• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

正岡貞雄のブログ一覧

2012年04月30日 イイね!

花、萌ゆ。命、燃ゆ。 ~新雑誌『CEO社長情報』と『ベストカー創刊前夜』~

花、萌ゆ。命、燃ゆ。 ~新雑誌『CEO社長情報』と『ベストカー創刊前夜』~ ことしもまた、アメリカ花ミズキが、わがマンションのアプローチで嬉しい季節の到来をつげるべく、薄紅色に微笑んでいる。それに呼応して、タイルを敷き詰めた上り階段の中央花壇が、ヤマツツジで真赤に染まる。花、萌ゆ――か。そうだ、この連休中に秩父・羊山公園の芝桜を見に行かなくっちゃ。


 うんと若かったころ、好きな季節は?と訊かれると、冬だね、と気障に答えたものだ。九州育ち、白い雪に憧れた。それがいまでは、春、と素直に答えてしまう。花々が芽吹き、そして満開になり、やがて散る。そんな命の営みを感じて、その季節が好きになった。年をとる、とは、そういうものらしい。それは、花だけではない、命を燃やしてひたむきに目ざすものに取り組む若者の姿に接すると、つい、こちらも、なにか力を貸すことはないか、と声をかけたくなる。いや、余計なことは言わないで、じっと見つめることが多くなった。

 この連休に入る直前、有峰書店新社社長の田中潤さんから、こんな会員制の定期購読誌ができましたから、と渡されたのが『CEO 社長情報』というオールカラー、A4変形判・中綴じの隔月刊誌(92ページ。発行=株式会社ブイネット・ジャパン)。なんでも編集責任者は1990年代のバブル崩壊期に編集長として「週刊ダイヤモンド」をもりあげた松室哲生さんだときく。どんな雑誌を立ち上げたのか、大いに食欲をそそられた。



 その創刊のあいさつで「日本の国を憂いています」と題して、松室さんはこう切り出す。
「それは、日本の経済が低迷しているとか、グローバル化の波に抗しきれず企業の海外逃避がおこっているというようなことを言っているのではありません。
 まず、この国の基幹となるべき政治の指導力が弱く、リーダーが不在であること。そしてこの国の構造が既得権益に守られて、なかなか新しい構造に転換できないことを憂いているのです」
 イノベーションのジレンマという言葉がある。優れた特色を持つ製品を開発し販売する企業が、その製品の改良のみにとらわれ、市場の新たな需要に目が届かず、その間に別の新たな特色を持つ新興企業の製品が現れ、力を失っていくことを表した言葉だ。
読み手がここで「うん!? それはあの大企業のことかな」と、考えをめぐらす仕組みだ。で、ズバリと斬りこむ。

「今まさに、そのような状況が世界のあちこちで現出しています。多くの既成概念がほころび、替わって新しい力が勃興してきています。では、日本の状況はどうでしょうか。現状はまだまだです。しかし、日本にも潜在的な力があります。世界に通じる技術や卓越したサービスを生み出しているのは大きな企業ではなく、むしろ新しい勢力です」
 それこそが、中堅・中小企業の秘めた力だ、と力点を明らかにする。
 このような時期だから必要なのは、大きな行動を生むための行動だと明快にアジテートする。経営者がお互い同士を認め合い、一つ一つは小さい力であっても結束して新たな波を作り出していく。そのために本誌は役に立ちたい。単なる情報提供をするつもりはない。私たち自身がうねりを作り出す原動力になろうと考えている。経営者の交流会も頻繁に行う。ぜひ気概のある経営者の方々に、この創刊誌を情報のみならず、あらゆるものの交流を促すプラットフォームとして活用していただきたい、と。

 早速、特集をよむ。『恐るべき20代経営者』と題して、15名の経営者をピックアップし、一人一人から面接取材をしている。とにかく若々しい、力のあるページに、久しぶりに出会った、というのが率直な感想だ。草食系男子ばっかりと酷評されている世代から、こうした質の高い、意欲のある「経営者」が輩出してくれるのなら、この先、この国も捨てたものではない、と思わされてしまう特集である。具体例を一つ、二つ。

