〜雑誌編集者なればこその 『想い出ボロボロ記』〜
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(講談社文庫サイトより)なかにし礼の人生と音楽が、小説の形で融合‥‥
矢口高雄さんとの別れのご挨拶に、自由ヶ丘まで足を伸ばした日のことを「みんカラ」にアップし終えたその日の朝日夕刊を開いて、息を呑んだ。矢口夫人に『元気の出る対談』で残念ながら、どうしても都合がつかず諦めた人の名前をあげた一人、なかにし礼さんの訃報が乗っていたからだ。
「なかにし礼さん死去」‥‥‥82歳「北酒場」「長崎ぶらぶら節」12月23日午前4時24分、心筋梗塞のため都内の病院で死去した。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻中西由利子さん。
あの礼さんもとうとう、力が尽きたのか。スッと訃報の意味を受け止めた。10年ほど前に食道癌に罹ったことをすすんで公表、それを陽子線治療で克服し作家活動に復帰したものの、5年前に再発、それでも執筆を絶やさなかった。ひときわ、逆境に強い人だった。
iMacに礼さんと肩を組んだツーショットが保存してあるはずだ。SPOTLIGHT検索に彼の名を打ち込んでみた。しばらくして、モニターに浮かび上がったスーツ姿のなかにし礼さん。「講談社」のネームカードを首から垂らしたわたしの肩に左腕をのせている。何のパーティだったろうか? 恐らくその頃、全盛だったワタナベプロの新年パーティでなかっただろうか。そういえばカードのデザインに「W P」のロゴデザインが施してある。
*わたしの胸のネームカードにご注目を。「講談社」と記してある。
まだ作家としてではなく、売れっ子のナベプロ専属作詞家。となるとわたしは女性週刊誌『ヤングレディ』の副編集長だった時代か。芸能界との交遊も大事な仕事で昵懇の音楽評論家、安倍寧氏を交えて、ひとしきり「石坂浩二と北大路欣也」の比較論で盛り上がったところで、礼さんが話題を報知新聞主催の演劇人野球大会に切り替えた。
「あなたは《劇団四季》から出ているんだって?」「どうして知っているの?」
「だって、こないだの《劇団青俳》戦でホームランを打ったでしょ?《報知》にイニングスコアと本塁打だけは選手名が載るんですよ。おや?と思って四季の野球部の人に訊いてみたら、あなただって‥‥‥」
そこまでご存知なら、と率直に『四季』の助ッ人として参加した経緯を説明したのを、今でもはっきり記憶している。
『劇団四季』の主宰者・浅利慶太さんと昵懇だった関係で、何かの折にお互いが野球チームに関係していて、じゃあ練習試合を、と話がまとまった。四季
vs.講談社戦の舞台は昔懐かしい上井草球場。スコアは覚えていないが、大差で我が軍が勝利して、その時、一塁を守る5番打者の浅利さんが、初めて左利きと知った。率直に言って、大味なアッパースイングで変化球には、からきしダメだった。
四季のエースのカーブを、右中間にライナーで持って行ったわたしに、浅利さんが不思議がった。「どうやって持っていったのかな? うまくヘッドを残して振り切っていたけど‥‥‥」
「ボールを点で捕まえるんじゃなくて、線で追うんです。バットのヘッドを縦に残してぶつけるんです」
「なるほど。今度、うちの若いのに教えて。ユニホームを送るから、演劇人の対抗戦に来て貰えるかな」

*とっておきの「バッティングフォーム」を初めて公開
*一振! 打球は左翼の頭を越えて・・・(本当の話)。
「うちも《なかにし商会》というチームを持っているんだけど、一度やらない? 準硬式のボール使用だけど」
「え!? トップボールで? そりゃ本格的じゃないですか。軟式ボールでしかやったことのない講談社チームじゃ無理です。礼さんは昔、硬式チームでやっていたの?」
「いやいや、高校生の時、アルバイトで地方の県営球場のバットボーイをやった程度。でもうちのメンバーのほとんどは硬式出身だから」
立ち話はなんだから、ともかく青山の事務所へ近くお伺いします、と約束したのだが、結局そのままになったのを今でも悔いるつもりで、矢口さんとの対談相手に礼さんが浮上した時、即座にあの時のお詫びを兼ねて「恋文」を書くことに決めた。六本木にある事務所に連絡をとり、対談のお願いを兼ねて、久しぶりにお目にかかりたい旨を伝えた。
すぐに了解のレスポンスがあった。ところが、である。礼さんから指定のあったその日時を矢口さんに伝えたところ、なんとその日時に、矢口さんの方で約束をとった劇画家の小池一夫さんの都合とバッティングしてしまった、という返事。当然、なかにし事務所に連絡を入れて変更をお願いする。が、指定した日以外はとても無理ということで、再会の機会はあっさり消えてしまったのである。
なかにし礼さんはその後、2000年には『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞、作家としてさらに巨きく翼を広げていった。仮に、わたしが車メディに舵を切らないで雑誌編集者として本来の道を行っていたなら、きっと同じ舞台で、クリエイティブな出会いがあったかもしれない魅力あふれる存在だった。
☆ ☆ ☆
2020年、旅立っていった人への鎮魂の弔鐘をもうひとつ、搏(う)たねばならなかった。同じ「朝日新聞」の12月25日朝刊「惜別2020」欄に前日本写真家協会長・熊切圭介さん(86歳)への惜別の辞が掲載されていた。
ひと月前の11月27日に誤嚥性肺炎のため、鬼界の人となっていた。わたしが週刊現代の創刊に合わせて配属され、西も東もわからない「新入り編集者」になったとき、熊切さんもほとんど同じ時期に「活版ページ」専用のカメラマンとして編集部に出入りするようになった。
どんな小さなテーマのページであろうとも、誠実にシャターを切り、現像室にこもって注文されたカットをプリントアウトして、「これでいいでしょうか?」と含羞の笑みと一緒に、届けてくれるカメラマンだった。
3年半後、わたしは当時の講談社の看板月刊誌『日本』に転籍し、早速、巻頭のグラビアページで、石油コンビナートに侵蝕されつつあった瀬戸内海を撮ってこい、という指令を受けた。その時、わたしが指名したカメラマンが熊切さんだった。
まず東海道本線と山陽本線で岩国(山口)へ。その頃は余程のことがない限り、空路を利用するなんて許されなかった。岩国からは広島に戻って、フェリーで松山へ。」音戸の瀬戸を抜けるとき。熊さんが記念だから、と言って海峡に見入るわたしにカメラを向けてくれた。その後、松山城の天守閣でも居合わせた女性群と一緒に瀬戸内海を背景に‥‥‥。その時の写真を後生大事に保存しておいてよかった。ひときわ完成度の高いショット。熊さんの味が素直に伝わってくる。
実は松山こそ、わたしの父祖の地でありながら、この時初めて足を踏み込んだ。この時のグラビア『変わりゆく瀬戸内海』の旅が、後年、わたしの現役引退後の「ライフワーク」とも大きく関わるのだが、それは別の機会に。
同じ時代に、同じ修羅場で闘ってきた仲間たちが「惜別」とか「墓碑銘」といった欄に登場することが多くなった。想い出ボロボロ。せめてもの追悼の想い。
もうすぐ、2020年の幕を閉じる除夜の鐘が鳴る。
数えてみると、『みんカラ』ブログのアップ数は12に過ぎなかった。月1は何とも情けない。それでも、心を通わせる仲間との交流は諦めていない。
新しい2021年もどうぞよろしく。
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還暦+白秋期の24歳 | 日記
Posted at
2020/12/31 21:01:03