――事故が発生したとき、安友(義浩)競技長はセイコー・タワーの上で、まだグリーン・フラッグを振っている最中だった。コントロール・タワーからの急報でうしろを振り向くと、バンク方向に巨大な黒煙が立ち昇っていたのだ。
「AUTO SPORT YEAR‘75 」の特集記事《6月2日・富士》は、GC多重事故が起こるまでの経過を出走各車の、その時、その時の位置を見取り図と、ドライーバーの証言で再現している。恐らく、行方のわからない映像フィルムでも出てこない限り、もっとも忠実に往時の状況を伝えてくれる「第1級史料」のひとつではないだろうか。
過日、この日のレースを現場取材していた中島祥和さん(元・報知新聞運動部記者)に、この各車の位置見取り図を見てもらったところ、
「黒沢と北野の位置はそのとおりで、北野が前に出たことは一度もないし、むしろ、その間隔はもっと広かった」
と、断言。それは、特別に映像で確認した上でのコメント? と問うと、ニヤリと表情を崩すだけだった。それも証言のひとつではあるが、やや客観性に欠けてしまう。
さて、「特集記事」をつづけよう。
――いっぽう事故現場では、北野選手が押しつぶされたコクピットから脱出しようともがいていた。もつれあった2台のマシンからは、すでに小さな炎と黒煙が上がっていた。
漆原選手は、スライドが止まると同時に脱出し、ロールバーに手をかけてコース上に飛び降りた。そのときガタンという音とともに、北野車の上に乗っかっていた漆原車がすこしうしろにずれ、北野車との間に30センチていどの隙間ができた。
「大丈夫ですか?」と漆原選手は、その隙間に声をかけた。しかし、答えはなかった。
漆原選手:「マシンから飛び降りたとき、ロールバーに手をかけたが、ガタンという音とともにボクのマシンが後ろにずれた。隙間に手を突っ込んで消火レバーをさぐっていたら、北野選手のからだにズルズルという感じで手が触れた。ほとんど同時に北野選手がもがきながら隙間から出てきた。北野選手のレーシング・スーツから煙が上がっていた。
北野選手:「スライドが止まる直前、〝いかん”と思ってベルトをはずし、立ち上がろうとした。そのとき隙間から手がはいってきて、漆原選手が引っ張り出してくれた」
この漆原徳光選手による「北野救出」シーンは、すでに中部博さんの『1974.06.02』から引用して、9月17日掲載の『なぜ過熱した?』の後半部分で紹介済みだが、それは中部さんが、この「特集記事」に触発されて出場ドライバーをひとりひとり訪ねて、彼らの眠った記憶を揺り起こしたときのものだった。事故発生の翌年に、ここまで踏み込んだレポートがあったとは! 改めて当時の「AUTO SPORT」編集部の取り組みに敬意を表したい。
そこで、この貴重なレポートの終盤部分を、残しておきたい記録として忠実に再現する。
* * * * *
九死に一生を得た北野選手は、脱出直後に「あのバカヤロー、ひどいことしやあがる!」と吐き捨てるようにいった。彼は右手とヒザにカスリ傷を負っただけで、奇跡的に無事だった。
北野、漆原両選手は、重なった2台のマシンが炎に包まれる直前、すぐそばのグリーンにストップしていた米山選手の脱出を手助けすべく米山車に駆けつけた。そしてこの3人が、いち早く消火・救急活動に加わった。
*生き残った10台のマシンは3周目に差しかかり、ストレートで狂ったように振られるチェッカーフラッグ、
黒旗、黄旗を前に相次いでストップした。(「レーシングオン」2008年5月号所載より)
黒煙がバンク入口の上空をこがしはしめた直後、最終コーナー入口前にある18番ポストから、黄旗2本の振動合図(コースが事故でふさがれているので、直ちにストップできるスピードに落として走れ、という意味)があった。あい前後して、各ポストから同様のシグナルが示された。セイコー・タワーでは、安友競技長がグリ―ン・フラッグを、他の旗に急いで持ち替えようとしていた。持ち替えた旗は2本――チェッカー旗と黒旗だった。これをクロスさせれば、“即時に止まれ”というシグナルになる。残った10台のマシンが、ようやくヘアピンに姿を現わしたころだった。
各チームのピットでも大混乱が起きていた。報道関係者にまじって事故現場に駆け出すグルーブ、自チームのマシンを確認するため、ヘアピンをジッと見守るグループ。ピッ卜に待機していた高原選手の夫人・松尾ジーナさんの目に、大粒の涙があふれだす。
いっぽう事故現場では、風戸・鈴木車の消火・救出活動が進められていた。この時点で現場に到着していた消防車は2台。風戸車と北野/漆原車の消火に取り掛かっていたが、鈴木車は炎上するままになっていた。そして、ショート・カットの入口の三角点メイン・コース側に救急車が1台駆けつけ、救出されるドライバーを待っていた。
*手前に鈴木車、奥に風戸車、亡くなった二人のマシンの残骸がサブスタンドのコンクリート壁の脇で悲しく佇む。
(「レーシングオン」2008年5月号所載より)