 松室編集長が直接取材し執筆している項から、紹介すると――。
① どんなものでもネットで売ってしまう脅威の販売代理店
高成長の秘密は「意外なツール」
――その日、大学を出たての男は今か今かと電話とにらめっこしていた。福井県内で会社を立ち上げたものの、半年たっても商売がうまくいくメドは全く立っていなかった。インターネットの電話回線を販売していたのだが、すでに市場は飽和状態。新規参入しても売れない。悪いことは重なるもので、豪雪に見舞われ、営業にでかけることすら不可能になっていた。
 男は一縷(いちる)の望みをかけて、インターネットで売ることを決意。自分でホームページを作り、電話番号まで掲載していたのだ。そのホームページが完成して、お客からの電話を待っていた。
 そこに、突然電話が鳴った。しばらくすると、その電話の数はどんどん増えていった。
 男の名前は岩井宏太。29歳。株式会社ALL CONNECTの社長。業種はネットの販売代理業である。ネットの販売代理業というと、どんな商売をイメージするか。そのイメージはともかく、この分野で急成長しているのが同社である。4年前には売上高3億5000万円だったのに対し、昨年度は約27億円。それも震災の影響を被っての数字である。利益も億を超え、今期の予想は40億円という。

 以下、松室レポートは3ページにわたって、この岩井社長の年商予想40億円までの足取りと、その企業戦略を取り上げる。それにしても耳慣れないのがネットの販売代理業。それは何か。まあ、その辺の説明がこうした「起業もの」のキモだから、丁寧な取材で書き上げている。もう一つ、いこうか。

 
*左が岩井宏太、右が前川輝行の両若手社長。丸囲みの数字が年齢

② 大学入学と同時に企業、車パーツの通販を軸に展開し目標は「自分で経営する会社を100社つくる」
――前川エンタープライズは、早くも今年で9年目を迎える。その代表取締役・前川輝行(27歳)。祖父は不動産、製材、アパート経営と手広く事業を手がけ、父は梅ケ島温泉(静岡市)で旅館を経営。幼いころから、当然のように経営者になることを決めていたという。地元の高校を卒業と同時に有限会社前川エンタープライズを立ち上げる。車のドレスアップ用パーツのネット通販。立命館大学経済学部に籍を置きながら、1年目にして1000万円を売り上げた、という。資本金は父親に借りた。3倍にして返す約束を、1年のうちに果たした。もちろん、失敗もある。3000万円を入れたのに、納品されず、連絡もつかなくなったこともある。そんな時も落ち込んでもしょうがない、じゃあ稼ごう、と切り替えた。

 株式会社にしてからは、製品を仕入れて売るだけではなく、以前からやりたかった完全オリジナル商品に乗り出す。これまでどこにも売っていなかったオリジナルのステンレス製ウィンドウピラーを企画し海外生産。これがドレスアップ愛好家にヒットし、2008年3億、2009年4億、2010年5億と売り上げを伸ばした。経常利益は4割。「フリーダムリジョン」というブランドも定着した。

 いまでは、前川グループには別会社として五つの法人がある。ノーブランドのパーツのインターネット通販会社、売り上げの1割に貢献するカスタム加工を含めての中古車販売、現在は月商100万~200万円の女性向けオラオラ系(黒と悪をテーマにしたちょい悪ファッション)中心のアパレルブランドの展開など、さらなる多角化に取り組んでいる、という。幼いころからの車好きで、かつては1台の車のドレスアップに2000万円かけたこともあるという前川。マニアの心も知り尽くした”好き“と、野心と血統の融合が、現在の成功をもたらしているのかもしれない――と、ほめ過ぎのきらいはあるが、単なる『金儲け見本帖』に終わらない仕組みを、この創刊誌は用意をしているのが、新しい。
 創刊記念イベントとして、この特集に登場した「恐るべき20代経営者」も参加する『東京・ベンチャー飲み』会を200人限定で開催することだろう。

 この創刊誌については、下記のURLから購入申し込みができるので、どうぞ。

  http://arimine.com/ceo.html

 ともかく、この熱気のある新しさに惹かれた。3年経って、ここに取り上げられた15人の若者の中から、あの孫正義や、三木谷浩史に肩を並べるような経営者が育っているのか、それとも……。
 そうやって想いをめぐらしていると、ぼくのなかで、1977年当時の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。『ベストカーガイド』を創刊する前夜の状況であった。

