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正岡貞雄のブログ一覧

2013年07月30日 イイね!

ひとつの決断 ~『ベスモ同窓会』グループのみなさんへ~

ひとつの決断 ~『ベスモ同窓会』グループのみなさんへ~ 迷いに迷った末、決断した。
 残念ながら、10月19日~20日に予定していた、第2回「ベスモ同窓会」は先延ばしにさせていただくことになった。まだ、正式に発表していたわけでもないが、黒澤元治さんとは、何度も打ち合わせし、この日なら、と内々に確定していたこともあって、一部の方々には前もって「スケジュールを調整しておいて」などとお願いをしていたくらいだから、まさか、延期の決断をするなんて、考えてもなかった。申し訳ない。辛い。

 開催場所は福島にある「手造りサーキット」で、7月に入ったら、先方にお願いに上がるつもりでいた。ところが、5月から6月にかけて、わたしの心臓冠動脈が3本とも塞がれていたことがわかり、3回にわたって手術を受ける羽目に陥った。当ブログには、「何シテル?」欄などを利用して、適宜「情報開示」して、無事、活動再開に向けて試運転している旨、お伝えしてきたが、実際に復帰してみると、やはり片道100キロを超す遠出は無理な状態にあるとわかって、急遽、ガンさんに連絡をいれ、まず相談したわけである。即座にガンさんも延期しましょう、といってくれた。


*第1回「べスモ同窓会」での「ガンさんスピーチ」を、今度は東京で!

 今だから言えるのだろうが、実は4月6、7、8日の岡山行きも危なかった。3月末になってブラックな状況が判明し、医師から厳しく忠告されてしまった。航空機で移動するなんてとんでもない、と。それでも、そこは強行突破した。医師はこういってくれた。「わかりました、いってらっしゃい、とは言えませんが、何事も起こらないよう、お祈りしましょう」と。

 そんなイキサツもあり、たとえ冠動脈は大丈夫でも、いろいろとヘタリが顕著である。この夏は、いささか自重せざるをえない。今回はやむを得ない、休戦旗をあげることになった。まことに申しわけない。しかし、東京でガンさんや、あのころのキャスターたちを招いて「ベストモータリング」を鑑賞しながら、語り合う時間を持とうよ――それくらいのライトなイベントなら、大丈夫だろう。それで許してもらえるかな。


*7月23日の隅田川納涼船にて。青く光るのは永代橋。その向こうでスカイツリーがそそりたっているはずだが。
2013年07月10日 イイね!

『美女と野獣の凸凹コンビ』30年ぶりのデート

『美女と野獣の凸凹コンビ』30年ぶりのデート~帰ってきた長谷直美さん~

 7月9日のお昼に「何シテル?」の欄で、「これより、有楽町へ。憧れの女性と真夏のデートです」なんて浮かれた予告をしてしまった。お恥ずかしい。

 それにしても、この暑さだ。最初は電車を利用して有楽町へ向かうつもりだったけれど、冷房のきくクルマに変更。これは正解だった。市ヶ谷の防衛省を抜けるあたりで、わたしの携帯電話が鳴る。当然、プログレを路肩に寄せて停車。長谷直美の文字が光っている。約束の時間まで、たっぷり40分はある。
「あ、長谷直美です。いまどの辺ですか? わたしは所用が早めに終わって、有楽町の駅前にいますけど……」
 あと、20分くらいで着けるでしょう、と伝えると、じゃあ、その辺でお茶を飲んでいますから、どうぞごゆっくり」





 30年前によく聴いた、歯切れのいい、明るい声が懐かしい。浮き浮きと、靖国神社前から、千鳥ヶ淵通りへ右折する。お濠端に沿って日比谷の交差点を目指す。順調なクルマの流れ。計算通りに20分で数寄屋橋に着く。

 かつての朝日新聞社はショッピングモールに変身している。IKEA BRADAの前に停車して、今度はこちらからコールする。と、そこで待ち受けてでもいたように、サングラスをかけた直美さんが長い髪をゆらしながら現れる。もう50歳台になったはずなのに、雰囲気がちっとも変わっていない。たいしたものだ。

 涼しいホテルのティールームで、となると、得意の東京プリンスホテルが近い。1Fのティールーム「ピカケ」に落ち着いた。

 なぜ、こんな嬉しい時間がやってきたのか。やっぱり説明の要ありか。ことの起こりは「みんカラ」にあった。ご記憶の向きもあるかもしれないが、およそ2年前の8月14日付けのBLOGで《「新・編さん」の茨の道》の第2回として『雨中の激走! 美女と野獣の凸凹コンビ』というレース挑戦にひきずり込まれてゆくレポートを紹介しているが、その時の伴走者として、当時、眩しい青春のシンボルだった長谷直美さんを起用。なかよく「日産レーシングスクール」を受講したものだった。

