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正岡貞雄のブログ一覧

2011年08月31日 イイね!

事故発生現場に錯覚あり~まだ振られないチェッカーフラッグ③~


*2010年3月に徳大寺有恒さんの撮影で立ち寄ったときの「30度バンク」。子供たちの遊ぶ平和な光景です。

ここからは、中部博さんの「連載レポート」の順番に随うことにします。

――富士霊園から富士スピードウェイへむかうと、すぐに昔のメインゲートが左側に姿をあらわす。旧来のレースファンにとって、ここが馴染みの富士スピードウェイ正面玄関であったが、現在は違う。2003年からの大きな改修工事で、コース・レイアウトが変更され、メインスタンドとピットビルが新築され、いくつかの小さなコースが併設されるなど、富士スピードウェイはリニューアルされた。だが、不思議なことに、旧メインゲートは、そっくり残されていて、まるでモニュメントのようである。

その旧メインゲートを通り過ぎ、しばらく道なりに走ると、現在のメインゲートがある。かつてサブゲートと呼ばれた裏門があった場所ではないか。きれいさっぱりと大工事を受け、風景がかわってしまい判断がつかない。ここには昔の富士スピードウェイがひとつも残されていない。まるで新しいサーキットが建設されたかのような印象。あのFISCOがたたえていた殺伐とした緊張感といいたくなるような空気はどこに行ったのか、という中部さんの戸惑った様子が伝わります。


*折鶴をイメージしたグランドスタンド。背後から富士の霊峰が顔を見せると、さらに見事な構図となる。



折り鶴をイメージしたというシルエットをもつグランドスタンドにはいって、中部さんは第1コーナー寄りの観客席に腰をおろす。そして、初めてカーレースを観戦した少年時代の記憶を呼び覚ます。1968年(昭和43年)の第5回日本グランプリ。ニッサンR381の北野元が優勝したレースだった、という。それを自分の目で見た。それから39年が経って、同じグランドスタンドに腰をおろしていると、そのときの富士スピードウェイの光景は見あたらないが、あのときの興奮を思い出す。ストレートを疾走するレーシングカーの1台1台を凝視し、なんて速いのだと思った。そんなことを思い出していると富士スピードウェイのグランドスタンドのどこかに13歳の自分がいるような感覚をもった……。

そんな感傷をふるい落として、筆者の「悲惨なレース事故」の現場検証がはじまる。当ブログでは、さきに「内藤国夫の実録モータースポーツ」で、事故の概要はすでに伝えてあるので、客観的な部分は、簡略になぞることとしたい。

中部さんは、当時の唯一のカーレース専門誌であった隔週刊誌「AUTOSPORT」の7月15日号レースレポートから、その検証をスタートさせていた。当時、このレース事故がどのように伝えられてきたかを知る、重要な作業です。

「6月2日の富士で行われたGC第2戦・グラン300は、トップ・ドライバーふたりが焼死するという惨事にゆれた。事故は第2ヒートのスタート直後のスタート直後に起こり、出走した17台のうち7台がそれに巻き込まれ、4台が炎上、鈴木誠一、風戸裕両選手が死亡したのである。レースはもちろん中止。けっきょく、第1ヒート・15周レースがそのまま最終結果と決まり、高橋国光(マーチ735/BMW)がGC初制覇を成し遂げた。(観客5万6000人、車両1万6500台。正午の気温25・7度、湿度57%、気圧947mb、南の風5m、晴)」

以上がレースレポートのリード文で、そのメインカットは炎上事故の現場を望遠レンズで撮影写真だ。いっせいに第1コーナー方向を見つめるスタンドの観客がいて、そのむこうに大きな煙があがっている。ただそれだけの写真で、レーシングマシンの姿は1台もうつっていないが、どのような大事故が起きたかのかを見事に伝えたくるモノクロームの写真だ――と、中部さんは紹介した上で、実はここを伝えたかったのだ、とこちらが頷く仕掛けとなっていました。

同号はレースレポートとは別に「ドキュメント・炎上事故の一部始終」が用意されていた。当時の「AUTOSPORT」はジャーナリズム志向が濃厚だった(正岡註:その時の編集長が、ガンさんとぼくらを結び付けてくれた功労者の故・久保正明さん)。記者が 現場で知りえたネタをストレートに展開するところがあったにもかかわらず、このときの事故原因の報道については、きわめて慎重な姿勢をとっていた、と中部さんは指摘し、それは事故死したふたりのドライバーの尊厳を守ろうとしているからだろう、と筆をすすめる。
したがって事故の経緯についての報道に「関係者、目撃者の話を総合して推理すると」という注釈をつける。そして「AUTOSPORT」はこう書いた、と忠実に書き写す。多分、当時の事故状況の認識は、この内容が唯一、信じられるものだったろう。


*「レーシングオン」2007年11月号該当記事で紹介された「AUTOSPORT」誌

ローリング2周、グリーン・フラッグが出て本スタートを切った。まず⑧高橋が飛び出す。うしろに黒沢がすばやくつき、その左横に北野、やや遅れて高原、左斜後に風戸という布陣がしかれた。鈴木はかなり後方だ。そして黒沢と北野の接触がはじまる。7番ポスト(500m地点)まで3~4回当たり、そこで北野はグリーンに落ちてバランスをくずし、中団グループに突っ込む。下の写真でもわかるだろうが、北野が風戸、鈴木の間に割ってはいる。そして風戸(北野車の前)、鈴木、漆原車(後ろ2台)ともつれ、その右では米山と川口が接触している。
このあと、風戸はグリーンを走ってガードレールを支柱ごとなぎたおし、フェンスまでとんで炎上。いっぽうの鈴木も右(中部註:原文のままだが、誤植と思える。おそらくは「左」だろう)へ進行、風戸がなぎたおしたガードレールに突っ込み、切れた部分へ〝くしざし〟、燃えあがった。
また北野はイン側(ショートカット入口)まで漆原ともつれるように飛び込み、漆原が上に乗ったかたちでストップ。北野は漆原車のスキから脱出、漆原をコックピットから引き出したあと、火が激しく燃えあがった。そのほか、川口、高原、米山車が現地付近でストップしたが、いずれも無事だった。

