中部博さんの「レーシングオン」での連載タイトルは大、中、小と3つある。大は「1974.06.02」で、いかにもドキュメントを追求する筆者の志が感じとれる。中は「まだ振られていないチェッカーフラッグ」。読後の余韻とシンクロする。小は「レーシングドライバーたちの挽歌」。追悼と鎮魂と、サーキットに生きた男たちへの愛惜が絶妙にからまる連載記事のシンボルマークとなっていた。
その中で、「まだ振られていないチェッカーフラッグ」とかかわる《寄稿文》に遭遇した。「AUTO SPORT」1974年8月1日号の特集:GC大惨事の教訓《安全を考える》」のなかで関係者の声を集め、今後の安全に焦点を当てるこころみがなされているが、その一つに『悲劇の’74GC第2戦を終わって=安友義浩』とあるのが目にとまる。
炎上事故発生により、3周目にレースは中止され、結局、競技長のチェッカーフラッグは振られないままで終わっている。加えて、GC第3戦も開催中止となり、第4回からは、30度バンクを封鎖し、それまで右回り1周6キロだった舞台を、同じ右回りのショートコース、4.3キロに変更して再開されていたとしても、フルコースを使ってのレースは消え、あの日と同じ舞台でのチェッカーフラッグが振られることは2度とないわけだ。
早速、安友競技長の署名記事に目を通す。事故発生の余熱のおさまらない時期でもあり、周囲への配慮から、競技長の立場からどれほどの発言ができたものか。興味深かった。
書き出しは、前年の事故で中野雅晴選手を亡くしながら、レース界は再び風戸裕、鈴木誠一選手を失ったことを惜しむ追悼の言葉ではじまっていた。
「特に今回の事故では観客に負傷者が出たこともあって、原因の調査は警察側でも本格的に行なわれた。また、JAFの監督官庁である運輸省からも事情説明と参考資料の提出についての要求があったりして、あわただしい1週間が過ぎ去った。警察側の調査にはほとんどのドライバー諸氏に、事故現陽近くにいたオフィシャル諸氏にも協力を要請する破目になったが、だれからも心よく協力を受けることができて、警察から感謝された。
実のところ、スポーツに讐察が介入するのはおかしい、本当のことが分かるはずがない、と抵抗めいたものを感じていたが、それが誤りであることは直ぐに判った。警察では、前例のないことだけに海外への照会、法律学者への諮問、モータースポーツに関するあらゆる規則の調査、説明の聴取などによって、モータースポーツに対する理解作業が事故の調査と併行して実に迅速にしかも幅広く進められていたのである。事故の原因が何であるにせよ、スポーツとしての限界内で起こったことには間違いないが、2名の優秀な若人を一時に失ったことは最大のショック。
しかし、日時がたつにつれて、レースは単に主催者だけではなく、ドライバー、スポンサー、関連産業それにファンといったあらゆる人々の互いの力がからみ合って、今日の成長をみたものであることを痛切に感ずるようになった。そして今あるのは、この悲劇を悲劇として終わらせないために、世界のモータースポーツ史がそうであったように、これをのり越えて続けていかなければならないという考えだけである。それが風戸君や鈴木君、そして中野君の霊をなぐさめる唯一の道ではないだろうか」
この安友競技長の記述によって、警察側が調査に乗り出した時の動揺した様子と、やがて沈静化して行った心理がうかがえる。そして競技長がつづけたのが、その年から新しく採用された制度でチーム監督とのミーティングがどのように稼働していったかを述べているが、実際に報道されていた刺々しい対立、言い分が省略されていて、資料性は低かった。さらにそのあと、「GC/公式予選に対する考察」という小見出しのつけられた1章があるが、黒沢選手と他のドライバーとの予選タイムの差を並べているだけにとどまっており、なにを伝えたかったのか、もうひとつ読みとれない。
それにくらべて、当の安友競技長の果たした役割を、黒井尚志さんが「レーサーの死」(双葉社刊:2006年)のなかで取り上げているので、それと対比してみた。そして「なるほど」とぼくは納得してしまうのだが、「炎上事故・それから」で触れていきたい黒沢元治というレーシングドライバーのさらなる苦闘は、実はそのときからはじまっていたのだ。ひとまず、黒井さんの記述から――。
