ガンさんの復活劇は、やっぱりレースデビューと同じように、鈴鹿サーキットが舞台となりました。
1981年度に入ってからの『ベストカーガイド』は、なにやかと賑やかな話題に包まれていた。内藤国夫さんの連載『実録モータースポーツ』を起爆剤として、ドライビング・テクニックなら右に出るもののないガンさんを、なんらかの形で常時起用できないものかと、様子をうかがっていると、ご本人から「正式にレース界に復帰できそうなので、もう一度挑戦したい」という報告があったのです。
聞けば、大阪のスピードスター・レーシングチームから声がかかり、スーパーバイザーを務める会社の了解もとれたので、鈴鹿のF2シリーズに出たいが、問題は国際B級ライセンスが取得できるかどうかにかかっているという。
それは明るいニュースじゃないか。ちょうどその時、ホンダがシビックのワンメークレースを立ち上げようとして、ベストカーガイドにも協力要請が来ていたのです。名付けて「FFスーパーシビックレース」。第1戦は5月30・31日の鈴鹿サーキット。F2シリーズ第2戦にくみこまれていて、初年度は4戦まであって、もちろん賞金も出るし、シリーズ賞としてシビックCXが1台もらえるというのです。
「よし、やってみよう!」
さっそく童夢のハヤシレーシングにマシンを手配したものの、ドライバーはだれにするんだ? 徳さんが第1候補で、女優でぼくと一緒に日産レーシングで修業中の長谷直美か、それとも思い切って総編集長のぼくで行くか、という線もあったが、どちらも帯に短し……。そこへいいタイミングでガンさんが登場したわけです。
「どう? ベストカーシビックのチーム監督をやってくれませんか」
「やりましょう!」
ドライバーには、ガンさんの長男琢弥君18歳を予定し、父親が徹底的にシゴクのもいい。琢弥君はモトクロス競技でかなりいい線を行っており、片山敬済のもとに弟子入りする手筈なのをこちらでかっさらおう、というのだ。「父子鷹」のドキュメントはいけるじゃないか。
しかし、参加資格が国内A級ライセンス以上と規定されているので、第1戦には間に合いそうもない。そこへ重大な情報が飛び込む。
①週刊「プレイボーイ」誌が生沢徹を起用するらしい。
②「CG」誌、「カートップ」誌も参戦するらしい。
どちらも事実だった。そうなれば「参加するだけで意義がある」などと、甘いことはいっていられません。ドライバーに、改めてガンさんを指名、さらに強力なチームにするには、強力なスポンサーを必要とします。白羽の矢を、作家の五木寛之さんに立てたのです。
*チーフメカの小野昌朗さん ボディデザインは林ミノルさんだった
*五木寛之さんの「四季 奈津子」をスポンサーに!
「若ものたちがワイワイいいながら、楽しく参加できるモータースポーツがあっていい。よし、クルマは動く広告塔でもある。文庫本の広告しようか。一緒に仲間に入れてください」
これでスポンサー第1号、及びチーム監督が誕生した。と、同時に、ガンさんの国際B級ライセンスも、無事、交付された。
ガンさんにとっては本命はF2。復活への道は整った。そのF2レースの前座となるシビックレースは、実戦の勘を養う、いいウォーミングアップになるではないか。
予選の前日に鈴鹿入りして、白いボディの両サイドに「5本の木」をあしらった⑤五木シビックと対面する。ガンさんはすでにその前日(28日)から鈴鹿入りをして、本命のF2マシンを飼い馴らすべく、対話をかさねていた。
鈴鹿に来て、気になることが一つあった。プラクティスを終えると、ガンさんはきまって鈴鹿の病院へ直行するのです。それまでは、ほとんど気にしなかったが、右足を軽く引きずっている。後日、ガンさんの右足を見せてもらったことがある。左足に較べて、細く短かった。金属ボルトが埋めてあるんですよ、と傷痕を撫でながらガンさんは苦笑した。軽く引きずる歩き方をするのは、そのせいだった。
「あの事件から1年後、一旦はレース界に復活したものの、鈴鹿の130Rでサスペンションのトラブルからクラッシュし、右足を骨折しているんですが、実は、まだ完治していないんです」
走った後は、すぐに手当てしておかないと、あとが大変なのである。
*これが鈴鹿130Rコーナー 「ベストモータリング」1999年10月号より
そしてもう一つ、長かったブランクを埋めるのに、苦闘していたのです。
「鈴鹿にはいろんなコーナーがありますが、なかでも最も難しいのが、西のストレートエンドにある130Rです。コーナースピードが最も高い。そこをいまのF2マシンはウィングカーということもあって、星野や中嶋クラスは5速全開でいくんですよ。ぼくの時代はブレーキしてシフトダウンしてはいっていましたから、トップ全開なんか想像できない。だから、あそこをなんとか克服しなくては、勝負になりませんよ」
