*7年ぶりの「共演」で、声をかけあうふたり
*首をちょっと右に傾げて走る独特のスタイルは間違いなくキタさんのもの
~因縁の多重事故の「それから」~
ここからは、ガンさんの「不死鳥伝説」の、芝居でいえば「第2幕」となる。
当時のニュージャーナリズムの旗手・内藤国夫さんが取り組んだ『実録モータースポーツ』は、「悪役レーサー・黒沢元治の血を吐くような6年目の告白」を引き出し、ガンさんをそこまで追い込んだ勢力と事件性を明らかにしようとしました。が、彼の仕事はそこまでで、「星野一義」「生沢徹・中嶋悟の師弟コンビ」「ルマン24時間レポート」へと取材ターゲットは移動していきます。
しかし、「ベストカーガイド」誌での「告白」を機に、ガンさんはみごとに復活の道をひた走る。先に鈴鹿サーキットでの「スーパーシビックレース」と「F2レース」が、その最初の「ガンさん劇場」の第1幕のように紹介しましたが、実はもっと重要な「プロローグ」が演出されていたことを、記憶する人は少ないでしょう。実は、「ガンさんの告白」が発表されてからわずか2カ月後の1981年3月26日、黒沢元治・北野元のふたりが、筑波サーキットで再び相まみえ、息詰まる激戦を展開していたのです。
*ふたりの「和解」を伝える活版ページ(「ベストカーガイド」81年6月号)
その該当号である「ベストカーガイド」の81年6月号は、巻頭のカラーグラビア6ページ、モノクロ6ページ、活版2Pを動員して、大特集を組んでいます。題して『ソアラに負けてたまるか! 快速自慢の国産車10台、デスマッチレース!!』。なにしろ「雨の筑波、トップに躍り出たソアラを猛追するレパード。興奮ドキュメント」を第1ヒートとし、谷田部高速周回路での計測、が第2ヒート、ダートで攻める第3ヒートまで用意した企画。この当時、映像で収録するところまでに到ってなかったのが、残念でなりません。
ちょっと、リード・コピーを紹介しましょうか。
――黒沢元治・北野元の因縁のライバルが、竹平素信・金子繁夫のラリー界の両雄が……。そして名レーサー・浅岡重輝、F3界の新鋭・岩田英嗣、ダートラの王者・鶴一郎、ラリースト・相馬和夫がパワーエリート車の名誉をかけて熱い闘いを筑波、谷田部で繰り広げる。人呼んで「ツールド筑波!!」
「ヒート1 」は2ヒート制で、まず、第1ヒートで意地の竹平、ソアラでトップに立つも、スピンで後退、満を持した浅岡レパートド、1秒51差で北野Zを押さえる。第2ヒート=岩田ソアラ、またもスピンで3位。鶴ラムダ・ターボ、黒沢レパードを0.32秒差に押さえる。
*第1ヒート=1位は浅岡レパード、2位はATながら北野Z、3位は相馬ラムダ・ターボ
*第2ヒート=1位はFLの経験もある鶴ラムダ・タ―ボ、2位が黒沢レパード、3位は岩田ソアラ
ガンさんと北野元が出場したのは筑波ステージだけで、くわえてともにハンディキャップとして「オートマティック車」を担当したため、どちらも表彰台では2位としてボディウムサイドに立つだけだった。だからグラビアに掲載された二人の表情に、勝者としての喜びの色はない。
そして二人に焦点を合わせた活版ページの記事の方が、むしろ筆が踊っている。
「黒沢も北野もスピンした。名人の腕がサビついたわけじゃない。タイトロープの連続のレース界から身を引いた二人は今、サーキットを走る真の喜びにひたっている……」
――本誌がトヨタ・ソアラや日産レパードなどを中心に国産スペシャルティカー10車による『王座決定戦!』を企画したとき、だれいうとなく「ガンさんとキタさん(北野)を呼ぼう」という声が編集部内でもちあがった。この要請にこころよく応じた“因縁の男”ふたりは、赤と青の揃いのレーシング・スーツに身をかためて、筑波サーキットに登場した、と報告者の久保正明さん(当時・編集顧問のひとり、往年のモータースポーツ誌編集長)がサラリとまとめているが、ここまで漕ぎつけるのに、その久保さんの先導で、川越街道でバイクショップも営んでいた北野さんを3度にわたって訪問し、出場を要請してやっと実現したのです。ガンさんにしても「さて北さんがウンといってくれるかな。ぼくの方には異存はありません」といってくれたものの、右から左へすんなり、ことが運んだわけではなかった。
