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正岡貞雄のブログ一覧

2016年07月29日 イイね!

「創刊3号」と《駆け出し時代》の痛い記憶

「創刊3号」と《駆け出し時代》の痛い記憶〜あの先輩編集者のお陰でイロイロと〜 


 1959(昭和34)年創刊の『週刊現代』で、その駆け出し編集者としての「ファーストラン」に焦点を合わせようとすると、どうしても「天皇制に石を投げる世代」の舞台裏に触れざるを得なかった。

 その結果、わたしの「みんカラ」BLOGの若い仲間たちにとって、霧の向こうの、何がテーマなのか、およそ食欲のわかない、縁の遠い内容だったろう。

 それを承知の上で、「天皇制」がどうだというのではなく、あの時代の空気にくらべて、平成の時代に、国民に親しまれる皇室のあり方に心を砕かれた天皇、皇后さまの目指されたものを、その好ましい温度差を、感じ取って欲しくてあえてアプローチしてみた。それともう一つ、今の時代に比べて、稚拙かもしれないが、ひたむきに真実を伝えようとした当時のメディアの、乱暴だったが自由な空気を、それとなく紹介したかったのかもしれない。
 
 ブログをアップしたのが、土曜日(23日)の午後2時半。それからの半日、およそいつもの熱い反応が感じられないまま、ひっそりとした日曜の朝を迎えた。



 日曜の朝はなんとなく、午前8時からのTBSの『サンデーモーニング』にチャンネルを合わせてしまう。関口宏司会の長寿番組である。その中でも「喝!」「天晴れ!」の「週刊・ご意見番」はなんとなく見てしまう。張本勲氏については、功罪いろいろの評判はあるが、ま、ゲストを従えての時代劇っぽい登場の仕方は、嫌いじゃない。これだけ長く続いているのは、それだけの役割をはたしているからだろう。この日のゲストはボクシングの元世界チャンピオン、内藤大助さんだった。
司会の関口宏が早速、イチローの「メジャー通算3000本安打」達成に向かって「あと4本!」のフィーバーぶりに、水を向ける。言下に張本勲が斬って捨てる。
「これからイチローのいるマーリーンズは地元で10連戦でしょう。きっと当初は先発で起用しないで焦らしておいて、最後までお客の気を引き、最後にドカンですよ。向こうの球団の常套手段です。最後の4連戦にヤマを持ってくるでしょうね」

 天晴れな回答だと思う。フィリーズ戦にはチマチマと代打中心の起用で、7月29日からのカージナルス戦にフィーバーのピークを企んでいる。恐らく、張本予言はズバリ、当たるに違いない。



 前置きはここまでにしよう。実は過日、週刊現代創刊期の写真探しをしていたら、その張本勲氏がプロ野球選手になりたての頃、一緒の撮った写真が出てきた。場所は東京駅、夜のプラットホームである。スポーツシャツに厚手のツイードの上着。まだ春が浅い時期ではなかったろうか。

 多分この時の張本選手は新人王をとった次の年、つまりプロ2年目の19歳だったろう。その若さにしては、なんという落ち着きのある、いい笑顔をしているのだろう。そして、右手にカメラのストロボを握って、真ん中で嬉しくてしようがないふうに顔じゅうで笑っているのが小生で、向かって右手のお相撲さんのような巨漢が、週刊現代の先輩編集者である萱原宏さん。指導社員として何かとわたしの面倒を見ていただいていた、忘れられない御仁である。

 愛称「萱さん」。裏ではこっそり「関取り」と呼んでいた。拓大相撲部出身だとかで、大相撲の内幕に通暁していて、創刊号の柱記事の一つ、「八百長相撲はやめてくれ」はほとんど「萱さん」が書き上げたものだった。週刊現代に配属される前は「講談倶楽部」。だから海音寺潮五郎、山本周五郎、山岡荘八といった時代もの作家との親交が深く、創刊5号目から執筆が予定されていた松本清張さんの本来の担当は彼にきまっていたが、彼はその挨拶にサポート役としてわたしを松本清張宅に連れて行った後は、原稿の受け取り、挿絵画家への原稿渡しなど、すべてをわたしに任せてしまう、おおらかな先輩だった。

