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正岡貞雄のブログ一覧

2014年10月17日 イイね!

復刻エッセイ『キミよ、もう半ラウンド、つき合うかい。』

復刻エッセイ『キミよ、もう半ラウンド、つき合うかい。』~『オーバー喜寿編集長』に火をつけたのは誰だろう?

 SUBARU S4にポンと背中を押されて、18年前の「還暦編集長」に復活した気分で、朝から「イヤーCar」選びに没頭している。

 午前7時45分にプログレで湾岸副都心にあるホテル日航へ。午前9時からの「DEMIO搭載のディーゼルエンジン」のレクチャーは聞き逃せない。そして10時からの試乗。1.5ℓディーゼルエンジン、6速MTをあえて選択。これは正解だった。昼食の後、今度はガソリンエンジンのAT車。なるほど、と納得。


*SKYACTIV-D1.5(6MT) ヨーロッパのアウトバーンで試したくなるほど、Dエンジンのポテンシャルは高い


*同じSKYACTIV-D1.5だが、このボディカラーも悪くない


*こちらは1.3ℓのガソリンエンジン車。お台場界隈から、新しく完成した東京ゲートブリッジまで足を伸ばした。スモーキーローズマイカのボディカラー。

 しかし……40分程度のちょい乗りで 、なにを伝えようか、といつも迷ってしまう。近くタップリと、どこかへ連れ出して、「日本カーオブザイヤー」のグランプリを獲得したDEMIOと対話してみたい。

 午後4時半。プログレを某所に預けて、今度は六本木のメルセデス・ベンツJAPANへ。いよいよ「Cクラス」との短いけれど、心、浮き浮きの「同棲生活」がはじまる。
 そして明日(10月17日)は SUZUKIハスラーの特別試乗会で浜松へ赴くというハードなスケジュールが待ち受けている。

 そこで、窮余の一策。ポンとS4が後押ししてくれたお蔭で、なにか新しいことがはじまりそうな予感がして、こんなアクティブな感覚、いつ以来だろう、と自分に問うた前回の仕掛けを生かすことにしたい。改めて18年前のA8のエッセイをここに復刻しよう、というのだが、このわがまま、お許しいただければ、ありがたい。
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *






*掲載された『Four Silver Rings』発行.1996年

『キミよ、もう半ラウンド、つき合うかい。』
アウディA8が「還暦編集長」に火をつけた

「未完」の無念さが形見分け

 はらり。風もないのに、寒椿が紅い花びらを落とすように、この2月、作家の司馬遼太郎さんが72歳で逝った。その突然の死を悼んでいくつかの週刊誌や総合月刊誌が特集を組んでくれた。司馬文学の巨大な足跡なり、内面の輝きなりがしのばれる企画のなかで、ぼくが惹きこまれたのは『週刊朝日』(3月1日号)の巻頭グラビアであった。

 いきなり、横ッ面を張られた。1967年当時の司馬さんが、自宅の書斎で左手に煙草を燻らせ、カメラに振りむいた瞬間をおさめたもので、右隣りに金赤で「街道を愛しんだ司馬遼太郎さん」のタイトルが添えられていたが、その下段半分こそが、この1ページの主役だった。家康を取りあげた「街道をゆく」の最後の直筆原稿がそのまま、さりげなく飾られていた。

 専用の原稿箋いっぱいに、赤と黄緑のふた色が躍っていた。色鉛筆で何度も推敲を重ねる司馬さんの、作家としての営み。息遣いまで聴こえてくる。

「ここが気にいらんなぁ」

 中央あたりの一節を、歯ぎしりしながら黄緑の色鉛筆でそぎ落としていく司馬さん。
「うん、これでどや?」


*司馬遼太郎短編総集(講談社刊)より

 書き加えた部分を赤鉛筆で、するりと滑りこませて、にんまり、ひと息つく司馬さんの技の冴え。
 そして、「一行アキ」と指定したあとで、それまでのペン書きとは異なり、鉛筆で薄く、
「ついでながら、信玄はこの陣中で病いを得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。」

