〜『週刊現代』創刊第3号の白眉となった特集記事〜
「飛び出した無言の少年」という小見出しで始まる特集記事の書き出しからはじめよう。
恐らく、このシーンを記憶しているこの国の人が、今、どのくらいいるのだろうか。もし記憶していたとしも、この記事を読んでから、ああ、そんなことがあったね、といった程度かもしれない。昭和三十四(1959) 年四月十日という日は、それほどに遠くなっているのだろうか。
−−−−その日、二時三十七分。
皇太子旗をおしたてた騎馬警官を先頭に、お二人の乗った馬車が祝田橋近くにさしかかったとき、五メートルおきぐらいに並んだ警官の間をすり抜けて、緊張でひきつった形相の少年が馬車にかけよった。ポケットの中から取り出した拳ほどの石をお二人に投げつけたのだ。
パシリ、と鈍い金属性の音がして石が馬車のドアにぶつかった時、一瞬ハッとした警官も観衆も、まだこの時はその場の熱狂ぶりにまきこまれて、ただ無言でこの男の動きを見守るばかりだった。気がついていたのは、馬車の、少年が走りでていた側に坐っていた美智子さんだけだったろう。つづけて、もう一発。とっさに身を沈めて皇太子さまの方によりそった美智子さんめがけて、少年は馬車にとびついた。ようやく身をていしてお二人をかばう車従とかけよった警官たちに遮られてこの少年がとりおさえられてこの少年が取りおさえられるまで、ほんの二十秒たらずのこと。パレードは、この白昼の無言劇に気のつかぬ観衆をのこしたまま、つづけられていった−−−−
テレビのカメラは、三局ともこの一部始終をとらえて送り、視聴者は予測しなかったこの事件に、興奮で息をつめた。
これは、四月十日の、もっとも大きなショックを与えた事件だった。国内の新聞も、外国の通信社も、これを大々的に報道した。
重大なことは、一方に、玉ジャリの上に敷いた粗末なムシロに正座し、拝むように泣いて迎えた老人層であり、もう一方には、映画スターを見物するように、珍しい人、美しい人を眺めた若い人びともあったが、それとは別に、もっと複雑な気持ちで沿道に立ち、この少年の行為に共感をもつ人びとがいたということである。しかも、そういった人びとは、ラジオでも新聞でも、どしどしその意見を発表してきていることである。
パレードの歓迎に見られたこの様相は、戦後、皇室を畏敬する念が薄れるにつれ、かつてない親しみをも持つようになったことのあらわれでもあるが、革新的思想の人びとや進歩的文化人が天皇制に対して加えたいろいろな批判とは別に、いわゆる皇室ブームのさなかに、新しく皇室とか天皇制に対して、極めて批判的な世代が生まれつつあることは、注目すべきことである。
「われわれはこの少年のようなのが、二、三人は出てくると思ってましたよ」
宮内庁記者クラブに詰める各社の記者は、こう言っていたほどだ。
さてここからが、注目の部分で、石を投げた少年の「肖像」がエッチングされている。どこにも紹介されていない貴重な資料なのだが……。
最初に、丸ノ内警察に留置されているこの少年の場合をのぞいてみる――
――昭和十五年(1940)、長野県伊那郡の、村の中では上級の家庭に十人姉弟の末っ子として生まれた。姉が八人、下二人が男だった。小中学校時代はわがままなきかん気の坊やで過ごし、伊那北高に進んだが成績は中位、特にめだつ存在ではなかった。
昨年暮、高校卒業の際同志社大学を受験したが失敗、上京して新宿のガソリン・スタンドに勤めた。八月、村長をしていた父親が死んだので帰郷したが、今年の一月末、今度は早大と中大の法科を目指して上京した。しかし、大学は狭き門だった。
最初に天皇制に疑問をもったのは小学校五年の時だった。皇族の一人(貞明皇后らしい)が亡くなった時、全校生徒に強制的に東に向かって礼拝をさせられた。その時「冥福を祈るのはいいが、東京で死んだ人に長野からおじぎをしたってなんにもならない」と考えた。この考え方はそのまま持ち続けられたが、表面化しなかった。皇太子(調書には必ず明仁とかくように要求した)の結婚が決まり、行事がつぎつぎと報道されるようになると、再び考えだした。