 もう一つ付言すれば、彼の父親が講談社創業期の功労者で雑誌部門を取りしきっていた「伝説の編集者・萱原宏一」の子息で、何かにつけ、その「ぼんぼん気質」が彼に影響していたように思える。
 
 そんなことを懐かしく思い出しながら、改めて「創刊3号」の目次を点検してみるとグラビア企画の末尾に『話題の人…山本八郎、張本勲』とある。早速、そのページを確認する。あ、これだった! 夜行列車の窓から体を乗り出して、新聞を買っている二人の青年。



 話題の人 〜パ・リーグ戦線異状あり〜
 フライヤーズの人気男 右 張本勲外野手(18)
左 山本八郎三塁手(21)

 捕手から転向した八ッチャンこと山本急造三塁手が、ぽろぽろエラーをするやら、それを上廻る大当たりで大向こうを唸らしたら、同じ浪商の後輩、ハリこと張本外野手が、持ち前の強心臓で大物をカッ飛ばしてファンの度肝を抜いた。
 元気すぎてとかく話題の多い二人だが、パ・リーグをかき乱す台風眼的存在として注目されている。

 間違いなく、創刊3号の取材時の写真だった。ということは、ここに写っている「張本勲」は入団した年の4月のものではないか。これで18歳とは驚きだったが、嬉しいのはともにデビューしたての1年生同士だったということ。ちなみに彼らの所属する「東映フライヤーズ」はいまの「日本ハム・ファイターズ」の前身で、この時の監督は巨人を追われた水原茂だと思っていたが、調べてみると、それは2年後のことで、この年は現役時代、「神主打法」で鳴らした岩本義行だった。

 東映フラヤーズの監督となった水原は、1961年のシーズンこそ終盤まで南海ホークスと優勝争いをし、結局は2位におわったものの、次の年には日本シリーズで阪神タイガースと戦い1分2敗から4連勝して日本一に輝いている。その軌跡にあわせて、張本勲はONと謳われた長島、王と肩を並べる、プロ野球界の看板選手に成長していった。



取材が終わって、東京駅から社旗を立てたハイヤーで、音羽文京区の講談社まで萱原先輩とカメラマン氏はバックシートに、わたしは助手席に乗って、意気揚々と帰っていった。わたしとカメラマンがハイヤーから降りると、そのままハイヤーは萱原先輩をのせたまま、街中へ、再び走り出した。
 
 何日か経って、わたしは大久保房男編集長の呼び出しを受ける。
「キミは新人のくせによう働くなあ。この1ヶ月で、ハイヤーの使用のNO.1はキミだと庶務課から報告があったぞ」
「え⁉︎ ぼくがハイヤーを、ですか? たしかに萱原さんに言われて、松本清張さんのお宅に挨拶にいくとか、蔵前の大相撲部屋の撮影とか、伝票はすべてわたしの名前で出しましたけど……」
「そうか、それでわかった。これからは伝票出す時は、編集長の判をもらうようにしなさい」



 編集長のいう本当の意味がよくわかったのは、それから3年後の「告訴第1号事件」なのだが、ともかく、カッコよく社旗を立てて、という「夢のような時間」はそれから先、2度と訪れなくなった。

 創刊1年目の「週刊現代」は号を重ね、扱うテーマも試行錯誤をかさねながら、苦闘し、それでも確実に成長していく……。が、その裏で、何日も徹夜を重ね身も心もボロボロになりかかる編集部員も出はじめた「残酷物語」も、この際、触れておきたいが、それは、次回に。
Posted at 2016/07/29 02:23:31 | コメント(3) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2016年07月23日 イイね!

この『天皇制に石を投げる世代』を、今でも真っ直ぐ書けますか?

