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正岡貞雄のブログ一覧

2014年08月27日 イイね!

鎮魂の夏② 8月9日、もしもあの時・・・

鎮魂の夏② 8月9日、もしもあの時・・・ ~八幡と小倉の空が晴れていたなら~

「残暑見舞い」代わりにクルマ当てクイズを試みたところ、想像を超えるスピーディな対応があって、結局、群馬県高崎市の「サンデ」さんを正解者第1号と認定、ガンさんのサイン入り本を贈らせていただくことにした。

 あ、正解はジャガーXF 2.0 プレミアム ラグジュアリー。ギンギンのスポーツカー、Fタイプを試乗したあとだけに、その妙に優雅な動き具合がジャガーのDNAか、などと感じ入って、早速、夜の「音羽ニュル」を攻めたくなったほどである。



 さて、急ぎ足で夏が終わりそうだ。こちらも「鎮魂の夏」を急ぎ足で書き上げなくては。前回(8月23日アップ)は風船爆弾の存在を紹介した後、八幡大空襲のさなかに、白い海軍見習士官姿の長兄・昭次が、火の海を掻き分け、半死半生の状態で、わが家にたどり着いたところまでだった。

 布団に倒れ込んだまま、昏々と眠りつづけていく兄・・・・・・。
「神様、兄(あん)ちゃんを、どうか助けてつかぁさい」


*鳥野神社

 ぼくらはひたすら祈るしかなかった。夜が明けると、すぐ傍の鳥野神社に弟を連れて祈願にいった。かしわ手をうち、思いっきり頭を下げ、お賽銭替わりに、秘蔵の宝貝を奉納した。
 
 神社の高台から見下ろした前田と平野の町は、炎こそおさまったものの、まだ燻(くすぶ)り続け、その余熱と煙がさらに雲を呼び、重々しい空模様の1945(昭和20)年8月9日の朝を迎えていた。・・・・・・太平洋戦争終結の日まで、あと一週間たらずだった。

 焼夷弾に焼かれ、煙にまかれそれでも、地元の人だけが知っている堀川の底を這いずりながら、いくつかの町をくぐり抜けて、山手のわが家にたどり着いた兄・昭次はそのまま、昏々と眠り続けている。医者がいるわけじゃない。町内会で調達してきた火傷薬と、包帯代わりの白い晒(さらし)帯がたよりだった。

「昭ちゃんを死なすわけにはいかんとよ」
 自分のすべてを注ぎ込むような、あのときの母の看病ぶりを思い出すと、いまでも熱いものが、知らず、こみ上げてくる。兄はその名前から解るように昭和2年(1927)生まれ、大正元年(1912)生まれの母とは15の歳の差がある。兄は実の母親の顔を見ることがなかった、と聞く。

 三男坊だった父・徳一は遠賀川筋の主要な町、直方の酒造家・福原家へ養子入りしたものの、妻はるゑの産後の肥立ちが悪く、生後間もない兄を遺して旅立たれてしまう。
 それからの詳しい話は知らないが、福原氏が廃家、正岡姓に戻った父は兄・昭次の手を引いてそのころ、北九州でもっとも発展途上にあった八幡に出て、やもめ暮らしをしながら、当時の生活必需品であった糸を取り扱う商人として再出発をする。
 そしてわが母・澄子とめぐり逢い、新しい所帯をもつ。昭和11年1月、わたしが生まれる。兄・昭次はその時、姉のように若い新しい母と9つ年下の弟を、どんな気持ちで迎え入れたのだろうか。

その辺の時代のわが家の雰囲気は、当BLOGのスタートとなった「ファーストラン」で触れたつもりなので、よろしければ再読いただければ幸い。


*手元に残った兄のスナップ写真はこれだけしかない。戦後の解放期、どこかの海辺でギター演奏を楽しむのが何よりの楽しみだった。

 兄・昭次が福岡県立八幡中学校(現在の県立八幡高校)に進学、キリリと学帽をかぶり、足元を白の脚絆で締め上げて、まっすぐ胸を張って通学していた姿を、わたしは眩しく見送った記憶がある。情熱を剥き出すような「九州男児」の激しさを、彼はまったく持ち合わせず、いつも穏やかな微笑みを浮かべていた。