 古い記事を読むだけで身の毛がよだつ。この記事にそえられた写真を見ると、炎上した4台はマシンの原型がわからないほど破壊され燃え尽きている。おそろしい事故だったというほかない。――これが中部さんの率直な想いだったろう。
その事故現場は、当時の第1コーナーにあたる30度バンク直前である。現在の富士スピードウェイのコースに、30度バンクはない。その一部が残されていて記念公園になっている。
大幅なコースレイアウトの変更をしているので、現在の第1コーナーは(閉鎖された)30度バンクよりずっと手前にあり、それはヘアピン・カーブのように小さく右にまわりこんでいる。その第1コーナーには、長いストレートを走ってきたレーシングマシンが、なんらかのトラブルでスピードを落とせなかった場合にそなえて、ランオフエリアが大きく確保されている。その先は切り通しとなっていて、下に道路がある。さらにそのさきに30度バンクが記念公園あるという構造だ。


*富士スピードウェイのリニューアルにともない、かつての30度バンクは一部が残され、
記念公園になっている。写真はバンク脇に設けられた「30度バンクメモリアルパーク」の説明版


グランドスタンドの第1コーナー寄りにいる中部さんは、その場所から、多分現在の第1コーナーと30度バンク公園のちょうど中間、つまり切り通し道路あたりが、事故現場だろうと見当をつけた上で、その場所にむかい目を閉じ、黙祷をささげる。目を閉じた目の中で33年前(執筆は2007年)の嘆きがよみがえった、という。
「なぜ、こんなひどい事故が、おきるのだろう」
第1コーナーからもうもうと上がる煙、そのイメージがどうしてもはなれない。

ここまでは、中部さんに導かれてきた、「封印された魔の30度バンク」事件のおさらいとも言うべき助走部分であり、じつは率直に告白しておきたいことがある。これまでの「内藤国夫レポート」や「黒沢元治告白」に触れながら、事故発生現場を「30度バンク」の中、というより、バンクの入口で発生したものと、ある時期まで思いこんでいたことです。
パックリと口をあけ、ドライバーを飲み込んでしまう魔界を「30度バンク」にイメージしていたのです。だから内藤さんが黒沢さんから聞き出したコメントにあった、30度バンク入り口での、1本しかないベストラインをめぐる壮絶な競り合いと、そのあとの北野車のスピンアウト、それが引き金となった凄惨な事故も、すべてが30度バンクが舞台だった、と錯覚していたのです。だから惨劇の舞台は封印されたのだ、と。

ところが違っていたのです。富士スピードウェイのフラットで、長いストレートでの出来事だった。ことが、30度バンクのたった1本しかないベストラインをめざしてのバトルだったというのなら、不可解な部分がぐっと狭められるではなかろうか。ぼくは、そう受け止め、さらに中部さんの後からついていくことにする。中部さんがまず逢いに行ったのは、レース現場に居合わせて遺体収容を手伝った人物でした。
Posted at 2011/08/31 01:15:19 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年08月28日 イイね!

天の配剤か ~まだ振られないチェッカーフラッグ②~



はて、面妖な。キツネにつままれるとはこのことでしょうか。

8月24日の昼食を、「1974.06.02 まだ振られないチェッカーフラッグ」の著者である中部博さんとご一緒しました。1カ月ほど前に、ガンさんと懇談した時と同じ、東京プリンスホテルの「和食処・清水」で、やはり同じように信州蕎麦と海鮮丼を組み合わせたランチを注文しながら……。
「こうやって、ゆっくり逢うのはいつ以来だろう?」
ぼくの方から切り出す。中部さんが柔らかい笑顔で、間を置かずにレスポンスしてくれます。
「日本カ―・オブ・ザイヤ―の選考委員会とか、鈴鹿F1観戦、その次の日のHONDA車の走行会があったころにはよく……」
「そうだった。スーパーCIVICのレース仕様車で、ご一緒にスプーンから西のストレート、シケイン、第1コーナーからS字、逆バンクを並走しましたね。イヤァ、あなた、なかなか疾かった」
「何をおっしゃる、そちらこそ」
「そうやって、お互い、モータースポーツをやったものなら感じ取れる、あの事件のもつアンタッチャブルな部分、どうしようもない宿命性、そしてジャーナリストだから看過できない悲劇の下地となる闇の部分。そこに踏み込んでいただいていたんですね」
「そこまで読みとっていただけて光栄です。あの連載が終わってもう2年以上がたって、実はまだ単行本として出してないんです。ですから、こうやって改めてぼくの仕事に注目していただけて、うれしいです」
「どうして、本が出てないのか、ちょっと不思議に思っていました」
「連載が終わって、もう3度、書き直し、それがようやく終わりになりそうです。連載は勢いでやれますが、1冊の本となると、文体が問われます。それが書き手には大変でして……」
「書き上がったんですか。それは楽しみだ。で、レースの方はまだ走ってるそうですね」
「1953年生まれの男としては、結構、頑張っていますでしょ?」
訊けば、ハイブリッドCIVICで富士スピードウェイのECOカ―レースに出場しているという。

「あ、忘れないうちに」
こういって、中部さんから宅急便に使われるボール紙の書類袋を手渡された。特にお願いして、連載第1回が掲載されている「レーシングオン」の2007年11月号の現物を、持参いただいたのでした。



このあと、たっぷりと1時間半、貴重な取材経過や重要人物の現状、残念ながら、あの事件が起こった時のこの国のモータースポーツ界はたかだか10年の歴史しかない未熟きわまる世界だったことなど、お互いの意見を交歓し、共有し、再会を約束したのです。

さて、帰宅してすぐに、お借りした「レーシングオン」の該当ページを開いてみて、わが目を疑ったのです。
表紙はTOM‘Sの重鎮ふたり、『舘と大岩』、これは国立国会図書館で、まとめて借り出したものも、そうだったような気がする。83ページ目を開く。おお、中部さんの連載第1回が始まっている。「レーシングドライバーたちの挽歌」という通しのサブタイトルがつけられている。
扉を開く想いで、左側におさまった83ページをめくります。と、予想もしないページが現れたではありませんか! うん???。

そこに現れたのは、筆者が、33年まえに起きた悲惨なカーレース事故の現場へむかっている、という書き出しではないか。

「富士スピードウェイへむかうクルマのなかで、複雑な気持ちがわいてくるのが手にとるようにわかった。その気持ちをおさえつけて、運転に集中しなければならなかった」

富士スピードウェイへの道案内看板に導かれて走っていると、急に風景がひろがり、富士霊園につきあたった。そのT字路を右にまがると富士スピードウェイだ。

広大な富士霊園には、その33年前のレース事故で死亡した若きレーシングドライバーの墓がある。筆者はその墓参りをしてから、事故現場の検証をしたほうがいいと考えていた。そして、霊園の事務所で、墓の場所をきく。亡くなったレーシングドライバーの氏名を伝えると、事務員は「ああ、レースの事故で亡くなられた方ですね」と言った。

