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正岡貞雄のブログ一覧

2016年06月30日 イイね!

『週刊現代』創刊号での担当ページです!

『週刊現代』創刊号での担当ページです!~新入り編集部員に何ができたのだろう~


【生意気盛りの突撃Boy】


 『局長』が局長になるまでの『仕事』を掘り起こす……を「連載」します、と予告しながら、7月17日開催の「正岡祭」のための「記念誌」創りに精力を吸い取られてしまった。まだ完全に手を離れたわけではないが、そろそろカメラ持参で、東京スタジアムのあった南千住をぶらぶら歩きができそうなのに、まだ実現できないでいる。

 実はこの新しい『連載』をどこから書き起こそうか、迷っている。
 始めるにあたって、手もとの資料や写真を探したが、これがまた骨が折れ、時間のかかることだった。ダンボール箱に入れておいたはずだが、さてどの箱だったろう? こうなると目指すものを発見できるまで、他のことにまったく手がつかなくなる。

 何度目かの捜索で、やっとお目当てを発見。「週刊現代」創刊号の表紙、目次、自分が担当したものを白黒でコピーしておいたのを見つけた時の安堵感(決して、喜びではない点にご注意あれ)。ため息が出た。



 まず、表紙。ご成婚にあやかっての創刊タイミングだから、テニスコートをバックにして、ラケットとボール。ボールには「HAPPY MARRIAGE TO YOU」の文字があしらってあり、王冠が「V」マークの右サイドに納められている。なんとも静的で収まりすぎたデザイン。当時の売れっ子グラフィック・デザイナーの増田正氏を起用したというのに、この程度か。最終段階の刷り出しを見た時、思わず口走ってしまったのを、いまも苦々しく思い出す。

「なんですか、これ!? ラケットが軟式用ですよ。硬式のものはもっとゴツいんだけど」

 新入社員の見習い編集者の生意気なこの声に、表紙とグラビア担当の先輩社員がギロリとこちらを睨んだまま、さっさとその刷り出しページを引き上げて行った。もう訂正のきく段階ではなかった。以来、その先輩社員には徹底的に無視された。あれからすでに57年の歳月が流れている。

 昭和34(1959)年3月30日。週刊現代は、とにもかくにも創刊発売された。表紙は当然、そのままのものだった。手元にある「講談社社友会」発行の会報に『戦後の創刊誌再訪』というシリーズ巻頭企画があって、その第7回目が『週刊現代』であった。そのページに当然、創刊号の写真が掲載されているが、やっぱり最初に、発売前に目撃したときの感想と全く変わらない。

 その紹介記事はちょうど10年間に書かれたものだが、これからしばらく「週刊現代」を舞台に生きた時代を、思い出しながら「局長になる前の仕事」として筆を進めていく便宜上、基礎知識として、ちょっと読んでおいていただきたい。

—−−新時代を切り開いた創業50周年企画—
● 本社初の一般週刊誌がデビュー

 昭和34年(1959年)は、講談社にとって創業50周年の記念すべき年であった。
 野間省一社長は、新年の年頭所感で「獅子奮迅の年」提唱、明治・大正_昭和の三代にわたり50年の今日を迎えて、愛読者のご愛顧と業界の格別の御支援を深謝した。と同時に、記念事業、出版、新分野の開拓などスタートライン煮立つ決意を表明した。
 講談社が週刊誌発行を決断したのは1月で、2月2日には、野間社長は臨時社員総会を招集、一般向けと児童向けの週刊誌の創刊を発表、創刊予定は3月末と宣言する。
 週刊編集局を新設、編集スタッフが揃う間もなく、編集部は“初体験”の仕事に不眠不休の臨戦態勢で執筆者確保、取材に飛びまわった。紆余曲折を経て誌名は一般向けは「週刊現代」、児童向けは「週刊少年マガジン」と決まった。
 「週刊現代」創刊号は3月30日発売、定価30円、35万8000部をつくり、90%近い売れゆき。トップ記事は“ご成婚はこのように行われる”。力強いスタートだった。  (クロニック「講談社80年」より)