 と、加筆してあった。あとで知ったことだが、この一文が司馬さんの絶筆であった。どんな気持ちで司馬さんは鉛筆を走らせたのだろう。
 活字になった時、担当編集者が「未完」の二文字を書き入れていたが、彼の無念さも確実に、ぼくには伝わった。紙数が許すなら、司馬さんがどんな出し入れをしたか、一つ一つ検証したいところだが、割愛する。
 ぼくは飽きることなく、色鉛筆で塗り潰された文字を拾った。これが司馬さんからの文章の創りかた、練りこみかたの教えなんだぞ。司馬さんからの形見分けがこれなんだ、とおのれに言いきかせながら……。そしてちょっぴり、担当の編集者を嫉妬していた。

1行の記述が鼠花火となって

まだ、主題のアウディA8の話まで到達できないでいる。が、しばらくお許し願いたい。けっしてA8と無縁の話ではないのだから。
 なぜ、嫉妬したか。デジタルとアナログの関係である。東大阪に住む司馬さんは多分、原稿をFAXで送ることはしなかつたろう。これだけ書き込みの激しい原稿を文明の利器に託するような、無神経さは司馬さんのものではない。

「このごろの編集者はなんでもFAXと電話で用を済ませる。だから、最後まで、顔も知らないで、こちらも仕事を終わらせる。作家と編集者の関係がこんなことでいいのかなって、その出版社の上層部にクレームをつけたら、本人からFAXで詫び状が届いたよ」


*『街道をゆく・モンゴル紀行』に司馬さんから頂戴したサイン。ゆったりした筆書きのタッチがなんとも温かい。

 ある著名な作家のぼやきとも言える述懐である。あらゆる世界がデジタルの方向へ加速するなか、編集者の仕事もけっして無縁ではない。その点、いまだに生の原稿で受け取れる「街道をゆく」の編集者はなんて果報者だろう、という嫉妬であった。だって、それは文章を創る宝庫であると同時に、作家というアーティストと交わえる最高の舞台じゃないか。それはアナログ世界にしかない文化なのだ。

 司馬さんに初めてお目にかかったのは、1964年、司馬さんが41歳、ぼくが29歳のときだった、と書けるのも、司馬さんの年譜に1行だけ、こんな記述があるからだ。

――11月、「伊達の黒船」を『日本』に発表。

 当時、講談社の看板雑誌のひとつ『日本』という月刊総合誌の編集部に籍を置いていたぼくは、読み切り小説の依頼で、その年まで住まわれた大阪・肥後橋河畔の高層アパートに司馬さんをお訪ねした。眼鏡の奥の柔和で深い眼差し、まだ半白だった量感のあるお河童髪。ぼくの差し出した名刺をふわりとした手つきで受け取られる。

「出身は四国・松山ですか?」

 と、尋ねられた声の優しさが、いまでも耳の奥に懐かしく遺っている。初対面の相手の苗字から会話を始められるのが得意だと、後で知った。

「はい。父の代まではそうでした」
「子規との関わりは? 正岡子規も若いころ『日本新聞』の記者だったから、あなたと同じような名刺を使うたんやろな。よろし。四国にまつわる話をお書きしまひょ」

 そのころ、司馬さんは『竜馬がゆく』を上梓したばかりだった。一月後、どさりと一袋の郵便物が届いた。それが『伊達の黒船』だった。幕末四賢侯のひとり、宇和島藩主・伊達宗城と細工師・嘉蔵の蒸気船つくりの物語で、「藩侯シリーズ」の一つとして司馬文学では位置づけられる作品であった。そこでぼくが見たものは、さきに触れた「司馬さんの生命の営み」そのものだった。縦横に躍る二色の推敲の痕。その時の新鮮な衝撃が、60歳になったばかりのぼくの全身を、改めて鼠花火となって駆けめぐったのである。

深夜の試乗は紅い炎に包まれて

 このごろの小説は底が浅くて面白くないね。精神の燃焼が感じられないからな。このごろのクルマもみんな同じ味ばかりでつまらないよ。還暦を迎える前後のぼくは呻いていた。編集長を辞める肚もかたまりかかった。後進を育てるためにも、はっきりした責任を与えてやれよ。彼らもそれなりにやってのけるに違いない、と。
 マラソンでいえば、35キロ地点を走り抜け、喘ぎながらゴールを手探りで求めはじめた走者だった。