レースの事故で死亡したということがいかに強い印象をもたらすかについては、もうひとりのレーシングドライバーの墓参りしたときにも、筆者は感じたことと述懐した後で、ひとつのレースの、ひとつの事故で、ふたりのレーシングドライバーが同時に死亡したのは、130年に及ぶカーレースの歴史で例をみない、といささか声を荒げている。

こうして筆者=中部さんは、2003年から2年近くをかけて大きな改修工事をうけた富士スピードウェイの新しいゲートをくぐるわけですが、正直言って、この書き方はオーソドックスすぎる。雑誌の連載だから、とくに若い読者のために優しくリードしたい気持ちはわかるとしても、この手法は、富士スピードウェイへ向かうレポートを書く時に一度は通ってしまう道筋なのだ。ぼくなんか、当ブログの「青春のメッカ・FISCO」の項で、似たような感情移入をしています。



その点、ぼくの手元にある「第1回」の書き出しは違う。独自に入手したものと思われるレース中継録画番組の音声テープからうかがえる、禍々しいレースのインターバルからはじまっていた。少しでも、このレース事故の予備知識さえあれば、ズバリ核心にいざなう、なんという新鮮な書き出しだろう。ぼくは唸っていたのです。だから、いっきに「運命の第2ヒート」を、中部さんと面談する前夜にアップできたのです。

それが、「レーシングオン」の現物を手にしてみると、まったく異なる内容となっている。あわてて、手元の複写コピーのものと照合してみると、富士スピードウェイへ足を運ぶくだりは、ちゃんと第5回に、そっくりそのまま、収まっているのです。

まさか、「レーシングオン」が復刻版として再構成したのだろうか。それはない。発行年月日がまったく同じなのだから。ただ、気になるのは、ほかの17回分の構成も、これと同じように、もう1種類が存在するのだろうか。

早速、中部さんに電話を入れました。ご本人も「え!?」です。

8月26日、中部さんから、「レーシングオン」の残り17冊が、宅配便でどさっと送られてきました。ただちに、こちらの複写コピーと照合。どうやら、この摩訶不思議な出来事の原因が読めてきました。

ぼくが国立国会図書館へ「レーシングオン」のバックナンバーの確認に赴いたのが、8月12日の午後4時。即日複写の受付は午後6時まで。しかも、1回の貸し出しは3冊までの決まりがあり、さらにつぎの号を閲覧するには、返却が済んでいなければならない。幸い、探していた「中部博・1974.06.02 まだ振られないチェッカーフラッグ」はすぐに貸し出し可能でしたが、これで間違いなしとわかったからには、内容を読むのはコピーしたもので十分なはず。それよりも、時間内に18冊すべての該当ページを、複写注文ができるのだろうか。まさに時間との勝負で、借りては複写指定をし、複写が終われば直ちに返却、そしてあわただしく次の注文をする。それを2時間の間に6回も繰り返したのです。最後の注文は5時57分。

そうして手元に揃った5ページ×18回=90ページ。たいへんな宝物です。ただ、1ページ1ページがバラバラなため、順番がとっちらかりやすい。で、読みながら、クリップ止めをし、整頓した記憶があります。その際、第1回と第5回がそっくり入れ違ったのに、それに気づかないぼくが、第5回分のページの記述を、書き出しの第1回分と信じ込んでしまったのか、ということです。それを実証するには、もう一度、国立国会図書館に足を運び、第1回分がどちらなのかを確認すればいいのです。

中部さんからの宅配便を受け取ったその足で、豪雨のなか、ともかく国会図書館へ。
胸を高鳴らせて、係員から手渡された「レーシングオン」2007年11月号の83ページ目を開き、さらに84ページ目を……。

勝負あり! 著者は富士スピードウェイへむかうクルマのなかにいたのです。ぼくの推測どおり、入れ替えばや物語だったのです。しかし、これは「天の配剤」ではなかろうか。単行本として推敲を重ねている著者への「天の啓示」ともいえないだろうか。倒置法を駆使したテストを、はからずも、ぼくが代行した、ということで、この騒動をおさめさせていただきます。

お騒がせして、御免!

Posted at 2011/08/28 00:58:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年08月25日 イイね!

運命の第2ヒート  ~まだ振られないチェッカーフラッグ~




紛れもなく、中部博さんはモータスポーツを正確に見据える視点をもつ、鋭いノンフィクション作家であった。
書き出しの数行で、すぐに読み手のハートを鷲づかみにしてしまいます。

――1974年の富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦のテレビ中継録画番組の音声を録音したテープは、第1ヒートを終えてインターバルにはいっている。

中部さんは独自に入手した録音テープを、丁寧に書き起こしていた。解説者は田中健二郎さん(2007年、73歳で物故)。建部建臣アナウンサーの質問にこたえて、レースの面白さを楽しく語ることで、当時から評判だった。もう一人のゲスト解説者が、のちに日産レーシングスクールの校長となった辻本征一郎さん。以下、貴重な資料なので、中部さんの了解を得て、その記述を適宜、引用して、当日の模様を、コンパクトに再現したい。

磯部 「ヒートワンの結果でグリッドに整列しております。高橋国光選手がポールポジション。以下、黒沢元治選手マーチ74S、そして北野元選手、高原敬武選手、風戸裕選手、都平健二選手、米山二郎選手、生沢徹、鈴木誠一、漆原徳光、従野孝司、長谷見昌弘、津々見友彦、以下17台のマシンが、すでにポジションについております。まもなく第2ヒート、スタートです」
軽快なBGMがフェイドアウトした。
同時録音した富士スピードウェイの場内アナウンスがいかされていて、それは「スタート3分前です」といっている。
磯部「レースクイーンの高草純子さんが、いまスタート3分前を提示しました」
コース員が吹いたであろうホイッスルの音がする。スターティング・グリッドにいる人々に退場をうながす合図のはずだ。
磯部「今日は5万6千という観衆がつめかけました富士インターナショナル・スピードウェイ。グラン300キロレース。第2ヒート。まもなくスタートが切られようとしております。さあ、健二郎さん、3分前が提示されました」
田中「はい、はい。やはりね、こういう時にはね、第1ヒートの自分のコンディション、それから成績、そういうのを検討しながら、いろいろ作戦を練ってね。やるんですけれど、こういう時が、いちばん嫌ですね」


