
貴重な資料を、幸運にも入手したので、今回はその紹介からはじめよう。
――昭和52(1977)年6月11日、F氏が突然私の家に訪ねてきた。
「ちょっと相談にのってもらいたいことがありまして……」
F氏は中古車業界の大手販売会社と書店を経営しており、私の親戚筋にあたるが、彼の話は私を緊張させた。
中古車業界の若手経営者が中心になって、自動車雑誌を出すことを計画、すでにそのための会社を作って動き出しているのだという。しかもこの計画は、銀行筋から二、三の出版社や有力新聞社にも流れ、タイアップを申し込んでいるところもあるというのだ。
中古車業界としては、できれば自分たちだけで雑誌を出したいのだが、販売面など難しい問題があり、その点の力添えがほしい、というのがF氏の相談内容だった。
この気配りのきいた簡潔な一文は、1981(昭和56年)4月に解離性大動脈瘤のための急逝した講談社副社長・足澤禎吉氏の没後1周年に当たり編纂された『追悼の足澤禎吉(たるさわていきち)』(足澤禎吉追悼集編纂会・非売品=全480ページ)の中から、とくに寄稿者の了解を得て、抜粋したものである。

*故・足澤禎吉講談社副社長の在りし日の姿(中央)と追悼文集
タイトルは『命運を決めた一言』。寄稿者である井岡芳次さんは、『週刊少年マガジン』の2代目編集長を務めたのち1977年当時は講談社編集総務局の担当部長、ぼくの先輩編集者のひとりである。さらに言えば、『環八水滸伝②クルマ雑誌創刊の機運』の項で登場した西武モータース販売の藤崎眞孝社長の末弟・清孝さんの義父(つまり清孝夫人の父親)にあたる。
「ベストカーガイド社」(仮称)設立総会の席で、藤崎社長が「講談社と交渉をはじめたい。ルートはある!」と言い切って早速、井岡さんにコンタクトした経緯がみごとに証言されていた。井岡さんは、こう書き継いでいる。
――販売面ということになれば、私は専門外だ。やはり足澤専務(註:当時)に相談するしかない。F氏にもそのことを伝え、結論が出るまで他社との交渉をストップするように頼みこんだ。
翌朝早速、専務の出社を待って、F氏からの相談内容を報告した。
「わかった。すぐにその人に会おう。きみから連絡して会社へ来てもらってくれ」
話し合いはその日の午後、応接室で行われた。まずF氏から、自分たちが考えた自動車雑誌の企画の経緯と、中古車業界の現状について説明があり、足澤専務からも次々に質問が鋭い飛び、会談は1時間に及んだ。
「とにかく、ぼくに任せなさい。悪いようにはしないから……」
専務のこの一言に、F氏もほっとして帰っていった。専務から私に電話があったのは、それから1時間後だった。
「いい企画だと思うので、ウチ(ヽヽ)でやらせていただく方向で検討するから、すぐにFさんに伝えてくれ」
F氏は、講談社側の結論が出るまでに、少なくとも三、四日はかかるだろうと考えていたらしく、あまりに速い決断にまずびっくり。それに、頼りがいのある足澤専務の人柄にも強くひかれたようだ。
この講談社経営幹部と井岡さんの動きを、そのころのぼくは至近距離で知ることのできる立場にいた。社長室秘書として、何度も井岡さんがあわただしく役員室に出入りしていたのを目撃していた。
しばらくしてから、足澤専務と、編集担当だった久保田裕専務に別室によばれ、そこで一連の動きの説明を受けたうえで、講談社が新しい自動車雑誌に取り組むに当たり、きみに編集責任者を引き受けて欲しい、と切り出されたのも記憶している。そのあたりの詳細はかなり複雑な背景があるので、改めて触れることにしたい。
*1971年3月当時の講談社本社と音羽界隈(奥田徹氏撮影)
*編集総務局担当部長時代の井岡芳次さん
井岡さんは「追悼文」として、こう締めくくっている。