 そのころ、世はあげてミッチーブーム、4月10日皇太子殿下、美智子さんご成婚を前に、「週刊誌創刊“戦争”が勃発。「週刊朝日」「サンデー毎日」など新聞社系強力布陣に出版社系が殴りこみをかける。すでに「新潮」「女性自身」が先行していたが、そこに「現代」「文春」「コウロン」(当時・中央公論社)が加わったのである。そんな大激戦必至の中で船出した「週刊現代」創刊号の中身はどうだったのか。
 4月10日創刊号の目次を紹介したい。
 まず、特集。「ご成婚はこのように行われる」と「八百長相撲はやめてくれ」の2本立て。
 売り物は「四大連載小説」で、ちょっと並べて見よう。
 寒い朝    石坂洋次郎
 飯と汁    川口松太郎
 男が爆発する  柴田錬三郎
 すれすれ    吉行淳之介
 
 当時の雑誌の柱は、どのジャンルを問わず、連載小説であった時代だから、こうした布陣になっていた。わたしの記憶では、売れ線NO.1の松本清張さんの連載「雲を呼ぶ」があったはずだったが、実際には5号目の5月17日号からで、よく考えればその担当に新入社員のわたしが指名されたのだから、創刊号であるはずがない。



 創刊号で担当させられたのは「連載漫画 神様万歳」を萩原賢次宅に居催促で徹夜してこい、と送り出されたこと。それともう一つ、『ギャンブルレーダー』というコラムページ。競輪、競馬、株式を1ページで好きなようにまとめてみろ、という編集長命令だった。つまり試されているわけだった。
 そこで好きなようにまとめてみた。たとえば競馬の欄。

「4月5日は中山競馬スプリング・ステークスがある。
これは昨年秋から走り出した3歳馬がいよいよ4歳馬になり、馬一代の大目標であるダービーを目前にして、全力をあげてたたかう面白さがある。
 このレースは3歳馬当時の成績で千4百メートルタイムの最もよい馬が有力となる。
 4歳馬は人間にたとえれば、20歳だ。青春期にあるだけに波立ちもはげしい。当日、馬をよく見るとよいが、馬に下剤を飲ませて、下見では顔を背ける状態だが、走り出すときには、馬身爽快? 差し脚も鋭いという裏話もあり、逆に走り出してから下痢がきくと、お話にならない。
 馬券にはいくつかの買い方がある。
 競馬で儲けることに心をとらわれ、家産を傾けるというのは、いかさま情報に乗ってしまうからだ。
 週末をたのしむ健康なサラリーマンには、まず郊外の緑とオゾンに親しんでいただき、スポーティな買い方をおすすめしよう。
 堅実型には2、4、6、8、10の偶数レースに本命の表裏買い。1回の投資額は200円にかぎる。スリル迎合型にはズバリ4−5。論理的根拠はないが、4月5日であることから偶然の神に祈理を捧げるのも悪くない。
 これを100円銀貨1枚で、1レースから最終レースまで押せば、投資額は千円だ。あるいは、最終レースだけを特券買いで、4−5とくれば、そのまま熱海へでもお出かけください。

 この担当記事は、紹介してもらった競馬ニュースのベテラン記者からの聞き書きだった。4月6日の昼休み。当時、講談社の経理局幹部のS氏が、寿司折を下げて編集部へやってきて、わたしの「ギャンブルレーダー」の推奨通り最終レースを勝って大当たり、と礼を言いにやってきてくれた。あのコラム、何回続けたのか記憶にない。何しろ新入社員は3人だけ。「おーい、新入り!」と何かにつけ雑用を仰せつかる。



 3号目にはとうとう「特集記事」の目玉となるインタビュー取材をやらされてしまう。題して『天皇制に石を投げる世代』。ご成婚パレード中の馬車に、一人の少年がかけより、ポケットの中から石を取り出し、お二人に向かって投げつけた事件である。その波紋を取材せよ、という編集長の指令。次回はそのページをぜひ紹介したい。わたしの23歳の春であった。
Posted at 2016/06/30 01:35:57 | コメント(2) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2016年06月06日 イイね!

新連載の予告=『局長』が局長になるまでの『仕事』を掘り起こす

新連載の予告=『局長』が局長になるまでの『仕事』を掘り起こす 創刊期の「週刊現代」で「プロ野球専門」となったばっかりに……

【左の写真は1970年、Roma郊外、アッピア街道にて。カメラマンは誰だったのだろう? 当時の熱々カップル、石坂浩二か浅丘るり子のどちらかです】

 北九州で生まれ育って、なぜ阪神タイガースをプロ野球が復活した昭和21年(1946)以来、ずっと贔屓にしているのか。

 なぜ「ソフトバンク・ホークス」、ちょっと譲って、大下弘、中西太、豊田泰光、稲尾和久といういまだに語り継がれる最強スター軍団、三原脩監督が率いて圧倒的に強かった「西鉄ライオンズ」のファンでないのか。


*世間の人が出勤で出かける頃、やっと帰宅した時代。さかしまに生きる、自嘲気味にそういったが、それが嫌いではなかった。

 時間に追われているからと言って「何シテル?」の140字で身辺の出来事をまとめて胡麻化すのは、まあ目をつぶるとして、デイリースポーツと阪神ネタばかりは許せない!

