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正岡貞雄のブログ一覧

2017年05月08日 イイね!

猛虎の歴史的大逆転劇にこころ弾ませて

猛虎の歴史的大逆転劇にこころ弾ませて〜『萎んだままの風船』再生への道、再び〜

【左のカットは5月7日の広島戦。ベテラン勢の活躍で6-0で3連勝】

 いつのまにか大型連休も最終日。薄曇りの午前8時、4日続けて近くのコンビニまで、阪神タイガース御用達として名高いスポーツ専門紙『デイリースポーツ』(140円)を買いに行く。そして4日連続、この日もまた見事に「デイリー…」だけが売り切れで、駅前にあるもう一つのコンビニにまで500mばかり余分に足を伸ばす羽目に。

 この東京西郊に、虎党がそんなにいるはずもないが、タイガースに本物の元気が確立してきた嬉しい余波と思えば、これもまた楽しからずや、である。

 さて、お目当ての「デイリー…」紙面のなんとまあ賑やかなこと。第1面はともかく、裏表紙とも言える第32面まで使っての「見開きページ」に始まって、3〜4面、5〜6面と昨日の0—9からの「歴史的猛虎最大の逆転劇」を報じている!


*左側が第1面、右が最終32面


 金本監督にはじまってベンチにいる虎戦士が腕を突き上げ、歓喜する瞬間が紙面を飾る。殊勲をあげた若手選手の躍動する瞬間。ひと頃の「ひ弱さ」が嘘のようだ。
 
 前日(5月6日)の広島戦はプレーボールの瞬間から、最後のゲームセット、そしてヒーローインタビュー、監督インタビューまで、残さずTV観戦した。

 5回表、0−9となった時でも、なんとなく、この先にとんでもないドラマが待ち伏せしている気がして、TVから離れるつもりになれなかったのも不思議だ。プロ初登板、初先発として起用したドラフト6位の右腕投手が、6点も取られながらひたむきに投げる姿にも、何かがやって来る予兆を感じ取ったのはなぜだろう?


*右側が第2面、左が第3面

 案の定(じょう)、5回裏に梅野の中前打で1点、そして6回には高山の満塁からの3塁打で1点差に。こうなると逆転勝ちも夢ではなくなった。あんなに光り輝いていた広島ナインのヘルメットの「ソウルレッド・プレミアムメタリック」が、色褪(あ)せて見えてきた。

 2日続けて逆転打を放って「ヒーロー」となっている梅野隆太郎に打席が回り、初球を右中間突破の3塁打。なんと11−9じゃないか!


*2016年シーズンから監督をひき受けた金本知憲

 金本知憲という虎のリーダーの凄さを思い知らされた。就任1年目から『超変革』というスローガンをかかげ、徹底的に「若い力」を登用、ひたむきに鍛え上げた。そして2年目、その狙いが確実に実りつつある。

 結局、12−9。今やセ・リーグの最強チームと目されている広島カープを、「後世に語り継がれること間違いなし」の大逆転劇で退けたこの日、甲子園に駆けつけた虎党は涙を流し、いつまでも「六甲あらし」を歌い続けたという。


第4面と第5面

 間違いなく、潮目が変わった。6月になればセ・パ交流戦が始まり、そこでここまで育ってきた「若き虎戦士」たちの力が改めて試される。やっと待ちに待っていた楽しみが続く……。

 3年前、一旦、少年時代から贔屓しつづけてきた阪神タイガースから心が離れかかった時期がある。2014年6月9日付けの《みんカラBLOG『阪神か広島か。ご贔屓球団に心変わりアリ!』》にその辺のくだりを詳述してあるので、改めてご一読いただければ、幸いです。タイトルをクリックください。


 この稿をどのブログカテゴリーにおさめたのか、チェックしてみて驚いた。なんと「秩父こころ旅」である。どうやら、3年前の黄金週間の前後は、ひどくモチベーションが下がっていて、自らを「萎んだ風船」に見立てて、どうやればもとの元気な姿に戻すことができるのだろうか、と自らに問うていた。

 で、結局は「その風船が破れてさえいなければ、プーッと新しい空気を吹き込んでやればいいじゃないか」と、言い聞かせて、焦らずに、ともかく大きく息を吸い込むモチベーションがやってくるまで、じっと待っていた。