 クルマをメディアにして大衆のこころを掴む「カーマガジン」の創刊を、講談社経営幹部に提案したところ、編集担当専務に呼ばれて、名刺を渡された。
「この人たちが、新しいクルマ雑誌を構想しているなら、相談に乗りたい、といっている。直ぐに連絡をとりたまえ」

 環八通りを中心とした首都圏の中古車専売ディーラーで結成している「A=1グループ」の主力メンバーの社長たちだった。「JAXカーセールス」「西武モータース販売」「原自動車」……当時、売り出し中の若き起業家として、ぼくも、その存在だけは知っていた面々である。早速、コンタクトしたところ、彼らが常用しているホテルニューオータニの「ゴールデンスパ」を指定され、単身、赴くことになった。会ってみて、驚いた。3人とも、まだピカピカの30歳台。こちらだって、41歳になったばかりだが。

「グループ40社で毎号1000万円の広告出稿を約束しよう。読者から信頼されるクルマ専門誌を創って欲しい」

 彼らの言葉は熱かった。この目の輝きはどこから来るのか。もっと話を煮詰めるには、彼らとつき合ってみよう。こうして始まった新しい日々。


*中央が若き日の松本高典社長。右が女優の風吹ジュン、左がニコ・二コル選手。

 35年が経った。今、環八通りに立ってみると、どうだ。グループを推進した3人の経営者のうち、健在なのはJAXの松本高典さんのみ。藤崎、原の両氏ともすでに彼岸に旅立たれていた。そして、ひところ環八の雄とまで謳われたJAXの社屋はAUDIジャパンとなり、松本社長も引退、跡を継いだご子息が瀬田の交差点近くで「J-AUTO」というメルセデス・ベンツの専門店をやっていると聞く。

 その興亡のストーリーに取り組むには、まず、どなたと逢えばいいのだろう。やっぱり、松本さんかな。いや、チェッカーの兼子眞さんがいる。かつて筑波で一緒に耐久レースに挑んだ仲じゃないか。

 兼子さんと、用賀インターと環八が交わる地点にある「木曽路」で待ち合わせることになった。『環八水滸伝』と名付ける新シリーズ、ご期待あれ。

 
Posted at 2012/04/30 12:48:54 | コメント(3) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年03月20日 イイね!

春近し 初めての外国車と蕗(ふき)の薹(とう)

春近し 初めての外国車と蕗(ふき)の薹(とう) 春の匂いを嗅ぎに、秩父までひとっ走りしてきた。もう蝋梅は盛りを過ぎていたが、風布というみかん栽培北限の山里では生き残っていた。黄色の花びらが早春の陽射しに目を細め、クンと鼻をつく、吐息のような香りを山あいの道に振り撒いていた。目を道ばたに落とすと、おお、ポッコリと蕗の薹が、土の中から頭をもたげている。まさに、春近し、だった。
秩父の街の手前で、皆野町から野巻に入り、破風山と札立峠をめざして、再び山側のワインディング路を行けるところまで、駆けのぼった。桜ヶ谷耕地で行き止まった。そこからの武甲山の姿。ちょこんと雪をかぶって、妙に可愛いじゃないか。


*風布の山里。蝋梅は散らずにまっていてくれた。

*桜ケ谷耕地からの武甲の眺めは、新鮮だった。

「秩父」と「蕗の薹」がコラボしたことで、一つの記憶が蘇ってきた。初めて所有した外国車、アウディ80との日々である。
        *      *
 ツィンキャブのカローラSLクーペを皮切りに、スカイラインGC10を45年、 47年、49年のそれぞれの年式を3台、自慢気に乗り継いだところで、自動車雑誌の創刊責任者になった。昭和52年の春だった。オイルショック、排ガス規制のダブルパンチで青息吐息のわが国の自動車業界。49年式のスカイラインGTも名ばかりのなんとやらで、アクセルをいくら踏んでも坂道の途中でシフトダウンを求めてきたものだ。だからといって誰が悪いわけでもないし、そんなものだと諦めかけていた。

「だったら、まだ排ガス規制の適応からはずされている外国車になさいよ。そうしよう。ぼくが選んであげよう!」

 やっと徳大寺有恒のペンネームが定着しかかっていた杉江博愛さんが、ぼくのぼやきに反応してくれた。

1ヶ月後、AT/右ハンドル仕様の淡いブルーのアウディ80が手元に届けられた。早速、そのころお気にいりだったひとに連絡をいれ、関越自動車道をひたすら北へ……。本来、左側にセツトされていたものを、無理矢理、右側に移植したペダルの位置には驚かされた。


