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正岡貞雄のブログ一覧

2011年06月30日 イイね!

ファイナルバトル(2)




●その日の「ピットレストラン」。まるで同窓会の雰囲気でした。

 3月26日のFSWは、まもなく始まる、ベストモータリング・ファイナルバトルをひかえて、ある種の緊張感に包まれ、息をひそめているようでした。ただ、ピットビル1Fに臨時開業された「べスモレストラン」だけが、いつもながらに明るく賑わっていたのです。

 置きどり撮影を終えた服部尚貴君が加わって、話が大いに盛り上がる。久しぶりに顔を合わせる「はっちゃん」(服部君の愛称)の頭髪には白いものが混じり、それが一種の貫禄を印象付けている。べスモ創刊の年にFJからF3にステップアップし、それからの付き合いだから、もう四半世紀になるわけだ。それでも、三重県四日市育ちで、実家のCDレンタル店を手伝いながらレーシングドライバーの道を目指した、あの初々しい青年の面影が失われていない。それが妙にうれしかった。

 そんな印象を伝えると、横で聴いていた土屋圭市君が早速、新しい情報をくれるのです。
「はっちゃんはもう、レーシングドライバーというより、レースのオーガナイザーだもんね」
「だから、いろいろ苦労が多いんスよ」と、はっちゃん。聞けば、『JAFグランプリ スーパーGT&フォーミュラーニッポン FUJI スプリントカップ2010』のサポートレースとして、服部君がプレス対抗4時間耐久に使っているマツダ・ロードスターをかき集め、2日間にわたって『レジェンドCUPレース』を企画したのはいいが、集まった往年のトップドライバーたちが、本気になってガンガン体当たりして、ついには怪我人まで出てしまったという。優勝者は、なんとジェフ・リースで、影山正彦、土屋、高木虎之助のスリーワイドバトルはスタンドを沸かせたといいます。

「後始末に追われていま~す。で、土屋さん、そっちの新しいプロジェクト、どうなりました?」 
見事に土屋圭市君へ話をふる。
直近の情報に疎くなったぼくには耳新しい出来事ばかりだ。どうやら、運営もマシンもモンスター化してしまった「D1グランプリ」を脱退し、ドリフト競技の原点に立ちかえって、「ドリフト・マッスル」という新しい競技カテゴリーを立ち上げた、ということのようです。

 そのプロジェクトに、本田俊也編集長も参画し、(その段階で)いったんは休刊と決まった『ホットバージョン』だけでも早々に復活させる動きにつながって行ったようです。販売元の講談社側との合意も取り付けたということでした。
 脇役として生まれた『ホットバージョン』は生きのびて、『べストモータリング』に再生のめどはたっていないのか。同席していた中谷明彦、大井貴之君らと、思わず顔を見合わせる。と、凍りかけた空気を吹き払うように、ピットのシャッターが跳ね上げられ、春の陽光がまぶしく飛び込んできた。
「さあ、行こうか!」
 思わず、昔の習性で、ぼくが号令をかけてしまった。ピットロードでポルシェ911GT2 RSのエンジンに火がいれられ、クオーンといななきはじめる。弾けるように、それぞれがヘルメットを抱いて、持ち場へとむかう。やっと、それらしい雰囲気がやってきたぞ……。浮き浮きしながら、ぼくもピットロードへ。




●タイムアタックに出撃する木下、服部の両君

 
5人のドライバーによる各車のタイムアタックがはじまった。レクサスLFA=木下隆之、NISSAN GT-R=土屋圭市、シボレーコルベットZR1=服部尚貴、ポルシェ911 GT2 RS=荒聖治、フェラーリ430 F1 RSD=田中哲也。
それにしても、と気付いたことがありました。ぼくらがワイワイと「べスモレストラン」で昼のランチを楽しんでいた時、ほかの三人のドライバーはどこで、どうしていたのだろう、と。そこでの歓談の時こそ、大事なチーム融和の秘訣だったのに……。