――事故の発生はただちに御殿場警察署に通報された。(中略)現場検証を終えた警察は競技長の安友に出頭を要請した。安友はかつて日本冶金の秘書課に勤めるサラリーマンだったが、モータースポーツに精通しているところから富士スピードウェイに転職し競技長となった、雰囲気のある静かな紳士だった。安友は御殿場警察署の小さな会議室で、テーブルに手をつき頭を下げてこう言った。
「レース中に起きた事故の責任はすべて競技長にあります。もし誰かの刑事責任を問うのであれば、私ひとりに留めていただきたい」
この言葉に警察の態度は一変した。以後、警察は富士スピードウェイの関係者を誰ひとりとして犯人扱いすることはなかった。だがこのときすでに御殿場警察署は1974年6月2日5分に富士スピードウェイで発生した出来事を「事故」ではなく「事件」として扱うことを決定していた。(中略)
事故の翌日、黒沢は任意取り調べのため、御殿場警察署に行くことになった。が、彼が通された部屋は競技長の安友らが通された会議室ではなかった。その狭い部屋は天井から裸電球がぶら下がり、中央に事務机が置かれていた。奥には背もたれのない丸椅子がひとつ。黒沢は壁に背を向け、机を前にして丸椅子に座らされた。そこは取調室だった。
* * * * *
ガンさんはそのころ神奈川県川崎市の郊外に住んでいた。日当たりのいい南斜面。白い豪邸。ガレージにはデンとアメリカン・スポーティセダン。長男の琢弥は学校に行ってもだれからも羨ましがられる少年だったが、事件後は爪弾きにされ、だれからも口をきいてもらえなくなり、心に大きな傷を負ってしまった、と述懐している。それからの黒沢家は崩壊し、白い豪邸も人手に渡ってしまう。
事故は新聞に派手に報道され、業務上過失致死傷容疑で書類送検された。警察は当初、ガンさんを業務上過失より刑の重い「未必の故意」を念頭に捜査している。そして警察のガンさんに対する取り調べ内容は逐一報道関係者に伝えられたという。しかし、ガンさんは警察の描いたシナリオを真っ向から否定した。未必の故意はもちろん、過失も認めなかった。認めたのはただ一点、接触という事実だけだった。
6月17日午後8時、東京12チャンネルから編集された映像が放送された。番組は第1ヒート中心に流され、第2ヒートの事故発生をもって終了している。
警察は当然、この番組を収録し、さらに5万6000にもおよぶ入場者から事故を撮影していた観客をさがし出し、ビデオを入手していた。警察はそれをガンさんに見せ、故意に激突したのではないかと追及したという。が、ガンさんの供述は変わらなかった。ガンさんは警察にも取材陣にも一貫して主張した。その内容は、6年後にぼくらが面接したときでも同じだった。
「あれだけのスピードで激突すれば自分が死ぬかもしれないのに、危険を冒して故意にぶつけるはずはない」
結局、書類送検から7ヶ月後の1975年2月27日に、静岡沼津支部はガンさんの不起訴を決定したが、それでガンさんがすぐにレースに復帰できたわけではなかった。
ガンさんを標的とした、いわゆる魔女狩り攻撃は、まずレーシングドラーバー同士の間で始まっていた。事故の翌日、東京で開かれた選手協会で、かつてのチームメートからつるしあげられた。
「ガンさん、貴様は、レースをする資格がないぞ」とまで面罵された。ガンさんと北野とのポジション争いを、一方的に、ガンさんの走路妨害、〈かぶせ〉視されたのである。
事故から1年後の1975年6月5日、JAF中央委員会はJAFスポーツ委員会が下していたガンさんの5年間の国内資格停止処分を取り消し、改めてガンさんに1年2カ月の国内資格停止処分を科すと決定した。が、これは事実上の不処分に相当していた。処分は事故の翌日から起算されるため、2カ月後の8月2日に資格が復活する計算だった。
やがてガンさんは、11月23日に開催された富士GC最終戦に参戦するが、結果は13位。スポンサーを失ったガンさんのそれからは、ぶっちぎりどころか、2位に食い込むのがやっとの有様で、レース界から身を引かざるをえなくなる。そこからの苦闘と、不死鳥のような復活ぶりは、すでに当ブログ8月04日掲載の「汚された英雄・ガンさん」にはじまる一連の『元祖・不死鳥伝説』を参照願いたい。そのあとの大いなる飛翔ぶりは、ガンさんの伴走者の一人として、このあとも書き綴りたいが、ひとまず、ここらあたりで一休みさせていただき、新しいテーマに移るとしよう。
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Posted at
2011/12/15 13:47:02