*唯一手元に残っていたアウディ80の姿。後ろが徳大寺さんの280ベンツ

 咄嗟にブレーキぺダルを踏んだつもりが、つい真ん中寄りにあるアクセルペダルに右足が当ってしまう。おっと!という危ないシーンを何回が演じるうちに、こちらも慣れてくる。

 そうなれば、しめたもの。1.6リッターとは信じられないご機嫌な脚力に魅せられて、まだそのころは東松山までだった関越を降りてからも、東京へ引き返す気になれない。ステアリングを軽く切り気味にしてからアクセルをポンと放してやると、ひょいとインに巻きこむ不思議な挙動……これがFF車特有のタックインというやつだな!それに4本のタイヤがしっかり路面を抑え込んだこの安定感は、いったいどこからくるのだろう?運転席からのこの見通しのよさ!

 どうしてこんなにも国産車と次元が異るのか。目を洗われるとは、このことか。東秩父の岨道を駆けあがりながら、2万キロをすでに走破していて、160万円で届けられた、もうけっして新しくはないアウディ80の虜となることを、自ら志願してしまった。

 ブレーキパッドだけは頻繁にとり替えた。電気系のトラブルにも何回か見舞われた。それでもひどく満足していた。3年目に別れがきた。BMW3シリーズの新しい6気筒ものを購う羽目になったからだ。創刊した自動車誌も軌道にのった。ぼくにしては珍しく、スタッフに3日間の休暇を乞うた。このままアウディ80とすんなり別れるには、思い入れが深くなりすぎていた。

  クルマって、つくづく不思議な存在だと思う。そんなぼくの気配を察してだろうか、しきりとグズリはじめていた。よし、あんたをどこかへ連れてってあげよう。そう心に決めた途端にエンジンの噴けが蘇り、軽やかにハミクングするんだもの。

  あれは4月の初旬だった。桜前線もまだその北国には届いていなかったものの、そこここに春の気配が息づきはじめていた。蕗の薹がもっこりと、名もない川べで頭を擡げていた。山形から13号線を秋田方向へ上り、雄勝町で右折、仙秋サンラインを目指した。その季節は、まだ雪に閉ざされて鳴子へは抜けられない。それは承知していた。秋の宮温泉郷を通過。と、ぽっかりと山峽をきり拓いて、信じられないほど本格的な造りの温泉ホテルが…‥。稲住温泉だった。だれに教わったのか記憶にない。が、ともかくそこへ孤りで立ち寄りたかった。それでアウディ80との交わりに終止符をうつ。なぜかそうしたかった。

  つぎの朝、目覚めると、あたりは白い景色に様変りしていた。帰りは下りのワインディング。雪の道がうねる。別れにふさわしい舞台づくりに、ぼくとアウディ80が有頂天になったのを、なぜいまごろになって、鮮やかに想い起こしたのだろうか。


*試乗したB4アウディ80 Photo By C.Kitabatake


*定峰峠の杉林をオブジェにして Photo By C.Kitabatake

 思い出した。それから10年がたって、B4とよばれる新しいアウディ80が登場し、その試乗記をまとめるためにと3日間、一緒に暮らしてみた。
新しいアウディ80は大胆にいえば、そのクルマとしての本質を、なにひとつ変えていなかった。もちろんエンジンからサスペンションまで、何回かのモデルチェンジシを経て、当然進化している。しかし、ドアを開き、ドライバーズシートに座ろうとした瞬間に嗅ぎとった匂い、そして懐かしいエンジン音とか、10年前の馴れ親しんだ記憶が、ただちに蘇ってくるのを、凄いと思ったのだ。

そしてもうひとつ。あの、アウディ80を買い求めた環状八号線の店・JAXと、そこの社長であった松本高典さんのことが思い出された。そうだ、ベストカー創刊を一緒に推進してきた「環八」のヒーローたちはいま、どうしているのだろうか?

次回から、「環八水滸伝」を、もうそろそろスタートさせてもよさそうだな。
Posted at 2012/03/20 23:50:22 | コメント(2) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2011年12月23日 イイね!