FSWの加藤裕明社長の表敬訪問があったりして、ピットロードから離れることができないまま、創刊24年の「べスモファイナルバトル」は本コースに面した金網の間から、見守ることとなったのです。かなうことなら、その最後のチェッカーフラッグをぼくに振らせていただきたかったが、その想いに気づいたスタッフはいなかった。



本コース上に、5台のマシンがスタートのサインを待っている。青ランプが点く。一斉に第1コーナーを目指す……その模様は、この後、4月26日に発売される「べスモ最終号」を待つほかなかった……。結果はわかっていても、ほんとに見たいのは、5車の凌ぎ合い、各ドライバーの息遣いにあるのですから。




Posted at 2011/06/30 11:22:26 | コメント(3) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2011年06月26日 イイね!

「言いだしっぺ」はだれだ!?




ここでちょっと一服、と一休みするつもりが、嬉しいことに、そう簡単には行かせてくれないようです。

「筑波バトル」の舞台裏として、「リトルマガジン」の存在と、映像からはうかがい知れない編集部、技術部の「情熱」を紹介したところ、いろんな反響を頂戴し、こんなに愛情と共感と、親しみをたっぷりいただいたメディアがほかにあったろうか、と改めて認識させられたところです。

そんななかで、かつてはぼくの片腕(本人は両腕以上の存在と自負していたに違いない)大井貴之君から、緊急メッセージが入ったので、その内容からはじめます。当然、本人の了解は得ていませんが……(笑)。

――筑波バトルの原稿に赤入れさせてもらいます(笑)。
筑波バトルの第1回は89年3月号ではありませんよ。
いま、締め切り真っ最中で正確な号を調べている時間がありませんが、最初のバトルにオレは出ていません。提案者であるにも拘わらず田部、福井どころか小林里江ちゃんまで出ていて、オレは見学。かなり不満を感じていたので間違いありません(笑)。
確かスタリオンが出ていて、……ピアッツァも居たような。
ドライバーは中谷、伏木、田部、福井(守生=ミラージュCUPドライバー)、小林(べスモの経理ながら、ミラージュ、GOLFポカール出場)……黒沢さんも出ていなかったと思いますよ。是非調べてみてください。

バトルの元祖はギャランVR4 vs レガシィの対決。
1台ずつ走らせていては尺ばかり食ってしまう上、映像としての表現力に欠ける。
月刊の『ベストモータリング』がそんなことをやっていては、隔週でアップデートされていく『ベストカー』に太刀打ちできない! どんどん結果を出していくこと。そしてそれを映像化しなければビデオである意味がない。ということで新しく登場したレガシィをライバルのギャランVR4と直接対決。
その後の企画会議で複数台数による「バトル」を提案。というか、正確には「広報車でレースすることは出来ないけど、そういった感じのことが出来ればいいんですけどねぇ」と提案。すると「やればいいじゃないか!」と正岡編集長が答えたんです。
そして最初のバトルに漕ぎ着けたわけですが、最初のウチは車載カメラを載せるのは主役のみ。
「そんなにカメラを増やしても繋がらない!」とディレクターに却下され、積んだとしても準主役まで。ああ、ベストモータリング創生期はディレクターとの戦いでもありました。
――というわけで、第1回バトルの号を探してみてください、という依頼。

大井君の発信時間は午前5時49分。で、こちらから返信したのが、午前6時57分。

(ぼくから大井へ)おはよう。随分と早起きですな。
うん。ぼくも書きながら、前にチェックした時、カタコトの日本語でしゃべれる外人さん(名前が出て来ん)、里江ちゃん、それにぼくの出たやつがあったはずだが、あれは、バトルとよべるレベルじゃなかったし、真似ごととして、ノーカウントにしてきました。