 その翌年、凸凹コンビは日産レーシングスクールをそろって修了し、それぞれのカテゴリーからレースデビュー。とくに直美さんは、日産がラングレーのレ―シング仕様でレディース軍団「チーム・エンジェル」を結成した際に、専属ドライバーの一人に抜擢され、スポットライトを眩しく浴びたものだが、あれから30年近く経って、いまはどうしているのだろうか。聞くところによれば、幼馴染と結婚してフランスに住み、ルマン24時間レースのどこかのチームの広報担当として活躍しているらしい。1956年生まれか。逢いに行きたい人の候補としてリストアップしておこう……などと、フレッシュマンレース時代のエピソードにかこつけて、ひそかにラブコールを謳いあげていたものだ。

 それがなんと、つい一月前に、わたし宛にこんなメッセージが、みんカラBLOGを通して届けられた。

——ご無沙汰です。長谷直美です。
大変ご無沙汰しています。お元気のご様子、何よりです。こちらはいろいろあって、長い外国暮らしから、昨年日本に帰ってきました。正岡さんのブログ、時々拝見しています。先だっては懐かしい頃のお話を書いていただき、ありがとうございました。今日は、実はお願いがあり、思いきってメッセージさせて頂きます。正岡さんとモータスポーツを楽しん出た頃の、私の写真がありましたら、お借りできないでしょうか? TBSの番組内で使用させて頂きたく、お願いメッセージしました。これを機会に、またよろしくおねがいします。
                            直美

 もちろん、直ちに手元にある彼女の写真をピックアップし、メール経由で届くように手配した。その時のお礼を言いたいからと、連絡が入り、この日の「ミーティング」が実現したわけだった。


 

 帰国してからの芝居やTV仕事の話やら、これからの取り組みやら、長谷直美復活のシナリオは固まりつつあるようだ。いい機会だから、ベストカー創刊当時の彼女の「姫ドラ」ぶりや、彼女の連載ページだった「直美のパッシングレポート」など、改めて検証してみようか、なんて会話している間に、彼女が昔ながらのお茶目ぶりを発揮した。なにやらスマートフォーンにとりついているな、と見ているうちにFacebookを通して、「コメント」をお仲間に流していたのだ。



「今日は懐かしい方とお茶しています。カーキチ時代を共に楽しんだ……」と前置きして、わたしを紹介している。と、同時に、前日、わたしがアップしたばかりの「あっぱれ『闘うオヤジ』讃歌」をシェアしてくれていた。それを、こちらは持参したiPadで確認するという不思議な時間。
「え!? なに、この勢いは」
 みるみるうちに、「いいね!」のカウントが殖えていく!
 アッという間に100を超えてしまい、瞬く間に200も超えてしまうではないか。さすが、長谷直美。参りました!

 その夜、この稿に取りかかるに当たってチェックしてみると、なんと450人。
お陰で「みんカラ」フレンズ以外の方々からの「回想の中山サーキット」への感想も頂戴できた。この思いがけない副産物に感謝。この稿、さらに続けたくなったが、どうしようか?
 

 


Posted at 2013/07/10 03:40:35 | コメント(7) | トラックバック(0) | この人に逢いたい | 日記
2013年07月08日 イイね!

あっぱれ『闘うオヤジ』讃歌

あっぱれ『闘うオヤジ』讃歌〜回想の中山サーキット・まほろば誕生編〜

 昭和ヒトケタ世代、あるいは2桁の入り口で生まれた少年たちの迎えた「1945(昭和20)年8月15日」の夏の日の記憶はさまざまだろう。小学4年生だったわたしの場合、玉音放送を聴きながら、なにかが終わり、なにかが始まる解放感をそれとなく理解していた。雲ひとつない灼けるような真夏の空と蝉の声。空襲をうけた「製鉄の町」は余燼のなかで呻いていたというのに……。


*Sロクで疾走した時代の棚田史朗氏

 昭和8年(1933)生まれの棚田史朗(ここでは敬称略)は、いまの中山サーキットから山ひとつ隔てた和気町吉田で生まれた。教員だった父は太平洋戦争に没し、母は銀行勤めをしながら一家を支えていたものの、病を得て、1949(昭和24)年に逝ってしまう。姉と弟がいたが、15歳になった棚田は独り、生きてゆく糧を求めて、戦後の復興もままならない荒んだ街・岡山へ出た。飢えをしのぐため、残飯も拾った。そんな流浪の日々のはてに、やっと洋服の仕立屋に奉公できた、という。いわゆる丁稚奉公。決まった給料はないが、寝るところと食事の心配は消えた。
 ここで3年間、棚田少年は縫製職人として腕を磨き、同時に多くの顧客を持つ外交手腕も身につけた。