 そして足を向けたのが、その頃明治期の殖産興業を象徴するこの富岡製糸場が周辺の絹産業遺跡と合わせて、ユネスコの世界文化遺産に登録される見通しが報道されたのを機に、前もって富岡製糸場を見学し、その足で群馬県側から秩父に入る計画を立てていた。

 その取材レポートの中で、我がこころが「便秘状態」にある原因の一つに、贔屓球団の「ダメ虎」ぶりだと言及しているのが『秩父こころ旅』に繰り入れられた理由だと判明。

 そうか、秩父か。実は今年の大型連休に入ってから、遠出は無理にしても、近場くらいはひとっ走りしたいのだが、それぞれの高速道路の渋滞情報を知らされると、その気持ちもたちまち萎えてしまう。家人も出かけるのを渋って、弾まない。

 現役時代は、まとまって休みがとれるのはこの時期と、盆と暮。渋滞も楽しからずや、と何処へでも出かけたものだ……。金沢、白川郷、松本、仙台、会津、明日香……。


*秩父・羊山公園。武甲山が正面にドーンと…・

「じゃあ、秩父・羊山公園の芝桜はどう? 電車一本で行けるし……」
 と、いうわけで、5月3日の朝、午前8時発の電車で石神井公園へ。そこで接続する快速急行に乗り換え、西武秩父駅の一つ手前、横瀬駅へ向かったのだが……。
 それは次回のレポートに譲るとしよう。


*横瀬駅前広場に立つ案内板


*前の4輌が横瀬から三峰に向かい。後ろの4輌は分離されてお花畑駅経由で長瀞へ向かった。(石神井公園駅にて)
Posted at 2017/05/08 00:36:14 | コメント(2) | トラックバック(0) | 秩父こころ旅 | 日記
2014年12月08日 イイね!

噂の「文太」はいつも抗〔あらが〕っている

噂の「文太」はいつも抗〔あらが〕っている〜菅原文太という『男星』のラスト講演②〜



「カウント99791」で家を出たプログレのODOメーターの数字が、快適に、律儀に100000にむかって加算されて行く……関越自動車道に入ってからは、クルーズ・コントロールにセットした。制限速度あたりにセット。なにもすることがなくなった。と、つい、鼻歌が出てしまった。なぜかシャンソンである。

♪ Sous le ciel de Paris 
  S ’envole une chanson
  Hum Hum
  Elle est nee d’aujourd’hui
  Dans le coeur d’un garcon
(パリの空の下に響く ム―ムー 歌は若い息吹きを乗せ……日本語訳:菊村紀彦)

 原語で唄えるのはその一節だけなのに、アコーデオンの奏でるメロディに乗ってパリの風景が流れる一つのシーンが、フッと思い出されたのはなぜだろう。凱旋門、シャンゼリゼ通りのキャフェテラス、セーヌ河畔の恋人たち、ノートルダム寺院の尖塔、そして、パリ・リヨン駅。駅のアナウンスが聴こえる。この終着駅にたどり着いた長距離列車の車輪がゆっくりと停止すると、降り立った乗客のなかに丁髷・佩刀姿の奇妙な一団をカメラがとらえる。つづいて、こんなナレーションがかぶさったように記憶している。

「今から113年前、このパリのリヨン駅に20数名の日本人武士が降りる。15代将軍の弟君の随行する幕府派遣のエリート一行である」
 その一行の最後尾に会津藩の下級武士に扮した菅原文太が、なぜか紛れ込んでいる。

「彼らは船旅56日を要しパリで開かれる万国博覧会に参加のためである。一行はその翌年が明治元年と呼ばれることを、まだ予測だにしていなかった……」

 それが1980年に放映され、3年ほど前のBSテレビで再放映されたNHK大河ドラマ「獅子の時代」のオープニングシーンであり、俳優・菅原文太が、単なるアウトロー野郎を演じるだけの男ではない「新しい道」に脱皮していった、注目すべき瞬間でもあっただろう。

 回を重ねること51回、その大河ドラマのエンディングシーンで「自由自治元年」の幟旗を振りかざし、敗走する秩父困民党の最後の闘士として抵抗し、明治政府の鎮台兵のなかに斬り込んでいく……ナレーションがいつまでも、心に残っている。

