骨太で、モータースポーツ報道に情熱を燃やし続けた、先輩編集者がいた。久保正明さんである。すでに故人となられて4半世紀近くがたっている。健在なら78歳か。
ジャーナリストとしてのスタートは北海道の新聞社。上京後、三栄書房の「AUTO SPORT」編集部に。1974年の「多重クラッシュ事故」当時は編集長。その後、八重洲出版の「ドライバー」誌の編集長に就任。自動車雑誌編集者連盟の事務局長を務めていた頃、ぼくは久保さんと面識を得ている。
*情熱の人・久保正明さん
1980年、そのころ、三栄書房が、自社の「モーターファン」一誌で主催していた「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を、10周年を機に発展的に解消し、ヨーロッパのカー・オブ・ザ・イヤーの例に倣って、主要自動車雑誌で運営する全国規模のものにできないか、と動きはじめていた。その根回しに動いたのが「モーターファン」の佐々木編集長の盟友である久保さんだった。当時、ベストカーの編集責任者であったぼくにも声がかかった。
指定された平河町の割烹料理店に行ってみると、当時の「CG」編集長の小林彰太郎さん、「モーターウィークリー」主宰者の渡辺靖彰さんの顔があった。
三栄書房社長の鈴木脩巳さんの熱い想いを聴いた。
いくつかの紆余曲折を経て、日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員会が発足する。当然のように、その実行委員会に久保さんが名を連ねた。それが火種となって、久保さんは八重洲出版を追われるように、その年の8月、退社した。八重洲出版は方針として「C・O・Y」には賛同しない立場をとっていたことから、酒井社長が久保さんの行動を認めなかったからである。
*第1回受章車のマツダ・ファミリア
*「ベストカーガイド」1981年3月号より。32回目を迎える「COTY」の実行委員会から、すでに「CG]も「ベストカー」も脱けてしまい、すっかり様変わりしている。
12月23日、’80-’81日本カー・オブ・ザ・イヤーは、マツダのファミリアが受賞した。この時の「ベストカー」の扱いをみると、辛うじて、モノクログラビアページの半分を使っているに過ぎなかった。それが今年は第32回目を迎える。下馬評では、日産のEV車、リーフが最有力だと伝え聞いているが、はたして――。
すでに最終選考投票も済ませ、12月3日の開票を待つばかりである。
八重洲出版を退社した久保さんを、「ベストカー」の編集顧問として招いたのは、多分、9月に入ってからだったろう。早速、署名入りで登場する。「問題提起レポート=ジャーナリスト(前「ドラーバー」編集長)久保正明 校長先生、ボクの免許証返してくれへんか!? ――高校生のバイク禁止をめぐるおかしなおかしな、この実態!」とある。これが80年の12月号に掲載され、つづく81年新年号では「ドキュメント・スピードに散って……福沢幸雄/あるテストドライバーの死後”11年“の意味」をまとめあげている。レーシングマシンの開発途上で事故死した福沢幸雄の訴訟事件が11年をかけて和解するまでをレポートしたものだが、それが次号で運命的な展開と変わる。
*「ベストカーガイド」1981年1月新年号所載
81年2月号。「実録モータースポーツ」の連載開始である。『消されたレーサー・黒沢元治を探せ!』(内藤国夫)となっているが、黒沢元治、つまりガンさんと接触してぼくらの前に導いてくれたのも、レース事故の資料を提供してくれたのも久保さんだった。
その後、「モーター毎日」というクルマ業界情報誌を引き継ぎ、新しい活躍の場を求めて飛翔するはずだったが、不運にも病魔におかされ、急逝する。
なぜ、今回は久保正明さんなのか。中部博さんがそうであったように、あの多重事故の拠って来るところを検証しようとすると、当時の記録から洗い直すことが求められる。そのひとつが、当時のモータースポーツ専門誌の報道だろう。その中で、ここまで丹念に、冷静に追求していたのか、と唸らされ記事にめぐり会っていた。1975年3月に発行された『AUTO SPORT YEAR‘75』の特集記事「ドキュメント〈6月2日・富士〉GC事故はこうして起こった!」がそれ。そのレポートをまとめあげたのが、久保正明さんであることに、ぼくは注目した。それを中部さんは、こんな具合に読み抜いた感想を記述している。それは、今は亡き久保正明というモータージャーナリストへのメッセージでもあった。
「この特集を担当した編集記者は、つとめて客観的な現場報告をしようとしている。その気持ちが痛いほど分かるようになった。この事故でなくなられたふたりのレーシングドライバーは、それぞれに人生を賭けてレースに打ち込み、努力と研鑽をおこたらず、大きな夢を抱き、希望にみちていた。この事故について調べ考えるうちに否応なく、その人たちの魂を感じるようになった。さらに言えば、この事故の顛末を知れば知るほどに、文字通り九死に一生をえた人たちがいたと分かる。(中略)つとめて客観的な記事を書いた編集記者は、おそらく同じ思いを感じ、報道する立場からできるかぎりの客観報道を心がけたと思えた。特集記事を読みつづける」
そこで「3回の接触」を、黒沢、北野両当事者の証言から明らかにして行くわけだが、ぼくが注目したのは、スタートから「事故現場見取り図」にいたるまでの7カットの各車の位置図である。次のアップでその7枚の位置図を紹介しよう。新しい発見が待っていた。
*(「AUTO SPORT '75YEAR」所載より)
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/11/19 06:02:06