 数学とか、理科が得意で、中学を特級(4年)で修了すると、東京の電信・電波の専門学校へ。が、戦局逼迫に従い、18歳になった彼までが海軍の電信連絡関係の見習士官として狩り出され、神奈川県の某所で特訓を受けたのち、戦地に赴く手筈だったという。

 ふるさとへ帰れるのはうれしい。が、恐らく、これが最後の別れとなるのかな、と心を決めて西へ向かう列車に乗った、という。
8月6日の夜、列車は広島の手前で止まってしまう。なんでもとんでもない爆弾が落とされ、列車は前へ進めないと知らされる。

 仕方がない。歩いて広島を抜けて、その先でまた汽車に乗り継げばいい。兄がどのルートで原爆の直撃を受けた直後の広島を通過したのか、今では知るよしもない。が、後年、そのときに放射線で被爆していたのではないか、と思える症状がいくつか出て、兄はいつも、心身ともに、その不安と闘い続けなくてはならなかった。


*8月8日の八幡大空襲で完全に破壊された八幡製鉄所の平野地区社宅

 インターネット上にその当時の様子を伝える記録はないだろうか、とサーフィンしていると、『私の八月十五日』という特集があって、その中に『その日に汽車で熊本から神戸へ」と題した、当時大学2年生だった方の記録が目にとまった。

 兄の里帰りとよく似たコースなので、トレースしてみた。その方は神戸在住で、工学部に籍を置いていたため、徴兵検査も済ませ、勤労動員にも狩り出されていたものの、卒業までは入隊を猶予されていたという。8月5日の夜、友人と二人で神戸を発ち、翌6日の朝、7時に広島を通過している。

「カンカン照りで暑い朝の広島駅のプラットホームは綺麗に打ち水され、通勤のサラリーマンや学生達が忙しく構内を行き来して活気に溢れていました」

 その朝の光景が目に浮かぶ。広島を出て直ぐ、二人の大学生はブラインドを降ろして眠りに入った。と、ガーンと大きな衝撃を感じ、ブラインドを開けてみると、汽車は宮島と岩国の間を走っていた。

「宮島の向こうの空に大きな雲がむくむく湧きあがっていました。畠では鍬をかついだお百姓さんたちが走っていました。あれはひょっとして呉軍港の火薬庫でも爆発したのと違うかな、などと話していました」

 お祖父さんの住む熊本に落ち着いた後、2、3日して真っ赤な小便が出たのに驚いた、とも記していているのに、兄のことと関連して、わたしは注目した。

 山陽本線、鹿児島本線と鉄道の大動脈はどうにか機能していたようだ。
 その1日後、兄は同じ足取りで原爆投下直後の広島を通過、8月8日、B29による焼夷爆弾攻撃の洗礼を受けているさなかの八幡に降り立ってしまったのだろう。

 8月9日の動きを『北九州市史』は「原爆2号機の目標となった小倉」と題する章で、こうまとめ上げていた。松本清張、火野葦平といった作家を生んだ土地柄。結構、ドキュメントタッチで凝った纏め方をしていて、興味深かった。「歴史的事実」として平衡感覚を保って記述している姿勢がわかる。

――(昭和20年)8月9日午前2時49分、原子爆弾(プルトニュウム239型)を搭載した米軍のB29「ボックスカー号」(機長スウィニー少佐)は、中部太平洋マリアナ諸島にあるテニアン基地を離陸し、機首を九州へと向けた。

 午前8時20分、鹿児島県屋久島上空。そこで先発した米軍気象偵察機から小倉方面視界良好との報告を受信。が、ここで一つのトラブルが発生した。屋久島上空で合流する予定になっていた観測撮影機が現れない。このため屋久島上空で約45分間旋回したが、ついに同機は撮影機との同行をあきらめ、テニアンを同時に発進した計測器積載のB29との2機編隊で小倉へ向かった。


*B29爆撃機(『北九州市史」より)