*閉鎖される前の30度バンクへ進入を、ドライバーからの視線でとらえた連続シーン。




    (Best Motoring Racing History vol.3 「スカイライン神話Ⅰより)

場内アナウンスが「スタート2分前」を告げている。17台のマシンのエンジンにいっせいに火がはいる。クランキングして、やわらかくウォーミングアップするエキゾーストノートにまじって、勇ましいカラ吹かしがところどころに聴こえる。まさにレースのスタート直前の緊張が伝わってくる。
磯部「じーっと、こう耳を澄まそうとする表情が北野選手ですが」
田中「そうなんです。これは黒沢選手ですね。いろいろね、自分が第1ヒートで失敗した、あのスタートがね。今度はどういう具合にやるか。それをあれこれ、いろいろ考えている時期なんですよ」
磯部「さあ、1分前がでました。やはりあの、耳でエンジンの音を聴いたりね、油圧が大丈夫かとか、いろいろ、こう……」
田中「はい、はい。磯部さん、いま、国光君のヘルメットが動いていますね。右、左を見ていますね。ベテランでも落ち着かないんですよ」

スタート1分前。エンジン・ウォームアップのエキゾーストノートがたかまっている。スターとにむけてエネルギーをためこんでいる音だ。

田中「それと、今度はね、先ほどの第1ヒートで1位をとった高橋君が、第1ヒートで黒沢君がポールポジションと同じで、高橋君がようするに先導役ですね」
磯部「さあ、ローリングが始まりました」

走り出す17台のマシンのエキゾーストノートが重なって聴こえてくる。レースファンをして興奮がたかまるサウンドだ。

磯部「ローリング開始であります。(中略)第1ヒートにくらべて、タイヤのいわゆる調節をはかるというあの左右に動くのが、少ないようですね」
田中「これは我われが言ったことが通じたかどうか、知りませんけれどね、こうして気温もあがっていますからね、第1ヒートのような、あんな無茶苦茶なことをする必要はないですね」
磯部「第1ヒートで、タイヤがどのくらいもつかということは、分かってますね、もう。確認してますよね」
田中「そういうことです。磯部さん、ちょっとペースが速いね」
磯部「そうですか。ヘアピンをたちあがって行きます。ペースカー先頭に17台が連なっています。高速コーナーです。今度はわりと間隔があいていますね」
田中「そうですね」
磯部「高速コーナーから最終コーナーをたちあがってきました。ポールポジションの高橋国光が左、その右側のほうに黒沢。さあ、今度は、どうでしょうか、辻本さん。(ペースカーは)はいりそうですか、一度で」
辻本「えーと、ですね。ペースカーがたとえ入りましてもですね、競技長のグリーンフラッグがふられないかぎり、レースがはじまりませんから」
磯部「ああ、そうですね。安友競技長のフラッグはイエローのままです」
辻本「もう1周です」
田中「うーん」
磯部「隊列はわりと整っていたような感じはしたのですが、もう1周ですね」
田中「何か、競技長が念を押したいというような気持ち、だと思うんですがね」
磯部「そうですか、もう1周、ローリングであります。20周で争われます第2ヒート。第2ヒートで、もし黒沢選手が勝つようなことがありますと、黒沢選手の総合優勝ということになります。したがってポールポジションの高橋国光選手も安閑としてはいられません。Sターン・カーブです。ペースは、やはり第1ヒートに比較すると速いですね」
田中「うん、これはね、約ね、80キロぐらい速いですね」
(中略)
磯部「さあ、17台のマシンが高速コーナーに消えました。最終コーナーをたちあがってきました。ペースカーです。さあ、今度はどうでしょうか。入りそうですか。左、赤いクルマが高橋国光です。安友競技長のイエローフラッグ。ペースカーは、右のウインカーを出しました。ピットロードにそれます。安友競技長のイエローフラッグは、いまグリーンに変わりました。いま、第2ヒート、一斉にスタートです!」

全開走行を開始した17台のレーシングマシンがかなでるエキゾーストノートに、エフェクト処理がなされ、リバーブ(残響)してたかまり、やがて静かにきえていく。砂浜に大きな波がおしよせ、ブレークして広がり、やがて引いていくようなイメージだ。


*第2ヒートスタート直後。跳ね返ってきた⑥北野車が⑩風戸車と(38)鈴木車の間を通ってコースを横切るようなかたちでコースに戻ってきたのがわかる。そしてその直後、ふたりのと尊い命が奪われる炎上事故が発生した(レーシングオン2008年3月号・1974.06.02第5回より・撮影:稲田理人) 

騒然とする観客の叫び声が聴こえる。場内アナウンスの声が響いている。叫ぶようなホイッスルの音がして、クルマのクラクションが連打される。数台の救急車と消防自動車のサイレンが入り交じって聴こえる。ふたたび複数のホイッスルがヒステリックに吹かれた。尋常でない雰囲気が伝わってくる。
場内アナウンスが「第1コーナー」と言っているようだが、サイレンの音でかき消されてしまい、聴き取れない。
「かなり激しく燃えております」と場内アナウンスが聴こえた。
「救急車がただいま向かっております」と言っている。クラクション、サイレン、ホイッスルの音が洪水のように聴こえてくる。誰か男の声が「ヘアピン」と叫んでいる。

「炎上しております。第1コーナーです」と場内アナウンスが言っている。甲高いサイレンは、救急車なのか。ビービーというピットインするマシンがあることを知らせる警告音がしている。
まだレースを続けているドライバーとマシンがいるようなエキゾーストノートが数本聴こえている。「ドライバー!」と男が大声を出している。バタバタとクルマのドアが閉まる音。怒号のなかに「さがって! さがって!」と叫ぶ男の声が聴き取れた。(中略)ヘリコプターが離陸するローターの回転音が続く。

ふたたびサイレンが鳴っている。レーシングマシンがスローダウンして走っている音がした。
「火災が発生したのでしょうか。クラッシュしたのでしょうか。もうもうとした黒煙が、白い煙にかわりつつあります」と場内アナウンスが聴こえ、そのあとはピットの警告音がさわがしく、聴き取れない。そして静かになった。