(大井からぼくへ)おはようございます。
いま、DVDの締め切りが迫っているので会社です。相変わらずな感じでw。
この件はどうしようかと思ったんですが、間違いを指摘することが第三者の目にどう感じるか……とりあえずメッセージを送ることにしました。ちょっと大人になったんですよw

そういえば正岡選手も走っていたんでしたね。たぶん外人はデーブスコットだったような。懐かしいですね

いろいろ思い出してきますね。伏木悦郎さんが「ドリフト入門」の企画を提案し、オレが黒子ドライバーを務めました。それが4月号。88年の1月末、オレがベストカーからベストモータリングに移ってすぐのロケでした。



●「ベストカー」から移籍してきて最初の仕事が撒水車の運転だった大井君


場所は筑波のジムカーナ場。ソアラとAE86が現役だった時代です。まあ、それはいいんですが、彼はドライバーとして中谷さんを妙にライバル視していましたね。、それは勝手なんですが、問題はコメント。とりあえずでも何かしゃべってくれれば編集できたんですが、完璧にしゃべろうとして延々と最初の部分を繰り返して……。(正岡註:人はそこから成長する!)

いろいろなことがありましたが、オレ的にはビデオマガジンが生まれ、そこから変化(進化)していく様を見せても良いんではないか、と。後半になるとドロドロし過ぎて書けることは少なくなってきますが、だからこそ創生期のピュアな試行錯誤はネタになると思います。

(ぼくから大井へ)今、チェックがおわりました。

伏木君が自分のブログで、書いている(ぼくのレポートに触発され、当時の反省をこめて)けど、早いクルマが一番ということで、谷田部のテスト、筑波の実戦バトルロイヤル、というかたちでやっていました。中谷がメインテスターというスタイル。
創刊して10号目の1988年9月号でした。題して「ニューカー・バトルロイヤル 無差別級王座決定戦」(筑波はウエット)。ドライバーは中谷、伏木に土屋、黒沢琢弥、それに当時F3レースに参戦していたD・スコット、田部と小林里江ちゃん。MCが田中律子。ぼくが走ったのは、もっと前の号でした。




●最初の1周目、ダンロップ下を伏木スタリオンがトップを快走。ドライバーにF3参戦中のD・スコットの顔が見える(BM1988年9月号より)

クルマはカペラ・アンフィ二に中谷。ドリドリがスカイラインGT-S。琢弥がシルビアK’s。これを再生してみると、一応バトル形式だが、あれは模擬レース。これでは意図は悪くないが、(ベストカーの企画と大差ないと反省したよね)およそ緊張感に欠ける。そして練りなおして「筑波バトル」に進化していったのかな。
つまり、それからの伏木君には企画ものに専念してもらい、「走りの企画」はきみがリーダーシップを発揮して行く。そんな経過ではなかったかな。もうちょっと精査して、この後に生かします。ともあれ、べスモ消滅でガッカリしている全国の仲間に、新しい元気を送りましょうよ。この号が、ぼくにはとって、記憶にないのはそれなりの理由があった。

それよりも89年新年号でやった《宿命の対決》。土屋と中谷がエビスサーキットでやった真剣勝負。これを筑波でやったら、とそのとき、膝を叩いたことの方が、大事でした。特に土屋くんの気迫あふれるドライビングとしゃべりの絶妙さ。失敗したら、ヘルメットの上からポリポリと掻いてみせるユーモラスなセンス。車載カメラあってこその、新しい魅力がそこにあるじゃありませんか。

いま、改めて1989年3月号をチェックしていました。この月にフェアレディ MX-5、NSXが登場。そこから、スポーティカーブームにターボがかかってきたんだね。なお、きみが「バトル」の元祖として指名したギャランVR4 vs レガシィの対決の号は、その次の号、1989年4月号でした。

さて、もう一人。べスモの「バトル」企画についての発言者がいました。中谷明彦君です。
べスモの休刊が公になり、べスモBLOGで「思い出」を募ったところ、中谷君が寄稿してくれました。