 などなど、誰も面と向かって、指摘をしてくれなくっても、それくらいのことは自覚している。

 そんな時、みんカラ編集部から「6月9日でみんカラをはじめて5年が経ちます!〈この一年のみんカラの思い出を振り返ろう〉というお祝いのメッセージが届いた。おお、そうだよ。こちらもその気で、これまでの「5年分」を「局長の仕事」として単行本にまとめようと、動き出したところじゃないか。


*講談社社友会の会報。今度出るのが113号とか。

 さらに、そんな時、講談社の『社友会』から、「社友サロン」に入れる原稿執筆の依頼が届いた。その会報には、折にふれ、寄稿してきたが、いまでも記憶に残るのは『告訴第1号』と題したエッセイである。これまで秘めてきたが、当時の関係者はほとんどが、彼岸の人となっているからもういいだろう、というので掲載したものだが、次の社友会の集まりで、そんな話は初めて聴きましたよ、とかなりの反響があった。

 その事件とは? 当時、週刊現代の編集者だったわたしの担当記事を、「大毎オリオンズ」というプロ野球の球団を経営し、かつ大映という映画会社の社長であった永田雅一氏(通称ラッパ)が「週刊現代」を告訴する、と大見得をきったことに始まる「企業ドラマ」であったのだ。ちょっと、その一文を紹介しようかな? 実はこれ、6年目を迎えるわたしの「みんカラ」の新連載予告にするつもりで、用意していたものなのである。


*1961年8月1日付けの「スポーツニッポン」。クレジットを見ると「和田」と記者名が明記してある。なんのことはない。わたしの担当する「スポーツページ」で内職原稿を書いていた「プロ野球担当」の常連記者グループの一人ではないか。

 これが、「ベストカー」&「ベストモータリング」の原点だよ、とこの際、胸を張って宣言しておこう。では予告編としての『告訴第1号』、エンジンのStartボタンをプッシュする……。

告訴第一号      正岡貞雄

──私は昭和三四年三月、早稲田大学教育学部社会学科を卒業し、同年三月(誤植ではなく、この年、週刊誌創刊準備のため、ひと月早く繰り上げ入社となった)講談社へ入社しました。そして、週刊現代の編集部員として、現在に及んでおります。週刊現代の編集長は松井勲です。週刊現代の本年八月十三日号は七月三十一日に都内に一部発売され、八月一日より八日までの間に全国で発売されました。
 
こんな書き出しではじまる私の「供述書」が、かれこれ六〇年近くも眠ったまま蔵われている。表題は「大映関係供述書」とあり、一九六一(昭和三六年)八月一五日午前九時五〇分から午後三時五〇分まで、東京地検536号室で池浦泰雄検事に編集担当者として事情聴取を受け、その供述内容を、許しを得て書き写したものだった。もちろん会社に報告するためである。 

──この号の編集会議で、あれだけ実力のある大毎オリオンズの成績が、特に今シーズンは非常に不振なのは、チーム内の人間関係になにか欠陥があるのではないか、ということと、次に球団のオーナーの関係において何か不自然な点があるのではないか、ということと、さらに、大毎のフランチャイズとしての新球場を東京に建設するということは、野球ファンにとって大きな関心事なので、その実際の進行状況をも取り上げたいと提案しました。そこで他の編集部員も賛成し、松井編集長も、よかろう、と申し、私が取材・執筆を担当することとなりました。(以下、略)


*全5段を使った新聞広告。その号の「Top記事」だったのがわかる。「大毎オリオンズ」がどこの「前身」か、わかりますか?  

