*10月31日の月曜日。東名高速を厚木ICで小田原厚木道路に乗り換え、一旦、小田原駅前で昼食を摂った後、そろそろ紅葉の目立ちはじめた箱根旧道をのぼって、箱根小涌園傍のガンさん邸へ。
約束の午後2時前だというのに、ガンさんはすでに玄関の扉を開き、表の道に出て、ぼくらの到着を待っていてくれた。
用件は、すでに了承をいただいている「新ドライビング・メカニズム」を、どう具体的に展開していくか、もっと煮詰めようというのだった。とにかく、ガンさんは大乗り気。
それについては、近々にプロジェクトの内容をまとめあげたところで明らかにしていくつもりなので、いましばらく、時間をいただきたい。
打ち合わせが終わったところで、37年前の「富士GC多重事故」を、ぼくなりに洗い直していることを、ガンさんに告げた。すでにぼくの動きをご存知らしく、柔らかい笑顔でぼくのいくつかの質問に答えてくれた。やっぱりそうだったのか、といういくつかの確信を得たので、これからの検証に役立たせたい。焦らず、ゆっくり取り組もう。
午後4時過ぎ、黒沢邸を辞す。
*11月2日の水曜日。約束より10分も前に東京プリンスホテルに着いたのに、珍しく駐車場が満車とかで、ゲートの入り口で待たされる。なにか大きなパーティでもあるのかな。午後0時に童夢の林ミノル社長とロビーで待ち合わせている。気が急くが、後続車がベッタリとくっついているから、どうしようもない。
0時02分。やっとゲートがあがって、駐車スペースへ。ロビーへ急ぐ。お、ロビーも人がいっぱいだ。林さんはどこだ? やむなく従来型のau携帯から切り替えたばかりのiPhone 4Sで連絡をとろうと取り出したところで、目の前で携帯電話にむかって声を吹き込んでいるミノル社長を発見。先方も携帯を使ってこちらを探しているところだった。
いつもの「和食処・清水」も混んでいて、やっとカウンターの席がとれた。
「ここに友だちを呼んでありますが、よろしいか?」と、ミノル社長。
当然、ガールフレンドを見せつけたいのだろう、と気を利かせたこちらは、
「どうぞ、どうぞ」と。
早速、現在地をしらせるべく、ミノル社長は携帯をかけている。さて、どんな「美形」がやってくるのか。今のうちにお互いの用件を済ませておかなくては。
ミノル社長に訊く。1974年6月2日の「富士GCの多重事故」のレースを見ましたか?
「いや。浮谷東次郎のことがあってからは、不思議と死亡事故のあったレースは見ていない」
やがてミノル社長の友だちの登場。なんと、今のレース界を牽引しているスーパーGTの運営母体、GTアソシエーションの坂東正明社長ではないか。つい先だっての富士スピードウェイでの「スーパーGT」取材で、お世話になったばかりだ。
どうやら、このあと、おふたりは新しいカテゴリーのレ―シングカーについて、密談するつもりらしい。なんだか、現役時代に復帰したような時間の使い方になってきたぞ。
*11月3日、文化の日。舘内端さんの主催する「Japan EV Festival」の取材で筑波サーキットへ。不思議な静寂が筑波サーキットと、その周辺を包んでいた。本来なら、ウィーン、ウィーンとレーシングカーの走行音やエンジン調整音などで、ああ、サーキットにいるんだ、と心を沸き立たせてくれるものがない。かわりにクラシック音楽が流れている。
パドックを歩くと、知り合いばかりだ。まず、国沢光宏君。次に元カーグラの熊倉重春編集長、桂伸一、松田秀士、小沢コ―ジらの各氏。どうやら、各メーカー提供のEVカー、ハイブリッド車によるサーキット同乗試乗の運転手を務めるため、狩り出されたらしい。
この日の模様は、別途、紹介するつもりだからここでは省略。
大きな収穫がひとつ。津々見友彦さんも見えていて、近く「1974・06・02」の記憶を改めて伺う約束をしたこと。「あの時のことは、決して忘れることはできない」と、はっきり言い切る津々見さん。70歳になっても、この日のようにサーキットを疾駆する素晴らしさ。
見習いたい。
*また一つ、同世代に生きた仲間の訃報に接した。
参院議長の西岡武夫氏が、11月5日の早暁、肺炎のため、東京都内の病院で死去したというニュース・テロップが、TV画面を流れていく……。同じ75歳だった。今の国会を体調不良で冒頭から欠席していたのは知っていた。
1954年(S.29)春、お互いに真新しい角帽をかぶって、都の西北にある早稲田の杜(もり)で顔をあわせた。教育学部社会科学科の教室だった。
初々しく、黒の詰襟姿のよく似合う、目元の涼しい青年が、きっちりと挨拶をしながら、隣りに着席する。アイウエオ順に席が決められていた。
「西岡武夫です。長崎から来ました」
こちらも、あわてて名前と出身地を告げる。
「あ、同じ九州出身ですか」
そのあと、どんな会話をかわしたのか、記憶にない。が、その後で、あの眩しいほどピカピカした同級生が、長崎新聞社社主の「御曹司」で、雄弁会に在籍しているという情報を、いつの間にか、キャッチしていた。雲の上の住人だろうが、なかろうが、ここに来ればみんな同じ学生さ。きっと、ぼくは身構えていたに違いない。
夏休みに入る直前、政治学かなにかの講義で一緒になったとき、
「夏休みで九州に帰るのなら、よかったら長崎に来ないか。案内するよ」
といって、ぼくのノートに住所と電話番号を書きこんでくれる。
「ああ、剣道部の合宿があるので、それ次第で、夏休みがどうなるかが決まる。そのときはお邪魔するかもしれない。連絡するよ」
そういいながら、結局は長崎には行かなかった。いつも他の同級生が彼のそばを取り巻いていて、もう一つ、付き合いたい気分になれなかったし、剣道やアルバイトなどで、その夏はあっという間に終わってしまったような気がする。
社会に出て5年目。彼は27歳で衆議院議員となる。それを祝って、同期会が新宿で開かれた。音頭を取ったのはTBSに入った男で、ぼくらの入った社会科学科からは、結構、マスコミ関係に進んだものも多かった。朝日新聞、共同通信、北海道新聞。そこで生きたはずの、あの連中、今はどうしているのだろう。
宴も酣(たけなわ)となったところで、西岡君の登場。たしか、東京オリンピックの開催年だったから、世の中も、まっしぐらに上昇機運にあった。何かあれば、みんなで応援しようと盛り上がった時代だった。
やがて、ロッキード事件を機に、西岡君は河野洋平氏を中心にして「新自由クラブ」を立ち上げ、保守革新の道を驀進した。そのころのぼくは「週刊現代」と「現代」に関わっていたから、なにかにつけ、西岡衆議院議員とは是々非々の立場で接触があった。
政治家として、西岡君は浮沈が激しかった。衆議院初登院で母親同伴を揶揄されたのを皮切りに、いろいろあった。一時は、政治の中枢からはずれて、落選もした。が、最後は民主党に鞍替えして、参院議長のまま、彼岸に旅立った。「是々非々」の立場は変えられないが、硬骨で、いつも筋を通し続けた西岡武夫という政治家の生きざまを、同級生の目線のまま、彫りあげてみたい気もする。まずは、お疲れ様でした、と哀悼の想いを綴ってみたわけです。またひとり、逝ったのか。この想いはまことにつらい。
ヒタヒタと聞こえはじめたあの足音を、ぼくも自覚しておかなければならない。時は秋。
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ちょっと一服 | 日記
Posted at
2011/11/05 23:54:45