*すべての計器がアンバー発光でコーディネートされていた

 そんなさなかでの司馬さんの訃報。それと一緒にやってきたのがアウディA8にじっくり乗ってみないかという誘い。なにかを感じないわけにはいかなかった。

 A8とつき合うのは初めてである。仕事柄、つまらないね、とボヤキながらも、ほかのNewカーには積極的に触れていた。メルセデス・ベンツE320シリーズの鈴鹿試乗会では乗り継ぎながらもフルコースを40周もしてしまった。ローバーMGF、アロファロメオのスパイダーも珍しく気に入ったオープンスポーツだった。が、もうひとつ昂らせてくれるものに欠けていた。国産車はブルーバードSSS、スカイラインR33のマイナーチェンジもの、そして3代目となるレジェンドまで。
 語り始めれば、やっぱりボヤキになるだろう。デジタル世代の創りとはそんなものか、と諦めが先にきた。
 届けられたA8のドライバーズ・シートに滑りこんだのは、もう深夜と呼んでいい時間帯だった。Newカーとつき合うにはひどく暗い夜を選んだもんだ。少し、悔いていた。お決まりの試乗コース、首都高速5号線をサンシャイン傍のICから入り、戸田橋方向へ北上するつもりで、イグニッション・キーを捻った。と、ぼくは一瞬のうちに錯乱した。ぼくの周りが、紅い炎に包まれたように、様変わりしたからだ。

 何が起こったのか。気を鎮めた。A8のすべての計器がアンバー発光でコーディネートされていたのだ。憎い。すごい演出じゃないか。インパネのメーター類はもちろんのこと、パワーウインドーのスイッチまでもが紅い幻想の演出に一役買っている。そして何にもまして、この紅い光の演出が、美しいと感じられたことだ。

やっぱり、創りの現場で闘うぞ!

 高島平を過ぎ、荒川を渡れば、もう埼玉県に入る。首都高速の荒れた路面が俄かに滑らかなものに変化したのを、A8の新しいサスペンションが伝えてくれた。たしかに路面の色が黒く光りはじめている。ぼくの肚は決まった。美女木ジャンクションを左へ、和光方面に折れるつもりだったのを、右へ行ってみるか。東京外環で三郷へ出て、常磐自動車道を走らせてみよう、と。

 実は、A8のアルミボディの効果に魅せられていた。専門的な講釈は同載の他者のレポートに譲るとしても、スチールでは決して手には入れられない、優雅さとしなやかさ。それでいて鞭のような剛性感。クルマ好きなら一度は賞味してほしい逸品だと思う。資源再利用の視点から、セダンでありながらボデイにアルミを用いる発想と、スポーツカーであるためだけにエンジンをアルミで創ったと喜んでいるメーカーと、どちらがしっかり未来をみつめ、クルマを後世に遺そうとしているのだろうか。答えは明らかだ。

 そんなことを考えながら、外環を抜けた。おっと、常磐道へは左へのループに乗らなくっちゃ。慌ててブレーキング。ク、ク、クッと、右足の爪先でABSが反応して、A8のノーズが奇麗に向きを変えた。

 革張りのシートがヒーターに暖められほかほかと、ぼくを包む。もっとも好ましい角度が、どうしてこうも簡単に選べたのだろう。ぼくは首を捻りつづけていた。「もてなし」とか「いたわり」とか「やさしさ」とかを売り物にしたがるこのごろの傾向が噴飯ものに思えた。そんなもの、言われたくないね。こちらがいつのまにやら、そう感じてこその話じゃないか、と。

 下りのトンネルに飛び込んだ。紅い計器類がいっせいに揺れた。光が尾をひく。おや、どこかで出会った光景だ。

 松明がグルグルこね回され、黒い大きな建物の舞台で燃えている。そうか。東大寺二月堂のお水取りだ。


*東大寺二月堂のお水取りの、松明が踊る舞台を連想した……

 あの火の儀式はペルシャから伝わった、と教えてくれたのは松本清張さんの『火の路』だった。 ぼくが編集者としてはじめて連載を担当したのが、同じ郷土の出身の清張さんだった。すでに鬼籍に入られた作家たちの肖像と肉声が、一挙にぼくの視界と聴覚を虜にしたようだった。

 藤原審爾さん、五味康祐さん。どの作家もぼくを編集者として鍛えてくれた。A8は不思議なクルマだ。乗り手とこんなに対話してくれるなんて。確かに、1000万円近いプライスは高価だ。しかし、人生をしっかり疾走してきて、ものの価値、こころのありかたが分かってきはじめた男たちにとって、これほどに心を満たされるクルマがひとつくらい遺されてていいはずだ。残された時間をたっぷりと満喫するためにも……。