―—やがて日本は日清戦争に突入、さらに日露戦争への道を歩いていく。そのような歳月の中で、幾度か銑次の姿を見たものがあるという。たとえば栃木県足尾銅山の弾圧のさなかで、たとえば北海道・幌内暴動弾圧のさなかで、激しく抵抗する銑次を見たものがいるという人がいた。そして噂の銑次はいつも闘い、抗(あらが)う銑次であった、と。 
 
 なんとも強烈な感銘を残した平沼銑次、いや、それからの菅原文太さんが、「秩父事件130年記念講演」で何を語ってくれるのか。胸が高鳴らないはずがなかった。

 そんなことに想いをめぐらせながら、花園ICで下の道に降り、いくつかの峠をぬけ、11月9日の午前9時45分、秩父市役所吉田総合支所に隣接する会場の「やまなみ会館」についた。


*この日の秩父・吉田町の佇まい。ここが「秩父事件」の震源地





 会場は、すでに300名を越える来場者で埋まりつつあり、その関心の高さがうかがえた。いくらか空きのあった前列に陣取る。定刻、主催者側の挨拶で「記念集会」ははじまった。会長(秩父事件研究顕彰協議会)の篠田健一さんの声は、のっけから熱かった。

 ちょうど130年前の11月9日の未明、秩父を脱出して、信州に新天地を求めた「秩父困民党」の残党が長野県佐久市の東馬流(まながし)・天狗岩のあたりで、高崎鎮台兵と激突、十字砲火を浴び、敗走。この戦いで虚しく散華した困民党員の屍は13を数え、鎮台兵の流れ弾で地元の主婦が一人、犠牲になったという。捕縛者も100名を越えた。官軍側からも警官2名が負傷し、数日後、そのうちの1名が絶命した……その模様を、地元戸長の当時の日記やら、事件直後の現場を目撃した佐久自由党員の日記をもとに、来場者に紹介したあとで、11月3日付の『信濃毎日新聞』(正岡註:骨太の地方紙として知られる)の社説に大きな励ましを得たとして、読み上げる。 

「敗れたとはいえ、明治維新から20年を経ない時期に、自由や平等、民主主義を求めて国家権力に立ち向かった人々がいたことに、目を見張る思いがする。そこには、民衆の自由でたくましい精神が息づいていた」
「民主主義は、選挙や代議制といった形式を言うのではない。130年前に立ち上がった人々にあった、われわれこそが政治の主体だという意識を私たちは持っているだろうか。権力の横暴に抗する人たちに連帯し、支えていく動きは広がっているだろうか」(秩父事件研究顕彰協議会オフィシャルサイトを参照)
 
「秩父事件」を単なる暴動としてではなく、その本質を見抜くエネルギー、そこにこの地方ジャーナリズムの志を感じた、と締めくくる。





 挨拶が終わって、会場の照明が絞られる。まず、120周年を記念して制作された映画『草の乱』(監督・神山征二郎)の上映である。この作品はことあるごとにDVDで鑑賞しているので、ストーリーも、見せ場もインプット済み。が、こうやって劇場スタイルで、多くの人と一緒に鑑賞するのは、別の楽しみがある。空気が違う。それが大事ではなかろうか。

 雪に埋もれた北の大地。吹き荒ぶ風。北海道野付牛町。1918年(大正7年)、緒方直人が演じる老人が、いまわの際を迎えていた。気力をふり絞って、彼は枕元に妻子を呼び寄せ、自分の本名を明かし、実は「秩父暴動」と呼ばれる事件の首謀者の一人で、この北海道に潜入し、33年もの間、身分を偽り生きて来たことを告げるシーンから『草の乱』ははじまる。



 そこで写真屋を呼んで、家族全員の記念撮影をし、地元の新聞記者を招いて、その「事実」を公開し、静かに息を引き取っていく……そして画面は、1883年(明治16年)の当時の秩父地方の農民や山の民が直面していた貧困と借金にあえぐ窮状を描いていく。秩父郡下吉田村で「生糸問屋」を営む「丸井」の若旦那・井上伝蔵は、そんな彼らに頼られ、手を貸しているうちに、いつしか当時、政府の圧制に立ち向かい、憲法の制定を叫んで熾烈な活動をみせていた自由党に入ることを決意する……。彼こそが死刑の判決を受けながら、見事に生き抜いて、単なる暴動ではなかった『秩父事件』の本質を、後世に伝えようとした「凄い奴」だと、その映画はメッセージする。

