
〜愛妻プログレとの別れ話をチャラにしてくれた28歳〜
岡山市の東郊、日本三大奇祭「はだか祭り」(毎年2月第3土曜日の夜、西大寺観音院境内で、9000人を越すふんどし一丁の男たちが繰り広げる勇壮な祭り)で有名な町、西大寺のホテルから4月5日の朝9時すぎにアップした
『PORSCHEカレラS《ベスモ同窓会》旅日記』(タイトルをクリックで再現できます)は、それから1カ月が過ぎたたいまも、フリーズしたままである。
*なまはげ(秋田県)、吉田の火祭り(山梨県)と並んで日本3大奇祭にあげられる西大寺の「はだか祭り」。毎年2月の極寒の深夜、「宝木(しんぎ)」と呼ばれる木製の守護札を、ふんどし一丁の男達1万人近くが奪い合う。夜目にも白く立ち昇る男達の湯気。招福除災を願って年に1回、この街は「命」を燃やす。
今回の岡山への旅は、ノートPCを携行し、PHOTO中心の速報を続ける肚つもりであった。初日に宿泊した「西大寺グランドホテル」は前年もお世話になっているので、部屋にLANケーブルを接続できるのを知っていた。そこで、ひと頑張りした甲斐あって「初日」の速報を送信できた。
手応えあり。9時30分にホテルを出て、岡山国際サーキットへ移動を開始する時には、すでに同行の3人組が「旅日記」を読んでいたくらい、手際よく、ことは進んでいたのである。
二日目の宿は「前夜祭」の舞台となった「鵜飼谷温泉ホテル」。21時過ぎには宴会も終わり、ともかくも、その日の撮影分をPCにダウンロードしようとして、一旦、部屋に引き上げ、PCを電源に繋ぐ。つぎにiPhone経由のWi-fiでインターネット接続を試みる。が、うまくいかない。やむを得ない。フロントに降りて、状況を訊ねたところ、ここは山の中なので、フロントのあたりなら辛うじて繋がるかも知れないが……、と心許ない答えが返ってきた。
諦めて、若手メンバーが集合している「大井・デカトー部屋」でおしゃべりに加わった後、夜の露天風呂を楽しむことにした。で、「旅日記」は二日目にして早々と挫折してしまったのである。
三日目は夜を徹して、帰京を急いだ。
4月7日午前1時40分、練馬の自宅着。それでも中山サーキット・コントロールタワー前で、参加者全員がスッポリ収まっている画像を、一刻も早く届けたい一心から、8日の午前中には、その日のサプライズだった「ガンさんのF355走り」と大盛り上がりだった「前夜祭」のワンカットを添えて、BLOG発信を済ませ、このあとじっくりと「ポルシェ」を中心にした「旅日記」を書き継ごう、と約束している。
その約束を果たすに当たっては、「旅日記」の初日に「(4月4日午前6時)代官山料金所から首都高へ。用賀を過ぎ、多摩川を渡るあたりで、雲行きが怪しくなった。どうやら今回の旅は、天候との大バトルになりそうだ……」と、書きはじめところから再開して、気分をよみがえらせていきたい。
−−-その通りになった。港北SAに着くと、雨脚が激しくなった。先着の二人がこちらへ手を振っている。
「じゃあ、ここを出たら御殿場の先で新東名に入って、最初のサービスエリアで待ち合わせましょう」
そう伝えて、「Hawk Yama」組にポルシェのKEYを渡した。こちらはCX-3を受け取り、運転は「2315」君に任せてカメラ係に徹することにしたのである。
さて、ここからが今回、新しく書き起こす『PORSCHEカレラS旅日記』のPartⅡとなる。
コードナンバー991。2014年式のPORSCHE 911カレラSのレーシングイエローの豊かなお尻を、NIKONカメラのファインダーから見つめながら、西へ向かっている。
*ポルシェ・ドッペルクップルング(PDK)の内部構造。別々のクラッチで選択される2つのギアセットを、ひとつのケース統合したような構造。2つのクラッチは、2本の独立したインプットシャフトを介して、トランスミッションとエンジンの間で動力を断続。大幅な加速性能の向上と燃費消費量の低減を、このシステムによって実現。
3.8ℓ、水平対抗6気筒エンジンが生み出すパワーは、最高出力400PS/7,400rpm、最大トルクは440N・m/5,600rpmと強烈極まるものがある。そのパフォーマンスを、今の時代に適応させ、さらに磨き上げたのが、ポルシェ・ドッペルクップルング(PDK)、つまり英語読みすればデュアルクラッチのことで、そのトランスミッションを介して、エンジンパワーは的確にリアホイールに伝達される。そしてその駆動力を途切れさせることなく、瞬時にシフトチェンジを完了させるのがPDKだと、メーカー側の資料は胸を張る。
ちなみにPDK仕様車の場合、静止状態から100km/hまでをわずか4.3秒で到達し、最高速度は304kmに達するというのだが、いま目の前を先行するカレラSは、その牙を剥きだすことも、追い越し車線に出ることもなく、東名高速大井松田ICから御殿場IC間にはだかる山峡の上りルートを、ゆったりと走行している。それでも不思議なオーラが黄色いマシンを包んでいる。白のケイマンPORSCHEが雁行してきたが、あっさりやり過ごした。天候は回復しつつあった。
御殿場ICの先で、新東名に入る。景観がひろがり、路面が滑らかになったのがよくわかる。次のSAで、一旦、カレラS組と合流することになっていた。
そこからは、目の前をいくカレラSのステアリングを握るつもりでいた。が、待てよ、と心の昂りを鎮(しず)める。同行の3人組にも、「今回のイベントの主役はカレラS。まず、中山サーキットで中谷明彦君、できればガンさん、大井君にも無事に賞味してもらうのがお役目。そこのところ、よろしく」とクギを刺している。