*「北九州市史」より

 午前9時50分、目的地小倉の上空に到達。このころ、2時間前までは快晴だった空に雲が広がりはじめていた。さらに雲だけではなく、前日の北九州地区(特に八幡)の八・八空襲のために生じた煙が、風向きによって小倉方面をすっぽり覆っていた。その煙の有り様は、あたかも傷ついた母がわが子を守ろうとするかのようであった。
 
 ボックスカーのビーハン爆撃手には、小倉の街がまったく見えなかったわけではなかった。が、彼は、小倉造兵敞を目視した上で原爆を投下するように、と厳命されていた。

 ボックスカーは弾薬倉を開けたまま上空を旋回したが、造兵敞をとらえることはできなかった。トラブルも重なった。補助燃料用のパイプの故障。さらに屋久島上空で燃料を予定外に消費していた。このため、ボックスカーは燃料切れになる可能性さえ出てきた。雲と煙の切れるのを待つ余裕はなくなった。

 2機のB29は、小倉の上空を三回旋回したのち、小倉への原爆投下を断念して、第二目標の長崎へと機首を西へ向けた。(『小倉に原爆が落ちた日』)

 ボックスカーは南下して熊本方面から島原半島を経て、長崎へと飛行した。午前10時58分、長崎上空。しかし長崎も視界が悪く、目視による投下は不可能にみえたため、レーダーによる投下準備にとりかかったが、ビーハン爆撃手は寸時、雲間から長崎製鋼所を確認した。彼はすばやく投弾ボタンを押した。

 11時2分、原爆第2号は爆発した。2機は投下と同時に東方へ反転して沖縄へ向かった。午後1時、ボックスカーは沖縄の米軍基地へ着陸、燃料はわずか数ガロンしか残っていなかった、と。

――長々と『北九州市史』から引用した「原爆第2号機」の軌跡。もしも、あの時、小倉の空が晴れていたならば、間違いなくわたしはこの世にいなかっただろうし、惨禍は想像を絶するものとなっていただろう。
 
 被害状況のシミュレーションでも、爆心から3キロ以内の2万2400所帯の家は焼かれ、戸畑、八幡でも火災が発生し、火事嵐などによって、上空に雨を降らす上昇気流が生まれ、小倉より西の地域では、死の灰と呼ばれる放射能降下物を含んだ黒い雨が降っただろう、と予測している。

 原爆の被害は、投下されてその時だけではない・・・・・・焼け跡に家族を探しに来た人、救護活動の人。だれもが放射能の影響を受ける。

 実際の戦争において原爆搭載機が目標地に飛来しながら、被爆を免れた都市は、世界史上、小倉のほかには存在しない。北九州市民はこの意味を、改めて考えてみる必要があるのではないだろうか・・・・・・『北九州市史』はこう締めくくっている。



 いま、北九州市の市庁舎のある小倉勝山公園内には、1976(昭和51)年8月に長崎市から寄贈された『長崎の鐘』が据えられ、平和を願い、死者たちの無念を鎮める鐘の音を聴くことができる。

 来年の夏こそ、北九州に帰って、ぜひこの鐘を鳴らし、生かされているこの生命に感謝し、今はなき両親、兄の墓前に白菊の花を供えよう。そう、こころにきめた「鎮魂の夏」は、やがて終わろうとしている。蝉の声もミンミン蝉から、蜩(ひぐらし)にバトンタッチされる。
 

*こちらはわたしの大学2年の夏(1955年)、八幡の大空襲でもっとも被害の激しかった小伊藤山を取り崩してでき上がったロータリーに建立された「平和を祈る乙女像」の前で。

 最後に兄・昭次の「それから」からである。8月15日の『玉音放送』のあったあと、むっくりと起き上がり、とにかく帰隊しなくては、と一歩踏み出したところで崩れ落ち、9月になってから上京したように記憶している。

 混乱と窮乏の時代だった。結局、一旦は上京して電信関係の専門学校に復学したものの、健康も芳しくない。八幡に戻ってきて有機化学関係の知識を買われて三菱化成に入社、後半は洞海湾の浄化に力をつくすなど、環境問題に専念、残念ながら1992年、65歳で逝ってしまう。