●悲しみのラストシーン

アコ―スティックギターを奏でる哀しげなアルペジオ(弦を1本1本指で弾く奏法)が流れてきた。磯部アナウンサーが神妙な語り口で喋りだす。
「ご覧いただきました富士グラン300キロ。第2ヒートにおきまして、たいへん大きな事故が起きてしまいました。ただちにレースは中止となりましたが、ローラT292に乗ります大ベテランの鈴木誠一選手と、シェブロンB26に乗ります若手のホープ、風戸裕選手が亡くなりました。田中さん、辻本さん、おしい選手を失いましたね」
田中「まったく、そのとおりです。実はね、鈴木君は2日前に、どうもいまひとつ乗れないと。健さん、ぼつぼつ引退してね、若手の今後の、その指導をしたいと。それから、風戸君。昨年の第4戦で優勝し、泪を流しながら喜んでね。これから日本のレース界の第1人者に育っている最中。もうね、残念だね」(中略)「そうそう、あのね、予選の前にね、やはりね、S字が、どうしても乗れないと。田中さんね、ちょっと見てくれと言ってね。私は約2時間ぐらいみましたけれどもね。いやーっ、この次は、もっと研究しますという、あの笑顔が、いまもそこに何かあるような気がしますね」


*レーシングオン2008年3月号・連載第5回より

これまで冷静にレポートしていた中部さんが、はじめて自分の感情を顕わします。

田中健二郎の語りがいい。哀しみに負けじと、精一杯の声をあげている。それが亡くなったふたりのレーシングドライバーを心底から追悼するふるまいなのだと言いたげだ。生き残った者が、天命をおえたふたりへ最高の儀礼をもって語っている。

ここで番組そのものの音声録音は終わっているようだ。というのは、磯部アナウンサーの「おふたりのご冥福を、心からお祈り申し上げたいと思います」という追悼の言葉のあと、BGMがぷつんと切れるように終わっているからだ。はたして、これで番組が終わったのかと疑問が残る、と中部さんはこだわる。どうやら引き続き雑音のような形で、ひそかにメッセージがこめられている、と読みとったからだ。どうやら鈴木誠一の声と思われるやさしい語り口で女性ドライバーとの会話の一端らしい。そして、もう一つは若い男のインタビューが聴こえる、という。

「レースが危険だからといって、やめるとか、そいう考えは持っていません。自分の選んだ道を思いきりやるということは、素晴らしいことで、それの見返りに死があるんだけれども、、それ以上にレースは素晴らしいと思った」

 これは風戸裕の声ではないか。だとすれば、ここまで番組が続いていたことになる。追悼の場面があったのだ。それまでに撮影されていたふたりのフィルムかビデオが追悼のためにラストシーンとして使われたのだろう。


*レーシングオン2008年3月号・連載第5回より


*開幕戦で2位表彰台に立つ鈴木選手(中央)=レーシングオン2008年3月号・連載第5回より


*第2ヒート出走前の風戸裕選手。当時25歳のスタードライバーだった=レーシングオン2008年3月号・連載第5回より

録音テープを聴き終えた。聴きながら、いまさらながら、二人のレーシングドライバーのご冥福を祈らざるをえなかった。
何が起きたのかは、分かった。しかし、何がどのように起きたのか。なぜ、起きたのかは、わからなかった。

以上で、「1974.06.02 ――まだ振られないチェッカーフラグ」の第1回(『Racing on』2007年11月号所載)は終わります。もちろん、これは連載のプロローグで、ここから中部さんのレポートは本格化していきます。出場ドライバーはもとより、事故現場に居あわせたFISCOの関係者、事故の伏線となっただ1ヒートの実況録画の持ち主探索など、丹念に訪ね歩くことになりますが、その前に、ぼくは中部博さん本人と直接お逢いし、この作品に取り組むようになった経緯などもうかがっています。
連載の主要なポイントと、ご本人のコメントをない混ぜながら、さらにこちらも書き継いでまいります。そして、何がどのように起きたかが、少しずつ飲みこめてきました。

実はこの後、ぼくの資料整理の手違いから、上記の中部作品は、連載第5回のものと入れ違っていたらしいことが判明しました。キツネにつままれた、とはまさにこのことで、そのお詫びといきさつを含め、次のアップまでしばらく時間をお借りします。ご了承ください。
Posted at 2011/08/25 22:53:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年08月20日 イイね!

黒沢・北野『筑波バトル』共演秘話 


*7年ぶりの「共演」で、声をかけあうふたり


*首をちょっと右に傾げて走る独特のスタイルは間違いなくキタさんのもの

~因縁の多重事故の「それから」~
ここからは、ガンさんの「不死鳥伝説」の、芝居でいえば「第2幕」となる。

当時のニュージャーナリズムの旗手・内藤国夫さんが取り組んだ『実録モータースポーツ』は、「悪役レーサー・黒沢元治の血を吐くような6年目の告白」を引き出し、ガンさんをそこまで追い込んだ勢力と事件性を明らかにしようとしました。が、彼の仕事はそこまでで、「星野一義」「生沢徹・中嶋悟の師弟コンビ」「ルマン24時間レポート」へと取材ターゲットは移動していきます。

しかし、「ベストカーガイド」誌での「告白」を機に、ガンさんはみごとに復活の道をひた走る。先に鈴鹿サーキットでの「スーパーシビックレース」と「F2レース」が、その最初の「ガンさん劇場」の第1幕のように紹介しましたが、実はもっと重要な「プロローグ」が演出されていたことを、記憶する人は少ないでしょう。実は、「ガンさんの告白」が発表されてからわずか2カ月後の1981年3月26日、黒沢元治・北野元のふたりが、筑波サーキットで再び相まみえ、息詰まる激戦を展開していたのです。


*ふたりの「和解」を伝える活版ページ(「ベストカーガイド」81年6月号)

その該当号である「ベストカーガイド」の81年6月号は、巻頭のカラーグラビア6ページ、モノクロ6ページ、活版2Pを動員して、大特集を組んでいます。題して『ソアラに負けてたまるか! 快速自慢の国産車10台、デスマッチレース!!』。なにしろ「雨の筑波、トップに躍り出たソアラを猛追するレパード。興奮ドキュメント」を第1ヒートとし、谷田部高速周回路での計測、が第2ヒート、ダートで攻める第3ヒートまで用意した企画。この当時、映像で収録するところまでに到ってなかったのが、残念でなりません。

ちょっと、リード・コピーを紹介しましょうか。
――黒沢元治・北野元の因縁のライバルが、竹平素信・金子繁夫のラリー界の両雄が……。そして名レーサー・浅岡重輝、F3界の新鋭・岩田英嗣、ダートラの王者・鶴一郎、ラリースト・相馬和夫がパワーエリート車の名誉をかけて熱い闘いを筑波、谷田部で繰り広げる。人呼んで「ツールド筑波!!」