 20歳になった。独立を申し出て「棚田洋服店」の看板をあげる。と、親方に呼びつけられ「嫁をもらえ」と。なんと親方の娘・敏子だった。
 21歳と18歳の若い世帯。当然、親方から援助の申し出があった。
「それをいっさい断った。ヒモつきは嫌いなんや。ええとこのオナゴの《持参つき》といわれるのは気分悪い」
 だから、敏子は着の身着のままで、棚田の二間つづきの借家に《嫁入り》する。
 ミシンとハサミがあれば仕事になる仕立屋の世界。昼は外交で注文をとり、夜は朝方までミシンを踏む日々。棚田はそれが男の甲斐性、意地の見せどころと信じていた。やがて、職人3人を使う店構えへと「棚田洋服店」を育てあげてしまう。
 
 長男・博史が誕生する。2年後の1957(昭和32)年には次男・昭と、男の子二人に恵まれる。棚田家へのなによりの「ご褒美」だった。その時、棚田史郎はまだ25歳。野望に燃える若獅子の時代。安住してしまうには、いかにも若すぎた。購入して間もないトライアンフを駆って、岡山の夜の街に出没するようになった。

 岡山のネオン街を飲みまわるうちに、棚田は飲むだけでは飽きたらず、飲ませる側に立っていた。スナック2軒、喫茶店3軒。それは「洋服」と同様に事業としての骨格をなしていく。と同時に、棚田の人脈は膨れあがり、なかでも車を通しての交友は次第にクラブ組織として定着してしまった。そんな折りに、関西スポーツカークラブの中国支部長に推され、棚田はクルマ仲間とともにこのクラブ活動に熱中する。いや、正確にはのめり込んでいった。
 クラブ員数は500を越えた。会費は500円。棚田は赤字を覚悟の上で「同志」を鈴鹿サーキットや、町の自動車教習所で走らせた。しかし、顔見知りの担当者が人事異動で変わると、鈴鹿の走行料は正規のものに戻り、それまでの10倍に跳ね上がった。棚田の赤字負担は限度を超えた。さらに、教習所での走行は公安委員会のストップ命令で、「頼みの綱」だった安価な走る場を失ってしまう……。

 どこかに、500人のクラブ員が走れる場所はないものか――棚田は血眼になって、それを探し求めた。時代は、まだJAFも誕生していないモータースポーツ創成期であった。どんなに優れたマシンを手に入れてもその性能を試す場所がない。――なんとか、しなければならんのぅ。





 棚田はクラブに呼び掛けて、出資者を募った。中山に16町歩(15万8688平方メートル)の土地があった。所有者(29人の地主)は、棚田の説得に惚れこんで、売ってもいいという。だが、契約に漕ぎつけたところで、出資を約束した7人がすべてこの話から降りてしまった。仮契約書は棚田個人の名義になっている――彼はひとりぼっちになってしまった。1968(昭和43)年の春、桜の花が散り始めたころだった。

 この『シリーズ闘う男 第3話・棚田史朗=男の意地で拓いた手造りサーキット物語』 は「ベストカー」1985年9月26日号に掲載され、大いに反響を呼んだ。かくも骨太な男の生き様は、30年近く前のその時代でも、すでに希少なものとなっていたのだ。それが今の時代ではどうだろう? 「父親の背中」という命題で、ダイジェスト版にまとめようと取り組んでみたが、どうしても、背景の説明に深く立ち入ってしまう。ともあれ、棚田史朗がサーキット建設に取り組むところまで、やっとたどりついたわけである。

 棚田史朗の孤軍奮闘がはじまる。見通しはない。が、彼は意地を張る。地主とは賃貸契約にきりかえることで了承を得たが、さて、工事費がない。銀行は「サーキット」という業種が理解できない。貸し出しなんてとんでもない、となった。
「ええい、クソッと思って喫茶店をたたき売りましたがな」
 だが、それは第1期工事費であっという間に消えてしまう。

 中山の切り立ったような山を殺(そ)ぎ、コースらしいコースがその形をなしたのは1年後の1969(昭和44)年であった。「棚田洋服店」も、3軒あった喫茶店も工事費で消えた。棚田に残されたのはスナック2軒と、妻と二人の息子たち……。
 当時、中学生だった長男の博史の眼に映ったのは、来る日も来る日もコースに出て、泥にまみれている親父の背中だった。
 コースだけではない。工事費をひねり出すため、サーキットの関連施設はほとんど手造りであった。そのほとんどは父と母が二人三脚で築きあげたものだ。
「だから、ぼくはその頃から、この土地で生きてゆくようになるだろう、と思っていた。」
 博史少年のその予感は、成長したのち、見事に当たる。