 上映時間、2時間。エンディングの後も拍手は熄(や)むことがなかった。ひとりひとりの想いは異なっても、何かが通っている。その連帯感が、この会場一杯に広がっていく……。そしてこのあと、昼食をそれぞれが思い思いのかたちで済ませて、午後の講演を待つことになる。



 一旦、わたしは会場の外に出た。小雨も上がり、秋の気配が濃く溢れていたのに惹かれて、ぶらりと散歩でもする感じでプログレを走らせた。いまみた観たばかりの映画の主人公、井上伝蔵の屋敷があったあたりへいってみたくなっていた。そんなことができるのも、この下吉田の街がまぎれもなく秩父事件の震源地なればこそ、であった。
 
 午後からのイベント、秩父農工科学高校の「秩父屋台囃子保存部」の生徒たちによる屋台囃子の演奏ではじまり、午後2時からの特別講演を待つばかりだった。
 舞台の袖から、車椅子が舞台中央へ押されながら登場する。観客は、この意想外な成り行きを、声を殺して見守る。車椅子の主がこの日の主役だったのだ。



 主催者側の青年に支えられながら、ゆったりと立ち上がり、壇上に用意されていた椅子に腰を落とした菅原文太さん。やっと拍手がわき起こった。介添え役の篠田会長が、ちょっとしたアクシデントで菅原さんが腰を痛めたので、 このまま椅子に座っていただきます、と状況を説明する。それにしても、私の目には、頬の肉の削げ落ちた文太さんの印象は、いつもの精気が失われていると感じられた。これはどうしたことだ。



 あの、聞き覚えのある、少ししゃがれた低い声。
「このごろ、この国の政治が悪くなったね」
 これが文太さんの最初の挨拶だった。そして間をおいてゆっくり、語りかけた。それは今、彼が取り組んでいる「原発反対」「憲法改正反対」といった、いわば生臭い話題ではなく、おのれの歩んで来た「貧しかった青春」を、一つ一つ、思い出しながら、それでも志を失わない、真っ直ぐな男たちへの共感を、語ろうとしていた。

「今日、こうやって130年記念行事として、あの『秩父事件』のことを思い起こす機会をいただいた。嬉しいねぇ。あの北海道まで逃げ抜いて志を貫徹したあの人、名前、何と言いましたっけ?」
 
 会場から即座に声が上がる。
「井上伝蔵!」
「おお、それそれ!」

 発言者を指差しながら破顔する文太さん。会場はそれでドッと湧く。
 さすが、だと思う。午前に『草の乱』を見た聴衆に、「秩父事件」とそれに命を燃やした男たちへの想いを知った上でのやりとりか。

 明治憲法成立前夜の「自由民権運動」でシンボル的存在だった「板垣退助」の名前も、わざとだろうか、思い出せないふりをして会場の助けを借りる。
 彼が語りたかったことは、本当は何だったのか。
「どんな場合でも、理不尽なもの、力には、徹底的に抗っていきたい」
 わたしはそう受け取った。恐らく、研究顕彰協議会では、当日の講演を録音・録画しているはずだ。ぜひ、ぜひ、公開していただけないだろうか。



 秩父からの帰路は、心満ち足りた快適なクルージングとなった。駐車場に帰り着いたプログレのODOメーターは「9」が見事に5つ、並んでいた。あと1キロで10万か。まだ楽しみは残っているのだ。
 
 それから20日後、『菅原文太、逝く』のニュースが届けられた。
                     (この項、終わる)

Posted at 2014/12/08 13:48:12 | コメント(3) | トラックバック(0) | 秩父こころ旅 | 日記
2014年12月03日 イイね!

菅原文太という「男星」の最後の講演!