「ヒート1 」は2ヒート制で、まず、第1ヒートで意地の竹平、ソアラでトップに立つも、スピンで後退、満を持した浅岡レパートド、1秒51差で北野Zを押さえる。第2ヒート=岩田ソアラ、またもスピンで3位。鶴ラムダ・ターボ、黒沢レパードを0.32秒差に押さえる。


*第1ヒート=1位は浅岡レパード、2位はATながら北野Z、3位は相馬ラムダ・ターボ

*第2ヒート=1位はFLの経験もある鶴ラムダ・タ―ボ、2位が黒沢レパード、3位は岩田ソアラ

ガンさんと北野元が出場したのは筑波ステージだけで、くわえてともにハンディキャップとして「オートマティック車」を担当したため、どちらも表彰台では2位としてボディウムサイドに立つだけだった。だからグラビアに掲載された二人の表情に、勝者としての喜びの色はない。

そして二人に焦点を合わせた活版ページの記事の方が、むしろ筆が踊っている。
「黒沢も北野もスピンした。名人の腕がサビついたわけじゃない。タイトロープの連続のレース界から身を引いた二人は今、サーキットを走る真の喜びにひたっている……」

――本誌がトヨタ・ソアラや日産レパードなどを中心に国産スペシャルティカー10車による『王座決定戦!』を企画したとき、だれいうとなく「ガンさんとキタさん(北野)を呼ぼう」という声が編集部内でもちあがった。この要請にこころよく応じた“因縁の男”ふたりは、赤と青の揃いのレーシング・スーツに身をかためて、筑波サーキットに登場した、と報告者の久保正明さん(当時・編集顧問のひとり、往年のモータースポーツ誌編集長)がサラリとまとめているが、ここまで漕ぎつけるのに、その久保さんの先導で、川越街道でバイクショップも営んでいた北野さんを3度にわたって訪問し、出場を要請してやっと実現したのです。ガンさんにしても「さて北さんがウンといってくれるかな。ぼくの方には異存はありません」といってくれたものの、右から左へすんなり、ことが運んだわけではなかった。

それでも、お互いの心に深く負った傷痕も7年という歳月が風化させてしまったのだろうか。ガンさん一人を悪役に仕立てあげようとした“黒い圧力”もすでに目的を達して、いまでは知らぬ顔をきめ込み、キタさんもその組織から離れてひさしい。ふたりは、いつ握手してもおかしくない状況にあった……。

そのふたりが、ごく自然に「よお!」といって手を握りあい、スターティンググリっとについたのが、むしろぼくには奇跡に思えたのを、記憶している。
それでも、ふたりが揃うとあたりがパッと輝いてしまうのも事実だった。同じ企画で集まった他の若いレーサーやラリーストたちの間から「うわァ、凄い。サインをもらいたいな」という声も出たくらい、それは感劇的なシーンだったのです。


*日産ワークス時代のガンさんとキタさん。その二人の間から桜井真一郎さんの頭がのぞく

あの時、ともに血気さかんな33歳ふたりも、紆余曲折をへて40歳という“分別の年齢”にさしかかっている。が、いったんステアリングを握ったふたりの走りはさすがにすさまじかった。
キタさん最初に乗ったのはフェアレディ280Z。ガンさんはセリカXX。ともにオートマだったが、それを筑波のウエット路面でたくみに操る姿は、まさに「夢の対決」であった。クルマを降りたふたりは「景気はどうだい?」と、お互いの近況を静かに語り合う。その表情には、もはや過去の古傷はなかった……久保正明さんは、こうまとめながら、彼らがこのまま人知れず埋もれてしまうのを、何とか堰きとめたことへの充実感を味わっていたのではなかろうか。

実はこれまで、ふたりに和解の機会がなかったわけではない。事故から1年あまりたった1975年7月30日午前11時、東京ヒルトンホテル『銀の間』に和解のセレモニーはしつらえていたのです。
この年、ガンさんがJAFから受けたペナルティも8月いっぱいで解除となり、2日にはライセンスが帰ってくる。それなのに、北野との間に感情のシコリが残っていたのではまずい。――こう心配したグループ・オブ・スポーツ(GSS)の佐藤全弘代表が、当時自民党“青嵐会”のチャキチャキだった浜田幸一代議士を立会人として和解の場を演出したのだった。
「おふたりとも、レース界では日本を代表するスーパースターじゃないか。もう、過去の行きがかりは捨てて正々堂々とレースをやってもらいたい」
あの浜幸さんが真ん中に立って、キタさんとガンさんの腕をとった。かたちの上での握手はこうして実現した。
だがキタさんの顔面は蒼白だった、という。2輪GPライダーの片山敬済さんからの花束贈呈もあったが、キタさんはこわばった表情のまま、3日前の富士1000kmレースで高橋国光(サニー)のスピンに巻き込まれて亡くなったコース委員の葬儀に参列するため、そそくさと退席して行く。富士1000kmで、キタさんは高橋国光さんとコンビを組んでいたからでもあったわけだが、その当時はまだガンさんとの真の和解を拒ませようとする巨大なプレッシャーが、キタさんの背後にあったことも事実なのである。

――しかし“悪夢の時代”はすでに遠くなった。キタさんもあの当時から「黒沢クンと和解するのに異存はない」と意中を洩らしていた。それが、この3月26日、今度こそふたりは心の底からにっこり笑って、握手したのだろうか。

その後、キタさんは、1987年から2年間、全日本ツーリングカー選手権で星野一義のパートナーとして復活したが、レーシング・ドライバーとしてはかつての光はすでに失われていた。その点、ガンさんの復活劇の見事さは、知る人ぞ知る、です。

しかし、とぼくは立ち止まる。もう一つ、ぼくは吹っ切れないでいた。どうもこちらからの光の当て方が一方向に過ぎないのではないか、という反省であった。

そこでこの夏のさなか、改めて国立国会図書館に赴き「レーシングオン」のバックナンバーから、中部博さんが連載した「1974.06.02――まだ振られないチェッカーフラグ」を、探し出したのです。それはサブタイトルとして「レーシングドライバーたちの挽歌」が添えられていましたが、ともかく、その誠実で平明なかきっぷりに、グイグイと惹きこまれました。次回からは、その中部レポートの検証から始めます。ご期待を!
Posted at 2011/08/20 12:25:12 | コメント(7) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年08月16日 イイね!