「高校三年の時学校が全焼したが、生徒が七百五十人いるのに再建費は四千万円だった。皇太子の場合は御所建築だけで二億三千万円。しかもそれは国民の税金ではないか。皇太子が結婚するのは祝福されて当然だが、税金を使い、国民に道を開かせてまでパレードすることはないではないか……」と。
当日、朝九時半ごろ、下宿をでると石ころを二つ拾って皇居前にむかった。パレードの時、皇太子と美智子さんは幌のついた馬車に乗るものと思っていたので、戸の開け方もわからないため窓ガラスを石でこわせばなんとかなるだろうと思っていた。皇居前の混雑をそれ程予想していなかったので、結局三度場所をかえてようやく最前列に出ることができた。
石が当たらないので、馬車のドアを開けて美智子さんをひきずり落とし、パレードをめちゃめちゃにするつもりだった……
このあと、「創刊3号」の記事は、丸ノ内署の話として、事件当日下宿の部屋を家宅捜索した時押収したノートの内容などを、かなり具体的に伝えている。そして「悪用されやすい天皇制」という見出しをたてて、識者の声を集めている。もうすでに、いろんな場所で“天皇制度廃止論”を主張している新進小説家(註・当時としては)の大江健三郎の「声」を半ページにわたって丁寧に紹介しているのが、なんとも特徴的だった。その大江氏も週刊現代編集長の声がかりとあっては、新入社員のように、膝を正し、初々しく対応してくれた。
何しろ創刊編集長の大久保房男さんは、純文芸誌『群像』の編集長を兼任したまま、この新メディアを任されている人物だった。文壇では「鬼の大久保」と畏怖された編集長であった。わたしたち(その年に配属されたばかりの新入社員であり、駆け出しの編集部員であった)は、徹底的に文章の「てにをは」から鍛えられた。
その鬼の編集長に、ひとり、呼びつけられた。
「おい、新入り。ラジオ関東という新しいラジオ放送局で、ご成婚パレードの馬車に石を投げた事件を取り扱ったそうだから、どんな内容だったか、取材してこい!」
ギロリと目を剥かれ、お尻をポンと叩かれて、送り出された。心当たりはあった。大学剣道部の2年先輩が共同通信の記者で、駆け出しのわたしの「保護者」としてサポートしてくれていたからである。
早速、当時は日比谷公園に隣接していた市政会館に先輩記者を訪ねると、運よく在社中だった。
「分かった。それは東京タワーの真下にあるラジ関だよ。広報部に連絡しておくから、ともかく行ってみな」
かくしてわたしの取材したデータ原稿と、提供された広報写真が、創刊3号の特集ページに採用される……。
「洋子ちゃん、馬車行列見た?」
「ずっとテレビで見てた」
「エイちゃんは?」
「野球見にいっちゃった」
「ひどいね。実は僕も……パ・リーグの開幕の日だもの」
「ところで、ついに現れたね、暴漢が……」
「エイちゃんじゃないかと思った」
「そう言えば、齢かっこうが似てたね」
「僕だったらうまく当てたな。野球はうまいんだから、スポーツ神経は発達してる。でもやらないけどネ」
「あの度胸はたいしたものだ。護衛や大勢の見ている前でね」
「警視庁も予測はしていたろうな。右翼や左翼ではっきり天皇制反対を唱えてたのがあったから」
「むしろ、たった一人でああいう風に出てきたのは少ないくらいで、当然といえば当然だネ」
「そう、あたしたちの知ってる人で反感もっているの、たくさんいるもの」
「新聞で読んだんだけど、警視庁の話しによると、あの少年は天皇制反対を唱えてやった。だから要するにあの少年は馬鹿で気狂いだというようなこと言ってたね」
「天皇制が反対だからというので馬鹿だとか気狂いだというのは、言うほうがよっぽど馬鹿で気狂いじゃないかな。たしかにあいつのやったことは馬鹿で気狂いと言えるかもしれないけど、天皇制反対という考えは馬鹿でも気狂いでもない」
「うん。天皇制反対というのは天皇制賛成というのと同じように、一つの考え方だものな」
「僕なんかも正直言って反対だなア」
「わたしもあんまり感心しないわ。でも、かれらからみればあたしたちも馬鹿か気狂いなのかも知れないわ」
「じゃあ、馬鹿と気狂いが放送してるってことになって、こんなこと消されちゃうかもしれない。フフフ……」