愛が扉をたたく ~「独占スクープ」のご褒美で再びヨーロッパへ~

愛が扉をたたく ~「独占スクープ」のご褒美で再びヨーロッパへ~   前回にお約束したように、ただただ、クルマ好きというだけの一雑誌編集者が、1970年に、なぜ身分保相応な「気ままなドライブひとり旅」ができたのか、その辺の説明からはじめよう。

 赤いフィアットで「太陽の道」を疾ったときのぼくは、青春後期の34歳。女性週刊誌花盛りの時代で、光文社の「女性自身」、小学館の「女性セブン」、講談社の「ヤングレディ」の3誌が週に70万部前後の発行部数で鎬を削っていた。(失礼ながら最老舗の「週刊女性」はランク下だった)その中の一つ、芸能種に強いところから「ギャングレディ」と、タレントに怖れられていた「ヤングレディ」の副編集長をやらされていた。

 その当時の講談社という出版社は、若い社員をどんどん海外に送り出していた。4代目の野間省一社長が健在のころで、これからの出版文化に携わる者は、国際的な視野をもたなければならない――この考えをもとに、いろんな施策を打ち出した時期で、1ヶ月間の短期海外留学制度も発表されたばかりだった。どこでもいい、好きなところへいってこい! それを君達がどうやって将来の講談社に花開かせてくれるか、楽しみにしているからね。そうおっしゃった野間社長の温かい声が、今も耳元に残っている。

 前の年(1969年)、最初に選抜された同世代の社員がそれぞれの国へ向かって旅立って行った。業績のいい、太い幹の部署がまず優先された。先を越された、と思った。それでも二年目に指名を受けたのは、女性週刊誌という部署を考えると、幸運そのものだった。ヨーロッパへいこう! 無条件に決めた。前年の経験者、川鍋孝文君(「日刊ゲンダイ」の創始者)に一応は相談したが、例えばパリに行って何を勉強してくるのか、具体的な煮詰めもしないで、ともかく文化先進国であるヨーロッパの出版社を歴訪してこよう、それも女性誌を中心に、と決めてしまった。今では、この国の夕刊紙を代表するメディアの社長(今は会長)として、確固たる世界を創りあげた川鍋君も、ロンドンで「サンデイ」という夕刊紙にとりつかれたのが、そもそもの始まりだった。

 そんなわけで、5月の21日にJAL機で羽田を発ち、パリを目指した(成田国際空港は1978年から)。パリからはミュンヘン、ハンブルグ、コペンハーゲン、ストックホルムの各都市にある出版社・雑誌社を訪ね、そこで5日間の休暇をとって北欧から空路、ローマへ飛び、さらにフィレンツェからレンタカーでニース入り。で、残りの1週間を再びパリで、という段取りだった。

 それにしても、異国でレンタカーを使うという発想は、当時としては、相当に無鉄砲であったらしい。帰国して「出張旅費精算」を提出したところ、さっそく経理部長と人事課長の呼び出しを受けた。
「もし、外国で事故でも起こしでもしたら、どういうことになるか、考えなかったのか」
「はい。なにしろ、各国の出版社を回って雑誌類を集めて来ました。それが20キロ以上に増えてしまって、重くって……」
 そんな言い訳が通るわけはなかった。厳重注意を受け、以降、海外出張で社員が運転するレンタカ―の使用は、講談社では全面禁止とあいなった。
 日を置かず、再び、人事課長から呼び出しを受けた。今度は、新しい辞令が待っていた。「ヤングレディ編集次長とする」と。ワンランクUPの昇進だった。


*デザインも絵も石坂浩二さん。1971年5月14日発行(講談社刊)


*石坂浩二が本名の「武藤兵吉」として、素直な慕情を絵筆に託した絵と詩である。

 翌年の5月、ぼくは再び、ヨーロッパに飛ぶことができた。ローマで、トレビの噴水にコインを投げ入れたご利益だったのだろうか。
 その年の3月、当時人気絶頂のタレント、石坂浩二さんから電話が入った。これからすぐに「稽古場」に来てもらえるか、と。ぼくの場合、芸能記事は専門ではない。しかし、劇団四季の代表・浅利慶太さんと懇意にしていることもあって、例えばひと頃、四季に在籍した石坂浩二さんが多彩な才能の持ち主であることに注目し、「ヤングレディ」誌上に『石坂浩二の部屋』というカラーページのコーナーを用意したのが評判をよんでいた。絵もいい。詩もいい。文章もいい。その評判連載を通じて、石坂さんと肝胆相照らすほどの仲に進展していた。彼がポルシェ914を手に入れたときにも、早速、ぼくを誘って日比谷公園を振り出しに皇居の周りをカッ飛んでくれたりもした。そういえば、彼と最初に会ったときは、フェアレディSR311に乗っていた。