菅原文太という「男星」の最後の講演!〜10万㌔直前のプログレと秩父へ〜


 またひとつ「昭和世代」の男っぽい巨きな星が、流れ墜ちていった。菅原文太さん(1933年、仙台生まれの81歳)だ。その死はしばらくの間、秘されていた。
 徳さんのときも、健さんのときも、なぜかそうだった。11月28日午前3時に東京都内の病院で、「転移性肝ガンによる肝不全」のため亡くなっていた、という。そして九州・福岡、菅原道真公を祀る太宰府天満宮の祖霊殿で、ご家族だけに囲まれた葬儀が営まれた、という。

 その第一報の流れた12月1日の午後からはTVニュースをはじめ、どのメディアも彼の逝去をしめやかに報じ、夜は特番で在りし日の彼の姿、声、そして生き様を、わたしたちに思い出させてくれた。

 そして今朝(12月2日)のスポーツ紙の第一面は、「菅原文太の死」の競演だった。
「仁義なき戦い」「トラック野郎」でスターダムに躍り出た時代の彼には、申し訳ないが、あまり関心はなかった。しかし、たまたま鑑賞した五木寛之さん原作の映画『青春の門』(1981年版)での伊吹重蔵役を演じた彼が妙に印象深かったのを記憶していた。
  
 が、近年は映画俳優での仕事をぷっつり断ち切ったような印象だけが伝わってきていた。
人権に関わるボランティア活動、農業従事など、現役から退いた男たちへの、何らかのメッセージを発信しているんだ、と共鳴するものを感じ取っていた。

 そしてこの11月9日にいたって、この人が消えていく最後(恐らく、そうだと推察する)の光芒を、図らずも、わたしは目撃する……。

 たまたま、2014年のテーマの一つ、『130年前の秩父事件』を「図説」でまとめようと西秩父を走り回っている中で、道の駅・龍勢会館でこんなチラシを入手したのがきっかけだった。薄緑のA4用紙に「菅原文太氏の来秩決定!」の大見出しが躍っている。
 —−——今年は、秩父困民党蜂起から130年目にあたる記念すべき年。そこでNHK大河ドラマ「獅子の時代」(1980年)で秩父郡市にも縁の深い菅原文太氏の講演を中心にさまざまな行事を計画している、というアピールに惹かれた。



 大河ドラマ「獅子の時代」についての解説も添える丁寧さも気に入った。それは、こんな風に……。
 薩摩藩士苅谷嘉顕(加藤剛)と会津藩士平沼銑次(菅原文太)の二人を主人公に、幕末から明治維新にかけての激動期を通じて、明治維新とは何だったのか? 明治政府の目指した近代化は正しかったのか……。新たな視点から時代を問おうとした意欲作でした。
 舞台の最後は秩父地方、秩父困民党に加わった平沼銑次は、困民党の敗北と共に霧の彼方に逃れドラマは幕を閉じました。なお、このドラマでは、困民党総理田代栄助を志村喬が演じました。





 開催日時は11月9日(日)。会場は秩父市下吉田の市役所吉田支所に隣接する「やまなみ会館」とある。なるほど、秩父困民党が武装決起・集結した吉田の椋神社とは指呼の間にあるし、「記念講演」の演題も「秩父事件と私 菅原文太」とあって、これは見逃すわけにはいかない。
 開催当日が待ち遠しかった……。

 10月、わたしの秩父通いは5回に及んだ。そして11月9日がやってきて、その日のことを、わたしはこう書き留めていた。

 わがプログレが99999kmを走り抜いた日

 11月9日(日)の午前8時15分。今にも雨が落ちてきそうな暗い空模様。この日も秩父に向かうことになっていた。秩父事件130年記念集会が開かれるというのに、足を運ばないわけにはいかない。

 10時から、秩父事件を知るのに絶好の映画『草の乱』の上映。何度もDVDで見た作品だが、地元の人たちと一緒に見るのも悪くない。そして、観客の反応も知りたい。
午後は地元高校生による『秩父屋台ばやし』演奏。そして14時からは「トラック野郎シリーズ」でおなじみの俳優・菅原文太が講師として登場するという。NHK大河ドラマ『獅子の時代』で、秩父事件と関わる役を演じたというが、なにを語るのか、招かれる以上、それなりの見識をお持ちなのだろう。

 それにもう一つ、記念イベントに関連して、「秩父事件」の足跡をカメラで追いつづけている品川栄嗣さんの「写真展」が秩父市内の百貨店で開かれている。これにもぜひ足を運びたいのだが、この日が最後のチャンスだった。