 利根川を渡ると、東の空がほんのり、薔薇色に染まりはじめていた。朝か。

 ふいと、得心が行った。「還暦」だからと拘わるのは悪くない。言ってみれば、ゴルフで1ラウンドして、スコアカードに書き込むスペースが無くなっただけのこと。陽はまだ高い。きみよ、もう半ラウンド、つき合うかい? 新しいスコアカードをアウディA8から手渡されたとき、ぼくとA8は谷和原ICから筑波サーキットへ向かっていた。

やっぱり「還暦編集長」として闘うぞ、と背筋がぴんと張ってきた。



 【余滴】この国のモータースポーツシーンの伝説的英雄、ガンさん(黒澤元治)も、あと数年で還暦を迎えるが、現役時代以上に元気。この朝も午前5時からの筑波サーキット・ロケでスポーツカーを誰よりも疾く走らせた(Fニッポンドライバーの子息・琢弥もその中にいた)直後、A8をサーキットに持ちこんだ。
「剛性感の高さ抜群。特にリヤのサスペンションの出来が印象的だ。ベースがFFなのに動きに無理がない。ある程度、クルマを知っているオーナーにはいいよ」
 筑波のLAPは1秒13秒13。同じ4リッタークラスのセルシオより確実に速かった。

*Four Silver Rings.1996


Posted at 2014/10/17 01:27:50 | コメント(3) | トラックバック(0) | 78歳の挑戦 | 日記
2014年10月14日 イイね!

還暦編集長、18年目の「復活」

還暦編集長、18年目の「復活」~SUBARU S4にポンと後押しされて~

 秩父に通いはじめて丸々四年、西秩父・下吉田の椋(むく)神社は、130年前の11月1日に、西秩父の農民・山の民が「世直し」を求めて蜂起・集結した場所でしられる、という位置づけであったが、その椋神社例大祭に奉納される『龍勢』見物に、初めて足を運んだ。

【左の写真は、「龍勢」が人工衛星さながらに、空に向かって打ち上げられた瞬間。なお、祭事の模様は、随時、追加、補強しています】







*「龍勢」で賑わう吉田椋神社


*境内にある「秩父事件蜂起集結の地」標柱

 手元に届けられた案内パンフレットによれば、《(埼玉県指定無形民俗文化財である椋神社の)龍勢は、別名「農民ロケット」とも呼ばれ、松材の筒に多量の黒色火薬を詰め、まっすぐに飛ばすため矢柄と呼ばれる竹をつけて上空へ打ち上げる煙火です。轟音とともに上空に駆け上がり、落下傘などの背負い物をひらき、矢柄を吊り止めるなどの精密な仕掛けはすべて手仕事で仕上げられています。打ち上げた龍勢は、極力、櫓(やぐら)後方の山中へ落下させるよう努めておりますが、予期せぬ方向に飛ぶことも考えられますので十分ご注意ください》とあり、観覧者に注意を呼びかけているのが異様な雰囲気を予測させてならない。










*炸裂したあと、だんだんと龍の姿に、大成功!



 この祭事は、打ち上げシーンが人工衛星の打ち上げシーンを連想させ、NHKのお気に入りで、ニュース番組での速報や、特集ドキュメントも組んでいるので、ご記憶の向きも多いはず。この龍勢の製法は近辺の各集落に伝承され、現在では火薬製造の資格を得た27の流派が受け継いでいるという。

  折から「台風18号」の接近が伝えられ、予定通りに開催されるかどうかも曖昧だし、往復の交通の便も心配される。それに、毎年10月の第2週の日曜日と決まっているこの秋恒例の祭事は、いつも、こちらの大事なスケジュールとぶつかることが多く、相性がよろしくなかった。
ことしもなにかと忙しい。「祭と民間信仰」の復刻新版本にかかわってきた手前、「龍勢」のことは気にしていても、なにがなんでも、ことしこそ行ってやろう、という積極的なモチベーションは湧いてこなかった。