 その日の石坂さんはひどく緊張していた。今夜、ある女性のお宅に「お嬢さんをください」と伺うのだけれど、同行してくれないか、と。
「どこまで?」
と、ぼくが問う。
「調布」
 と、いう答え。
「おめでとう。それはよかったね」
「はい。ありがとう。このことをもう記事にしていただいて結構です。わかっていながら書かなかった。ぼくらのことを大事にしてくれたお礼です」
 たしかに、ぼくには石坂さんが誰に心を注いでいるのか、見抜いていた。彼の描き上げる女人像が、連続ドラマで共演しているヒロインに、だんだん似てきたことから、今回は本物だぞ、と感じ取っていたのだ。


*ローマ南郊の遺跡の町、オスティア・アンティカに遊ぶ。


*紀元前4世紀ころに要塞都市として栄えていたが、廃墟となって埋もれていたのを、20世紀初頭に発掘された。

 1971年4月5日号の「ヤングレディ」の表紙に謳うタイトルは、印刷にかかるギリギリまでダミーのもので進行していた。ライバルの「女性セブン」が、石坂浩二がどこやらの女子大生と熱烈交際中、と踏みきっているのは、ある筋を通して分かっていた。
「独占スクープ、浅丘ルリ子と石坂浩二が電撃婚約!」
 これがぼくの用意したタイトルだった。もちろん、石坂さんに同行して浅丘家の門を潜ってからのレポートもそえて。
 発売と同時に、完売。世の中は大騒ぎとなった。同時発売の「女性セブン」の表紙のタイトルの一つには、墨のインクが被せてあった。こちらだっていつかはやられるだろうから、情無用の世界だ。
 いまでもワイド・ショーで活躍中の福岡翼さん(「セブン」の記者だった)あたりは、その時の屈辱を、多分記憶しているはずだ。

 5月14日、二人は東京赤坂・霊南坂教会で挙式、帝国ホテルで披露宴。ぼくも招かれた。15日、羽田からヨーロッパへ新婚旅行で飛び立った。同行したメディアが3つあった。まず「週刊明星」のカメラマン。浅丘ルリ子さんの妹さんのご主人である。そして二人の婚約報道で独走したご褒美で「ヤングレディ」のぼく。TV局はフジTV。
 コペンハーゲンのチボリ公園で遊んだ後はパリへ飛び、そこからローマへ。ぼくら「お邪魔虫」は、そこで消えて、ふたりはギリシャのエーゲ海へ……。


*ローマの中心部、ヴェネット通りでの「コーヒー・タイム」を愉しむふたり。



 さて表題を、なぜ「愛が扉をたたく」としたか。
 ドアが軽く、トントンとノックされる。「アントレ」(フランス語で、お入り)と石坂さんが応える。そんなムードで「石坂浩二の部屋」を構成して来たのを生かしたくて、ふたりの結婚を記念する1冊の本を用意した。その中にカラーグラビアを挿入したが、それを見てもらうと、あの頃の石坂さんの想いの深さは一発で読める。浅丘さんさえ受け止めてくれれば、「兵ちゃん」(石坂さんの愛称)は求婚するだろう、とぼくが確信した作品を本にして、お二人へのプレゼントとしたわけであった。ただ、残念なのは、近年、ふたりに破局が訪れたことだ。そんな二人の蜜月時代を、いまさら写真付きで紹介してどうなる、と考えないでもないが、それらの出来事を通して、いまのぼくの「それから」ができあがったのだから、失礼を顧みず、触れさせていただいた。

 その石坂さんは、たいへんなクルマ・フリークだった。「ベストカー・ガイド」が創刊されると、その記念イベントであった「愛車オークション」にも率先して参加、イエローの猛牛、ランボルギーニをもちこんでくれたり、ホィールデザイン賞の選考委員になってくれたり……。今回のブログのアイ・キャッチに使用したクラシックカーの写真は、ローマの街角で石坂君が目ざとく見つけて、あたかもぼくが乗っているような振付でシャッターをおしてくれたものだった。アルファロメオのエンブレムに似たものが見える。そして201の数字。どなたか、このクラシックカーが何者なのか、お分かりの方はいないだろうか。