決めた。名神・中国高速から山陽道に入って、和気ICで降りる最終スティントだけを担当しよう、と。加えて、約束の駿河湾沼津パーキングエリアがやたらと混雑している。このままの組み合わせで先を急ぐことにして、再び新東名へ。
途端に睡魔が襲ってきた。乗り心地満点のCX−3のナビシートで、ハッと気付いた時には、すでに浜松、三ヶ日を過ぎ、やがて愛知県に入ったことを、カーナビが告げる……。
豊田JCTで先行するカレラSは、東名から分岐する「伊勢湾岸自動車道」へのルートを選んだ。恐らく、前年、ビートで岡山を往復した堅実派の「MDi」君の選択だろう。個人的にはそのまま直進して、名古屋を通過、大垣から右手に伊吹山を見ながら関ヶ原を越え、やがて現れる琵琶湖や大津、京都の町並みを眺めて西下して行くルートが好みであった。想い出もたくさんつまっている。が、路面も新しく、距離も短縮されて渋滞も少ないのは、伊勢湾岸から四日市、鈴鹿山脈を抜けるルートだろう。若い連中の選択に任せることにした。
新しいルートに入ってからすぐに、カレラSが左へウィンカーを出して、次のパーキングエリアへ寄ることを伝えてきた。一息ついたら、クルマを乗り換える約束だった。
「刈谷PA」でカレラSのKEYを受け取った。もじもじしている「2315」君の背中をポンと押してやる。
「いいから。君に任せた」
ここまでのCX−3の運転ぶりで、彼のドライビング・スキルはわかっている。大学時代は自動車部を主宰していた。「2315」という「みんカラネーム」は、日産S15に由来しているくらいで、つい先頃まではシルビアでガンガン筑波を攻めていたというし、なにしろ、ポルシェボクスターMT仕様のオーナーでもある。ドライバーズシートに収まり、走行モードを高速道走行に合わせて「 SPORT」にセットし、「行きます」と一声漏らすと、こちらに軽く会釈する。28歳の若い笑顔が眩しかった。
「2315」君と知り合ったのは、東京・練馬の「サンライフ」で催した「第2回ベスモ同窓会」(2013年10月)であった。会が終わって「懐かしのベスモ鑑賞」用に持ち込んだ40型モニターを持ち帰るのに難儀していた。折からの雨を恨めしく玄関口で見上げていた。そこへ会の終了時にモニター運搬役を買って出てくれた青年のシャンパンゴールドのCLSがスッとアプローチしてくれる。
わが家までの短い時間の会話。その日の感想を訊いたところで、
「キミも平成生まれのベスモ育ちかい?」
「いえ、昭和のシッポ世代ですが、ベスモ育ちです。池袋にあったアムラックスの地下1階で、TOYOTAのモータースポーツ関係のアンテナショップがあって、そこでベスモが無料で見られたんです。市販車で本気のバトルをやっている。すっかり夢中になりました」
「おお、アムラックス(註:1990年9月オープン、2013年いっぱいで閉館)か。そうだった。その開設の推進役だった当時の広報室長の要請もあって、毎月、新しいベスモを置かせてもらったんだが……」
訊けば、飯田橋に住んでいるという。当時の「ベスモ」や「ベストカー」のある社屋とは至近距離で育ったクルマ少年が、いま、ここにいるのか。う〜ん。唸ってしまう。
「その頃もらったTOYOTA車のカタログが、いまはお宝です」
「プログレもかい?」
「持っています」
「近いうちに見せてくれるかい?」
そのころ、12年連れ添って、10万キロを共に過ごしてきたプログレとは、別れ話のさなかにあった。タイヤをグレードアップした。クリスタル・キーパーで磨き上げ、お化粧直しもしてみた。そんな風にご機嫌取りをしてみても、足元の衰えはどうしようもなくてね。それに絶版車だから、純正のショックアブソーバーも入手できないし……。
そんなわたしのぼやきに「2315」君が「メッセージ欄」からヒントを送信してきた。
「ビルシュタインでプログレ適応があります。20万円と、ちょっとお高いようですが、よかったらショップを当たってみましょうか?」
なるほど、その手があったか。ビュルシュタインといえば輸入元は阿部商会。旧知の仲だ。ピレリータイヤを核にして、サーブ、ポルシェ、ビルシュタイン、そしてニュルブルクリンクでのWEC観戦までついた「世界のクルマ一流品を識る旅」をプロデュースして、その当時のクルマメディアに「強烈な刺激」をもたらせた「仕掛け人」。電話一本で状況はつかめるはずだ。
*ピレリ欧州使節団(1982年5月)
その前にもう一箇所、電話を入れたい先が浮かぶ。TOYOTA広報部だ。プログレ購入時に関わった若手のホープスタッフが、「武者修行」を済ませて、先頃、広報部長として帰任したという。一度、挨拶を兼ねて、相談してみようか。
話はトントンとまとまった。面談した新任広報部長は「TOYOTA車をそんなに大事にしていただいていたとは……早速、プログレを再生できる足回りパーツがあるかどうか、調べてみましょう」と、嬉しい返事。
こうして、プログレとの別れ話は解消し、再生プロジェクトが進みはじめる。2014年の3月だった。そうか。このあたりのテーマも凍結したままであった。「2315」君とプログレとの親密な関わりはもっとあるが、それは次回へ。
4月4日午前10時25分。西下する911カレラSは「2315」君のドライビングでまだ伊勢湾自動車道を走っている……。