だからといって、ガンさんは諦める人ではなかった。慌てることなく、あらゆる努力を試みる。ガンさんは過去、こいつは死ぬかもしれないというピンチに、3度ほど遭遇している。
一度はFISCOのバンクでR380 のアップライトが壊れた。考えるだけで身の毛がよだつ、とはこのことだろう。
2度目はR382でフロントのショックが抜けたとき。そして、3度目はフェアレディで鈴鹿の130Rでサスペンショントラブルからクラッシュする(先述)。
いずれも運命の神が0.1秒、2mでもずらしていればどうなっていたかわからない重大なトラブルだったのです。
「そんな時、不思議に時間は長い。そして、ああ、ここで死ぬかもしれないって思うんです。よく、家族のことや幼い日のことを思い出すっていいますが、ぼくはそのコーナーで死んだヤツ、たとえば鈴鹿の130Rでは浮谷(東次郎)のことなどを想い出しましてね」
そんな時でも、ガンさんは諦めません、といい切る。最後の最後まで努力する、という。
「鈴鹿の130Rの時は、ガードレールの向こうに落ちたらダメだから、そうならないようにするにはどうすればいいのか、を考えましたね。ステアリングの自由がきかず、ガードレールに乗っかっちゃった、その時、体重を左へかけて、なんとかガードレールの内側へ落ちてやろう、と試みた」
恐らく、時間にして1秒か、2秒か。その間にいろいろ考え、それを実行する気力。
徳さんも後日、よく、こう語る。
「ガンさんの1秒は、普通の人の1秒と違って、とくにここという時の1秒はうんと長くなる」
いかにも徳さんらしい解析だが、最近、この「みんカラ」スペシャルブログを通じて交流を深めているグッドイヤー・タイヤの開発テスターの山岡さん(アメリカ在住)から、「それは時間に対する解像度」ですね、という指摘を受けました。ちょっと、好奇心をくすぐる用語ではないでしょうか。
ガンさんの復活を祝うように、鈴鹿の2日間はまるでお祭り騒ぎでした。結局、ガンさんのシビックレースは、最終シケインでゼッケン 77の中野常治(F3ドライバー・一時、F1に乗った中野信治のお父さん)に先行を許し、コンマ9秒差で2位となる。
*130RのJ・リース photo by Chikara Kitabatake
メインイベントである鈴鹿F2選手権の第2戦は、予選トップの星野一義の脱落と藤田直広(ガンさんと同じスピードスター)の初優勝という大番狂わせに湧きました。4年ぶりにレースに復帰したガンさんは6位入賞。その間のマシンの向上を考えれば画期的なことなのだが、ガンさんには笑顔はなかった。
「130Rを全開で行けないんだから、6位は当然の結果。口惜しい」
ガンさんの新しい闘いが始まった。そして最終戦となったJAFグランプリで、ガンさんはJ・リースと4位の座を賭けて長いバトルを繰り返す。結果は1位、中嶋、2位、T・ブーツェン、3位、S・ヨハンソン、4位、リース、5位、ガンさん。のちにF1にステップアップしたのが3人という、豪華メンバーのバトルだった。
走り終えたガンさんが、ヘルメットを取る。頭から湯気を出しながら、満足そうに、パドックにいたぼくを見つけると、笑顔を送ってくれた。そして、こちらにやってくると、軽く右の拳を突き上げた。
「局長、今日は130Rを全開で走りました」
このとき、ガンさん40歳。鈴鹿130Rを全開で走り抜けた男の新しいサクセスストーリーは、次の機会に。
【追記】J・リースの130R走りの画像使用を許諾してくれた北畠カメラマンが、こんな興味あるコメントをよせてくれました。
ガンさんに鈴鹿のどこが、怖いですか?って無謀な質問をしたことがあった。ガンさんは、うーん、怖いコーナーは無いけど、130Rはスピードが速いから大変だな?っておっしゃった。解りやすく言うと、ステァリングを切るだろ、、、はい、、、次の瞬間、ダダダー、ってアウト側の縁石の上にいる感じだな。乗れてる時代は、ゆっくり感じたが、F2を辞める頃は、速く感じた、だからフォーミュラーに乗る事を止めたんだ。予選は5速全開なんだぞ。
そうか、130Rってそういうコーナーなんだ。
ボクの中で、130Rは特別なコーナーになった。乗れてる時期のジェフリースの130Rは美しかった。凄い速度で華麗に滑りながらアウトに膨らんで来る。そんな、リースの130Rをどうぞ。
*F2シリーズ第2戦では、サックエル、ブーツェンをぶち抜き4位につけたが、30周目にクラッシュ!