――ベストモータリングの創刊を準備されていた初代編集長の正岡さんからお話をいただいた時に、ついに待望の媒体ができる!と胸が躍った。
それ以前に僕はカートップ誌の編集部員として筑波サーキットで市販車の比較テストをする時にレース形式で競いその行方をレポートする「CTグランプリ」なる企画を手がけていたのだけど、写真と記事だけでは伝えきれない事象がたくさんあって動画媒体でなければ事実を正確に表現できない、と考えていたからだ。
ベストモータリングでは「バトル」という名でその願いは実践され多くの真実を伝えることができた。
しかし後年、映像媒体の持つ危険因子である「編集」や脚色、脚本による「情報操作」が生まれ娯楽性は高まったと思うけど真実を正確に映し出せなくなってきていたことに大きな不満を抱いた。そんなことを僕の好きなファミレス(^^;でベスモ編集部スタッフと7時間も論じたこともあった。
僕は妥協も迎合もしないことを理念としてベスモを去った。正岡さんからは「将来レースを引退したら貴方が編集長をやればいいんだよ」と言葉をいただいていたが、そのベスモがなくなってしまうのでそれも叶わなくなってしまったね。
でもここに寄せられている読者の皆さんの言葉を見ていると、やはり動画で事実を伝えることの必要性もまた強く感じている。

そして、その結びとして、中谷君はこう書いています。
 
結局、ベスモ休刊を知らせてくれたのは田部君だけだった。最後のロケを見に行ったけど、帰りに正岡さんが「こんなベスモなら無くなって当然。毎月見てくれていた読者に申し訳なかった」と言われたのが象徴的だったね。

どうやら、「ファイナルバトル」について、ぼくの真意を書かざるを得なくなったのです。当ブログを引き受けたのも、そのつもりが出来ていたからです。

「筑波バトルの言いだしっぺ」については、前からぼくはこう明らかにしています。
「筑波バトル」の起源について、当時のかかわった人には、それぞれの思い入れがあって、それが自分の提案から生まれた、と言いたい気持ちはよくわかります。創刊時のふたりの専属キャスター、伏木悦郎、中谷明彦の両君は、当然、提案者になりうる立場にいたわけです。が、取り組んでみて、それをシステム化し、進化させ、それらしい形に育て上げたのは、誰でもない、当時、べスモを何とか「クルマメディア」の盟主にしたいと燃えに燃えていた、編集部、技術部の連中です、と。
Posted at 2011/06/26 15:17:19 | コメント(4) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
2011年06月24日 イイね!

ユーノスレース・プレス対抗第1回 in FISCO






●ルマン方式ではじまったユーノス4時間耐久プレス対抗。歴史を重ねてもう20回を数えたのか。前回の優勝でゼッケン①を貰った第2回目、べスモ親孝行ユーノスのスタートを連続ショット(BM91年3月号より)

ここでちょっと一服、とまいりましょうか。

みんカラ SPECIAL BLOG』の顔ぶれを見て、これは「お仲間入り」のご挨拶をしておかなきゃ、と、ちょっと背筋を伸ばしてから、4人のメンバーに「コメント」を入れたのです。それぞれ、かつてご一緒に仕事をしたり、レースで鎬(しのぎ)を削りあった間柄です。

まず、ベストモータリング創刊時に、専属キャスターとして参画してもらった伏木悦郎さんは「孤立を恐れず、孤高に陥らず  からだとクルマ」とある。で、――大変ご無沙汰。相変わらず、言ってることも、やってることも骨太で、羨ましいくらいすっきりしています――と、正直な感想を伝えたのです。