この『天皇制に石を投げる世代』を、今でも真っ直ぐ書けますか?〜『週刊現代』創刊第3号の白眉となった特集記事〜



「飛び出した無言の少年」という小見出しで始まる特集記事の書き出しからはじめよう。
 恐らく、このシーンを記憶しているこの国の人が、今、どのくらいいるのだろうか。もし記憶していたとしも、この記事を読んでから、ああ、そんなことがあったね、といった程度かもしれない。昭和三十四(1959) 年四月十日という日は、それほどに遠くなっているのだろうか。



−−−−その日、二時三十七分。
 皇太子旗をおしたてた騎馬警官を先頭に、お二人の乗った馬車が祝田橋近くにさしかかったとき、五メートルおきぐらいに並んだ警官の間をすり抜けて、緊張でひきつった形相の少年が馬車にかけよった。ポケットの中から取り出した拳ほどの石をお二人に投げつけたのだ。

 パシリ、と鈍い金属性の音がして石が馬車のドアにぶつかった時、一瞬ハッとした警官も観衆も、まだこの時はその場の熱狂ぶりにまきこまれて、ただ無言でこの男の動きを見守るばかりだった。気がついていたのは、馬車の、少年が走りでていた側に坐っていた美智子さんだけだったろう。つづけて、もう一発。とっさに身を沈めて皇太子さまの方によりそった美智子さんめがけて、少年は馬車にとびついた。ようやく身をていしてお二人をかばう車従とかけよった警官たちに遮られてこの少年がとりおさえられてこの少年が取りおさえられるまで、ほんの二十秒たらずのこと。パレードは、この白昼の無言劇に気のつかぬ観衆をのこしたまま、つづけられていった−−−−



 テレビのカメラは、三局ともこの一部始終をとらえて送り、視聴者は予測しなかったこの事件に、興奮で息をつめた。
 これは、四月十日の、もっとも大きなショックを与えた事件だった。国内の新聞も、外国の通信社も、これを大々的に報道した。
 重大なことは、一方に、玉ジャリの上に敷いた粗末なムシロに正座し、拝むように泣いて迎えた老人層であり、もう一方には、映画スターを見物するように、珍しい人、美しい人を眺めた若い人びともあったが、それとは別に、もっと複雑な気持ちで沿道に立ち、この少年の行為に共感をもつ人びとがいたということである。しかも、そういった人びとは、ラジオでも新聞でも、どしどしその意見を発表してきていることである。

 パレードの歓迎に見られたこの様相は、戦後、皇室を畏敬する念が薄れるにつれ、かつてない親しみをも持つようになったことのあらわれでもあるが、革新的思想の人びとや進歩的文化人が天皇制に対して加えたいろいろな批判とは別に、いわゆる皇室ブームのさなかに、新しく皇室とか天皇制に対して、極めて批判的な世代が生まれつつあることは、注目すべきことである。
「われわれはこの少年のようなのが、二、三人は出てくると思ってましたよ」
 宮内庁記者クラブに詰める各社の記者は、こう言っていたほどだ。

 さてここからが、注目の部分で、石を投げた少年の「肖像」がエッチングされている。どこにも紹介されていない貴重な資料なのだが……。



 最初に、丸ノ内警察に留置されているこの少年の場合をのぞいてみる――
 ――昭和十五年(1940)、長野県伊那郡の、村の中では上級の家庭に十人姉弟の末っ子として生まれた。姉が八人、下二人が男だった。小中学校時代はわがままなきかん気の坊やで過ごし、伊那北高に進んだが成績は中位、特にめだつ存在ではなかった。
 昨年暮、高校卒業の際同志社大学を受験したが失敗、上京して新宿のガソリン・スタンドに勤めた。八月、村長をしていた父親が死んだので帰郷したが、今年の一月末、今度は早大と中大の法科を目指して上京した。しかし、大学は狭き門だった。
 最初に天皇制に疑問をもったのは小学校五年の時だった。皇族の一人(貞明皇后らしい)が亡くなった時、全校生徒に強制的に東に向かって礼拝をさせられた。その時「冥福を祈るのはいいが、東京で死んだ人に長野からおじぎをしたってなんにもならない」と考えた。この考え方はそのまま持ち続けられたが、表面化しなかった。皇太子(調書には必ず明仁とかくように要求した)の結婚が決まり、行事がつぎつぎと報道されるようになると、再び考えだした。
「高校三年の時学校が全焼したが、生徒が七百五十人いるのに再建費は四千万円だった。皇太子の場合は御所建築だけで二億三千万円。しかもそれは国民の税金ではないか。皇太子が結婚するのは祝福されて当然だが、税金を使い、国民に道を開かせてまでパレードすることはないではないか……」と。