それでも、お互いの心に深く負った傷痕も7年という歳月が風化させてしまったのだろうか。ガンさん一人を悪役に仕立てあげようとした“黒い圧力”もすでに目的を達して、いまでは知らぬ顔をきめ込み、キタさんもその組織から離れてひさしい。ふたりは、いつ握手してもおかしくない状況にあった……。
そのふたりが、ごく自然に「よお!」といって手を握りあい、スターティンググリっとについたのが、むしろぼくには奇跡に思えたのを、記憶している。
それでも、ふたりが揃うとあたりがパッと輝いてしまうのも事実だった。同じ企画で集まった他の若いレーサーやラリーストたちの間から「うわァ、凄い。サインをもらいたいな」という声も出たくらい、それは感劇的なシーンだったのです。
*日産ワークス時代のガンさんとキタさん。その二人の間から桜井真一郎さんの頭がのぞく
あの時、ともに血気さかんな33歳ふたりも、紆余曲折をへて40歳という“分別の年齢”にさしかかっている。が、いったんステアリングを握ったふたりの走りはさすがにすさまじかった。
キタさん最初に乗ったのはフェアレディ280Z。ガンさんはセリカXX。ともにオートマだったが、それを筑波のウエット路面でたくみに操る姿は、まさに「夢の対決」であった。クルマを降りたふたりは「景気はどうだい?」と、お互いの近況を静かに語り合う。その表情には、もはや過去の古傷はなかった……久保正明さんは、こうまとめながら、彼らがこのまま人知れず埋もれてしまうのを、何とか堰きとめたことへの充実感を味わっていたのではなかろうか。
実はこれまで、ふたりに和解の機会がなかったわけではない。事故から1年あまりたった1975年7月30日午前11時、東京ヒルトンホテル『銀の間』に和解のセレモニーはしつらえていたのです。
この年、ガンさんがJAFから受けたペナルティも8月いっぱいで解除となり、2日にはライセンスが帰ってくる。それなのに、北野との間に感情のシコリが残っていたのではまずい。――こう心配したグループ・オブ・スポーツ(GSS)の佐藤全弘代表が、当時自民党“青嵐会”のチャキチャキだった浜田幸一代議士を立会人として和解の場を演出したのだった。
「おふたりとも、レース界では日本を代表するスーパースターじゃないか。もう、過去の行きがかりは捨てて正々堂々とレースをやってもらいたい」
あの浜幸さんが真ん中に立って、キタさんとガンさんの腕をとった。かたちの上での握手はこうして実現した。
だがキタさんの顔面は蒼白だった、という。2輪GPライダーの片山敬済さんからの花束贈呈もあったが、キタさんはこわばった表情のまま、3日前の富士1000kmレースで高橋国光(サニー)のスピンに巻き込まれて亡くなったコース委員の葬儀に参列するため、そそくさと退席して行く。富士1000kmで、キタさんは高橋国光さんとコンビを組んでいたからでもあったわけだが、その当時はまだガンさんとの真の和解を拒ませようとする巨大なプレッシャーが、キタさんの背後にあったことも事実なのである。
――しかし“悪夢の時代”はすでに遠くなった。キタさんもあの当時から「黒沢クンと和解するのに異存はない」と意中を洩らしていた。それが、この3月26日、今度こそふたりは心の底からにっこり笑って、握手したのだろうか。
その後、キタさんは、1987年から2年間、全日本ツーリングカー選手権で星野一義のパートナーとして復活したが、レーシング・ドライバーとしてはかつての光はすでに失われていた。その点、ガンさんの復活劇の見事さは、知る人ぞ知る、です。
しかし、とぼくは立ち止まる。もう一つ、ぼくは吹っ切れないでいた。どうもこちらからの光の当て方が一方向に過ぎないのではないか、という反省であった。
そこでこの夏のさなか、改めて国立国会図書館に赴き「レーシングオン」のバックナンバーから、中部博さんが連載した「1974.06.02――まだ振られないチェッカーフラグ」を、探し出したのです。それはサブタイトルとして「レーシングドライバーたちの挽歌」が添えられていましたが、ともかく、その誠実で平明なかきっぷりに、グイグイと惹きこまれました。次回からは、その中部レポートの検証から始めます。ご期待を!
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/08/20 12:25:12