ちょっと間をおいて、「かつては若かった僕も来年還暦を迎えます。ということは正岡さんは……まだまだですね(笑)」という嬉しいレスポンスがありました。そして締めくくる。
「これからは若い人が頼りの時代です。頑固にしかし聞く耳を持って‥‥これで行こうと思います」と。
それから日を置かず、6月20日付のブログに『やっとです』というタイトルで、1980年代からのご自分の活動を顧みた、何度も読み返したくなる一文を書きこまれていました。何が、いまの彼のテーマなのか、判るものがあります。近くゆっくり会いたいものです。清水和夫さんとは、すぐに「ホットライン」が開通。こんどゆっくりネ、と。

吉田匠さんは「CG編集部時代」からの顔見知り。『男は黙ってスポーツカー』か。男のダンディズムが、ちっとも衰えていないぞ。なぜ、仲間入りする気になったかを説明した後で、こう付けたしたのです。
「お仲間入りしました。ひょいと思い出しました。夕闇の迫ったFISCOのプレス対抗ユーノスレース。Bコーナーで匠さんにくっついたと思ってアクセルを踏んだら、出口でクルリ」

●丁寧な返信があった。

――正岡さんがメンバー入りすることで、僕がスペシャルブログの最年長ライターではなくなるので、なんとなくひと安心であります。(笑)ところでここにお書きのFISCOのユーノスレース、プレス対抗の第一回、メディアチームではなく、ジャーナリストの個人参戦イベントの話でしょうか? だとしたらあのときのFISCOはヘビーレインで、僕は序盤けっこういいポジションを走っていて、こりゃあ巧くいけば表彰台も夢じゃないなどと不埒な邪念を想い浮かべたら、その途端にめったにスピンしない僕が100Rでクルリと回り、順位を大きく落としてしまったレースですね。たしかあれはロードスターがデビューした1989年のことですから、もう22年も前の話なんですね。正岡さんのコメントのおかげで懐かしいことを思い出させてもらいました――


それはよかった。実は匠さんに見せたい1989年7月9日に撮影された「貴重な写真」を、ぼくは秘蔵しているんです。
その夕闇せまる、ヘビーレインの第1コーナーに飛び込んだユーノス軍団。先頭を行くのが同じゼッケン⑤、CGの熊倉さん。匠さんの白いマシン⑲が3番手。5番手が⑦の佐藤久実さん、その背後にいる⑥のぼくが7番手でした。



その年の暮れに正式のメディア対抗耐久4時間レースが筑波サーキットでスタートし、その優勝チームが「ベストモータリング」でした。大井貴之、田部靖彦に、編集長クラスが必ずはしること、という条件がついて、ぼくが狩り出されたのです。第2回目は2位。「業界最速軍団」の異名もその時、頂戴したのかな。
 
このモノクロの写真は「レースの鉄人」として、近年、すっかりレースファンに知られる存在となった安川肇さんから贈られたもので、写真を見せられるまで、ぼくもこの「個人戦」のことは失念していました。

そのユーノス・プレス対抗も20回を数え、出場チームの顔ぶれも、随分かわってきたことでしょう。ことしは是非、出場は無理だが、ピットを渡り歩いたり、スタンド側から観戦したりする機会をつくりたいものです。

さて、一服はここまで。気になるのは、佐藤久実さん。5月11日を最後に、更新なし。怠けては、駄目ですぞ。あのとき、あなたは何位でフィニッシュしたんだっけ。


 
Posted at 2011/06/24 01:38:15 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2011年06月21日 イイね!

ドキュメント「筑波バトル」 Part.2



 ●筑波バトルはまだか! 

