2004、2005のインディJAPANの覇者だったウェルドンも、いまは彼岸の人となり……。
17日の夜、TVのニュース画面に、いきなり、何台ものインディカーが炎上しがら、フェンスにぶつかったり、他のマシンを巻きこんだり……、目を覆うシーンが大写しにされる。なんだ、これは! テロップで今年のインディ500で優勝したダン・ウェルドンが多重クラシュに巻き込まれ死亡したことを知る。佐藤琢磨は大丈夫か!? すぐに情報をチェックしてみた。どうやら、このアクシデントは琢磨の後方で発生したものらしく、琢磨が巻き込まれることはなかったようだ。
ラスベガスで行われていたインディカーシリーズ最終戦。34台が出走した決勝レースの13周目、中団を走る2台が接触し、15台が巻き込まれる多重クラッシュに発展した。このクラッシュでは複数のクルマが火に包まれながら宙を舞い、レースは12周を終えた時点で赤旗中断となった。ヘリコプターで病院に搬送される複数のドライバー。やがてダン・ウェルドン(33歳)の死亡が確認されたという。中断から2時間後、走行可能なクルマによって5周の追悼走行がおこなわれることになり、今年のチャンピオンに決まったダリオ・フランキッティは、涙を流しながらマシンに乗り込んだという。ウェルドンに捧げるべく追悼走行が始まると、観客席からは拍手が起こり、ピットレーンに整列する各チームの関係者も涙を流した。この模様はすぐに動画で知ることができた。
ウェルドンはHONDAファミリーの一人だった。ぼくらは2004年と2005年のツインリンクもてぎラウンド(インディジャパン)を連覇した彼の走りを見ている。2005年にはインディカーでシリーズ・チャンピオンに輝いた彼も、今年はシートを獲得できずにいた。しかし、世界3大レースに数えられるインディ500にスポット参戦して見事に優勝したというのに……。そして、いま改めて、アメリカ最高峰のカテゴリーであるインディカーの安全性強化を望む声が高まっている、という。かつてのF1ドライバー、ジョニー・ハーバートのこんな声まで紹介されている。
「あのような究極のレーシング・スタイルが存在する限り、死亡事故は続くだろう。インディのマシンはとんでもないスピードだ。それをバンク角の大きいオーバルコースで走らせたら、さらなるドライバーが犠牲となるよ。いかなる安全措置が取られようとね」(『The National』紙)
このところ、37年前の「多重事故」をトレースしているぼくにとって、これらの海の向こうの報道であるにもかかわらず、まるで、あのときの出来事が今になって再現されているように思えてならなかったのです。実は、この日の「お昼のランチタイム」を、例の東京プリンスホテル1Fの「和食処・清水」で、元・報知新聞運動部記者、中島祥和さんとご一緒し、あのころのモータースポーツ界の舞台裏をたっぷり聴かせていただいき、これまで視界不良だった部分の霧も晴れた想いで、検証作業に取り組もうとしているところだったのです。
中島祥和さんについては、『レーサーの死・封印された30度バンク』のなかで、黒井尚志さんは、こう紹介している。
――書類送検から七ヶ月後の一九七五年二月二十七日、静岡地検沼津支部は黒沢の不起訴を決定、ここに事件は終結した。だが、黒沢はすぐにレースに復帰できたわけではなかった。
JAFは書類送検を受けて黒沢の処分に動き出していた。これも不可解な行動だった。なぜなら事故原因の究明は警察よりレースに精通しているJAFのほうが正確なはずなのに、自ら主体性を放棄し警察に盲従していたからだ。そして書類送検直後、JAFに黒沢の競技ライセンスの永久停止論が浮上することになった。これに対して黒沢はライセンス返上で対抗している。これは報知新聞の中島祥和の助言に従った行動だった。中島は証言する。
「黒沢ひとりを犯人に仕立て上げることで、その後のレース界が健全な方向に向かうとは思えなかった。だけど黒沢がライセンスの永久停止処分を受け入れたら、彼は形式的にでもすべての責任を認めたことになる。そこで処分が出る前にライセンスを返上し、処分不能状態にしたほうがいいと忠告した」
この言葉には若干の説明を要する。じつはあのフィルムを見て、少数派ではあるが、
「先頭の国光はもっと速いはずなのに抑えて走っており、左は北野に抑えられていた。だからそのまま行けばバンクに進入したとき、日産ワークスに在籍したまま富士GCに参戦していた国光と北野が一位、二位を占め、日産とケンカ別れした黒沢は三位になる。そのため追い詰められて行き場を失った黒沢は左に寄るほかなかった」
という意見が存在するのだ。(中略)国光車と北野車の仕上がりが黒沢車より優っていたことを証明している。しかも、第2ヒートで黒沢がスタートに成功したとは言いがたい。北野がすぐ横に並んだのはそのためだ。にもかかわらずなぜ国光が一気に黒沢を引き離さなかったのかという疑問から、前述の少数派意見が投げかけられたのだ――。
引用が長くなったが、中島さんの位置づけをわかりやすくすることもあるが、この黒井さんの記述には「強烈な仕掛け」が秘められている、とぼくは読み取った。実際にレースで富士スピードウェイのストレートから第1コーナーを実戦で体験したものならピンと来るものがあるからだ。はっきり言うと、「先頭の国光はなぜ抑えて走ったように見えるのか」である。中島さんにズバリ、斬りこんだ。彼はまっすぐに答える。
「あのフィルムが今どこにあるのかは知らないが、当時、ぼくは何度も確認するために見た。国光は踏んでいない。フラフラとガンさんの前を、左右にマシンを振っている。そのたびにガンさんは行き場を失っていた……念のために言うが、ぼくはガンさんを身びいきに擁護していたわけではない。新聞記者として、正確に見据えていたつもりで、苦境に立ったガンさんの相談に対して、ぼくなりの助言をしたのは事実です」
では、この読者の投稿はどうですか? 前回、当ブログで紹介した「テレビで事故を見た!」のコピーを手渡した。中島さんが目を通す。そしてはっきり答える。
「この通りです。イン側の黒沢マーチが前にいて、あそこで何故、北野が引かなかったのか、と思ったのですから」
しかし、と彼は言う。問題なのは、どっちが前だったとか、どう当たったとか、を問うよりも、当時のレース界の仕組みとか、安全問題への取り組みとか、あるいはレーシングドライバーの質とかモラル観とかを通して、あの事故はなんだったのかを検証してほしいね、と。
その夜、ドン・ウェルドンの不幸な事故シーンが、茶の間に流れた。高橋徹、萩原光、村松栄紀、アイルトン・セナ。サーキットで逝った男たちのことが、思い出されてならない。特に、高橋徹については『風に消されたヒーロー』という人間ドキュメントを、かつて「ベストカー」に書いている。改めて読み直してみようか……。あの時、鈴鹿のカラオケスナックで、彼が歌ってくれたのは渡辺徹の『約束』だった。透き通るような爽やかな歌声が、今も耳元に残っている。
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/10/20 05:53:11