そして、FISCOデビュー戦 ~「新・編さん」の茨の道③~


*このB110サニーには随分、お世話になったが、レース出場してみると100ccも、
周りより小さいエンジンと判明、そして成人一人分も重かった。みんなレースには素人でした!


豪雨のなか、長谷直美ちゃんとアベック挑戦して2カ月半後、三度目の「日産レーシングスクール」受講。梅雨明け宣言の出た7月11日のFISCOは暑かった。あの分厚いレーシングスーツなど、長時間、着ていられるものじゃない。おまけにヘルメットにグローブ。学生時代、ぼくは剣道をやっていた。ヘルメットをかぶるとなぜか、そのころを思い出した。
「路面はドライだけど、この暑さでタイヤがどうかな? 局長のウデだと、2分はムリかも」
当日のメカニックは、いつものマス坊にふられて、広告部のハットリ君に変更。いまだに27レビンと別れられない走り屋さんである。

「路面はドライだけど、この暑さでタイヤがどうかな? 局長のウデだと、2分はムリかも」と、イヤな予言をしてくれた。そんなことあるものか。前回は雨だから、予告どおり2分を切れなくとも許されたが、今回はそうもいかぬのよ。

第1に、タイヤを12インチの<SPフォーミュラー>に新しく履きかえたこと。つぎに、人間1人分は重いと指摘された重量を、軽量ガソリンタンクにかえて、20キロ削ったこと。第3に、フニャフニャしていたブッシュ類の交換で、機敏にするなど、だんだんとレースに関する知恵が働くようになり出したのです。


*星野一義さんとも、30年来の付き合いとなっています

さて、午前中の走行。軽く2周を終えてピットIN。プラグをレーシング用のに交換してもらう時間を利用して、星野一義選手のTSに同乗した。えびすのダートコース、筑波サーキットでも何度か横に乗せてもらっているので、いまさら腰を抜かすこともあるまいと多寡をくくっていたが、やはりホンモノは違う。横Gをうけながらの冷静かつ的確なシフトワークに加え、第1コーナーに突っこむときのブレーキングの凄さといったらない。5速9000回転の頂点から、ガガッーといっきに右足がスピードを吸いとってしまうのだ。そこから、ヒール&トウで2速まで落としてから、コーナーへ突っこむ。カウンターをあてる。<これだな! これをマスターしなくっちゃ!>日産レーシングスクールの有難さのひとつは、トップレーサーの秘技が盗めることだ。(午後は長谷見昌弘選手のTSに同乗した)

星野選手の妙技に触れた余韻を逃さないようにと、再びBCGサニーに乗りこんだ。エンジンは快調に吹けあがっていた。第1コーナーから苦手の100Rを、いいラインを通り抜けたはずだった。バックミラーに映る後続車はいっこうに大きく迫ってこない。ヘアピンから300Rをクリアして、上り坂の150Rを駆け上がり、いざ、ストレートに挑もうとして、ガックリBCGサニーの腰が砕けた。ガス欠だ。燃料チェックを怠った罰で、タイムアタックは、午後までお預けだ。 

午後から小雨が路面を濡らしはじめた。3周目にピットからサインが出た。4・42秒、まあまあの線か。つぎからは1周するごとに1秒ずつ、タイムがあがっていく。これまでは、どこでブレーキングしようか、シフトダウンしようかに気をとられていたが、どうやら、それにも慣れて、シフトアップする地点が一定してきた。6周目からゼッケン33と併走。コーナーで少し置いていかれ、直線で追い抜くという同じパターンが3周つづいた。

0・63秒のサインを横目でみた。路面はもうすっかりウエット、フロントグラスもワイパーで拭ってやらねばならなくなった。案の定、3・57秒に落ちた。ついに2分の壁は破れなかったが、タイムは結果にすぎない。それにこだわるより、ひとつひとつのコーナーの攻め方、正しいステアリングの使い方など、課題は山積みされている。それを克服したとき、2分の壁は突破できるはずだ……この調子なら、今年中に、レースデビューはできないものか、とぼくは脳天気な想いに囚われはじめていたのです。


*前列中央が国沢君。下の写真と見比べたし。後列には日産レーシングスクールの
辻本征一郎校長の顔も。もちろん、黒沢監督もいますねえ。



そして、その年の12月6日の「81富士フレッシュマンシリーズ第8戦」サニーの「P-ⅠA」というカテゴリーに強行出場してしまったのです。その模様を、当時「ベストカーガイド」に在籍していた国沢光宏君がコミカルにレポートしてくれていますので、適当に取捨選択して紹介してみます。ちなみにこの国沢君、いまでは独立して、中堅の自動車ジャーナリストとして、抜群の活躍をつづけている。嬉しいことです。 

国沢君は、のっけから無責任にプレッシャーをかけまくる。
「今日はレースなんだから、予選を通らなければおしまいですよ。最後の5分は死ぬ気で走ってください。なに、ちょっとくらいぶつかったって骨を折るくらいだから、大丈夫ですよ。せっかく早起きしてサーキットにきても、予選15分でレースが終わってしまったんじゃ、こっちもむなしくなりますからね」

この日は、ガンさんがチーム監督として、いつも傍にいてくれる。その上、かつて日本GPのチャンプになったときの「栄光の日産カラーのレーシングスーツ」をぼくにプレゼントして激励してくれるのです。そこのところを。国沢レポートではこうなる。

――しかし局長、朝から相当緊張していた。もう、することなすこと全部むちゃくちゃ大会。ドライバーのライセンスも持たずに車検の列に並んで、大慌てしたり、5分前に停めたクルマの場所がわからなくなったり……。「しっかりしてくださいよ! 局長!」などとみんなにいわれる始末で、たいへんな騒ぎだ。
しかし局長、朝から相当緊張していた。もう、することなすこと全部むちゃくちゃ大会。ドライバーのライセンスも持たずに車検の列に並んで、大慌てしたり、5分前に停めたクルマの場所がわからなくなったり……。「しっかりしてくださいよ! 局長!」などとみんなにいわれる始末で、たいへんな騒ぎだ。


*「ベストカーガイド」82年2月号より。開催日が12月7日になっていますが、明らかに誤植!