 午前6時15分。朝の太陽が、第2ヘアピン奥の森から、じりじりとせり上がってきた。その左に筑波山塊の黒いシルエット。

 6時30分。外気温は2度まであがってきた。すっかり明るくなったサーキット。撮影開始まで、あと30分である。
 
 その時間ともなれば、各キャスターが顔を揃えはじめ、ピットの片隅に用意されたお握りやパン類に手を伸ばし、あれこれと談笑が弾む段取りである。

 まず、中谷明彦がGTOでやってきた。7時からの単独タイムアタックの担当だから 他の連中より30分早出である。つづいてガンさんのレジェンドが滑るように近づく。なんと助手席にジュ二アの治樹。いまや日本カート界のプリンスだ。





「オッス。こいつが従いてくるというもんだから・・・・・・琢弥はまだ?」
 ガンさん、嬉しくてしょうがない。と、噂をすればなんとやら、背後から声あり。
「ぼくなら、いるよ」
 琢ちゃんが桂伸一(コボちゃん)と連れ立って、現れた。
「おやじ、コボちゃんち、おととい、女の子が生まれたんだってよ」
「そうか、それは目出たい」
 コボちゃんも一児の父になったか。だからこの日のコボちゃん、モノすごく切れた走りを見せることになる。

「清水(和夫)さんと大井さんがまだ来ない」
 かたわらでまだ気を揉むトンコ。

「光電管セット、完了!」
 平川ディレクターのハンディ無線機が松永和仁(ホットバージョン担当)の報告を捉えた。続いて、松田昭広(営業課長・ロケ時には一スタッフに変身)の声。
「最終コーナーOKです!」

「よし! 最終打合せだ。集合!」
 これまで、それぞれの役割に応じてばらばらに稼働していた流れが、この一瞬だけ、一つにまとまる。
 レーシングスーツに着替えた中谷が、ピットロードへ移動する。




 ●第1コーナーに祈る!

 8台のマシンが、中谷の手によって次々と料理されていく。
 3LAPとはいえ、最初の1周はタイヤを暖め、マシンの状態をチェックする。で、アタックは2周めからチェッカーの出る3周終了まで。

「そりゃあ、緊張するさ。おまけにガソリンは満タン、タイヤは暖まるところまでいってないしね。一発勝負もいいところだけど、プロは泣き言はいわないよ」
 それが中谷の矜持であり、全キャスターは、だからこそ、選ばれた男なのだ。

 時計係の前田のもとに中谷が一台ずつ片付けていく度に、タイムを気にする他のキャスターが覗きにくる。
 すでに8時から開始される「筑波バトル」は、見えない火花を散らしながら、始まっていた。その模様はここでは触れないので、本篇でどうぞ。

 このキャスターたちと同様、選ばれた男のプライドに生きるグループを紹介したい。そう、与えられたポジションからバトルの一部始終をカメラに収録する、鷹の目を持つ彼ら。

「スタートから1コーナーに飛びこんでくるまでの各車の動きが勝負」
 つねに第1コーナーに陣取る小林茂雄に、スタッフは絶大な信頼を寄せている。1ヘアピンは中池護、2ヘアピン、小禄義範。最終コーナーが守屋進平。彼らの判断の善し悪しが映像化されたバトルの出来を大きく左右する。
 出来を左右する要素といえば、車載カメラと音声を担当する内藤をリーダーとするVEグループだ。

「時間との勝負です。撮影時間はきっちり限られている。二度とやり直しはきかない。太陽の光は一瞬、一瞬で変化する。ミスは絶対に許されない」

 ロケの最中は、彼の胃はいつもシクシク。同情するなら、時間をくれ。ちょっと古くなった己れの捨て台詞に、照れてみせる内藤だった。

 午前8時、シグナルタワーが仕事場と頑張る編集長がスウィッチを赤にON。睨み合うドライバーと編集長。1秒、2秒……青のスウィッチを跳ね上げる! 猛獣が一団となって1コーナーへ向かう。ドドッドッ。