 当日、朝九時半ごろ、下宿をでると石ころを二つ拾って皇居前にむかった。パレードの時、皇太子と美智子さんは幌のついた馬車に乗るものと思っていたので、戸の開け方もわからないため窓ガラスを石でこわせばなんとかなるだろうと思っていた。皇居前の混雑をそれ程予想していなかったので、結局三度場所をかえてようやく最前列に出ることができた。
 石が当たらないので、馬車のドアを開けて美智子さんをひきずり落とし、パレードをめちゃめちゃにするつもりだった……

 このあと、「創刊3号」の記事は、丸ノ内署の話として、事件当日下宿の部屋を家宅捜索した時押収したノートの内容などを、かなり具体的に伝えている。そして「悪用されやすい天皇制」という見出しをたてて、識者の声を集めている。もうすでに、いろんな場所で“天皇制度廃止論”を主張している新進小説家(註・当時としては)の大江健三郎の「声」を半ページにわたって丁寧に紹介しているのが、なんとも特徴的だった。その大江氏も週刊現代編集長の声がかりとあっては、新入社員のように、膝を正し、初々しく対応してくれた。



 何しろ創刊編集長の大久保房男さんは、純文芸誌『群像』の編集長を兼任したまま、この新メディアを任されている人物だった。文壇では「鬼の大久保」と畏怖された編集長であった。わたしたち(その年に配属されたばかりの新入社員であり、駆け出しの編集部員であった)は、徹底的に文章の「てにをは」から鍛えられた。
 その鬼の編集長に、ひとり、呼びつけられた。
「おい、新入り。ラジオ関東という新しいラジオ放送局で、ご成婚パレードの馬車に石を投げた事件を取り扱ったそうだから、どんな内容だったか、取材してこい!」
 ギロリと目を剥かれ、お尻をポンと叩かれて、送り出された。心当たりはあった。大学剣道部の2年先輩が共同通信の記者で、駆け出しのわたしの「保護者」としてサポートしてくれていたからである。

 早速、当時は日比谷公園に隣接していた市政会館に先輩記者を訪ねると、運よく在社中だった。
「分かった。それは東京タワーの真下にあるラジ関だよ。広報部に連絡しておくから、ともかく行ってみな」

 かくしてわたしの取材したデータ原稿と、提供された広報写真が、創刊3号の特集ページに採用される……。 
 


「洋子ちゃん、馬車行列見た?」
「ずっとテレビで見てた」 
「エイちゃんは?」
「野球見にいっちゃった」
「ひどいね。実は僕も……パ・リーグの開幕の日だもの」
「ところで、ついに現れたね、暴漢が……」
「エイちゃんじゃないかと思った」
「そう言えば、齢かっこうが似てたね」
「僕だったらうまく当てたな。野球はうまいんだから、スポーツ神経は発達してる。でもやらないけどネ」
「あの度胸はたいしたものだ。護衛や大勢の見ている前でね」
「警視庁も予測はしていたろうな。右翼や左翼ではっきり天皇制反対を唱えてたのがあったから」
「むしろ、たった一人でああいう風に出てきたのは少ないくらいで、当然といえば当然だネ」
「そう、あたしたちの知ってる人で反感もっているの、たくさんいるもの」
「新聞で読んだんだけど、警視庁の話しによると、あの少年は天皇制反対を唱えてやった。だから要するにあの少年は馬鹿で気狂いだというようなこと言ってたね」
「天皇制が反対だからというので馬鹿だとか気狂いだというのは、言うほうがよっぽど馬鹿で気狂いじゃないかな。たしかにあいつのやったことは馬鹿で気狂いと言えるかもしれないけど、天皇制反対という考えは馬鹿でも気狂いでもない」
「うん。天皇制反対というのは天皇制賛成というのと同じように、一つの考え方だものな」
「僕なんかも正直言って反対だなア」
「わたしもあんまり感心しないわ。でも、かれらからみればあたしたちも馬鹿か気狂いなのかも知れないわ」
「じゃあ、馬鹿と気狂いが放送してるってことになって、こんなこと消されちゃうかもしれない。フフフ……」
「でも、ラジオ関東はそんなことしないよな、ハハハ……」