 というわけで、やっぱり秩父へ。お供には最初、NISSANティアナを指名するつもりだったが、わがプログレのODOメーターが99781、あと219kmで100,000㌔に到達するのに気付いて、急遽、プログレで行くことにしてしまう。

 秩父を往復するだけで180km。それにプラスアルファ―を加えると、ちょうど自宅に帰りついたその時に、100,000を刻むことになりはしないか。前々から、プログレで10万キロを走破する瞬間、どこで、助手席にだれが乗っていて、それを迎えるのは、楽しみにして来た……。

 と、書き綴って来たところで、残念ながら時間切れとなった。明日(12月3日)というより、今日は秩父の夜祭の日。午前中には、秩父へむかわなければならない。で、この続きは、夜祭より戻ってからのことにさせていただく。






 
 そこで今回は、講演する菅原文太さんの様子だけ、ご覧いただいておく。この19日後、彼は不帰の人となる。しかし、これだけはお伝えしておこう。この時、彼は講演にやって来る途中の熊谷駅のホームで転倒、腰を強打して、歩行もままなら状態なのに、車椅子の助けを借りて、秩父の会場に現れたのであった。が、一旦、壇上に現れてからの彼のオーラは、微塵も失われていなかった。

 それが彼の最後の講演になるとは……。
 その様子、必ず書き継ぐことをお約束して、今夜はこれで失礼を。
 

Posted at 2014/12/03 02:48:24 | コメント(2) | トラックバック(0) | 秩父こころ旅 | 日記
2014年10月14日 イイね!

還暦編集長、18年目の「復活」

還暦編集長、18年目の「復活」~SUBARU S4にポンと後押しされて~

 秩父に通いはじめて丸々四年、西秩父・下吉田の椋(むく)神社は、130年前の11月1日に、西秩父の農民・山の民が「世直し」を求めて蜂起・集結した場所でしられる、という位置づけであったが、その椋神社例大祭に奉納される『龍勢』見物に、初めて足を運んだ。

【左の写真は、「龍勢」が人工衛星さながらに、空に向かって打ち上げられた瞬間。なお、祭事の模様は、随時、追加、補強しています】







*「龍勢」で賑わう吉田椋神社


*境内にある「秩父事件蜂起集結の地」標柱

 手元に届けられた案内パンフレットによれば、《(埼玉県指定無形民俗文化財である椋神社の)龍勢は、別名「農民ロケット」とも呼ばれ、松材の筒に多量の黒色火薬を詰め、まっすぐに飛ばすため矢柄と呼ばれる竹をつけて上空へ打ち上げる煙火です。轟音とともに上空に駆け上がり、落下傘などの背負い物をひらき、矢柄を吊り止めるなどの精密な仕掛けはすべて手仕事で仕上げられています。打ち上げた龍勢は、極力、櫓(やぐら)後方の山中へ落下させるよう努めておりますが、予期せぬ方向に飛ぶことも考えられますので十分ご注意ください》とあり、観覧者に注意を呼びかけているのが異様な雰囲気を予測させてならない。










*炸裂したあと、だんだんと龍の姿に、大成功!



 この祭事は、打ち上げシーンが人工衛星の打ち上げシーンを連想させ、NHKのお気に入りで、ニュース番組での速報や、特集ドキュメントも組んでいるので、ご記憶の向きも多いはず。この龍勢の製法は近辺の各集落に伝承され、現在では火薬製造の資格を得た27の流派が受け継いでいるという。

  折から「台風18号」の接近が伝えられ、予定通りに開催されるかどうかも曖昧だし、往復の交通の便も心配される。それに、毎年10月の第2週の日曜日と決まっているこの秋恒例の祭事は、いつも、こちらの大事なスケジュールとぶつかることが多く、相性がよろしくなかった。
ことしもなにかと忙しい。「祭と民間信仰」の復刻新版本にかかわってきた手前、「龍勢」のことは気にしていても、なにがなんでも、ことしこそ行ってやろう、という積極的なモチベーションは湧いてこなかった。