「Oh,My God!」

 正岡は月に1回、確実に祈る。3月6日、午前8時10分、外気温は4度。その朝も敬虔に祈った。


「リトルマガジン」の本文はここで終ってしまいます。そして軽いジャブがくる。余白を利用して『HOT VERSION』の予告が書き込まれています。こんなふうに……。

――今回のリトルマガジン、ちょっといつもとちがうでしょ。そうなんです、これは正岡編集長が書いたんですよね~。だから漢字が多いんですね~。

「正岡は月に一回、確実に祈る。」な~んて自分で書いてるんですね~。
 大井次長はテスト車の壊しすぎで担当を外され、一ヵ月間のクルマ磨きの刑! ……ではなくって、ホットバージョンを一生懸命作っておるのでありますよ。
 というわけでホットバージョンVOL.14、ますます楽しく、タメになる、ファイト一発75分! は4月6日(今回はちょっと早い)の発売日に向けて着々とロケが進行しております。ではちょっと内容を。

 こんな仕掛けができるのは、大井貴之君のほかに、だれがいるというのでしょうか。そうした遊びのセンス。これも、近年のべスモからは薄れていた……。



この旗を振って無事終了! これだけが生き甲斐?

 ●バトルの結果、および登場車名と担当ドライバー名はクリックで拡大できます。
Posted at 2011/06/21 17:22:35 | コメント(7) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
2011年06月20日 イイね!

ドキュメント 筑波バトル part.1




 

 パッケージに内封されたリトルマガジン。本編の画像では伝えにくい、活字の特性を生かす、なかなかの手口と、お褒めをいただいた、試みでした。以下のスタッフの動きとエネルギー、脱帽ものでした。

●午前四時のモーニングコール 

 4月から入社予定の二人の新人、四十物(あいもの)達朗と小池弘晋(ひろくに)は研修という名の洗礼をうけていた。
3月5日の午前10時に文京区音羽の2&4モータリング社を出発するロケ隊の一員に加えられていたのだ。
「読者代表のつもりで行ってこいよ」
 人事担当の有吉允専務にも気軽く送り出された二人を待ち受けた現実は予想通り、甘くなかった。
 この号の担当は、ローテーションの関係で、『御老公の特訓行脚/阿讃サーキット』を田部靖彦編集次長が受け持ち、本田俊也副編集長が柱企画に専念する手筈であった。

「チーム400」のエースである本田は心優しい、貴重なシングル。声もすこぶる優しい。あえていう。けっして猫撫で声ではない。

「あなたがたの分担はまず、朝、ロケ隊が出発する前に、全部のクルマの暖機を済ませておいてください」
「わかりました! 出発は何時でしょう?」
 四十物は小池より年長だから先に質問する。
「あ、そうでしたね」
 スケジュール表をばらりと拡げる本田。
「えーと、先発隊は午前5時にホテルを出ます。ですから、それまでには……」
「わかりました! 4時に起きれば間に合いますか?」
 四十物と小池は、そのとき、まだことの奥行きがいかに深いか、気づいていなかった。

 関東平野のど真ん中。茨城県の筑波学園都市にあるホテルSUWAが、スタッフの常宿だ。因みにキャスターには筑波第一ホテルが用意されている。どちらがランク上か、なんて野暮な疑問を、少なくとも新人二人は考えなかったに違いない。が、明らかに異なる点が、ひとつだけあった。壁の厚さだった。
 
 午前4時ジャスト。枕元の電話が鳴った。1回、2回、3回。年下の小池が受話器に手を伸ばす。モーニングコールは、その部屋の分は確実に止んだ。が、まだ鳴っている。隣の部屋、そして向かいの部屋で……。まだ完全に頭まで起ききっていない四十物には、それは奇妙で、新鮮な発信音だったという。




  ●マイナス3度の闇の底で

 午前4時30分の学園都市の朝は暗闇の底で眠ってはいたが、だだっ広いホテルの駐車場のあたりだけは、一種の若々しい活気がうごめいていた。
本田から手渡されていたクルマのキーをそれぞれのフイットするキーホールに納めながら、新人二人は飛び回っていた。
身震いをはじめたクルマたち。野太いエクゾーストノート。それと一体になって、あたりに立ちこめる湯気。それが 新しい人生の第一歩を踏み出そうとする二人への歓迎のご挨拶ならいいが……。