*1976年当時の長兄・昭次

 アルコールはほとんどやらなかったが、ちょっとでも入ると顔の半分が急速に赫(あか)く染まってしまう。
「これが広島でやられた後遺症よ」
 
 ふと思い出した。兄が愛用していたあのギター、今でも彼の家に残っているのだろうか、と。          
 さて、いよいよNew Carが立て続けに登場してきた。忙しくなった。スバルのWRX STIとS4。次回はその話題からはじめたい。

 (この項、おわる)
Posted at 2014/08/27 09:26:38 | コメント(6) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2014年08月23日 イイね!

残暑見舞い代わりに、クルマ当てクイズを!

残暑見舞い代わりに、クルマ当てクイズを!珍兵器『風船爆弾』を知ってるかい?

 本日からの週末を楽しむために、試乗を開始した「このクルマ」は? ズバリ正解の第1号には黒澤元治著『新・ドライビング・メカニズム』をガンさんのサイン入りで進呈。ただし応募資格を『ベスモ同窓会』メンバーに限らせていただきます。悪しからず。


*今週末を楽しませてくれるこのクルマの名前をズバリ当てて欲しい。応募はコメント欄へどうぞ! 

『鎮魂の夏…』の続きは、ただいま、鋭意、執筆中。なにしろ10年前に、1冊5000円(全10冊)で購入した『北九州市史』や、もはや余程のルートでないとお目にかかれない『八幡市史』の読み込みに、格闘中なんです。





 信じられない秘話(悲話?)にもめぐり会うことができました。小倉(八幡のお隣)造兵廠(兵器の製造工場)で生産された戦争末期の窮余の策に、風船爆弾というとんでもないものが存在したことを紹介されていた。

 風船爆弾は、和紙とコンニャク糊(のり)で直径10㍍の紙風船を作製し、これに爆弾を吊り下げ、秋にアメリカ本土に向けて吹く偏西風(ジェット気流)を利用し、アメリカ本土に爆弾投下を企てた、というのです。


*女子挺身隊員と風船爆弾(北九州市史より)

 アメリカ側の記録によれば、昭和19年11月から20年7月までの間に。287件の風船爆弾が到来し、爆発が113件、山火事3件、犠牲者は6人とされています。

 この風船爆弾は「ふ号作戦」と呼ばれ機密に属し、小倉造兵廠では昭和19年から翌20年3月までの間に、延べ数約1025球が生産されたといいますが、和紙を糊づけして作製するという細心技術には女性が適していることから、女子学生と女子挺身隊を動員し、約2850人をもって昼夜ぶっ通しで生産した。

 テストに合格した気球は、地元の補給廠に納入され、放球地の茨城県大津、千葉県一宮、福島県勿来(なこそ)の3か所に送られた、とある。

 この兵器廠とわたしたちの暮らしていた八幡市前田・平野地区とは7キロほどの距離。次回は、その辺が、運命を左右する大きなポイントだったのに、気づかされます。

 昏々と眠り続ける長兄・昭次。ぼくらはひたすらに祈るしかなかった。
「神様、兄(あん)ちゃんを、どうか助けてつかぁさい」
  
 夜が明けると、すぐ傍の鳥野神社に弟を連れて祈願にいった。カシワ手をうち、お賽銭替わりに、秘蔵の宝貝を奉納した。


*焦土と化した眼下の前田地区。

 神社の高台から見下ろした前田と平野の町は、炎はおさまったものの、まだ燻(くす)ぶりつづけ、その余熱と煙がさらに雲を呼び、重々しい8月9日の朝を迎えていた……。   (以下、近々にアップまで)
Posted at 2014/08/23 01:03:00 | コメント(8) | トラックバック(0) | ちょっと一服 | 日記
2014年08月18日 イイね!