 そんなウジウジした気持ちをあっさり吹き飛ばし、「出かけようよ」と後押ししてくれたのは、金曜日の夕方に手元にやってきたSUBARUの新しいWRX S4であった。

 新しく移転したばかりの富士重工本社「スバルエビスビル」の地下ガレージでピックアップし、エンジンスウィッチをプッシュした瞬間に始まる「S4ドラマ」の演出に驚き、すぐに気に入ってしまった。だからあえて、早速に「何シテル?」でクイズめいた140字の報告をしてしまう・・・・・・。

――3連休に備えて調達した注目のNew Car。ドアを開いて、コクピットにおさまった瞬間、「オッ!」。真紅に燃えるメーター照明。それも「280」まで刻んである。アクセルに足を乗せて、軽くレーシング。純白の針が、ウィーンと歓迎してくれる。革巻きステアリングの小ぶりさも好感。さて車名は?



 実はこの文章を書きながら、これに似た文章を随分と前に、発表した記憶があるのに、気づいた。多分、あれだ! 帰宅して早速、書棚を捜索する。あった! 18年も遡る1996年に、Audiが展開する広報活動の一環として発行していた『Four Silver Rings』誌に寄稿した『きみよ、もう半ラウンド、つき合うかい』と題したエッセイが、それだった。



 サブタイトルは「アウディA8が還暦編集長に火をつけた」とし、なんと、その書き出しは、クルマとは全く関係のない「作家・司馬遼太郎さんの訃報」に接した話からはじめ、司馬さんの文章の練り込みがいかに凄かったか、に触れたところで、こうアウディA8を登場させていた。
  *    *    *    *
―—このごろの小説は底が浅くて面白くないね。精神の燃焼が感じられないからな。このごろのクルマもみんな同じ味ばかりでつまらないよ。還暦を迎える前後のぼくは呻いていた。編集長を辞める肚もかたまりかかった。後進を育てるためにも、はっきりした責任を与えてやれよ。彼らもそれなりにやってのけるに違いない、と。

 マラソンでいえば、35キロ地点を走り抜け、喘ぎながらゴールを手探りで求めはじめた走者だった。

 そんなさなかでの司馬さんの訃報。それと一緒にやってきたのがアウディA8にじっくり乗ってみないかという誘い。なにかを感じないわけにはいかなかった。



 A8とつき合うのは初めてである。仕事柄、つまらないね、とボヤキながらも、ほかのNewカーには積極的に触れていた。メルセデス・ベンツE320シリーズの鈴鹿試乗会では乗り継ぎながらもフルコースを40周もしてしまった。ローバーMGF、アロファロメオのスパイダーも珍しく気に入ったオープンスポーツだった。が、もうひとつ昂らせてくれるものに欠けていた。国産車はブルーバードSSS、スカイラインR33のマイナーチェンジもの、そして3代目となるレジェンドまで。
 語り始めれば、やっぱりボヤキになるだろう。デジタル世代の創りとはそんなものか、と諦めが先にきた。
届けられたA8のドライバーズ・シートに滑りこんだのは、もう深夜と呼んでいい時間帯だった。Newカーとつき合うにはひどく暗い夜を選んだもんだ。少し、悔いていた。お決まりの試乗コース、首都高速5号線をサンシャイン傍のICから入り、戸田橋方向へ北上するつもりで、イグニッション・キーを捻った。と、ぼくは一瞬のうちに錯乱した。ぼくの周りが、紅い炎に包まれたように、様変わりしたからだ。


*すべての計器がアンバー発光でコーディネートされていた PHOTO by北畠主税

何が起こったのか。気を鎮めた。A8のすべての計器がアンバー発光でコーディネートされていたのだ。憎い。すごい演出じゃないか。インパネのメーター類はもちろんのこと、パワーウインドーのスイッチまでもが紅い幻想の演出に一役買っている。そして何にもまして、この紅い光の演出が、美しいと感じられたことだ。
  *   *   *   *
 S4がスバルエビスビルの地下から出たときは、午後4時過ぎである。
 外はまだ陽光が一杯だった。途端に、暗がり効果を失ったS4のインパネ照明は、紅い炎に包まれた演出の味とはほど遠い、単なる赤いメーターまわりに押し戻されてしまった。が、きっと夜になれば……。ある種の期待感。それがこのS4にある。
 