鈴木車の消火が遅れたのは、コクピット付近にドライバーの姿が見えなかったため、ドライバーはすでに脱出したものと消火要員が勘違いしたフシがある。これは、北野選手の証言によっても裏づけられる。
北野選手:「脱出後、直ちに鈴木選手のマシンに駆け寄った。燃えているコクピットにドライバーが見えない。大声で“降りたか!”と聞くと、だれかが“降りた”といった」
実はこのとき、燃え盛る炎のなかに鈴木選手はいたのだ。
* * * * *
バンク下にすべり落ちて止まった高原、川口選手も消火作業に加わった。ボンベを抱えたオフィシャルが、鈴木車のリヤ・カウルに消火液をぶっかけはじめた。しかし、間もなく消火液が底をついてしまう。鈴木車の炎はいっこうに小さくならない。
事故発生2分後、生き残った10台のマシンがストレートに現われた。それを見た北野選手はコース上に駆け出して手を振り、マシンを止めようとした。だが、走行中の各車はやや減速しながらも、北野選手の側をスリ抜けるようにして再びバンクに突入して行った。北野選手はそれらのマシンにハネられそうになり、コース上に転んであやうく難をまぬがれた――。
北野選手:「2周めに入ってくるマシンに合図を送ったのだが、だれも止まる気持がなかった。自分の仲間が燃えているというのに……。当然彼らはマシンを止めて、降りてくるべきだったと思う」
現場にはさらに1台の消防車が駆けつけ、鈴木車への消火作業がようやく本格的になってきた。北野/漆原車の消火をほぼ終えた消防車も、コースを横切って消火に加わった。一部の観客がフェンスを乗り越えてグリーンに飛び降りる。それを制止するオフィシャルの携帯マイク。消火剤の白煙が現場に立ち込め、フェンスの側で見守っていた観客は、煙にむせて逃げだすしまつだった。
コントロール・タワー前で、狂ったように振られるチェッカー旗と黒旗、そして黄旗。ストレートにもどってきた10台のマシンは、ようやく相ついでコントロール・ライン付近にストップした。
そのころ火勢の弱まった風戸車から、ふたりのファイアーマンによって風戸選手が救出された。ヘルメットは脱げ落ち、全身が黒く焼けただれていた。風戸選手は直ちに軽トラックに載せられて医務室のほうに走り去った。
が、鈴木選手の救出作業は遅れた。初動作業がややおそかったせいもあってか火勢がなかなか弱まらなかった。ようやく下火になり、まだ火がくすぶるコクピットから引き出された鈴木選手の命は、すでにつきようとしていた。消火剤で全身まっ白となった鈴木選手は、救急車で医務室に運び込まれたのだが………。
事故発生5分後の午後2時10分に鈴木選手の、また、午後2時35分に風戸選手の死亡確認が行なわれた。
午後4時、修羅場と化していた事故現場は、4台の残がいを残したまま静寂に包まれようとしていた。なぎ倒された信号燈のそばには、焼けただれたカメラ・バッグと1200mmの望遠レンズ、ふたつの三脚が転がっていた。そして望遠レンズのかたわらに、後部が凹んで黒こげになった風戸選手のヘルメットが、無残な姿をさらしていた。
*開幕線で2位表彰台に立つ鈴木誠一選手(中央)「レーシングオン」2008年3月号所載)
*第2ヒート出走直前の風戸裕選手。25歳のスタードライバーだった。(「レーシングオン」2008年3月号所載)
「特集記事」はここで筆を止めてしまう。
そこから、中部さんの新しい取材の旅が始まる。
「この特集記事を最後まで読んで、なにが起きたのかは、よく理解できた。しかしなにも終わっていないということも理解しなければならなかった。
なぜ、この多重クラッシュはおきてしまったのか。どうしておきてしまったのか。
それは、このレースで生き残ったレーシングドライバーたちに訊かなければ分からないのだと思えた。34年前(註:記述当時)の人間の記憶の世界に入る決意をしなければならない」
――(すでに鬼籍に入られたドライバー、竹下憲一をのぞいて)15名の連絡先をさがし出し、連絡をとる作業をはじめた。
その作業のなかで、「興味本位の取材には応じられない」と答えられた方がいた。この指摘は商業メディアの本質をさすものであって、ニの句をつげることができなかった。また連絡に応じられない方もいて、この場合はその方の心情を察するしかない。
だが、最大の心配は回避されていた。もし、この事故について語ることが当時のレーシングドライバーたちの世界で禁忌となっていたら、それを破ることはきわめて難しいだろうと考えていた。タブーになっていないことを、おしえてくれたのは、そのレースに出場していた津々見友彦であった。
中部さんの心臓の鼓動が聴こえる。このあと、寺田陽次郎、長谷見昌弘、都平健二、高原敬武、漆原徳光、黒沢元治、高橋国光、そして北野元と面接取材を重ねていくのだが、その内容は中部さんが1冊の本にまとめつつあるので、もうこれ以上、ぼくが手をつけるべきではない。いわば中部さんの《聖域》である。
そこで中部さんに単行本となる日はいつか、と問い合わせたところ、「2012年の4月」という弾んだ声が聴けた。その時を、待つとしよう。