 そんなウジウジした気持ちをあっさり吹き飛ばし、「出かけようよ」と後押ししてくれたのは、金曜日の夕方に手元にやってきたSUBARUの新しいWRX S4であった。

 新しく移転したばかりの富士重工本社「スバルエビスビル」の地下ガレージでピックアップし、エンジンスウィッチをプッシュした瞬間に始まる「S4ドラマ」の演出に驚き、すぐに気に入ってしまった。だからあえて、早速に「何シテル?」でクイズめいた140字の報告をしてしまう・・・・・・。

――3連休に備えて調達した注目のNew Car。ドアを開いて、コクピットにおさまった瞬間、「オッ!」。真紅に燃えるメーター照明。それも「280」まで刻んである。アクセルに足を乗せて、軽くレーシング。純白の針が、ウィーンと歓迎してくれる。革巻きステアリングの小ぶりさも好感。さて車名は?



 実はこの文章を書きながら、これに似た文章を随分と前に、発表した記憶があるのに、気づいた。多分、あれだ! 帰宅して早速、書棚を捜索する。あった! 18年も遡る1996年に、Audiが展開する広報活動の一環として発行していた『Four Silver Rings』誌に寄稿した『きみよ、もう半ラウンド、つき合うかい』と題したエッセイが、それだった。



 サブタイトルは「アウディA8が還暦編集長に火をつけた」とし、なんと、その書き出しは、クルマとは全く関係のない「作家・司馬遼太郎さんの訃報」に接した話からはじめ、司馬さんの文章の練り込みがいかに凄かったか、に触れたところで、こうアウディA8を登場させていた。
  *    *    *    *
―—このごろの小説は底が浅くて面白くないね。精神の燃焼が感じられないからな。このごろのクルマもみんな同じ味ばかりでつまらないよ。還暦を迎える前後のぼくは呻いていた。編集長を辞める肚もかたまりかかった。後進を育てるためにも、はっきりした責任を与えてやれよ。彼らもそれなりにやってのけるに違いない、と。

 マラソンでいえば、35キロ地点を走り抜け、喘ぎながらゴールを手探りで求めはじめた走者だった。

 そんなさなかでの司馬さんの訃報。それと一緒にやってきたのがアウディA8にじっくり乗ってみないかという誘い。なにかを感じないわけにはいかなかった。



 A8とつき合うのは初めてである。仕事柄、つまらないね、とボヤキながらも、ほかのNewカーには積極的に触れていた。メルセデス・ベンツE320シリーズの鈴鹿試乗会では乗り継ぎながらもフルコースを40周もしてしまった。ローバーMGF、アロファロメオのスパイダーも珍しく気に入ったオープンスポーツだった。が、もうひとつ昂らせてくれるものに欠けていた。国産車はブルーバードSSS、スカイラインR33のマイナーチェンジもの、そして3代目となるレジェンドまで。
 語り始めれば、やっぱりボヤキになるだろう。デジタル世代の創りとはそんなものか、と諦めが先にきた。
届けられたA8のドライバーズ・シートに滑りこんだのは、もう深夜と呼んでいい時間帯だった。Newカーとつき合うにはひどく暗い夜を選んだもんだ。少し、悔いていた。お決まりの試乗コース、首都高速5号線をサンシャイン傍のICから入り、戸田橋方向へ北上するつもりで、イグニッション・キーを捻った。と、ぼくは一瞬のうちに錯乱した。ぼくの周りが、紅い炎に包まれたように、様変わりしたからだ。


*すべての計器がアンバー発光でコーディネートされていた PHOTO by北畠主税

何が起こったのか。気を鎮めた。A8のすべての計器がアンバー発光でコーディネートされていたのだ。憎い。すごい演出じゃないか。インパネのメーター類はもちろんのこと、パワーウインドーのスイッチまでもが紅い幻想の演出に一役買っている。そして何にもまして、この紅い光の演出が、美しいと感じられたことだ。
  *   *   *   *
 S4がスバルエビスビルの地下から出たときは、午後4時過ぎである。
 外はまだ陽光が一杯だった。途端に、暗がり効果を失ったS4のインパネ照明は、紅い炎に包まれた演出の味とはほど遠い、単なる赤いメーターまわりに押し戻されてしまった。が、きっと夜になれば……。ある種の期待感。それがこのS4にある。
 