鎮魂の夏…『長崎の鐘』と『終戦の日』の狭間で

鎮魂の夏…『長崎の鐘』と『終戦の日』の狭間で~マジェスタ『音羽ニュル』攻略に換えて、あえて伝えたくなったたこと~

 日を置かずに書き継ぎます、と予告しておきながら、勝手に夏休みに突入してしまったこの1週間。それでも、そのフリーな時間を楽しみ、あれこれと想いをめぐらせていた。それは70年近くも昔の「心の傷」と呼ばれるもので、それをいまさら当BLOGにアップしてどうなるものか、正直、迷っていた。

 どの新聞、どのTVも8月15日の「69回目の終戦の日」にむけて定番特集を組んでいる。ま、当方までがそれに歩調を合わせることもなかろう、と一旦は思いとどまっていたところ、TBS系のニュース番組が靖国神社の大鳥居の前あたりで、お祭り気分の若者たちを呼び止めて、「太平洋戦争で日本が戦った相手はどこの国だったか」とインタビューしているのを見て、コロリと気持ちが変わってしまった。

「え!? 中国でしょ」「いや、韓国だろ?」「本当にアメリカと戦ったの、嘘でしょ!」
 最初はやらせかと、疑ったくらいの、信じられないような反応が集められていく仕組みだった。それが案外、この国の若者層の素直な姿かもしれなかった。

 風化していく記憶。ゾッとさせられた。やっぱり、どんな形でもいい。わたしなりに「生きてきた証(あかし)」を残しておこう。改めて、そう心に決めたこの夏は、今が真っ盛りなのだろうか。
 
 鎮魂の夏、『長崎の鐘』を聴きながら……最初に、こんな見出しのタイトルを決めてから、わたしはこう書き出していた。

台風11号に日本列島が翻弄された8月10日の朝になって、やっと遠くの方で発信されているらしい微かなミンミン蝉の声を聴いた。それでも、安心した。異常気象のせいで、近辺の蝉たちが死滅してしまったのか、それとも涼しいところへ避難していったのか、などと気になっていた。

 そんな夏を迎えて……8月9日になると、決まって蘇ってくる『地獄絵のような痛哭の記憶』がある。


*長崎平和公園の「長崎の鐘」


*長崎平和公園の乙女の像。1986年に訪れたときのもの。

1945(昭和20)年8月9日、午前11時02分、長崎市北郊の浦上地区へ、原子爆弾が投下された。上空500メートルで炸裂。巨大な熱線(放射能)と化した火球は、一瞬のうちに、爆心付近の人々を即死させ、さらに爆風となって4キロ以内の建物と人々吹き飛ばし、やがてあちこちで火災を発生、生き残った長崎の人たちに致命的な原爆ケロイドの傷跡を残していった・・・・・・。

記録によれば、当時の長崎の人口は24万人、そのうち12万人が罹災し、その年の12月末には死者の数は7万を超えてしまったという。

 8月6日の広島市被爆から3日目の惨劇である。それから、69回目の「原爆の日」。慰霊式の模様がTV中継され、鎮魂の鐘がしめやかに打ち鳴らされる。その光景をみながら、否が応でも、国民学校(当時はそう呼んだ)4年(9歳7ヶ月)のあの頃に、わたしは引き戻されてしまう。

 もちろん、広島が「ピカドン」にやられたことなど、10歳にもならない少年が 知るよしもなく、「警戒警報」のサイレンが禍々(まがまが)しく鳴り響く8月8日の朝を迎えた。


*八幡製鉄所を空襲するB29。昭和19年6月の最初の八幡空襲。NHKアーカイブ『戦争証言』より

 いやな予感はあった。前夜もまた、そのころは決まって夜間は近くの花尾山の山腹に掘られた横穴式防空壕に集められ、町内の人が肩を寄せ合って、蝋燭の灯りをたよりに不安におののく夜を過ごしていた。

 午前10時になる10分ほど前に、家の様子見と、食料補給のため、ともかくも、母と就学前の弟二人と、まだ2歳の妹を防空壕に残し、防空頭巾をかぶっていったんは外へ出て、わが家へ通じる松林の間を抜ける小道を駆け下っていた。と、そのときだ。巨大な鳥がヒュンという奇声を発しながら、頭上を通り過ぎたような気がした。ザワザワッと松林が総毛立った。
と、ビシッ、ビシッと音を立て、土煙の列が体の真横を駆け抜けていった。

