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正岡貞雄のブログ一覧

2017年01月28日 イイね!

『クルマ雑誌は、死なない。』に拍手を!

『クルマ雑誌は、死なない。』に拍手を!〜『NAVI CARS』3月号がとても光っている〜 


 RJC「若手組」の希望の星、飯嶋洋治さんと久しぶりにおしゃべりをしながら、1月24日の夜、「両国駅」から地下に降りて、新宿・都庁方面行き都営大江戸線の乗客となっていた。

 午後6時30分からはじまった懇親会は、両国・隅田川のほとり、ちゃんこ鍋自慢の「吉葉」。ここは大相撲解説者に成り立ての頃の舞の海と、漫画家、釣りキチ三平の矢口高雄さんとの対談構成者として使ったこともあって、この日の催しを楽しみにしていた。欠点は専用の駐車場がないこと。それを知っていたので、この日のプログレには留守番を申しつけていた。 


*割烹 吉葉は、座敷の代わりに土俵が。元は宮城野部屋で、往年の名横綱・吉葉山ゆかりの「両国名所」

「吉葉」は平日にもかかわらず、えらく流行っていた。ただし、楽しみにしていた午後7時過ぎからの催しとして評判の『相撲甚句』はお休みで、残念ながら若い姉妹による『津軽三味線』の日に当たっていた。

 しかし、ここの「ちゃんこ鍋」は絶品。珍しくワインを赤と白もちょっといただくなど、はしゃいでしまった。そうか、この日は『プログレ抜き』だから、その気になったわけだ。そのせいで、いつもより口が軽くなっている。

 幸い、一人分だけ空席があった。コーナーではかなり揺れる。
「このごろ、仕事のほうはどう?」
 つり革に掴まりながら飯嶋さんが、嬉しそうに報告してくれる。
「今度、NAVI CARSの注文で“自動車雑誌、100年ものがたり”を書かせて貰いました。そこで正岡さんのことも、ちょっと触れさせていただいています。26日の発売です」

「おお、NAVICARSは切れ味があって注目している雑誌です。徳大寺さんが亡くなるちょっと前に出演したトークショーを、代官山蔦屋書店でやってからずっと……楽しみに読ませて貰います」

■ その時の模様は、こちらを参照されたし。
『徳大寺有恒、という生き方。』ドラマの共演者たち

 飯嶋さんには3年前に上梓した『モータリゼーションと自動車雑誌の研究』(グランプリ出版)があり、その際に取材を受けてから、親睦が深まっている。26日が待ち遠しかった。

 1日置いての26日は、朝から心臓冠動脈カテーテル施術でお世話になった大学病院で、メインテナンス検査を受ける。自転車を漕ぎながらペダルに負荷をかけ、その影響を心電図で計測したり、CTスキャン用のカプセルに閉じ込めたりと、結構時間がかかって、解放されたのは午後の2時過ぎだった。



 改装オープンした駅前の書店で、早速、NAVICARS 3月号を購入。まず、表紙が印象的だ。COVER MODELの内田理央がベントレー・GTスピード・コンバーチブルのナビシートから『NAVICARS』を左手に抱いて、こちらを見つめる。
そして、赤抜きのタイトル『クルマ雑誌は、死なない。僕らが愛する「自動車雑誌」の現在・過去・未来』が好戦的で、よっしゃ、という気にさせる。

 巻頭のページ。河西編集長の『VOICE from editor』に初っ端からハートを射抜かれた。いきなり“覚悟”を宣言している。

————雑誌編集者という仕事をするようになって四半世紀が経つ。だがこれまで一度だってそれに飽きたり、つまらないと思ったことはない。“天職”というのは不遜かも知れないが、僕はこの仕事に出会うことができて、本当によかった。そして気力と体力が続く限り、一冊でも多くの雑誌を作り続けていきたいと思う。

 なんだか、自分の気持ちを代弁して貰ったようで、先を急いで読みたくなった。
河西編集長と逢ったのは、多分、先に触れた徳さんの「トークショー」の時だけだと思う。が、NAVICARSを通して何度もコンタクトしている気分でいた。

 徳さんの特集40ページを組むにあたって、トコトン徳さんの書いたもの、しゃべったものに触れたところで「その人生において、時間も、お金も、すべてをクルマに注いだ稀代のカーガイは評論家である前に一人の“クルマ好き”でもあった。そしてその言葉は、いまも僕らの心に響く」と締めくくった彼に、あのときも連帯の熱きエールをおくってしまった記憶がある。そして今回は……いやいや、それは実際にNAVCARSを手にとって読み取ってほしい。



 柱の大特集の『クルマ雑誌は、死なない。』は数えてみると、丁度50ページ。力が入っている。最初に登場するのが、河西編集長の育ての親、鈴木正文さんだ。いまは『GQ JAPAN』の編集長だが、海事関係の業界新聞から『NAVI』の創刊時にスタッフ入りし、1989年に編集長、そして一時フリーとなったあと、2000年に新潮社から『ENGINE』を創刊、軌道に乗ったところで転身して現在に至っている。間違いなく、飛び抜けて異才の人だ。河西編集長の聞き書きらしいが、途轍もなく面白い。クルマ雑誌の今もこれからも「もはや定形はない。」といいきっている。 

 鈴木編集長の発想の元をご本人の言葉で、こう探っていた。
————雑誌を作るとき、基本的には今のシステムでうまくいっている人たちのことはあまり考えない。そういう人たちは別に雑誌を読まなくてもハッピーなわけでしょ。だから、いろんな分野でなんか問題を感じている人、成功していようがいまいが、どこかでなにかをよくしたいという意志を持っている人たちですね。そういう人たちの問題意識と響き合うものだったら、なんでもいいと思っていました。

 鈴木正文さんは最後に言い切っていた。

————自動車は多面体だから、どこに焦点を当ててもいいと思います。要は編集者なりジャーナリストの目の付け所ですよね。もはや「定型」も「正解」もない時代です。テーマは無限にあるはずです。(中略)どこかで時代につながり、クルマとつながるわけですから。「NAVI」もそうしていました。縛られることなく、最後に責任をとるのは自分だから、自分のやりたいことをやるのがいい。やりたくないことはやらないということです。雑誌は誰かに頼まれて作っているわけじゃないから。



 鈴木編集長に続いて、創刊55周年を迎える老舗カーマガジン『CAR GRAPHIC』の四代目編集長を務めた加藤哲也さんも登場する。休刊の危機に追い込まれていたこの雑誌を、失くしてはいけない、と自らが会社を立ち上げて「事業」と「版権」の譲渡を受けて新生を目指した編集者の想いをきき出している。
 
 フットワークも忘れていない。「業界の不夜城」の異名を取る、月2回刊の「ベストカー編集部」に潜入、その実態をレポートしてくれている。



 さて飯嶋洋治さん執筆の『自動車雑誌、100年ものがたり』はどうなっているのだろう?
 2見開きで、それぞれの時代に登場した自動車雑誌の消長を、年表風にビジュアルにまとめ、各ページの下一段で飯嶋さんが解説を展開していた。
 明治生まれの自動車雑誌。つぎに「日本の経済成長とともに」の章で、以下のように触れてくれていた。

————この年(註:1977年)には「ベストカー・ガイド」(三推社・講談社)が創刊されたことも見逃せない。中心となったのは、講談社で「月刊現代」の編集長などを務めた……などと私の名前を挙げ、読者と膝つきあわせて話す一つのメディアとして「クルマ」 があるのではないか?という発想があったところ、クルマ好きの作家の五木寛之に後押しされたことが一因という。同誌はその後も自動車評論家の徳大寺有恒らを擁して、現在の「ベストカー」につながっていく。



 一冊の雑誌が、こんなにも充実していて、刺激をもたらせてくれたのは久しぶりだった。満ち足りた想いで、その日(27日)の午前0時00分になるのを待った。
 ぽらりすe-BOOKSクルマ仲間『名作図書館』にまた新しい「星」が加わることになっていたのだ。
 
 CONTEN堂の味戸さんからのメッセージ。

 Part8は、1/27(金)0:00より、
下記URLにて配信が開始となります。
https://contendo.jp/store/polaris/Product/Detail/Code/J0010123BK0058908008/

 どうぞ、そのURLをポチッとやっていただけると嬉しい。


 
  今回の「PREMIUM版」は『ゴーストカーの秘密』の区切りとなる各章の最後に、五木さん、徳さんとの鼎談に私のレポートをジョイントさせた『欧州迷走3000キロ』を添えている。以下のように……。

1 疾れ! フレンチブルーの『ブガッティ』
2 旅の目玉都市・ナンシーの妖しげな夜
3 デュッセルドルフで面白ゾーン発見!
4 世紀末の『悪い予感』の正体

 ちょうど、40年前に芽生えた五木さんの「後押し」が、こんなかたちでまた一つ、実を結んだわけである。  
                                      (この項、おわる)
Posted at 2017/01/28 23:35:39 | コメント(2) | トラックバック(0) | ちょっと一服 | 日記
2017年01月25日 イイね!

五木寛之『新 青春の門』がスタートした日

五木寛之『新 青春の門』がスタートした日〜36歳のときに抱いた大志が、いまもう一度燃え上がる〜


 待ち焦がれていた23年ぶりの「連載」再開である。
 
 1月23日付け朝日新聞の見開きスポーツ欄は大相撲の稀勢の里が、白鵬を土俵際で屠(ほふ)ったシーンを大きく扱っていて、その真下で、右ページに週刊ポスト、左に週刊現代とそれぞれの全5段広告が踊っていた。その中から、わたしが確かめたかったのはただ一つ、五木寛之さんの『新・青春の門』が、この号から情報通りに掲載されているかどうか、であった。



 そして……ありましたぞ! 「はやくも話題騒然」という嗾(けしか)けのコピー付きで「第9部 漂流篇」の連載がスタートしたことが告知されていた。

 早速に、近くのファミリーマートまで、朝の散歩をかねて足を運んだ。430円で手にした『週刊現代』2月4日号。パラパラとめくってみる。カラーがおわって、モノクロのグラビアページへ。編集部もしっかり連載開始に連動したページを用意している。



 その扉ページ……いまのままの五木さんが、それでも背筋をピンとはって、こちらへ向かって、深いまなざしでなにかを語りかけてくる。

 36歳のときに抱いた大志が
 いまもう一度燃え上がる。
 なぜ再び筆を取ったのか———。
    熱い決意を語る。

 そして、タイトルがついている。

『新 青春の門』 五木寛之 84歳、いまだから見えるもの

 そのあと7ページにわたって、五木さんからのメッセージやら、48年に渡る『青春の門』の軌跡、映画・テレビドラマを彩った女優たちをたっぷりと紹介している。





 いいねェ。これは自宅に戻ってから、小説を読む前にジックリと賞味することにしよう……。寒い夜に焼き立てのサツマイモをふところにしたのに似た想いで、やって来た道を引き返す足取りのなんと軽かったことか。 

 “去りし昭和の夢と青春”−−− 23年ぶりの執筆再開にあたって

 この物語の第一部がスタートしたのは、一九六九年のことだった。連載の舞台は、同じ週刊現代である。
 それから半世紀ちかい年月が過ぎた。幾度かの中断をへて、第八部まで書き続け、それから二十三年のブランクがあった。
 そして今、新たな構想のもとに、第九部が再起動する。考えてみればとほうもない話である。五〇年の歳月をかけて一篇の長篇を書く機会は、作家にとってそうあるものではない。まして同じ舞台で連載できるというのは、希有な幸運というべきだろう。

 五木さんの気持ちは、裏返すと読み手の側からの同じ言葉でもありはしないか。


 
「青春の門」は細かくいうと1969年6月19日号が初出である。発売は6月初旬で、その時のわたしは一ヶ月に及ぶ気ままな『ヨーロッパ研修ひとり旅』からやっと帰ってきたところで、久しぶりに手にした『週刊現代』で「新連載小説」として登場した「青春の門」の書き出しに、魂を吸い取られてしまった。
 それは、いまでも、その何行かは、いまでも暗誦できるほどの風景描写ではじまっていた。ちょっとだけ、引用をお許しいただこう。
  ☆      ☆      ☆      ☆
 香春岳は異様の山である。
 決して高い山ではないが、そのあたえる印象が異様なのだ。
(ほんとうは、諳んじているのはここまでで、書き出し以下、原文の引用である)

 福岡市から国道二百一号線を車で走り、八木山峠を越えて飯塚市を抜け、さらにカラス峠と呼ばれる峠道をくだりにかかると、不意に奇怪な山容が左手にぬっと現れる。
 実際よりはるかに巨大な感じを与えるのは、平野部からいきなり急角度でそびえているからだろう。右寄りの最も高い峰から一の岳、二の岳、三の岳と続く。
 一の岳は、その中腹から上が、醜く切りとられて、牡蠣(かき)色の地肌が残酷な感じで露出している。山裾のセメント工場が、原石をとるために数十年にわたって休まず削り続けた結果である。
 雲の低くたれこめた暗い日など、それは膿んで崩れた大地のおできのような印象を見る者にあたえる。それでいて、なぜか見る側の心に強く突き刺さってくる奇怪な魅力がその山容にはあるようだ。目をそむけたくなるような無気味なものと、いやでも振り返ってみずにいられないような何かがからみあって、香春岳の異様な印象を合成しているのかも知れない。





 かつて戦国時代に、この一の岳に築かれた不落の名城があったという。その名を〈鬼ヶ城〉と呼んだそうだが、いかにも香春岳にふさわしい異様な山城の姿が霧の奥から浮び上がってくるような気がしないでもない。
  ☆      ☆      ☆      ☆
 主人公、伊吹信介のふるさとは筑豊・田川に設定されていた。父親は炭坑夫。北九州・八幡生まれのわたしにとっては一山越えた炭鉱地帯を舞台としてはじまる新しい物語に、特別な想いがあった。わたしの父は4歳の時に、四国松山近郊の村から、筑豊の川筋の町・直方に移住し、青年期までを過ごしている。そして肝心なことは、主人公の信介の生まれたのと同じ年、つまり昭和十年(1935)にセメント会社は山を削りはじめている、とあった。ということは、信介とわたしは同級生であり、同じ時代の空気を吸いながら、青春期へと導かれるわけか。

 五木さんは「執筆再開」のなかで、こう書き綴る。
————第一部・筑豊篇の冒頭で、名山、香春(かわら)岳についてこう書いた記憶がある。
「やがていつかは、香春連峰、一の岳の名が、かつて筑豊に存在したいまはなき幻の名山として、伝説のように語られる日がやってくるのかもしれない」
 いまその予感は現実のものとなっている。世界も、人も変る。そして故郷の山や川も変るのだ。そんな時代に、はたして何か変らぬものがあるのだろうか。
 私は、ある、と思う。それは青年の苦悩であり、野心であり、未知の世界への憧憬だ。不安にみちた日々の中にも、明日への期待があり、混迷の奥にも希望がある」
 
 五木さんは、自らをすでに青春を遠くはなれた玄冬の果てにいる、といいながらも、だからこそ見えるものがあるように思われてならないのは、なぜだろうか、と胸を張っている。

 いよいよスタートした第九部『漂流篇』。舞台となる場所はシベリア。
 それに備えて、改めて第八部『風雲篇』を書棚から取り出している。物語は、裏ルートに便乗して渡ったシベリア・ハバロフスクから馬に乗ってイルクーツクを目指す信介が、同行のロシア娘との「熱い渦巻き」にのめり込むシーンでフリーズしている。だから、五木さんがどんな書き出しを用意してくれたか。ドキドキしながら『週刊現代』の活版ページ、100P目を開く……。

『バイカル湖への道』という小見出しタイトルのついた見開きページの左側から、いまの「時代の寵児」SUVまがいのクルマが、崖際を右回りしながらこちらへむかって疾走してくる。



 嬉しいね。いきなり、ソ連製の4WD車、ワズの登場だ。今回の書き出しも、クルマからはいっている。五木さんの得意技の一つである。次回は、このワズ450Aがなぜこの物語を牽引していくのか、からはじめたい。    
                           (この項、つづく)


Posted at 2017/01/25 13:58:50 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+青春の21歳 | 日記
2017年01月16日 イイね!

ポルシェパナメーラにゾッコンの理由

ポルシェパナメーラにゾッコンの理由〜『水野和敏が斬る!!』でちょっと「お勉強」〜

左がパナメーラ S E-Hydrid お値段もスーパー ¥15,780,000なり! Photo by CMO

 ポルシェから1月12日付けのプレスリリースが配信されてきた。ひどく威勢がいい。なんでも、世界中でポルシェの新車販売が好調で、前年度を約6%上回る237,778台をカウントしたという。
 地域別の実態に関しては、お膝元の欧州と、アメリカ市場がそれぞれ5%で、極めつけは中国。12%増で65,246台を販売している。残念ながら、日本市場での具体的な数字は記されていない。



 この成長の牽引役はマカンとニュー718ボクスター。なかでもマカンは19%増の95,642台を売り上げて、ポルシェのベストセラーの地位を強固なものにした。718ボクスターは9%増の12,848台、ポルシェ911も2%増の32,409というから、なんとも鼻息が荒くなるのも無理はない。そして、今後の展開をちらりと匂わせている。これから数週間のうちに、米国と中国において完全に生まれ変わった第2世代のニューパナメーラを発売する、と。

 もう一つ、ダメ押し。3月のジュネーブモーターショーでは、シューティングブレークモデル(クーペとステーションワゴンを融合したような2ドアのステーションワゴンを指す)であるパナメーラ スポーツ ツーリスモのワールドプレミアが予定されている、と次の手を匂わせていた。

 その情報があったためか、発売されたばかりのベストカー2月10日号を手にとっても、真っ直ぐ『水野和敏が斬る!! パナメーラからわかるクルマ作りの哲学』のページに吸い寄せられた。トップカラーページの『2017年 東京モーターショーが凄いことになる!!』はもちろん気になるが、それはも後回しだ。

 水野さんが丁寧に新年の挨拶をしたところで、本題にはいる。
「今回はポルシェパナメーラです。すでに新型に切り替わっているのですが、まだハイブリッドは日本に上陸しておらず旧型。しかし、2009年に登場した初代パナメーラの最終型として、熟成されたこのモデルをどうしても確認してみたかったのです」

 なんだ、新型チェックではなかったのか。それならば、われわれ「ベストモータリング同窓会」編集部は2015年の6月、911カレラSやマカンSと一緒に、たっぷり埼玉の秋ヶ瀬公園をベースに試乗と撮影会を楽しんでいるので、パナメーラには馴染みがある。



 因みに、わたしたちがパナメーラにひどく惹かれ始めたのは、参戦2年目で「ルマン24時間レース」をワンツーフィニッシュで制覇した919ハイブリッドの鮮烈な闘いぶりにあった。その注目のテクノロジーは、ある意味、パナメーラ開発に注入されている、と知ったからだった。

 もちろん、水野さんもその辺の流れを百も承知だからこそ、試乗テストを希望したのだろう。彼のレポートをトレースしてみる。



————ドアを開けて運転席に座ると……ステアリングが細い。ポルシェのステアリングはこんなに細かったでしょうか? 出も、インテリアは完全にポルシェです。4ドアも911も関係ない。インパネのデザインやセンターコンソールなどもみごとなまでにポルシェデザインです。
 走り出すと……、動き出した瞬間にポルシェです。ボディがしっかりしていて動きが滑らか。これはまぎれもなくポルシェなのです。
 動きが滑らかだといいましたが、これはポルシェならではのもので、BMW の”精密な機械“という滑らかさとも違うし、ベンツの力で抑え込んだよう”質実剛健な“しっかり作られている”という滑らかさとも違う。あえて表現をすれば、完璧にバランスされた隙のない滑らかさなのです。


*こちらがパナメーラのインパネ


*こちらが718ボクスターのインパネ

 水野さんの丁寧な「解析」が続く。
————メルセデスは限界特性でのスタビリティを重視します。その結果、無骨なまでの作り込みなどから得られるバランス感、滑らかさが出てくる。
 BMWはエンジンを一生懸命に作って、凝ったメカニズムで緻密に精度を上げて作り、クルマに走りという高揚感を演出しながら追い込んでいったことで、精密機械のようなバランス感が出てきます。
 ポルシェは? ドライバーがクルマと一体になるような、スポーツカーのバランス感。4ドアのパナメーラでもSUVのマカンでも、そのフィロソフィーが一貫している。それらのすべての基本は911にあると言っていいでしょう。

 ここからの「水野節」はぜひ「ベストカー誌」から聴きとって欲しいが、パナメーラの試乗レポートからもう少し「肝」の部分を引用すると……。

————(箱根)ターンパイクの上り坂を普通に走っているとまったくエンジンが始動していません。満充電状態で36kmEV走行が可能ということですが、下り坂では回生によりどんどんバッテリーに電力がたまり、走らせ方次第ではモーターだけで相当の距離を走れるのではないでしょうか。
 このモーターがとてもスムーズです。この滑らかなモーターのトルク感が新たなスポーツフィールを作り出しています。モーターの出力制御が素晴らしい。モーターというのは特性上、回り始めた瞬間に最大トルクが発生し、回転が上昇していくと逆にトルクが減少していくのですが、ポルシェは走り出しのトルクをスムーズに立ち上がるようにしながら、中間領域でトルクをキープするような制御をしています。このあたりがポルシェのうまいところ。





 このほか、水野さんが注目しているのは、エンジンでの走行になると、3ℓ、V6のスーパーチャージャーエンジンは333ps、44・9kgmあっても、2トンを超える車重をもてあましているが、操安性能ではその重さを感じさせないのは流石だ、と拍手をおくっている。
————これはハイブリッド化によるバッテリーなどの重量物がホイールベース間の床下に搭載されていることもあり、低重心化が図られているためです。





 そしていう。開発者はこのクルマのポジショニングをよく理解している、と。どうやら、水野さんの「これから」を匂わせる試乗レポートではなかったか。

 そこで、担当の編集部幹部に電話を入れる。
「今回のパナメーラは、編集部からのオーダーかい?」
 即座に、U君が答える。
「いえいえ。水野さんからの希望です。これまで乗ってなかったからですよ」
「そうかな、その手のモノにいま取り組んでいるんじゃないの?」
「そうかも知れませんね」


*NOTE e-POWER この NISMOバージョンは低重心をどう生かしてくるのだろうか?



 そんなやりとりのあとで、巻頭のカラーページに戻ると、NISSANが本格的に動きだした電動化戦略としてフェアレディZを中心にして、各メーカーの動きが気になりだした。そうだ、早急にNISMOノートe-POWERの試乗手続きをしておかなければ。

 そして27日には、SUZUKIスイフトの幕張試乗会も控えている。新しいクルマの季節がやって来て、すこしばかりまた「クルマのお勉強」をしたくなったのが、やっぱり嬉しい。
Posted at 2017/01/16 19:49:23 | コメント(7) | トラックバック(0) | 還暦+青春の21歳 | 日記
2017年01月09日 イイね!

『仕事始め』と『変なデビュー』秘話

『仕事始め』と『変なデビュー』秘話〜1月7日掲載の『何シテル?』欄の拡大版として〜
こんな内容でした。こちらからどうぞ!


 電子書籍のパートナー、アイプレスJAPANのコンテン堂・味戸さんから届いた年頭のメール挨拶で、お尻に火がついてしまった。
『Premium版 疾れ! 逆ハンぐれん隊』はPart.7までを購読できるように仕上げたものの、Part.8以降はこれから仕上げなければならない。そこへ早くも、その催促の連絡が入ってきたのだ。

「本年もよろしくお願いします。
Part8ですが、本文の『Part8−1~4』、付録の『Part8-1~3(パリ/ナンシー/デュッセルドルフ)』は、入稿いただいております。
◆『Part8-4付録』に相当する『Part9への導き』の最終稿入稿を12日(木)までに可能でしょうか?
◆「各付録の写真位置やキャプションの指定」、「扉画像(タイトル付き)の最終稿入稿」も含めておねがいできますでしょうか?
◆配信スケジュールは入稿データなどが上記通りで進行できれば、
 1月20日~31日の期間で配信開始できる見込みです。 
新年早々にお願いばかりで恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます」


*Part.2の「凄春スピン・スピンターン」に付属している「五木ワールド」。その導入で「ハワイ」の特別試乗はふれられている。一連の試乗記は、今さらながら、絶品なり。 

 その件については、すでに肚が決まっていた。ヨーロッパから帰国して一息ついたところで、また五木さんを熱く誘惑したものだ。五木さん、ハワイでなら、ジャパニーズ・スーパースポーツとして登場したばかりのTOYOTAスープラを味見できますが、いかがですか、ハワイへいきましょうよ、と。
 
「いいね、ついでに北米仕様のフェアレディZXターボも用意してください」
「あ、よくご存じなンだ。それもいいですね。やってみましょう」



 その時の試乗記をそっくり1回でまとめてしまおうかな。別々に、というのも悪くないし……。

 もう一つ、腹案もあった。Part.8『ゴーストカーの秘密=篇』が完結すると、Part.9の『バンドー先生の逆襲=篇』は大和・奈良に舞台は移るので、ここは五木さんに「大和を語る」という仕掛けで登場いただくテもある。加えて、タンボちゃん(北畠主税氏の愛称)の「葛城古道、明日香の里を疾(はし)る」と題したくなるような『フォト・ギャラリー』も準備済みだから、その前宣伝として、一部を先行披露するのも悪くない。
 正直、迷っている。ま、ここらで踏ン切りをつけて、ズバリ、クルマ物であるハワイの記憶の方をなぞってみるとしようか。


                                     Photo by T.Kitabatake
 
 決めた! 2002年に「排ガス規制」への対応できないため、累計28万5280台の実績を残して生産を終えた、あのスープラへの挽歌を本編に添えるとしよう。そして、その次の回でオアフ島を縦断した『ZXターボ』の試乗記も……。

 仕事始めのこの日。午後から講談社BCに赴くことにしていた。
 ベストカーの現役局長、宇井さんに会って、かつて連載中の『疾れ! 逆ハンぐれん隊』に夢中だった読者に、小説の展開に伴走して、元祖・局長がまとめた『五木作品に登場するクルマたちよ』も一緒に読める『Premium版』が電子書籍で読めるようになったと紹介してよ、と頼み込むつもりであった。



*よろしかったら、是非どうぞ、お立ち寄りください。こちらからどうぞ!

 プログレで30分、仕事始めで活気の戻った音羽通りに到着。幸い、宇井局長は在席、快く、こちらの希望を受け止めてくれた。準備しておいた素材注入済みのUSBメモリーを渡す。どう料理してもらえるか、できあがりが楽しみである。

 次の約束は、3時半に茗荷谷で執筆進行中の『局長自伝』の打ち合わせ。取り組んでみると、手つかずのまま眠っている資料に遭遇しはじめていて、そこからムクムクと頭をもたげ始めた「新しい構成」への相談である。

 そのためには事前に事実確認しておきたいことも、いくつかあった。幸い「社友」の資格で講談社の資料センターを利用できる。そこで、まず地下駐車場にプログレを駐(と)め、次に受付を済ませて入館バッジを受け取ってから、資料センターへ。

 手始めに、講談社4代目社長の『野間省一伝』のあるページを確認したかった。すぐに探し求めていた「事実」を無事、確かめることができた。この『野間省一伝』の筆者は、わたしの「育ての親」のひとり、「週刊現代」創刊編集長であり、文芸誌「群像」の編集長も兼務していた大久保房男さんである。書く内容は厳しく吟味されていて、何よりも記述に品格がある。香りがある。この安心感ってなんだろう。

 該当するページのコピーをとって、もう一つの捜し物の存在を確かめることに移った。

 これは、一ヶ月半ほど前の11月24日、東京が初雪に見舞われたその日、それまでどこに蔵(しま)ったのか、と探していた『大事な物』がひょっこりと、まさに「初雪の贈り物」として手元に帰ってきた出来事の続編に当たるだろう。

 国際事件記者として鳴らした大森実さんや、評論家・草柳大蔵さんからの書簡の束と一緒に、講談社在籍時代のモノクロ写真が出てきた。その中に手札サイズの3葉の組み写真を、じつは「局長が局長になる前の仕事」に取り組んだときから、どこに行ったのか、と何度も探していたのである。

 手にとってみて、鮮やかに甦って来る記憶がある。それは1959(S.34)年、講談社に入社して、今度の新入社員の中に忍者のような奴がいる、と全社に知れ渡った「決定的瞬間」を捉えた、曰く付きの問題写真だった。



「週刊現代」に配属されて2ヶ月が経った5月の上旬だった、と思う。その時期の編集部は本館2階の北寄りの一郭にあった。多分、4冊くらいの校了作業の洗礼も受け、いくらか仕事も覚えて、時間的にも心理的にも余裕の出てきた時分であったろう。                           

 丁度、お昼時。ほとんどの先輩編集部員は食事に行ったか、取材かなにかで外出したかで、編集部にはグラビア担当の大先輩が一人と、いわゆるお使いさんと呼ばれた「少年社員」二人が在席しているだけだった。わたしは窓際の席で、多分、ほかの競争誌でも読んでいたのに飽きて、窓の外ではじまったバレーボール試合を、なんとなく見下ろしていたはずだ。




*もしもあの時、バレーボール競技シーンの左上の庇から真っ直ぐ、この高さでコンクリート面に落ちていたら、どうなっていたのだろう?

 明るい陽ざしが降り注いでいた。窓の下は書籍や雑誌の搬入口で、向かい側は倉庫類が肩を並べていて、その通路に当たるということで、ちょっとしたコンクリートの広場となっている。折から「社内各局対抗」の競技大会が始まって、バレーボールコートとして利用されていたのである。

 ネットを挟んでポーン、ポーンと音を立てて賑やかにコートを往復するボールが、何かに拍子に大きく跳ね上がって、1階と2階の間に突き出した庇(ひさし)の上の乗ってしまったようだ。試合が中断された。

「お〜い。週刊現代さ〜ん。ボールをとってくださ〜い」
 それを応えて、窓際から眼下をみると、灰色の庇の上にバレーボールがチョコンとのっている。
「はぁ〜い」
 気軽に応えて、ヒョイと庇の上に飛び降りた。と、ズボッと足元が抜けていく。いけない! 咄嗟に左手が枠の一端を掴んでいた。てっきりコンクリートかスレート張りと信じこんで飛び降りたところが、ガラス張りにすぎなかったと、やっと理解したのである。



 その時に味わった失墜してゆく感覚が、いまでもスローモーションでよみがえってくる。
 ともかく頼りの左手一本で、どれくらいぶらさがっていたのだろう。下を見てぞっとした。地面まで5メートルはあるのではなかろうか。そしてこちらを見上げる驚きの顔、顔、顔。

 やっと自分の置かれている非常事態を理解できた。「頑張れよ」と励ましの声が届いた。そこで、右手を添えて、ゆっくり左へ移動し、壁側に足を伸ばし、バランスを保っていると、上からわたしを引き上げてくれる救いの手が伸びてきた。  
「ありがとう」
 支えがあれば、自分の両腕で起き上がるのは、その頃のわたしなら簡単であった。無事、庇から脱出して、枠の上に立った。下から、拍手が沸き起こってきた。窓から部屋の中へ。帰還してみて、この時やっと、血の気が退いていくのを感じた。よくあの状態で、窓の枠を掴めたものだ、と。



 バレーボールの対抗試合が無事再開したのを見届けたところで、しばらく休息するようにと、と社内大会を運営する厚生委員会の先輩社員に当時6階にあった医務室に連れて行かれた。と、そこには落下したガラスの破片で傷ついた手の甲を治療して貰っている「被害者」がひとり、こちらへ笑いかけてきた。
「よく、あの状態で、下まで落ちなかったものだ。パッと片手で枠を掴んだんだってね」

 そのあと、一休みしたところで、今度は庶務課に出頭させられ、ガラス破損の始末書を書かされる。運動神経が抜群なのは認めるが、庇がガラス張りなのを確かめもせずに飛び降りた軽率さを、庶務課長から叱責される。

 この椿事をきっかけにして、「ことしの新入社員で忍者顔負けの運動神経の持ち主がいる」という評判が社内中に流れたらしい。そのせいだろうか、社屋の背後にある、通称「山の上」と呼ばれる高台の講談社剣道場で開かれた「社内対抗・剣道篇」では、普段では考えられない見物者が押しかけた。早稲田大学剣道部副将、4段がどんな技をみせるのか、一つ見てやろうじゃないか、というのだろう。変なデビューをしたばっかりに、それ以降、何かにつけ、スポーツに関わる催し物に、いつもかり出されるようになってしまう。


いまはもう解体された「講談社剣道場」にて。左が正岡四段


 そうした「社内大会」の存在を確認しようと、資料センターでチェックしたのが、その頃、定期的に社員に配布されていた『社内ニュース』であるが、流石(さすが)というべきだろう、きっちりと保管してあった。

 昭和34年5月31日発行の「社内ニュース」には、5 月8日、本社北側広場で行われた開会式の模様が写真で伝えられている。それもバレーボールのコートを上から捉えたアングルだから、まさにわたしの演じた軽率なデビュー劇の舞台そのものであった。





 プログレを地下駐車場に預けたまま、資料センターを辞した。

 約束の時間には少しばかり、余裕がある。茗荷谷までは、長い坂道を1本、上りつめればよい距離である。
 ぶらりと音羽通りを渡り、かつては学園付属通りと呼ばれ、いまでは「コクリコ(ひなげし)坂通り」と呼ばれている坂道に足を踏み入れた。と、やっぱり生き残っているではないか。一見、喫茶店風のレストランが、この時間は営業してないものの『西洋小料理・Coquelicot』の看板が風に揺られて手招きをしている。

 そうだ、茗荷谷での用件が終われば、今度はこの坂を下ってかなければならない。懐かしい「焼きカレー」を注文できるはずだ。そう、心に弾みをつけて、コクリコ坂を、改めて踏み出した。

 2017年の初仕事は、こうしてアクセルON。(この項、つづく)
Posted at 2017/01/09 01:20:20 | コメント(2) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2017年01月02日 イイね!

『大江戸ひかり名所めぐり』と『2017初詣』

『大江戸ひかり名所めぐり』と『2017初詣』〜『還暦プラス青春の20歳』も残りはあと半月〜

【左は2016年12月30日19:30の六本木けやき坂。白色と青色のLEDによる“SNOW&BLUE”の洗礼をうけるPROGRESS】ワンクリックしてどうぞ

 こんなに陽ざしが明るくって穏やかな元旦が、これまであったろうか。
 みなさん、明けましておめでとう。ことしもまた、なにか新しいつながりが生まれ、何かがはじまるといいな。そう念じつつ、2017年を迎える……どうぞよろしく。

 お決まりのおせち料理に箸をつける前に、せっかく送られてきた広島・竹原の名酒『竹鶴』を盃に一杯、家人に注いで貰い、ひとまず、新年の挨拶を。コシのしっかりした辛口の飲み心地に、もう一杯。それがいけなかったのか。

 恒例の近くの八幡神社までの初詣をうながされて、表通りまでのダラダラ坂をのぼりはじめたのはいいが、その途中で足が止まってしまった。ともかく、胸のあたりにさしこむような違和感が! 4年前の記憶がむずむずと甦った。心配そうにのぞきこむ家人。もう、こんな状態は、正直に伝えておいた方がいい。歩くスピードを落としてもらう。
 

*上練馬村の鎮守社として古くから親しまれている。境内にはエノキ、イヌシデ、シラカシの大樹が高々と…。

 大通りを渡ると、神社までは下り坂。それからの異変もなく到着して、参詣の列に入った。
 2016年の初詣のお神籤は「大吉」だったが、今年はどうだろう? 古くなった「家内安全、家運隆昌」の御神札をお返しし、口をすすぎ、手を浄めてからから、神前へ。二礼二拍一礼。そして御神札を受け取り、念をこめてお神籤を引く。さて今年は? 

「大吉」は家人のほうにわたっていて、こちらは第三十一番の「吉」。





 久しい間のくるしみも 時が来て 自ずから去り

 なにごとも 春の花の咲く様に 次第次第にさかえてゆく運です

 安心してことにあたりなさい

 左手だけを使って、そのために張り巡らされた細縄に、お神籤を結びつける。こうして幕を開けた2017年。平凡で、穏やかすぎるが、それはそれで、悪くない。それだけに、何かがはじまってくれそうな、嬉しい予感はある。


 2016年の前半はポルシェ漬けだった。それが後半にはいってからは、グイグイと『NISSAN漬け』の方向へ引っ張られてしまった。

『プロパイロット』搭載というセールスポイントをひっさげて登場したミニバンのセレナとたっぷりつきあったと思ったら、11月にはNoteがe-Powerという新しい武器をひっさげて現れた。目を洗われるような「変身」ぶりで、日産が発売を仮に9月か10月に前倒しをいていたなら、セレナとの同士討ちとなって、「カー・オブ・ザ・イヤー」戦線にも大異変を招いていたに違いない。
 

*RJC2017年次のイヤーカーがBULLETINの表紙を飾っている。

 その辺のことを、近く、稿を改めて書き留めなければならないのだが、せめて正月休みくらいは、家人とのんびりした時間を共有したくて、大晦日の前日、プログレを駆って、都心へ向かった……題して、冬の風物詩『大江戸、光の名所めぐり』である。
 
 12月30日午後4時。家人も正月を迎える用意が済んでしまったらしく、こちらの「前から言っていたイルミネーション巡りをしようか?」という誘いに、軽い調子で乗って来た。「浅草あたりで食事でもしましょうよ」と。それも悪くない。行こうか。

 とはいっても、途中で一つ、確かめたいことがあった。長年お世話になった講談社本館の2階までの高さと、本館と新館のつながり方が、現在、どうなっているのか、ということだった。現在執筆中の『局長自伝』のある場面で、貴重なモノクロの問題写真が出てきて、その意味合いを説明するのに、果たしてその現場が、いまどうなっているか、を確認しておく必要があったからだ。

 乗り込んだ プログレのオドメーターが「110348」を指していた。
「あと763kmで111111の1並びだよ。随分、頑張ってくれているだろ?」
「そうね、もうちょっと頑張ってね」
「え!? それって、どっちを指しているのかい」
「どっちもよ」

 江戸川橋と音羽通りが交差している。左折して護国寺方向へ。すぐに27階建ての高層、講談社ビルが。こちらの狙いはその手前にある6階建ての旧・本館である。ちょっとしたヨーロッパのゴシック様式の雰囲気をもっていて、あたかも国会か銀行の雰囲気で、この社屋が完成したのは昭和9(1934)年7月、わたしより1年半先輩である。いくつもの激動の時代をくぐり抜けてきた。



*講談社社屋、本館と新館ビルは文京区音羽通りに。突き当た
ると護国寺。


*左が本館で、右の本館通用口をつなぐ通路あたりは、かつての倉庫へ入る大きなコンクリートの空間だった。

 プログレからおりてカメラを向けると、警備員が不審気に近づいてくる。社友であることを告げると、納得顔で持ち場に戻ってくれたので、落ち着いて撮影。

 この件については、いずれ詳しく触れなければならないが、わたしが入社したその年(1959年=S34)に、とんでもないことをしでかして、とんでもない異名を頂戴した、いわば「古戦場」で、思い出すだけでもぞっとする事件でもあった。その問題の古写真を先日、やっと探し当てたので、ワンシーンだけ、公開しておこう。写真にあるガラス張りの庇(ひさし)からコンクリートの地面までの長さを確認したかったのである。


*1959年の春。社内競技が催行されていて、バレーボール大会が倉庫前の広場で開かれていた。ボールが逸れて、5メートル近い高さに突き出しているガラス張りの庇の上に乗ってしまった。と、ゾボッとガラスを突き破って2本の足が……。この珍事の犯人がだれだと思う?  


 日が落ち始めた。まず墨田河畔の東京スカイツリーを目指す。願わくわ、スカイツリーの展望台から、360度に広がる、光り輝く夜の灯の海を眺めたい。
 御徒町の脇を抜ける。アメ横に押しかけ、溢れている買い物客の波に驚いた。ひょっとしたらスカイツリーも大混雑かもしれない。悪い予感がした。

言問橋を渡る。スカイツリーが大きくなって前を塞ぐ。適当なパーキングを求めて、いろんな路線が交差する押上駅の周辺をぐるりと一周。うまく、30分200円のパーキングを見つけて、プログレから離れることができた。





 しかし残念。スカイツリーを受け入れ先である「ソラマチ」は若ものと外国人観光客に占領されていて、展望台には19時半のエレベーターにしか乗れないという。予想していたことだから、あっさり断念して、食事に向かうことにした。ま、この調子だと浅草雷門あたりも、どこへ行ってもすんなりいきそうもない。深川か、月島だ。それなら「もんじゃ焼き」にしましょう、と家人の提案。それもいいね。隅田川に沿って南下。深川・門前仲町を抜けて相生橋を渡ると、そこが月島・佃島界隈であった。

 もんじゃ焼きの並んだ細い通りのなかほどで、やっと赤提灯の下がった店で二人の席を確保して、「五平」と白字の染め抜かれたのれんをくぐる。
「五平もんじゃ」という定番を注文。手際よく店の主人が鉄板の上で、キャベツなどの野菜類を鉄板で炒めながら、いつしか円形の土手をつくる。次に白い粉を生地にして溶かしたものをながしこみ、最後に切りイカや桜エビなどの海鮮物を投入して、さあ、どうぞ、とあいなった。









 気さくな対応が、いい感じだったな。味もよかった。それで、1700円ちょっとだよ。冬場のもんじゃ焼きはお奨めだな。

 月島からは六本木へ向かう。丸の内エリアは何度も足を運んでいるので、時間の都合もあって、今回はパス。

 夜の銀座4丁目をぬけるのも、久しぶりである。桜田門の先でR246に入り青山方向へ。と、iPhoneに着信の文字が浮かんだ。
四国のFRマニア君からのようだ。プログレを左に寄せ、停車してから応答した。歳末の挨拶だった。社会人になって、直面する難題があるようなので、帰宅してから改めて話を聴くことにして、プログレをスタートさせた。

 六本木通り。東京ミッドタウンのイルミネーションは、過日、鑑賞する機会があったので、この日はスルーして、TV朝日脇のけやき坂へむかう。

 六本木交差点は右折禁止とあって、その先の国際会館にはいって鳥居坂へ通じるルートを選ぶ。この選択は正しかった。麻布十番と青山1丁目を六本木ト ンネル経由で結ぶR319に出てくれたことだった。
 坂道を下りきって右折するとすぐに、けやき坂が待っていたのだ。それも、思いもしなかった琥珀色のイルミネーションをまとって……。



 慌ててTV朝日前の交差点を左折、けやき坂へ入ってみた。アンバー色はひとの心を暖かくときめかせる。どうやらクルマの流れはそれほどでもないようだ。カメラにおさめたい。で、路肩にプログレをとめ、後ろのシートに置いたままのカメラバッグを引き寄せようと、ドライバーズシートを離れたその瞬間、イルミネーションの色が変わって行くではないか……。
 クリスタルな光沢をもった白と青。メルヘンの国に迷い込んだような錯覚。これも悪くないが、やっぱりこちらはあのアンバー色に染まった町並みを撮りたい。が、なかなか希望する光の国は戻ってこない。それでも、何枚かのショットを収めたところで、いいタイミングで目のあったブティックの男性店員に訊いてみた。
「イルミネーションの色、赤い奴に変わらないのですか?」
「だいたい、30分置きにチェンジしているようです」
「ありがとう。30分は待てないな。またにしよう」
 
 かくして、残念ながら琥珀色に染まったけやき坂を断念して、つぎの「大江戸イルミネーション名所」を目指すことにした。

 青山1丁目を左折してR246、俗にいう青山通りに入り、渋谷方向を目指す。

表参道。ここから原宿までの「光の道」も大江戸名物のはずが、なんとイルミネーションは消えたままであった。25日までの恒例イベントも終わって一休み中なのか、それとも地元との話し合いで、なんらかの休息期間を設けたのかどうか。
首をかしげながら、暗いままの表参道を通過して、代々木公園を目指した。
『青の洞門 SHIBUYA』とタイトルされた新しいイルミネーションスポットがスタートしたのを耳にしていたからである。



55万球の青色LEDライトで渋谷公園通りから、NHKに隣接する代々木公園内のケヤキ並木をつなぐ青い光の幻想空間。そこを歩いてみたかった。

 訪れた人々が黒い影となって、ブルーの光の波間を泳いでいく。一度は訪れてみたい、新しい大江戸名所だが、イルミネーションは残念ながら1月9日までだという。




「何シテイル?」で「“紅白”のラストシーンで“タモリとマツコ”が消えていく時ブルーのイルミネーション通りがチョロッと。実物はこんな幻想的なゾーンでした」と紹介したのは、その時に撮影したモノで、いち早く伝えたがったわたしの気持ちがモロに顕れている。

 ともかくも、『還暦プラス青春の20歳』と強がっていろいろとチャレンジしてみたモノの、残りはあと15日間。さて次なる「21歳」をどう生きていけるのだろうか。心の揺れる年の始まりなのだ。

プログレのオドメーターは「110407」。1並びまであと「763」。



 
(この項、おわる)
Posted at 2017/01/02 03:01:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+20歳の青春 | 日記
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何シテル?   06/12 09:50
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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