 恵比寿から中目黒に出て、そこからは、最近は地下の首都高速が出来たせいで、すっかり走りやすくなった環状山手通りを北上、目白通りとの合流点を目指した。

素直に噴け上がるFA20型エンジン。しかるべきステージでもっと踏んでみて、と催促する。サスペンションもレヴォーグほどのゴツゴツ感はなく、荒れた路面での跳ね具合も気になるほどではない。それにパドルシフトの切れ味も、メリハリが効いていそうだ。

 そうだ、やっぱり、日曜日の天候さえ支障がなければ秩父の「龍勢」取材にいってみようか。ポンとS4が後押ししてくれる。なにか、新しいことがはじまりそうな予感。こんなアクティブな感覚、いつ以来だろう。

 それが18年前のA8以来だと知って、改めて往時のエッセイを読み直してみたが……。             
(この項、つづく)

Posted at 2014/10/14 03:26:44 | コメント(3) | トラックバック(0) | 秩父こころ旅 | 日記
2014年10月12日 イイね!

『イヤーカー選び』の季節になりましたね

『イヤーカー選び』の季節になりましたね 所属する『RJC(日本自動車研究者・ジャーナリスト会議)』から、2015年次カーオブザイヤーの選考日程が届いてからというもの、10月中旬までには第1次投票の選考対象に推すべきクルマたちと、できるかぎり「親しくおつき合いする」日々を重ねて来たつもりである。【写真左がメルセデスCクラスセダン】


*TOYOTAハリアー


*NISSANスカイライン

 TOYOTAのヴォクシー/ノア、ハリアー、NISSANのスカイラインはすでに検証済み、三菱・日産連合のデイズルークス/eKスペースもとっくに済ませている。HONDAからはオデッセイとヴェゼルか。これもすでに終了している。

 SUBARUのレヴォーグはつい先日、信州十石峠の追加取材の足として、たっぷりつき合ってもらったばかりだし、WRXのS4は、いま手元で待機して、この3連休中のお相手をお願いしているところである。


*SUBARU WRX-S4


*MAZDAデミオ

 MAZDAが送り出した1.5ℓディーゼルターボのデミオ、SUZUKIのハスラーは近々、試乗会が用意されているし、未試乗の「新顔」には、各カテゴリーの6ベストに入ってくれれば、11月11日の「ツインリンクもてぎ」でのテストデーで試乗できる仕組みである。

 さて外国輸入車部門。メルセデス・ベンツのCクラスセダンには、17日から5日間、大事な秩父取材に付き合っていただくことにしている。この試乗、たっぷりとレポートしたい。なにしろわがプログレの、これからの去就と、間違いなく、深く関わっていくはずだから。


*JAGUAR Fタイプクーペ

 テニスの錦織圭選手をアンバサダーに起用できたジャガーのFタイプクーペはもちろん、チェック済み。なんでも、もう一方の「イヤーカー選び」では、東京モーターフェス2014のスケジュールとのからみで、早々と「10ベストカー」を発表したが、XFを含めたジャガー勢は見事に選から漏れている。

 ちなみに富士重からはレヴォーグが選ばれ、S4/STIが落選。ふ〜ん!? これからじっくり、S4で秩父の『龍勢まつり』(農民ロケットを打ち上げる)取材に赴くので、道々、レヴォーグとの違いなど、味あわせていただくとしよう。


*SUBARUレヴォーグ


*COTYではS4を抑えて10ベストに選ばれたレヴォーグ


 
Posted at 2014/10/12 01:39:50 | コメント(5) | トラックバック(0) | 78歳の挑戦 | 日記
2014年10月01日 イイね!

世にも不思議なパワースポット『散華の地』へ

世にも不思議なパワースポット『散華の地』へ130年前のこの国で「圧制・貧困」からの解放を旗印に闘った「凄い奴ら」のフィナーレ

「黄昏」は「たそがれ」と訓(よ)み、この国の古語で「誰そ彼」、つまり、あたりが暮れ落ちて、まわりの人の顔が定かでなくなり、「だれですか、あなた?」とたずねる頃合いのことを、そういいならわした、と記憶している。
 
 因みに、夜明け前は「彼は誰」=「かはたれ」と呼ぶことから「かわたれ」となっている。

 黄昏の信州・十石峠の午後5時45分。暮色がせまり、辺りの景色も光と色彩を失い、ひと気のないモノロームの世界へと惹き込まれつつあった。



 と、わたしの心に強烈に焼きこまれている1枚の絵が、まるでたった今、眠りからさめたとでもいうように、はっきりと目の前に映し出され、白い鉢巻き姿の男たちの一団が、ザクッ,ザクッと足音を響かせながら、いま陽が墜ちて行ったばかりの西の方角へと行進する……。目をこらすと、先頭の二人が火縄銃を携え、しんがりの二人は竹槍姿の、それなりの武装集団らしい。