 外気温、マイナス3度。フロントグラスは真っ白に凍っている。バケツに満たしたお湯にウェスを浸し、一台、一台の「洗顔」をしてあげるのが、次の仕事だった。

「ええ。二人の新人、とっても機敏にやってましたよ」
 こう証言するのは技術部の千絵。日頃は経理・庶務を担当しているのだが、ロケの日だけは、みずから「賄いのお姉さん」と称して、弁当の用意から、コーヒーなどの飲み物のサービスと、大活躍の27歳。

 午前5時。「お早うス」の挨拶とともに、先発組に指名されたスタッフがホテルの玄関から、三々五々、吐き出されてきた。
 東の空はまだ漆黒のままである。

 技術部のハイエースが、まず機材を満載して、筑波サーキットへむけてスタート。前夜のうちに車載カメラの取りつけを終えた、テストカーたちも列を整えてから、ゆったりと20キロほど北に位置するサーキットをめざして、発進していく。本隊の出発は30分後。

 同じその時刻、専属キャスターの大御所、黒沢元治は、御殿場の自宅から愛車のレジェンドを駆って、東名高速に乗り入れていた。

「土・日と鈴鹿サーキットにいたもんだから、直接、筑波に入ることにしたよ。鈴鹿? ああ、治樹と翼のカートのレースがあってね……」

 ガンさん、54歳。いま絶好調。

「自分でももそうだと思う。ペストモータリングを通して全国の読者といつも交流している。それがぼくのエネルギーの源だよ。それだけにいい加減なことはできない。スタッフみんなと力を合わせて、もっと立派なビデオマガジンに育てたいね」



  ●東の空が薔薇色に染まる時 

先発隊が筑波サーキット入りしたのは、午前5時25分。

技術部部長内藤芳実の指揮のもと、いわゆるVEさんは慌ただしくCCDカメラの調整に専念する。もうすぐ2年生になる三上明人と吉田洋之。段取りがすっかり板についてきて、動きに余裕が出てきた。

 編集部の前田真一は4月号の『GT‐R復活バトル』の担当をこなしたばかりだから、この号はロケの現場監督に徹する役割りだ。
 まず広報車のナンバープレートを取り外し ベストモータリングのロゴ入りプレートと差し替える。とてもひとりでこなしきれるものではない。新人二人が、ここでも動員される。

 ロケ手配師の藤田は、キャスターたちが間違いなく、筑波入りしてくれるか、また気を揉む。

 この筑波ロケの指揮者は、編集長の正岡貞雄ではない。田部靖彦編集次長が全ての動きを掌握し、ディレクターの平川弘喜と連携しながら、目配りをする。カメラの配置、ハイライダーの配置。撮影準備がどんどん煮詰まって行く状況に満足しながらも、どこかにミスや手落ちがないか、神経を研ぎ澄ませる。

 午前5時50分、東の空が下の方からかすかに薔薇色に染まりはじめた。気温はマイナス2度。冷気が貼りついたままだが、なにより嬉しいのは、「本日は風もなく、快晴なり!」である。

 さて、筑波バトルの実況は、次の更新でたっぷりと。
Posted at 2011/06/20 22:31:10 | コメント(2) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「チームの勝利を至上のテーマとしている大谷翔平が心配だ。ついさっき(8月13日午後1時過ぎ)の対エンゼルス戦9回表5-5の同点から翔平が右翼席に強烈なライナーを撃ち込んだ。勝負ありか。ところが腰抜けの救援陣が守り切れない。で古巣に3連敗。その上、明日は先発。エライことになりそうだ!」
何シテル?   08/13 14:22
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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新しい光が《わがクルマ情熱》を再生させた! 
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『10年前、五木さんの500SEを譲り受けたのが…』(黒澤) 
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