 これは、四月十三日の朝、ラジオ関東(横浜に昨年十二月二十四日開始)の帯番組「きのうのつづき」というディスク・ジョッキーの時間に放送されたもの。レギュラー出演者、ラジオ作家の前田武彦さんと永六輔さん、それに歌手の原田洋子さんという三人組のオシャベリである。
 前田さんは三十歳、永さんは二十五歳、原田さんは二十三歳と、ともに、いわば“戦後派”の代表だ。



 この番組は、前もって台本を用意せず、ぶっつけ本番で勝手にユーモラスなオシャベリをしようという趣向。出演者が若い世代の人たちだけに、ズバリ言い過ぎたり、時どきラジオ関東の経営者をあわてさせているが、若い人達の人気は非常に良く、聴取率も高い番組である。

 チーフ格の前田さんは、こう言っている−−−−
「僕たちは、はっきり天皇制に反対だ、と言いきれますね。理論的にどうこうというよりも、感情的にですが、誇張はしていません。僕たちは若いんだし、感情的という方が赤裸々でナマのままの意見だし、大人のようにゴマカスことをしないだけいいと思っています。あるいは世の中一般には意見として認められていない意見かもしれませんが、責任を持てることは、われわれの世代が会社や上役の前で言えず、バーか飲み屋で言っているようなことを、僕たちがここで言っているということです。
 この番組も、いつどこで弾圧されるかわかりませんが、僕たちこのナマのままの意見を批判してくれる人もいるでしょうから……」

 こうして長々と、57年前に発行された『週刊現代』創刊3号からの担当記事を紹介しながら、様々な想いが交錯する。

 まず「天皇制への投石事件」を取り上げたラジオ関東の「3人組」のひとり、「エイちゃん」とは、この7月7日に83歳で逝った永六輔さんのこと。その訃報が流れ、どのTVもその追悼番組を放映した。その彼のデビュー当時の言動の一端を伝えられるな、と思っていたら、突然というべきだろうか、天皇陛下が、天皇の位を皇太子に譲る「生前退位」の意向をお持ちだというニュースが流れた。同時に美智子妃とのご成婚当時に映像が、頻繁に茶の間に流れ、もちろん、その時に「投石事件」があったなど、だれも想像できない平和なお姿がそこにあった。


*NHK『NEWS WEB』より

 天皇陛下は、昭和天皇の崩御に伴い、55歳で、今の憲法のもと、初めて「象徴」として即位され,美智子妃とともに、現代にふさわしい皇室の在り方を求めて、新たな社会の要請に応え続けられて来られた日々に、改めて深い敬愛と尊崇の想いが深まっていく。それがいま、「お務めが果たせなくなれば、譲位すべきだ」というお考えで、皇后さまをはじめ皇太子、秋篠宮の両殿下も受け入れられているという内容が伝えられた。この60年間、ひたすらまっすぐに、今に時代にあった皇室のあり方を追求されてこられた天皇陛下の志を、あらためてしらされたニュースだった。