(みんカラ友人「霧島」君のサポートでプジョー201と判明しました。となると、ローマの街角で、というのは記憶違いで、パリの街角に訂正しなければならない。そうだ、サンジェルマンでショッピング歩きのお供ををした時の出来事だった)

 さて、2度目のヨーロッパはそこまで。で、3度目のヨーロッパは1982年。つまり10年ものインターバルができてしまうが、その3度目のヨーロッパの旅は、ちょっと豪華なメニューが揃っている。なにしろ、ポルシェ911タルガでアウトバーンを堪能した上に、ポルシェ944でホッケンハイムのサーキット走行、最後はニュルブルクリンクでパトレーゼが優勝した第1回世界耐久選手権を観戦するのだから。乞う、ご期待、である。

Posted at 2011/12/23 03:52:27 | コメント(5) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2011年12月21日 イイね!

『太陽の道』ファーストラン ~赤いフィアットでイタリアを疾る~

『太陽の道』ファーストラン ~赤いフィアットでイタリアを疾る~ その前年の3月にデビューし、軽快な走りが評判を呼んでいたフィアット128(2ドアセダン)を、フィレンツェでレンタルして南仏ニースに向けてスタートしたのは、1970年6月3日だった。

 今の世代の若者には想像もつかないだろうが、1ドル360円、観光用に持ち出せるのは450ドル(つまり、16万2000円)までと限定されており、業務渡航で1500ドル(52万円)が限度だった。それもトラベラーズ・チェックで。だからサインの練習からはじめたものだった。そんな時代の話である。ちなみにこのときの AVISのレンタル代は3万1000リラ。日本円に換算すると4000円弱。フィレンツェのホテルの支払いが1泊で6000リラ(800円程度)だったから、かなり思い切った出費である。


*もうすぐモナコ、という地点でフィアット128の記念撮影

 FFの1.2リッター。左ハンドルなんて、もちろん初めての体験。ともかく左肩をセンターラインに合わせていけば間違いなし。その鉄則だけをひたすら守り、慣れない右手操作の4速MTに手古摺りながら、フィレンツェから、イタリア第1の港町、ジェノバ方向を目指して走り出した。ともかく、軽いクルマだな。東京ではスカイラインのGC10に乗っているのだから、それは極めて率直な印象だった。

 その日を6月3日と記憶しているのにはわけがある。ローマのダ・ビンチ空港から空路フィレンツェ入りしたのが6月2日、この国の共和国建国記念日とあって、空軍のジェット戦闘機が編隊で何度も頭の上を往復し、夜は夜で、シグノリア宮殿を縁取ったトーチの燃え盛る炎の、なんと幻想的だったことか。そして広場のカンツォーネ大会。いつの間にか、アメリカから来た青年や、地元のカップルやらと肩を組み、ジョッキにあふれるビールで乾杯。そして再び肩を組み合いラインダンス。狂熱に酔いしれて、夜の更けるのも忘れていた。

 次の日の午後、AVISのセルジオ青年が約束のウフィツイ美術館の前まで迎えに来てくれ、赤いフィアットをうけとったのだから、日付はしっかり記憶している。


*はじめてのアウトストラーダ。

 まず、マッサという町を過ぎてからアウトストラーダ・A11(自動車専用道路)に入る。サルザントからは箱根越えのようなきついカーブの連続となった。やっと周りを見る余裕が生まれた。イタリアのドライバーはスピードこそ出すが、カーブに弱いみたいだった。こちらは時速100~140キロのクルージング。

 峠の頂上から見下した、赤い屋根の家々。山蔭にへばりついていた。大都会ではないイタリアの素顔は郷愁をそそる。旅をしている実感。都会のジェノバに入るのをやめて、その手前のラバロから左へ、半島の方へ入った。サンタ・マルガリータ・リグレ。なにやら床しげな名前にひかれて……地中海に面した、小さな漁港。こんなに静かで、だれもが美しいとつぶやいてしまいそうな町。あとで知ったことだが、東リビエラのリゾート地のひとつだった。
 飛び込みで海に面したホテルに部屋をとった。ダイニングルームも海に面し、こんなに美しい夕食は初めてだ。スープの薬味。オリーブの実。鯛。そして、静かなひとりぼっちの夜。