 それは「十石峠」とタイトルされた60号の油彩画で、根岸君夫画伯が20年の歳月と情熱をかけて完成させた「秩父事件連作画集」1〜20のなかの15番目で、紅葉したカラマツ林越しに、明るく、低く、ゆったりと波打つ山並みを背負って6人の困民党兵士が大写しに描かれているものだった。

 130年前の11月1日、西秩父の吉田・椋神社で蜂起した「山の民・自由の民」が、こと敗れ、改めて新しいリーダーを選び、信州に新天地をもとめてこの峠を越えて行く「秩父困民党」をモチーフにしたものだった。

 いま、その絵には、秩父市下吉田町石間(いさま)の「石間交流学習館」(要予約)にいけば、「連作画集」全てと一緒に専用の部屋で鑑賞できるが、「十石峠」には、こんな解説文が添えてあった。

――11月6日、困民軍は上州・山中谷(さんちゅうやつ)を遡り、楢原村に達し、宿営した。
 自警団との交戦で捕えられるものも出たが、村々で参加者を増やし、約300名となっていた。
 翌7日。一行は信州との国境・十石峠を越えた。日に十石の米がここを通って佐久から山中谷に運ばれたのが、その名のおこりといわれるこの峠は、その眺望の雄大さによって、通る者にしばらし立ち去り難い思いを抱かせる。
 この峠近くでは、捕虜の巡査殺害という,風景に似つかわしくない事件が起こっている。
 しかし,農民たちは一変した風景の中を、佐久自由党が根をはった地へ想いを馳せながら進んでいった。

 そうか、と得心した。敗走しているはずなのに、妙に明るい、彼らの表情。この段階でも希望を捨てなかった彼らを、根岸さんは描きたかったのだ、と。

 が、実は根岸画伯の16番目の作品が「鎮台兵襲来(馬流)」となっていて、それからの彼らがどうなっていったのか、その暗転ぶりを発信してくる。

 現実にもどったわたしは、慌てて広場に駐めてあったアウトランダーPHEVに乗り込み、彼らの後を追って、佐久へむかう武州街道(299号線)をくだっていくことにした。



 まだ少しばかり明るさの残った一車線ギリギリの、下り一辺倒の道。右に抜井川の渓流が伴走しているのだろうが、それも気配が感じとれるだけで、なにも見えない。

 発作的に、遅い時間に東京を飛び出してきたのを、いまさら悔いたところで、どうにもならない。回生ブレーキを多用しながら、ヘッドライトをたよりに、もう一つ、次の目的地を目指すしかなかった。

 それにしても、このごろ、New Carに試乗する機会が増えたこともあって、ドライビング・スキルが少しは蘇ってくれたのかな。それとも、アウトランダーの低重心構造のバランスがいいのか。すこぶる快適に下っていくではないか。



 やっと、道が開けた。右手に稲田越しに大日向の集落が近づいてくる。

 根岸君夫画伯が「16 鎮台兵襲来(馬流)」で、簡潔に「それから」を伝える。

――11月7日、大日向村、竜興寺に宿営した困民軍は8日に高利貸ら数軒を襲い、軍勢を5〜600人に増大させながら馬流(まながし)に至り、井出家を本陣として宿営した。
 この頃、高崎から急派された鎮台兵1中隊120名、長野警官隊90名は千曲川下流10キロの臼田に待機していた。



 9日明けがた,弾圧軍は全面的な襲撃を開始した。
 応戦もあったが、一方的な戦いで、逃げ惑う者を背後から突き刺すなどの官軍の暴圧ぶりが伝えられている。村の妊婦が鎮台兵の銃弾によって命を落としている。
 困民軍は13人の死者、60数名を残し、海の口に向かって逃れていった。
  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 武州街道こと299号線を下りきって、やっと佐久から清里方面へ南下する141号線に合流した時、あたりはすっぽり、夜の帳(とばり)に包まれていた。

