガネをかけているのがエリートの安藤良一社長。恐らく、新雑誌旗揚げのスケジュール打ち合わせでもしているのだろうが、およそ、それらしき熱気が伝わってこないのはなぜだろう。カメラマンがプロではなく、単なる記録のためにシャッターを捺したからだろうが、この時、ほかに2枚のスナップ写真が残されているが、いずれも、出席者は腕を組み、ただ話を聞いているだけ。
そのはずだ。グループの中で、最も冷静な判断力の持ち主として人望を集めている西武モータースの藤崎社長が、真っ向から異を唱えたからである。
「世の中では、ぼくらはたかが中古車屋のオヤジの集団だよ。それが小さな出版社を買い取って、雑誌を出したところで、すぐに踏み潰されるのが関の山じゃないか。もっと、大所と組もうじゃないか。しかも、これまでクルマ雑誌とは縁のない出版社で、新雑誌開発に関心の高いところと……」
*当時の西武モータース(のちのフレックス自動車販売)藤崎眞孝社長
そんな夢のような話で、会を潰す気か! 会場のどこかで、怒号が飛ぶ。そこを捉えて、藤崎社長が強い声で言い切った。
「夢じゃない。ある!」
「それはどこだ!?」
松本社長が目配せしてきたのを確かめてから、意を決して、藤崎社長が口を開く。
「講談社だ。ルートはある。講談社がクルマ雑誌を検討しているのは事実だ。よかったら、その交渉をはじめたい」
この時の設立総会での異様な空気を、後年、お互いのジョイントが成立して、親しく交流が深まるにつれて、松本社長が明かしてくれたのである。その証として、この写真が提供されたのである。
さて、そこからの動きについては、こちらも関わってくる。それは次回に、じっくりと書き込んでみよう。