*着工してから3年、1971(昭和46)年4月17、18日の二日間にわたって開かれた完成・開場の式典セレモニー。中央で史朗氏が挨拶。星島浩氏らモータースポーツ界重鎮の顔も見える

 着工してから3年、1971(昭和46)年4月17、18日の二日間にわたって、「山陽スポーツランド中山サーキット」完成・開場の式典セレモニーと、オープニング行事として西日本自動車レースが催行された。鈴鹿、FISCO に次ぐ日本で3番目の本格的なサーキットの誕生である。地元の新聞はもとより、当時のカルチャー先導誌でモータースポーツを積極的にとりあげていた「平凡パンチ」がページを割いて、その日の様子を紹介してくれたものだ。題して『TOYOTA7が久しぶりに走った!!』。当時の様子を知る材料として、その内容を、すこし、紹介しようか。

————落ち着いた風格で人気のある陶器《備前焼》や名刀《備前長船》の産地、岡山県和気郡和気町に突然、70台以上のレーシングカーが集結した。
 なかにはターボ・チャージャー付きのトヨタ7やポルシェ908も混じっている。でも心配はいらない。この落ち着いた山陽の田舎町に中国地方二つ目のサーキットが誕生したのだ。【正岡註:1969(昭和44)年に野呂山スピード・パークが広島県呉市郊外の山頂地にオープンされていた。1974年、閉鎖】
 その名は山陽スポーツランド・中山サーキット。場所は国道2号線の備前から北方へ、約9km入ったところ。そしてこの日、ここのオープニング行事として、’71西日本自動車レース大会No.1が開かれたわけだ。


*平凡パンチの記事

 まったくの山あいにつくられたこのサーキットは1周1.7km、コース幅は舗装部分が8〜15m、グリーンを含めると20〜30mほど。コーナーは6つだがアップダウンはかなり激しい。
 この日集まったドライバーは、西野弘美(フェアレディ2000の乗り手で鈴鹿スペシャリスト)や田中弘(のちのヒーローズレーシング、オーナー兼監督)などの関西勢と増田健基などの中国勢がほとんど。関西勢が本格的な国際コース《鈴鹿》で育っているのに対して、中国勢はローカル色豊かで危険なコース、広島・呉の野呂山スピード・パークでトレーニングをつんでいる差があるだけに、中山サーキットに対する評価は、この両者の間で完全に食い違っている。
 たとえばこの日、最高ラップ1分02秒を記録した増田健基は「直線とヘアピンが組み合わさった比較的単純なコースだな」に対し、関西勢は「コースの両サイドが使えないし、舗装の上に水が湧いている。その上、両側が崖なのにガードレールもないところがある」と不満タラタラ。
 事実、コース両側の舗装は柔らかく、そこに乗るとアッという間にコースサイドのグリーンまで持って行かれてしまう……。

 と、まあ、こんな具合で、こう締めくくっている。
——ここは国際級のサーキットでは味わえない、むずかしさもいっぱいあるコースだ。

 エキシビションに集まったトヨタ7、ポルシェ908、マークⅡ、セリカのレーシング仕様のデモランもあった。そして、この日、地元岡山をはじめ、関西、四国、九州などから約1万人の観客が集まったが、女のコだけのグループもかなり目立つ。「平凡パンチ」はそこで、特にパドック裏手から、100Rから60Rにかけての土手の「景色」を推奨しているのが、なんともおかしい独特の味を見せていた。


*今や「中山サーキット・専務」として屋台骨を支える博史氏

 ともかくも、ここまでこぎ着けた棚田一族に、安穏の日はなかった。40年代後半のあのオイルショックが到来する。パニックの嵐。あらゆる事業が停滞し、経済的な破綻は眼を覆うばかりだった。棚田一族にとっても同じである。
「あのころのことはよく覚えている。中学生でした。月末になると借金とりが押しかけてきました。おやじがひたすら頭を下げ、おふくろは毎日のように金策に走っていた」
 博史少年は中山サーキットの苦難の時代をしっかり脳裏にきざみつけている。同時におやじのひたむきな純情を、確実に継承する覚悟もできあがった。
 いったんは京都の大学に進むが、父の願いで中山に帰る。大学中退を悔やむ様子もない。いまでもなお、サーキット運営にすべてを傾注している。
「中山サーキット」という「まほろば」に生きる棚田一族の話は、あと1回、つづく。
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何シテル?   08/06 09:17
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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