●ガス欠・スピンの果てに堂々と予選落ち
さて、いよいよ予選の5分前になった。全開で落ち着かない局長。カメラのほうなどちっとも向かないで(向くことを忘れるほど入れ込んでいるのだ)、まさに全身緊張神経。しかし、そのとき急に今まで快調だったエンジンが、怪調?になった。「プラグだ!」プラグを見るがわからず、1気筒がまわらないことがわかっただけで、時間ばかりがすぎていく。とにかく行け! とばかりにスタート。ピットではプラグを揃えて待つ。
すぐにピット・インで、プラグを新品にしてスタート! 今度は快調に走っていく。ヘアピンにBCGサニーが見えた。ガンさんが「もっと突っ込めるのになぁ」と呟く。ボクも思わず「ブレーキなんかいらないぞーっ!」などと、大声を出してしまった。「それッ、ぶつかる覚悟でコーナーを曲がるんじゃあ!」

ストレートに帰ってくるが、他のサニーより明らかに遅い。あとでわかったのだが、このときはもうガソリンがきていなかったのだ。BCGサニーは満タンにしておかないと、コーナーの横Gでガソリンがこなくなるクセがある。それを知ってるのに満タンにしてなかったのである。これはメカの大チョンボ&局長の大チョンボ! これは始末書ものですゾ! ピットではとにかくアップサインの連続。サインボードは、2分06秒なんて書くと恥ずかしいから、大きく「マイナス10」と書いた。

「オレは死ぬ気で走る」と思ったか局長、ヘアピンコーナーでやや元気めに突っ込む……が、慣れないことをするので一気にスピン! この時点で予選タイムは残り1分をきっており、ピットでは「絶望」の2文字が重苦しくのしかかって……。
「あれで予選を通ったらクセになっちゃうよ」――と、ガンさん。
「あーあ、ボクが乗ってたら通ったのに」――とボク。
「ガソリン満タンにすればよかったかなぁ?」――と全然責任を感じてない平田レーシンググの佐藤クン。「タイム、2回しかとれないもんね」――とヘルパーもバカにした声。とにかく「レース」はたった15分ですべてが終わってしまいました。結果は見るも無残な60台中の60番手。59番目とのタイム差4秒。ポールポジションとのタイム差15秒。「ねっ、レースって難しいでしょ?」と、ガンさんがいえば、「来年こそは!」とはりきる局長でした。



この「国沢レポート」をぼくは苦々しく、まとめます。
――はじめっから予選をクリアするとも思ってなかった。この1年間、日産レーシングスクール受講3回、スポーツ走行3回、たぶんFISCOを100周はして磨いた腕が、どれくらい通用するかを知りたかったし、本ちゃんレースの雰囲気もドライバーとして味わってみたかった。

 残念なのは、スターティンググリッドで、スタートの信号に合わせてクラッチをミートする緊迫した瞬間を味わえなかったこと。決勝に進出した35台を、ぼくは第1コーナーでじっくり観戦して、やっぱり、腕が違いすぎるな、と感嘆した。すくなくとも、ブレーキングする地点が10㍍は深い。2速に落としてからのハンドリングも、みんな素早いし、確実だ。もし、その中に、ぼくがいたとすれば、やっぱりお邪魔虫になってどれかと接触し、大事故を招いたかもしれない。


*第1コーナーからサニーの決勝レースを見る。真剣な表情をしていますね。

レースに出るといったら、だれもが止めた。たしかに1周するごとに、毎回、1台ずつ第1コーナーでスピンする光景はドキッとさせられる。しかし、それを見事に回避するテクニックを各ドライバーは持ち合わせていた。練習する以外に習得する道はないだろう。考えてみれば、クルマ雑誌をはじめて約4年半前、ぼくはただ単にクルマを走らせることの好きな編集者にすぎなかった。それが徳さんの助手席に座ってこんな運転技術もあったのかと敬服させられた。谷田部の高速テストコースを200km/hで駆け抜けるようにもなった。でも、それだけではクルマの本質を見抜くことはできない。

レーサーが編集者になるより編集者がレースに挑戦することで、少しはクルマのわかる編集者になるほうが、クルマ雑誌には必要であり、早道らしい。多分、これで45歳の挑戦は、打ち止めになることはない!



この初レースの出場認定証ともいうべき「FISCOタイム認定証」を、保存していた。
1981(昭和56)年12月6日。よくもまあ、こんな年も押し迫った時期に、初レースをやったもんだ。多分、「日産レーシングスクール」を修了した記念に、1度くらいは実戦に出てみたい、なんていい出して、周囲の反対を振り切ってエントリーした記憶がある。

そのころ、仕事の関係でプロのレーシングドライバーとの交遊が多くなっていた。黒沢元治さんを「ベストカーガイド」の仕事に引き込んだのをはじめ、星野一義、生沢徹といった超スター級とも、顔を合わす機会が増えていた。

本業でも、新車の試乗会に出席することが楽しみになりだしていたが、鮮やかな仕草で乗りこなす同業の編集者を目撃すると、なんだか劣等感さえ覚えていた。そんな背景もあって、この道に迷いこむこととなる。

もうひとつ。裏方の奉仕がなくては、レース活動がなりたたないことを実感した。本稿に度々登場する「マス坊」こと増田成則さん(講談社ビーシー定年退社)や「ハットリ君」(服部剛久さん=現在・講談社ビーシー総務部長)のバックアップをいっているのだが、いざ、レースに出るとなると、ひとりでは何もできない。メカニックのお膳立てがあって、はじめてシートに座ることができる。ましてや、アマチュアの場合、友人に手伝ってもらうケースが多いようだが、専門のガレージに頼むと、結構負担が大きくなる。まあ、レース活動の基本を、実体験したことで、いろいろ、目から鱗の落ちたケースが多々あった。クルマ雑誌の責任者が、そこのところを知っているか、いないか。ぼくなりにそこが分かれ目だと感じとっていた。

マシンが壊れれば、徹夜で翌朝までに修理する彼ら。
12月。ガレージ(スリーテック)のあるFISCO周辺の夜の冷え込みといったらない。それでも、薄明かりをたよりに、マシンの整備に没頭する彼らの存在を知ったのは、この屈辱の初レースの折である。

それ以来、少しは「メカニック的立場」に心配りできるようになったと自負している……と、書き上げたところへ、待ちに待った資料が届けられた。中部博さんの「1974.06.02 まだ振られていないチェカーフラッグ」と、黒井尚志さんの「レーサーの死」です。あの「30度バンク事件」に関する新しい視点に、これからアプローチしてみます。


 


Posted at 2011/08/16 11:48:25 | コメント(10) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
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何シテル?   08/06 09:17
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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