 それでも、困民党の戦士たちが、最後の力をふり絞って、命をかけて抵抗し、散華していった戦場に、暗闇の中を手探りしてでも、この目で確かめなくては、という気力は萎えていなかった。

 実は目指す馬流には、すでに土地勘があった。つい1週間前の9月5日に、わがプログレのドライビングを飯嶋洋治さんに委ねて、秩父から吉田、小鹿野の町を抜けている。





 屋久峠越えで困民党軍の足取りを忠実にトレースしながら、神流川沿いに山中谷には入り、そこでは十石峠越えを後回しにして、霧の出た「ぶどう(武道)峠」の方角をあえて選んで、新しいリーダー・菊池貫平を送り出した信州・北相木村を訪ねることにした。そのあと141号線に出て、東馬流を取材しているのだが、このとき、「散華の地」を見逃してしまった。その後始末が今回の「発作的・十石峠アタック」であった。

 時計の針が午後6時25分を指していた。左側を千曲川が南下している。「そろそろだな」と感じた瞬間、「東馬流」の標識と「秩父事件戦死者の墓」の案内板が同時に目に入った。まるで、だれかが案内してくれているみたいだ。


*R141から東馬流へ。「秩父事件戦死者の墓」とあるのは、この項では触れていない「暴徒鎮魂碑」を指す。


*困民党軍が最後に本陣を構えた井出家。

 記憶のある橋を渡る。小さな集落の中を抜け、クルマが往き来する突き当たりの生活道路を左折。暗がりなのに1本の道がはっきり見える。

  困民軍の首脳が最後の夜の本陣とした井出家の立派な家構えが右手にあらわれた。そうか、この道を真っ直ぐ行くとJRの小海線馬流駅があり、その先の「天狗岩」の真向かいに『秩父困民党散華(さんげ)之地』碑があるはずだ。  

 人家の絶えた田圃の道。頼りになるのはアウトランダーのヘッドライトだけ。「馬流」の簡素な駅舎を過ぎ、それらしい木造の立て標識を発見する。
「掛樋と棚橋跡 秩父事件戦跡」と読める。とすると、お目当ての「散華之地」は?


*JR小海線の馬流駅。130年前の激戦地に囲まれている。



 アウトランダーを停め、辺りを見回すが、何も見えない。その時だった。左斜めの台地のような暗がりから、1台の軽4輪が賑やかにエンジン音を響かせ、こちらに近づいてきたと思うと、あっという間にそばを抜けていく……。地元のクルマに違いないが、なんだか、あなたの探しているものはこちらだよ、と告げに来た、誰かからの使者ではなかろうか。

 よし、いってみよう。アウトランダーのノーズを、賑やかに消えていった軽4輪の方向にあわせたのである。
 このあとは、暗闇から浮かび上がる「散華の碑」と、それと一緒の浮かび上がって来たふたりの男の不思議な像をご覧いただきたい。左が菊池貫平、右が井出為吉。どちらも地元・北相木村から、秩父事件の首脳として参画し、最後まで闘い抜いた男であった。


*真っ暗な闇の仲、アウトランダーのヘッドライトとnikonのフラッシュライトで、どうしてこんなに鮮やかに撮れたのか、いまでも不思議でならない。パワースポットと呼ぶ所以です。



 午後10時25分、練馬の自宅に帰り着いた時間である。

この1日は、長かったのか、短かったのか。どちらにせよ、まだ心残りだらけの『散華之地』との対面である。そこで、今度の土曜日(10月4日)、改めて飯嶋洋治さんを誘って、再訪するスケジュールを樹てた。今度は途中でクルマを乗り捨ててでも、十石峠への旧道を探し、可能な限り、奴らの見たもの。感じたもの、そしてやってのけたことに、すこしでも近づけたら……と願いなが.ら。  (この項、終わる)
Posted at 2014/10/01 16:26:41 | コメント(9) | トラックバック(0) | 秩父こころ旅 | 日記
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「チームの勝利を至上のテーマとしている大谷翔平が心配だ。ついさっき(8月13日午後1時過ぎ)の対エンゼルス戦9回表5-5の同点から翔平が右翼席に強烈なライナーを撃ち込んだ。勝負ありか。ところが腰抜けの救援陣が守り切れない。で古巣に3連敗。その上、明日は先発。エライことになりそうだ!」
何シテル?   08/13 14:22
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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