 それはそれとして、当時のマスコミ状況と、今のものとを引き比べてみると、その自由闊達さは、格段の温度差を感じてしまう。


*『創刊3号」に掲載されていた「ブルーバード」の広告。活版1ページとはお互いがまだ未成熟の時代、とわかる。


 翌1960年(昭和35年)、日米安全保障条約が締結される。連日の国会デモ。樺美智子さんの死。その取材に駆り出されながら、出版労組の一員としてデモにも参加した日々が思い出される。……素朴な体制批判が、あの当時の雑誌ジャーナリズムの背骨にピンと通っていたなあ、と。

 とはいっても、週刊現代はまだ「創刊3号」。まだまだ「幼稚園児」の域を出なかった。改めて目次を見ると、グラビア企画の末尾に『話題の人…山本八郎、張本勲』とある。そうか、あの写真は「創刊3号」の時のものだったか、と膝を打ってしまった。



 かねてから東京駅のプラットホームで、あのTBSの『サンデーモーニング』で「喝!」「天晴れ!」の「週刊ご意見番」を演じている張本勲氏と肩を組んでいるショットが手元にあるのだが、それが何を意味しているのか、ひょいと解明してしまった。それがやがて『告訴第1号』事件の源流となることを、次回、触れてみたいのだが……。
Posted at 2016/07/23 16:20:52 | コメント(3) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2016年07月04日 イイね!

『創刊第2号』異聞

『創刊第2号』異聞〜「トップ屋集団」三田コンと「ルバング島の秘密指令」〜





 創刊第2号の目次を眺めながら、さまざまな往時の記憶が一挙に蘇ってくるのに、驚いている。そうだった、創刊号の準備と並行して、それなりの準備に腐心していた編集部首脳。外部の力を大胆に起用していたのだ。

 特集記事が3本。その中でいわゆる「トップ記事」と呼ばれ企画が『ルバング島の秘密指令』。そう、それから10年後の昭和49年3月にフィリッピン・ルバング島から帰還したあの小野田寛郎少尉の存在を、その母親・玉江さんのひたむきな救出請願活動を枕にして、その背後にある、旧陸軍の特殊スパイ養成機関「中野学校」の存在をクローズアップしていた。



 創刊号の発売前日だった。もちろん見本誌はもう出来上がっていたが……。現場の心は既に、第2号へ集中していた。
「おい、新入り。東京駅の八重洲口で、自分の息子はルバング島で生存している、比政府は射殺しないでくれ、と訴えている母親を撮って来い!」

 早速、当時、写真部から特例で専属配備されていた1年先輩の根岸秀廸さんと一緒に音羽を飛び出し、タクシーで東京駅の八重洲口へ向かった。この先輩カメラマンは5年後にフリーランスとなり、野上透の名前で活躍「文士の肖像」などのいい仕事を遺しながら、2002年に足早に彼岸の人となっている。


*向かって左がカメラマンの根岸秀廸さん 真ん中は唐沢明義さん(現・展望社社長)


 次の日。記事班のリーダー、松井勲さんに連れられて、赤坂の小さいけれどえらく活気のある事務所へ。入り口には「三田コンサルティング」のネームプレートが初々しく貼り付けられていた。ここが噂の『三田コンか!』胸が躍った。読売新聞の花形記者、三田和夫氏はその前年(昭和33年)に 東洋郵船の横井英樹社長殺害未遂事件にからむ、安藤組の犯人隠避事件の責任を取って、読売を退社し、取材から完成原稿までを引き受ける物書き集団(のちにトップ屋とよばれる)を立ち上げたところだった。

 妙齢の女性秘書に導かれて社長室へ通された。七三に分けた髪型、ピシッと背広を着こなしたメガネ姿は、今でも鮮やかに思い出すことができるほど、印象が強烈だった。

 初対面のわたしをすぐに紹介してくれる。
「この新入社員、早稲田の剣道部で副将をやっていて、四段の腕前です。それと、これが昨日撮ってきた小野田少尉のお袋さんです。で、原稿、上がりましたか?」
 まっすぐに、紙焼きを渡しながら、松井先輩が切り出した。

「はい、どうぞ三田コンからの初荷です」
 こう言って、引き出しから茶封筒を、三田和夫社長が重々しく取り出す。表書きに大きくペン書きの文字が躍っていた。
『ルバング島の秘密指令……中野学校は小野田少尉に何を命じたか』