 早速、一九六一年当時の状況を確認するため、国立国会図書館に足を運んだ。朝日・毎日・読売三紙の縮刷版を開くと、八月一日つけの各紙に「週刊現代」の広告はきっちり掲載されていて、そのトップ記事が「クーデター寸前の大毎オリオンズ=永田・宇野・田宮をめぐる暗流」だった。さて、告訴報道の方はどうだったかな?
 主要三紙の八月中旬までを洗って見たが、どこにも見当たらない。
 遠い記憶をまさぐる。八月一日、出社すると、松井編集長と一緒に、役員室に呼び出され、いきなり、編集担当の専務から言い渡された。「大映の永田雅一社長(大毎オリオンズのオーナー)が今回の記事で告訴するといっている。直ぐにうかがって、とにかく謝ってき給え」と。
 松井編集長が抗議する。「記事には自信がある。永田ラッパと徹底的に闘わせてください」あの時の彼の気迫が効を奏したのか、野間省一社長が「受けて立とうじゃないか」とおっしゃったことから、事態はいっきに進捗したものだった。

 そうだ、スポーツ新聞を洗ってみよう。
マイクロフィルムで閲覧できる仕組みになっていた。大毎オリオンズなら「スポーツニッポン」だ。手続きをして映写機に取り組む。
 八月二日の第一面左側の六段を使って、永田ラッパが鳴り響いていた。「優勝はできるさ」という大見出しに「永田大毎会長 週刊現代を告訴」というコピーが付けてあった。記事の内容は、オリオンズの優勝を妨げ、内紛を起こさせる謀略以外のなにものでもないが、許せないのは新球場建設問題に関する記事で、資金難から某社に移るとか、サギ行為だとか、名誉毀損も甚だしい。したがって名誉毀損と営業妨害という立場から講談社並びに編集責任者を告訴する……この記事が出たところで、永田ラッパは一松定吉弁護士を代理人として東京地検に告訴状を提出することになる。
 
 恐らく、講談社にとって、こうした大袈裟な告訴事件は、初めてのことではなかったろうか。顧問弁護士は、宮崎直二という、かつて湯西川事件解決で名を馳せた老齢の方がただ一人いるだけ。そこで急遽、砂川事件の主任裁判官から弁護士に転身したばかりの伊達秋雄氏を起用する力の入れようだった。社長主催の打ち合わせは柳橋の料亭が使われることも多く、事の重大さを改めて思い知らされた。

 争点は、記事の後半で展開した『おシャカになるか南千住球場』と小見出しのある部分だった。永田ラッパがその年の六月に構想を明らかにした新球場建設が一向に進展してないことを取材・指摘した点だった。大毎オリオンズの親会社である大映では東京スタジアムを建設することを一つの目的に入れて、新株を募集を募集している点を衝いたのが、逆鱗に触れたという訳である。

結果からいえば、東京スタジアムは、翌一九六二年六月に、俄仕立てのままオープンしたものの、スタジアムの建設費すら償還できず、球団はロッテに売却され、一九七三年には閉鎖されてしまう。

 手許にある「供述書」を読み返してみると、兜町界隈ではその頃から大映の末路を予言しており、球場建設段階での関係官庁へのゴリ押しぶりも目に余るものがあったのがうかがえる。


*創刊当時の「週刊現代編集部』。いまだに健在なのは3人だけ。後列、向かって左から2人目に伊藤寿男さん(テーミス編集主幹・FRYDAY創刊編集長)と前列右端の名田屋昭二君(ペントハウス創刊編集長) 

八月末、永田雅一社長と野間社長が都内某所で会談し、和解、成立。雑誌ジャーナリスムの一員として、かけがえのない体験をさせて貰った私は、かねてから希望していた「日本」編集部へ転籍していくことで、一件は落着した。

●社歴 1959年入社、週刊現代配属 62~64年、日本編集部 64~72年、ヤングレディ編集部 72~74年、再び週刊現代 74~76年、月刊現代 76~77社長室 77年、講談社関連事業開発のため、退社。三推社、2&4モータリング社を設立。02年、退職。

 ある意味、これがわたしの「ファーストラン」だったかもしれない。その想いを確かめるために、近く、NIKONカメラを携えて、南千住の「東京スタジアム」の跡地が今どうなっているのか、プログレを駆って、訪れるつもりだ。
Posted at 2016/06/06 18:09:20 | コメント(7) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
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「終戦の日から80年。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」の玉音をラジオから聴き取った9歳の少年の記憶を今日こそ書き残して置こうと言い聞かせながらルーチンのデイリー買いに。虎軍団の巨人戦への昂ぶり。快し。それの比べて孤軍奮闘の翔平の痛ましさはどうだ! ま、パイレーツ戦に期待しよう。」
何シテル?   08/15 08:50
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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