「でも、ラジオ関東はそんなことしないよな、ハハハ……」
これは、四月十三日の朝、ラジオ関東(横浜に昨年十二月二十四日開始)の帯番組「きのうのつづき」というディスク・ジョッキーの時間に放送されたもの。レギュラー出演者、ラジオ作家の前田武彦さんと永六輔さん、それに歌手の原田洋子さんという三人組のオシャベリである。
前田さんは三十歳、永さんは二十五歳、原田さんは二十三歳と、ともに、いわば“戦後派”の代表だ。
この番組は、前もって台本を用意せず、ぶっつけ本番で勝手にユーモラスなオシャベリをしようという趣向。出演者が若い世代の人たちだけに、ズバリ言い過ぎたり、時どきラジオ関東の経営者をあわてさせているが、若い人達の人気は非常に良く、聴取率も高い番組である。
チーフ格の前田さんは、こう言っている−−−−
「僕たちは、はっきり天皇制に反対だ、と言いきれますね。理論的にどうこうというよりも、感情的にですが、誇張はしていません。僕たちは若いんだし、感情的という方が赤裸々でナマのままの意見だし、大人のようにゴマカスことをしないだけいいと思っています。あるいは世の中一般には意見として認められていない意見かもしれませんが、責任を持てることは、われわれの世代が会社や上役の前で言えず、バーか飲み屋で言っているようなことを、僕たちがここで言っているということです。
この番組も、いつどこで弾圧されるかわかりませんが、僕たちこのナマのままの意見を批判してくれる人もいるでしょうから……」
こうして長々と、57年前に発行された『週刊現代』創刊3号からの担当記事を紹介しながら、様々な想いが交錯する。
まず「天皇制への投石事件」を取り上げたラジオ関東の「3人組」のひとり、「エイちゃん」とは、この7月7日に83歳で逝った永六輔さんのこと。その訃報が流れ、どのTVもその追悼番組を放映した。その彼のデビュー当時の言動の一端を伝えられるな、と思っていたら、突然というべきだろうか、天皇陛下が、天皇の位を皇太子に譲る「生前退位」の意向をお持ちだというニュースが流れた。同時に美智子妃とのご成婚当時に映像が、頻繁に茶の間に流れ、もちろん、その時に「投石事件」があったなど、だれも想像できない平和なお姿がそこにあった。

*NHK『NEWS WEB』より
天皇陛下は、昭和天皇の崩御に伴い、55歳で、今の憲法のもと、初めて「象徴」として即位され,美智子妃とともに、現代にふさわしい皇室の在り方を求めて、新たな社会の要請に応え続けられて来られた日々に、改めて深い敬愛と尊崇の想いが深まっていく。それがいま、「お務めが果たせなくなれば、譲位すべきだ」というお考えで、皇后さまをはじめ皇太子、秋篠宮の両殿下も受け入れられているという内容が伝えられた。この60年間、ひたすらまっすぐに、今に時代にあった皇室のあり方を追求されてこられた天皇陛下の志を、あらためてしらされたニュースだった。
それはそれとして、当時のマスコミ状況と、今のものとを引き比べてみると、その自由闊達さは、格段の温度差を感じてしまう。

*『創刊3号」に掲載されていた「ブルーバード」の広告。活版1ページとはお互いがまだ未成熟の時代、とわかる。
翌1960年(昭和35年)、日米安全保障条約が締結される。連日の国会デモ。樺美智子さんの死。その取材に駆り出されながら、出版労組の一員としてデモにも参加した日々が思い出される。……素朴な体制批判が、あの当時の雑誌ジャーナリズムの背骨にピンと通っていたなあ、と。
とはいっても、週刊現代はまだ「創刊3号」。まだまだ「幼稚園児」の域を出なかった。改めて目次を見ると、グラビア企画の末尾に『話題の人…山本八郎、張本勲』とある。そうか、あの写真は「創刊3号」の時のものだったか、と膝を打ってしまった。
かねてから東京駅のプラットホームで、あのTBSの『サンデーモーニング』で「喝!」「天晴れ!」の「週刊ご意見番」を演じている張本勲氏と肩を組んでいるショットが手元にあるのだが、それが何を意味しているのか、ひょいと解明してしまった。それがやがて『告訴第1号』事件の源流となることを、次回、触れてみたいのだが……。