 何が起こったのか。呆然と空を見上げると、銀色に光る翼を左右にスイングしながら、松林の向こうへ消えていく……。

 それが爆弾を抱いて飛来するB29の前後を掩護(えんご)する、いわば露払い役のアメリカ空軍攻撃機、P47-サンダーポルトによる機銃掃射だと知るのは、随分後になってからで、それよりも、その直後から、わたしの目前で繰り広げられていく白昼の地獄絵は、いまも思い起こすだけで総毛立ってしまう惨(むご)いシーンの連続であった。

 空いっぱいに、200機を超える図体のでかい怪鳥の集団が、我が物顔に舞っている。そして、お腹を開くなり、黒いものを振り撒き始めたのである。
ドーン、ドーン。地響きとともに、火柱が上がり、それが炎となって拡がってゆく。
 
 前年(昭和19年=1944)の6月に八幡が第1回目の空襲に見舞われた後、父が軍属として召集されたこともあって、我が家は糸屋の商いをたたんで、山手に住まいを移していた。斜面に石垣を積み重ねて建てられた2階家で、松林が隣接しており、見晴しだけは抜群だった。


現在の北九州市八幡東区を背後の皿倉山から眺望すると……なんと平和な夜景だろう。

 機銃掃射を受けた後、どうやって山腹の防空壕へもどったのか、記憶が定かではない。ただうわ言のように、母や周りの大人に報告し続けたという。

――八幡の町が、製鉄所が焼けちょるよゥ! 

  なんと午前10時から2時間にわたって、わたしの生まれ育った町・旧八幡市は200機に及ぶB29 爆撃機から投下された焼夷弾攻撃によって、炎上し、火の海となり、あっという間に焦土と化してゆくのを、まだ10歳にもなっていない少年の心に焼き付けて行ったのである。

 記録によれば、この日、八幡の町に投下された焼夷弾は45万発を超えたといわれ、八幡の市街地部分の20%あまりが壊滅した。犠牲者はおよそ3000人。



*昭和20年8月8日 防空体制はすでに無力化し、なすがままに焼夷弾の雨が降った……


*焦土とかした八幡の街 製鉄所よりそこに働く社員住宅がターゲットだった。

 航続距離に限界のある,B29爆撃機が北西の方向に消えて行った午後、八幡の町に黒い雨が降り始めたのを、なぜか記憶している。

 八幡は洞海湾に沿って帯状に広がる坂道の町である。その雨に打たれながら、助けを求めて被災した人たちが、続々と山手に向かって、這うようにして上がってくる。水をくれ、助けてくれ。薬をくれ。そのうめき声と、ボロボロになった着衣の下から覗く焼けただれた肌が、その時の光景の痛ましさを増幅してしまう。

 その日の夕方、我が家に白い海軍士官の軍服をボロボロにした被災者の一人が、倒れるようにして転がり込んできた。9歳年上の兄、昭次であった。短剣だけはしっかりと左腰に携えていた。
 どうして、神奈川県鵠沼で無線通信の見習い士官として戦っていると聞かされていた兄が、なぜ空襲のさなかに八幡に帰ってきたのか。

 兄・昭次はそのまま、半死半生の状態で8月15日の終戦の日を迎えた。
                      (この項、続く)


Posted at 2014/08/18 02:48:09 | コメント(5) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2014年08月02日 イイね!

懐かしのマジェスタで『音羽ニュル』をアタック!?

懐かしのマジェスタで『音羽ニュル』をアタック!? ~初代V8、Cタイプを乗り潰してから12年が経って~

 八月に入ったばかりの西の夜空を、稲妻がしきりと走る。まるで天が何かに対して、怒っているみたいだ。恐らく、みんカラBLOGを1ヶ月近く、サボってしまった「チョイ悪爺イ」への叱責・・・・・・に違いない。