*サンタ・マルガリータの隣の観光ポイント、ポルト・フィーノ。まったく同じ景色だ。

 6月4日の午前9時、ぼくの赤いフィアットはサンタ・マルガリータのホテルから飛びだした。まず、海岸線に添って走った。ジェノバで換金とガソリン補給(3200リラ)して、アウトストラーダで一路、「音楽祭」で有名なサンレモヘ。花のリビエラ。花々の量が思ったほどじゃない。紫色の小さな花はなんだったのだろう。トンネルのなかを120㎞/hで……。やがてストラーダから一般道路にかわって、バスが走り、家並のなかを縫っていく。インペリアの手前でヒッチハイクの青年を拾った。チェコスロバキアからだというが、あとはほとんど何も通じない。適当なところで別れる。


*花に彩られたリビエラ海岸(紺碧海岸のイタリア側をそう呼ぶ)

 
*サンレモの海


*ラ・ヴィーユ・フランシュの眠ったような町並み


*街角にはマリア像。安曇野の道祖神を連想してしまう。


*コートダジュール(紺碧海岸)の眺め。マントンの町が見える

 紺碧の海を見下しながらのドライブ。サンレモで人っけのない海岸へ出た。石ころばかり。
 もう一度、山側の高速道路へ。やがて、フランスとイタリアの国境に出た。山の中、言葉がフランス語に変わった。当り前か。フランに換金。

 ル・トゥルビェあたりで、左下にモナコらしい街が。標識もそうと教えてくれたが、そのまま通過。やがて世の中でこれほど美しくキチンとした佇まいの街があったのか、と目を疑ったほどの小さな街へ出た。ラ・ヴィユ・フランシュ。あとで知ったことだが、サルトルやピカソが愛した村で、とくにピカソはここで焼物をしたという。人膚色の壁、赤い花、鉄錆色の歩道。庭に大理石の彫刻。蔦が自慢げに絡んでいる。そのむこうに、コートダジュールが光っている!

 やっとニースに到着した。ひどい人混み。海岸線に添ったプロムナードウェイ。午後6時に近かった。ホテルの群れ.フィアットを返却するAVISがなかなか見当たらない。町中をウロウロ回ってしまった。やっとAVISで精算。260フランのオーバー。その代わり、その夜のホテルを紹介してもらった。ともかく、無傷でフィアットを返せてホッとした。


*ニースAVISのお嬢さん方と、ここでも記念撮影
*夜のニース

 ばら色の部屋で日本への手紙を何通か書く。疲れた。手持ちのお金も足りなくなった。このあと、巴里で「20歳(ヴァンタン)」誌を訪問する約束もあることだし、ニューヨーク行きを断念。パリは安宿を捜すことに決めた。

 以上が、ぼくの無鉄砲なイタリア「アウトストラーダ・デル・ソーレ(太陽の道)」ドライブ初体験記である。それから8年後に、クルマ専門誌『ベストカー・ガイド』を立ち上げることになろうとは、露知らず、ただただ、クルマ好きというだけの一雑誌編集者が、なぜこんな身分保相応な「気ままなドライブひとり旅」ができたのか。次回は、その辺を説明させていただこう。


Posted at 2011/12/21 00:19:49 | コメント(4) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「海の向こうでナ・リーグ中地区最下位のパイレーツがドジャースを3連破し予想外の異変が。一方セ・リーグは虎が「優勝マジック」4で独走、明日にも胴上げしそうな気配。サト輝が36号、近本がプロ入り7年目で1071安打を記録しミスター長嶋超えを。シーズン後半に入って状況がガラリと変わった!」
何シテル?   09/05 12:40
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

リンク・クリップ

富士のヘアピンで息絶える! ~ミラージュCUP闘走の記憶・第2幕~ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/06/08 16:07:17
新しい光が《わがクルマ情熱》を再生させた! 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2024/12/08 20:15:35
『10年前、五木さんの500SEを譲り受けたのが…』(黒澤) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2024/12/03 16:35:03

愛車一覧

トヨタ プログレ トヨタ プログレ
「NC」とは、ニュー・コンパクトカーの略と記憶している。(その後、NEO CATEGOR ...

過去のブログ

2025年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2024年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2020年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation