
この朝日新聞の記事(7月5日付け)の書き手は、恐らく6月3日の事故第1報を執筆した「山下記者」ではないだろう。その内容に、モータースポーツに疎い読者に対しても、なんとか理解が届くようにと心を砕いた、あのジャーナリストの情熱のかけらも感じとれないからだ。有態にいえば、静岡県警捜査一課と御殿場署が、黒沢元治選手を「業務上過失致死傷」の容疑で静岡地検に書類送検する、とスクープしようと急ぐあまり、その容疑内容について警察側の資料をそのまま引用している、といえるからだ。それでも社会に与えるインパクトは強烈過ぎた。
*1974年7月5日の朝日新聞社会面(クリックで拡大)
なにしろ当日の社会面を開くと、「特等席」といわれる左上欄5段スペースの半分を費やして、大きな3本の見出しと記事が踊っている。加えて、ガンさんの顔写真まで添えて……。
「富士スピードウェイ事故 黒沢選手を書類送検へ」
「規則を破り接触」
「競技事故 初の刑事責任追及」
これでは、あたかも黒沢選手が事故を起こした罪により、いまにも逮捕されるような印象を与えるではないか。そして、その記事の内容がお粗末そのものだった。37年が経過した今になって「TV放映録画」をつぶさに見ることができたからこそ指摘できることだが、黒沢/北野車が接触した直後の様子を相変わらず、こんな風に間違ったまま、書いているのだ。
「これまでの調べでは、6月2日午後2時5分ごろ、1周6キロのコースを参加17台が2列縦隊で2周ローリングし、メーンスタンド前からそのまま一斉にスタートした直後、右回りの第1コーナーの手前200メートル付近で事故が起きた。先頭の高橋国光選手のすぐ後ろをほぼ並んで走っていた黒沢選手の車と北野元選手の車が数度にわたって接触、はずみで北野選手の車が左側ガードレールに衝突してはね返り、コースを横切って右側のフェンスを突き破った」
確かに、それは一瞬の出来事で、黒沢車と北野車の接触が引き金となって、忌まわしい惨事が起こったのは分かるにしても、詳細は不明のままだった。だからこそ、新聞報道には正確な事実確認が望まれる。にもかかわらず、実際には北野車は黒沢車との接触でグリーン側に押しやられ、左の前後輪が抵抗の大きい芝生にはみだし、そこから右前のカウルが持ち上がり、次にカウルが元の位置に収まった瞬間イン側に切れ込んでいったのを、ガードレールに衝突してはね返り、と全く事実にないことを書いている。
これは6月3日の「毎日」「読売」が同じような記述をしている。グリーンにはみ出す接触と、弾き出されてガードレールに当たり、そこから跳ね返されてコースを横切るのとでは、えらい違いようである。それに接触事故のあった地点の左側はコンクリートの壁で、ガードレールが設けられているのは、鈴木・風戸の両車が炎上した地点からである。
そうした情勢を朝日の記者が確認・取材できないはずがない。記者自身がこう書いているではないか。
「同県警は、事故発生直後から約1か月間、参加15人のレーサー、大会責任者、観客など数十人から事情を聞く一方、レースを中継していたテレビ局のビデオテープ、観客席のアマチュアカメラマンが事故寸前まで撮った8ミリフィルム、燃えずに残った黒沢選手の車の傷痕などを調べた結果、黒沢、北野両選手がコーナーに入る寸前まで数度にわたって接触していたことがわかった」
ジャーナリストとして、この事故原因の真実を突き止めようという気持ちさえ持ち合わせていたなら、この過程で映像をみるくらいのことは、できないはずがない。事情を聞かれたレーシングドライバー、関係者のなかの何人かは、映像を見せられたと証言している。もし、記者が見ていた側の一人なら、「ガードレールに衝突してはね返り」などというありもしない出来事を書くわけもない。だからぼくは、捜査側の資料から書き取ったものではないか、と失礼な言い方をしてしまった。
しかし、この朝日の記事によって黒沢選手がますます窮地に追いやられた。3日後の7月8日、ガンさんはJAFに競技ライセンスの返上を申し出てしまう。その際、JAFスポーツ委員長に提出した文書はこうだった。
「今般、私に因を発する新聞を媒体とした社会批判は、モータースポーツ界に多大な悪い影響を及ぼし、とりわけ貴連盟、ドライバー諸氏、関係役員の方々、その他モータースポーツを応援して下さっているスポンサーの方々、ファンの方々にご迷惑をおかけいたしましたことは遺憾であり、申し訳ないことと、お詫び申し上げます。
ここに謝罪と反省の意を表し、その証として貴連盟発行の競技運転者許可証を返上し、自身へのいましめとする次第です。 黒沢元治」
このことを当時のCG誌が「国内スポーツ」欄で紹介していた。そして、こう伝える。
「(前略)すなわち、日本最速のレーシングドライバーの一人、黒沢元治が、そのレーシングドライバー生活からひとまず身を退くことを決意したのである。その数日前のA新聞に発表された“書類送検か”という記事が、彼の決意に少なからず影響を与えているといわれるが、結局彼は7月17日、静岡県警および御殿場署により業務上過失致死傷の疑いで静岡地検沼津支部に書類送検されてしまった。(中略)亡くなられた二人に続いて、日本のモーターレーシング界は、また一人、惜しむべき人材を失ったことになる。そしてある意味では、黒沢は第3の被害者といえるかもしれない。なお、現時点では、彼に対するJAF側の態度は決定していないといわれる」
7月17日、CGの記事にあるように、ガンさんは「書類送検」される。
静岡県警がガンさんに過失があるとしたのは、なんと「安全無視の幅寄せ」だというのだから、驚きである。
「富士グラン・チャンピオンレースの特別規則書の安全規定に、周囲の安全を確認したうえで進路変更しなければならず、故意であるなしを問わず、幅寄せをしてはいけない、と定められているのに、黒沢が高橋選手の車のスリップストリームを利用し、コーナーを有利に回るため、すぐ左を走っている北野選手の車に注意せず、急激に左外側に進路変更した点。初めこれを否定していた黒沢も、その後の調べに対し過失があったことを認めた」(朝日新聞7月18日の記事より)
それからさらに7か月後の1975年2月27日、静岡県警沼津支部はガンさんの不起訴を決定。事件はここで終結したはずである。が、ガンさんの泥沼でもがくような苦闘はこのころから、さらに深刻化していった。レース界に復帰するには様々なハードルが待ち受けていたし、家庭崩壊、新しく始めた事業の失敗。あっという間に、ガンさんは大切にしていたものをすべて失った。なぜガンさんだけが、それほどまでに人権を無視され、社会的な制裁をうけてしまうことになったのか。「ドス黒いドラマ」には様々な背景、思惑があるようだ。
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2012/02/26 05:05:34