「読ませてもらっていいですか?」
「どうぞ」
 二人の間で一瞬、火花が散った。そうか、新入社員の編集者教育のために、執筆者を目の前にして原稿を読む度胸を持て、と無言で教えてくれているのに、わたしは気づいていた。



*執筆者が「三田和夫」であることは、事情を知るものなら即座にわかっただろう。なぜなら、三田和夫本人がシベリア抑留から帰ってきた経験の持ち主だったから。

 以下、この機会に、さらにレポート紹介を一歩深く、踏み込んでみる。10年後、それは現実となった。





 そして「週刊現代」創刊第2号のこのレポートは、最後に訴えていた。

……「秘密戦とは誠なり」と、そう教えられ、そう信じきった小野田少尉は、それこそ忠勇義烈の人であるあるならば、今でも、ルパングのジャングルの中で、自分に最後に命令を下した参謀の面影を描きながら、「離島残置諜者」としての任務に邁進しているのであろう。(中略)命令下達者が一日も早く、小野田少尉に”内地転属”の新命令を与えてもらいたいのである。
 ルパングの二人の元日本兵を射殺されたりすることなく救出するには、もはや全国民的規模の救出運動を起こさねばならない。


 なんという因縁めいた組み合わせだ、と今にして気づく。

 まず、小野田少尉。週刊現代が創刊第2号のトップ記事で、大きく取り上げていたことも、10年後に帰還してその手記取り合戦で、小野田さんが週刊現代=講談社を選んだ一因であり、さらにちょうどその時、わたしは「月刊現代」の編集長として最初の号を手がけていて、表紙の人物画を小野田さんに差し替え、「大正人間の逆襲」という特別対談(聞き手は国際事件記者で名高い大森実さんを起用)までお願いすることにつながる。



*三田レポートの解析通り、発令者である谷口上官が現地ルバング島に赴いての呼びかけに応じ、小野田少尉は無事帰還した。

 そして三田和夫さん。このあといくつかの「トップ記事」を提供してもらうのだが、2年後に「三田コン」は破産。雌伏の時代をやむなくされるのだが、昭和40年にわたしが女性週刊誌「ヤングレディ」に配属されたのを機に、ふたたび交流がはじまり、いくつかの「スクープ記事」に関わってもらう。取材のツボをどう抑えるのか、を伝授される関係にまで発展。その後の彼はやがて個人ペーパー『正論新聞』をおこし、ジャーナリストとしての晩年を、それに傾注する。

 最後に松井勲さん。三重県出身で、東亜同文書院(この国が中国大陸に覇権を唱えていた時代、世界に通用する人材の育成を目指して上海に設立された私学校)に在籍、終戦により帰国後、東大に入学。講談社では出版部に在籍、司馬遼太郎さんと親交が深く、週刊現代2代目編集長を務めた後、『正岡子規全集』をスタートしたが、志半ばで病に負けてしまった。
 先に触れたわたしの「告訴第1号」事件の時の編集長でもあり、「責任は我にあり」と闘いの先頭に立ってくれ、どれくらい恩義をいただいたか測り知れない先輩編集者であった。叶うなら、いずれ「子規全集」の編集部にスカウトしていただこう、とも願っていたのに。


*向かって左が松井勲2代目編集長 右が初代編集長の大久保房男さん

 第2号の目次を見ながらの回想はここまでにして、『天皇制に石を投げた世代』は必ず次回で……。
Posted at 2016/07/04 02:59:10 | コメント(5) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
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「チームの勝利を至上のテーマとしている大谷翔平が心配だ。ついさっき(8月13日午後1時過ぎ)の対エンゼルス戦9回表5-5の同点から翔平が右翼席に強烈なライナーを撃ち込んだ。勝負ありか。ところが腰抜けの救援陣が守り切れない。で古巣に3連敗。その上、明日は先発。エライことになりそうだ!」
何シテル?   08/13 14:22
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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