~新入り編集部員に何ができたのだろう~
【生意気盛りの突撃Boy】
『局長』が局長になるまでの『仕事』を掘り起こす……を「連載」します、と予告しながら、7月17日開催の「正岡祭」のための「記念誌」創りに精力を吸い取られてしまった。まだ完全に手を離れたわけではないが、そろそろカメラ持参で、東京スタジアムのあった南千住をぶらぶら歩きができそうなのに、まだ実現できないでいる。
実はこの新しい『連載』をどこから書き起こそうか、迷っている。
始めるにあたって、手もとの資料や写真を探したが、これがまた骨が折れ、時間のかかることだった。ダンボール箱に入れておいたはずだが、さてどの箱だったろう? こうなると目指すものを発見できるまで、他のことにまったく手がつかなくなる。
何度目かの捜索で、やっとお目当てを発見。「週刊現代」創刊号の表紙、目次、自分が担当したものを白黒でコピーしておいたのを見つけた時の安堵感(決して、喜びではない点にご注意あれ)。ため息が出た。
まず、表紙。ご成婚にあやかっての創刊タイミングだから、テニスコートをバックにして、ラケットとボール。ボールには「HAPPY MARRIAGE TO YOU」の文字があしらってあり、王冠が「V」マークの右サイドに納められている。なんとも静的で収まりすぎたデザイン。当時の売れっ子グラフィック・デザイナーの増田正氏を起用したというのに、この程度か。最終段階の刷り出しを見た時、思わず口走ってしまったのを、いまも苦々しく思い出す。
「なんですか、これ!? ラケットが軟式用ですよ。硬式のものはもっとゴツいんだけど」
新入社員の見習い編集者の生意気なこの声に、表紙とグラビア担当の先輩社員がギロリとこちらを睨んだまま、さっさとその刷り出しページを引き上げて行った。もう訂正のきく段階ではなかった。以来、その先輩社員には徹底的に無視された。あれからすでに57年の歳月が流れている。
昭和34(1959)年3月30日。週刊現代は、とにもかくにも創刊発売された。表紙は当然、そのままのものだった。手元にある「講談社社友会」発行の会報に『戦後の創刊誌再訪』というシリーズ巻頭企画があって、その第7回目が『週刊現代』であった。そのページに当然、創刊号の写真が掲載されているが、やっぱり最初に、発売前に目撃したときの感想と全く変わらない。
その紹介記事はちょうど10年間に書かれたものだが、これからしばらく「週刊現代」を舞台に生きた時代を、思い出しながら「局長になる前の仕事」として筆を進めていく便宜上、基礎知識として、ちょっと読んでおいていただきたい。
—−−新時代を切り開いた創業50周年企画—
● 本社初の一般週刊誌がデビュー
昭和34年(1959年)は、講談社にとって創業50周年の記念すべき年であった。
野間省一社長は、新年の年頭所感で「獅子奮迅の年」提唱、明治・大正_昭和の三代にわたり50年の今日を迎えて、愛読者のご愛顧と業界の格別の御支援を深謝した。と同時に、記念事業、出版、新分野の開拓などスタートライン煮立つ決意を表明した。
講談社が週刊誌発行を決断したのは1月で、2月2日には、野間社長は臨時社員総会を招集、一般向けと児童向けの週刊誌の創刊を発表、創刊予定は3月末と宣言する。
週刊編集局を新設、編集スタッフが揃う間もなく、編集部は“初体験”の仕事に不眠不休の臨戦態勢で執筆者確保、取材に飛びまわった。紆余曲折を経て誌名は一般向けは「週刊現代」、児童向けは「週刊少年マガジン」と決まった。
「週刊現代」創刊号は3月30日発売、定価30円、35万8000部をつくり、90%近い売れゆき。トップ記事は“ご成婚はこのように行われる”。力強いスタートだった。 (クロニック「講談社80年」より)