――中古車業界との話し合いは、その後も何回か続けられ、五か月後に「ベストカーガイド」が誕生したわけでが、もしもあの時、足澤専務の素早い決断と、“ぼくに任せなさい”の力強い一言がなかったら、この雑誌は、或いは他社から発行されていたかもしれない。
毎月二十六日、新しい「ベストカーガイド」を手にする度に、足澤専務にF氏を紹介したあの日の光景が、私の脳裏にはっきりと甦ってくるのである。
F氏。つまり藤崎眞孝さんはこのあと、自動車雑誌の立ち上げが一段落したところで、引き続き中古車のTVオークションシステムの構築に挑戦し、それも成し遂げる。が、残念ながら病を得て、51歳の若さで、この世を去る。だから、『環八水滸伝』というドラマの前半部で姿を消すことになるが、その存在感は計り知れないものがある。
さきに「昆虫売りの少年」と題して、そのダイナミックな動きを伝えたJAXの松本高典社長を「動」の主役とするならば、藤崎眞孝さんは静かに松本社長と手を携え、目標へ向かって確実に集団を推し進めた「静」の主役だった。
*ベストカーガイドグループの推進役だった松本高典さん(環八・用賀陸橋にて)
その頃の二人の関係を、松本社長はこう書きとどめている。
――藤崎君との出会いは、いまから20年にさかのぼる。
中古車販売会社40社ほどがまとまり、自分たちの出版社をつくろうという運動を展開していた。やがてそれは三推社設立(註:「ベストカーガイド」発行元、現在の講談社ビーシー)となって結実するのだが、着実に店舗網を広げつつあった藤崎君を仲間にどうしても迎えたかった。
いまだによく覚えているが、初めての電話で説得するのに1時間も費やした。「同じ土俵の上で同業者が競争しても、過当競争になるだけ」というのが、その反対の理由だった。何とか説得して、とにかく一度直接会う約束を取り付けた。初対面の印象は穏やかで、何より人の意見を聞く耳をもっていた。同じ世代ということもあったろうし、なんとなくウマが合うというのか、それからは同業の原信雄君を交えた3人で、週に1度は会って、飲みながら話をする間柄になった。(後略)――追悼集『眞諦録・藤崎眞孝をおもう』より。
なるほど、である。二人の結びつきがわかった。となると、ここでやはり『環八水滸伝』の主役の一人として、藤崎眞孝さんがどうやってこの業界と関わるようになったのか、そのあたりのエピソードからアプローチしてみたくなるではないか。
昭和40(1965)年3月、東京理科大学を卒えた藤崎(敬称略)は、通産省の外郭団体、日本機械デザインセンターに就職する。バイクで通勤。ところが早速クルマと衝突して、骨折する。そこで母親が、これからを按じて当時18万円のコンテッサ900の中古車を買ってくれる。その愛車をやがて売りに出そうと考えた。そこで無料で掲載してくれるクルマ雑誌の投稿欄を使ってみた。すぐさま電話が入って「商談成立」。ところが、次から次へと電話が入ってくる。
「クルマ、買いたいんです。売ってくれますか?」
が、コンテッサ900はもうない。さて、どうしたものか。最初は、「もう、買い手が決まって、売ってしまったんです」と答えていたが、引き続き電話が入る。
ちょっと待ってよ。これはビジネスになるんじゃないか。閃くものがあった。手元にクルマがなければ、探してきて、売ればいい。――サラリーマン1年生の藤崎の頭脳にパッと広がった鮮明なイメージ、それが中古車専門の販売業であった。
*藤崎眞孝さんの人生を変えたコンテッサ900
日曜日。藤崎は中古車屋さんを回って仕入れに精を出し、夜は車検に精を出した。1か月に20台~30台が藤崎の手からユーザーへ。サラリーマンのサイドビジネスとしては破格の収入が転がり込んだ。なにしろ、月給が3万円。そこへ毎月30万円の稼ぎが入ったらどうなるか。新しい脱サラ人生の船出が待っていた。資本金400万円の小船が大海に漕ぎ出したのである。