 毎日、お暑ウございます。お元気かな。久しぶりのご挨拶です。

 さて、わが『愛しのプログレ』はいま、故(ゆえ)あって実家に里帰りさせ、手元にいない。代わりにやって来たのが、クラウン・マジェスタのハイブリッド版。真っ黒の扮装(いでたち)で、ガバッと大きく口を開いたようなラジエータ・グリル。その真ん中にどっかりとクラウンのシンボルである王冠エンブレムが鎮座する。



 この、ちょいとオーバーアクションなデザインにも慣らされたせいか、最初ほど抵抗感なく、そのエグイ面構えを受けいれるようになったみたいだ。いや、むしろ新しい時代の波を感じてしまい、他のセダンたちが、なんとも時代遅れで、鈍臭く感じてしまうほどだ。



 正確にはマジェスタ”Fバージョン”。「世界に誇る環境性能と、卓越した動力性能をひとつに」というTOYOTAの願いをこめて、V6 3.5ℓ FRハイブリッドシステムが与えられた、新時代のフラッグシップカーだという。お値段も凄い。ナビやオーディオや運転支援機能を含むオプションが加わって、ほとんど700万円に近い。

 いまのTOYOTAは、すべての車種にハイブリッドシステムと組み合わせるのに総力を挙げている。その頂点に、このマジェスタが「トップ・オブ・クラウン」として指名されたという。どんな新しい世界を準備しているのだろうか。ぜひ一度、日常の中で一緒に暮らしてみたい。その贅沢な願いがかなえられて、マジェスタのどっしり重いKEYを受け取ったのは、7月が終わりかけた真夏の真っ昼間であった。

 一応、エンジンは切ってあるものの、マジェスタのドライバーズ・シートに腰を落とすと、冷やされた空気が快くわたしを包む。心遣いが行きわたっている。大ぶりなエンジンのスタートキーを押すと、一瞬の間をおいて丸い2連メーター(オプティトロンメーターと呼ぶらしい)の左側で、ブルーの指針が、黒と銀色で配色された文字盤を背景にして、ヒュンと跳ねる。これでハイブリット車は始動OK、ということらしい。TOYOTA車に乗って、なににもまして安心できるのは、どんな新型だろうと、基本的にスイッチやレバー類が、同じレイアウトで配置されていることだ。



 つい何日か前の、メルセデスの新型Cクラス(W205)の試乗でも、わかっていながら、ウインカーを操作したつもりで、うっかり右側のレバーに手を伸ばし、ワイパーでフロントウインドーを空拭きさせたり、パーキングブレーキのスイッチを探してみたり、いささか時代遅れの「チョイ悪爺ィ」は、ヨーロッパからのNEWカーに翻弄されつづけている。

 ゆったりとTOYOTA広報車の九段基地から、表通りに出る急坂を下った。
 いつものように靖国神社にぶつかるT字路にさしかかった時、左折をして市ヶ谷方向へステアリングを切るのをやめ、右折ライン側にマジェスタを寄せ、九段坂下を目指す気になったのは、なぜだろうか。マジェスタのあまりの乗り心地のよさに、そうだ、大井貴之クンが「ベストカー」の3月26日号でレポートした『音羽ニュル周回コース・乗り心地テスト』の舞台をマジェスタで走ってみたらどうなのか、と思いついたのである。



 この道草走りで、思いもかけない悲しい発見をしてしまうのだが、マジェスタがわたしにとってなぜ懐かしいかも触れないまま、本日はここまで。悪しからず。必ず、日を置かずに、書き継ぐのをお約束して……。



*スタートの服部坂。突き当りがつい先ごろ物故した著名歌舞伎役者の邸宅、




*健在なり、とんでもない凸凹路面


*1992年から10年20万キロを走り続けたわたしのマジェスタV8
Posted at 2014/08/02 03:03:46 | コメント(7) | トラックバック(0) | 78歳の挑戦 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「チームの勝利を至上のテーマとしている大谷翔平が心配だ。ついさっき(8月13日午後1時過ぎ)の対エンゼルス戦9回表5-5の同点から翔平が右翼席に強烈なライナーを撃ち込んだ。勝負ありか。ところが腰抜けの救援陣が守り切れない。で古巣に3連敗。その上、明日は先発。エライことになりそうだ!」
何シテル?   08/13 14:22
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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