そのころ、世はあげてミッチーブーム、4月10日皇太子殿下、美智子さんご成婚を前に、「週刊誌創刊“戦争”が勃発。「週刊朝日」「サンデー毎日」など新聞社系強力布陣に出版社系が殴りこみをかける。すでに「新潮」「女性自身」が先行していたが、そこに「現代」「文春」「コウロン」(当時・中央公論社)が加わったのである。そんな大激戦必至の中で船出した「週刊現代」創刊号の中身はどうだったのか。
4月10日創刊号の目次を紹介したい。
まず、特集。「ご成婚はこのように行われる」と「八百長相撲はやめてくれ」の2本立て。
売り物は「四大連載小説」で、ちょっと並べて見よう。
寒い朝 石坂洋次郎
飯と汁 川口松太郎
男が爆発する 柴田錬三郎
すれすれ 吉行淳之介
当時の雑誌の柱は、どのジャンルを問わず、連載小説であった時代だから、こうした布陣になっていた。わたしの記憶では、売れ線NO.1の松本清張さんの連載「雲を呼ぶ」があったはずだったが、実際には5号目の5月17日号からで、よく考えればその担当に新入社員のわたしが指名されたのだから、創刊号であるはずがない。
創刊号で担当させられたのは「連載漫画 神様万歳」を萩原賢次宅に居催促で徹夜してこい、と送り出されたこと。それともう一つ、『ギャンブルレーダー』というコラムページ。競輪、競馬、株式を1ページで好きなようにまとめてみろ、という編集長命令だった。つまり試されているわけだった。
そこで好きなようにまとめてみた。たとえば競馬の欄。
「4月5日は中山競馬スプリング・ステークスがある。
これは昨年秋から走り出した3歳馬がいよいよ4歳馬になり、馬一代の大目標であるダービーを目前にして、全力をあげてたたかう面白さがある。
このレースは3歳馬当時の成績で千4百メートルタイムの最もよい馬が有力となる。
4歳馬は人間にたとえれば、20歳だ。青春期にあるだけに波立ちもはげしい。当日、馬をよく見るとよいが、馬に下剤を飲ませて、下見では顔を背ける状態だが、走り出すときには、馬身爽快? 差し脚も鋭いという裏話もあり、逆に走り出してから下痢がきくと、お話にならない。
馬券にはいくつかの買い方がある。
競馬で儲けることに心をとらわれ、家産を傾けるというのは、いかさま情報に乗ってしまうからだ。
週末をたのしむ健康なサラリーマンには、まず郊外の緑とオゾンに親しんでいただき、スポーティな買い方をおすすめしよう。
堅実型には2、4、6、8、10の偶数レースに本命の表裏買い。1回の投資額は200円にかぎる。スリル迎合型にはズバリ4−5。論理的根拠はないが、4月5日であることから偶然の神に祈理を捧げるのも悪くない。
これを100円銀貨1枚で、1レースから最終レースまで押せば、投資額は千円だ。あるいは、最終レースだけを特券買いで、4−5とくれば、そのまま熱海へでもお出かけください。
この担当記事は、紹介してもらった競馬ニュースのベテラン記者からの聞き書きだった。4月6日の昼休み。当時、講談社の経理局幹部のS氏が、寿司折を下げて編集部へやってきて、わたしの「ギャンブルレーダー」の推奨通り最終レースを勝って大当たり、と礼を言いにやってきてくれた。あのコラム、何回続けたのか記憶にない。何しろ新入社員は3人だけ。「おーい、新入り!」と何かにつけ雑用を仰せつかる。
3号目にはとうとう「特集記事」の目玉となるインタビュー取材をやらされてしまう。題して『天皇制に石を投げる世代』。ご成婚パレード中の馬車に、一人の少年がかけより、ポケットの中から石を取り出し、お二人に向かって投げつけた事件である。その波紋を取材せよ、という編集長の指令。次回はそのページをぜひ紹介したい。わたしの23歳の春であった。
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つれづれ自伝 | 日記
Posted at
2016/06/30 01:35:57