 恵比寿から中目黒に出て、そこからは、最近は地下の首都高速が出来たせいで、すっかり走りやすくなった環状山手通りを北上、目白通りとの合流点を目指した。

素直に噴け上がるFA20型エンジン。しかるべきステージでもっと踏んでみて、と催促する。サスペンションもレヴォーグほどのゴツゴツ感はなく、荒れた路面での跳ね具合も気になるほどではない。それにパドルシフトの切れ味も、メリハリが効いていそうだ。

 そうだ、やっぱり、日曜日の天候さえ支障がなければ秩父の「龍勢」取材にいってみようか。ポンとS4が後押ししてくれる。なにか、新しいことがはじまりそうな予感。こんなアクティブな感覚、いつ以来だろう。

 それが18年前のA8以来だと知って、改めて往時のエッセイを読み直してみたが……。             
(この項、つづく)

Posted at 2014/10/14 03:26:44 | コメント(3) | トラックバック(0) | 秩父こころ旅 | 日記
2014年10月01日 イイね!

世にも不思議なパワースポット『散華の地』へ

世にも不思議なパワースポット『散華の地』へ130年前のこの国で「圧制・貧困」からの解放を旗印に闘った「凄い奴ら」のフィナーレ

「黄昏」は「たそがれ」と訓(よ)み、この国の古語で「誰そ彼」、つまり、あたりが暮れ落ちて、まわりの人の顔が定かでなくなり、「だれですか、あなた?」とたずねる頃合いのことを、そういいならわした、と記憶している。
 
 因みに、夜明け前は「彼は誰」=「かはたれ」と呼ぶことから「かわたれ」となっている。

 黄昏の信州・十石峠の午後5時45分。暮色がせまり、辺りの景色も光と色彩を失い、ひと気のないモノロームの世界へと惹き込まれつつあった。



 と、わたしの心に強烈に焼きこまれている1枚の絵が、まるでたった今、眠りからさめたとでもいうように、はっきりと目の前に映し出され、白い鉢巻き姿の男たちの一団が、ザクッ,ザクッと足音を響かせながら、いま陽が墜ちて行ったばかりの西の方角へと行進する……。目をこらすと、先頭の二人が火縄銃を携え、しんがりの二人は竹槍姿の、それなりの武装集団らしい。



 それは「十石峠」とタイトルされた60号の油彩画で、根岸君夫画伯が20年の歳月と情熱をかけて完成させた「秩父事件連作画集」1〜20のなかの15番目で、紅葉したカラマツ林越しに、明るく、低く、ゆったりと波打つ山並みを背負って6人の困民党兵士が大写しに描かれているものだった。

 130年前の11月1日、西秩父の吉田・椋神社で蜂起した「山の民・自由の民」が、こと敗れ、改めて新しいリーダーを選び、信州に新天地をもとめてこの峠を越えて行く「秩父困民党」をモチーフにしたものだった。

 いま、その絵には、秩父市下吉田町石間(いさま)の「石間交流学習館」(要予約)にいけば、「連作画集」全てと一緒に専用の部屋で鑑賞できるが、「十石峠」には、こんな解説文が添えてあった。

――11月6日、困民軍は上州・山中谷(さんちゅうやつ)を遡り、楢原村に達し、宿営した。
 自警団との交戦で捕えられるものも出たが、村々で参加者を増やし、約300名となっていた。
 翌7日。一行は信州との国境・十石峠を越えた。日に十石の米がここを通って佐久から山中谷に運ばれたのが、その名のおこりといわれるこの峠は、その眺望の雄大さによって、通る者にしばらし立ち去り難い思いを抱かせる。
 この峠近くでは、捕虜の巡査殺害という,風景に似つかわしくない事件が起こっている。
 しかし,農民たちは一変した風景の中を、佐久自由党が根をはった地へ想いを馳せながら進んでいった。

 そうか、と得心した。敗走しているはずなのに、妙に明るい、彼らの表情。この段階でも希望を捨てなかった彼らを、根岸さんは描きたかったのだ、と。

 が、実は根岸画伯の16番目の作品が「鎮台兵襲来(馬流)」となっていて、それからの彼らがどうなっていったのか、その暗転ぶりを発信してくる。

 現実にもどったわたしは、慌てて広場に駐めてあったアウトランダーPHEVに乗り込み、彼らの後を追って、佐久へむかう武州街道(299号線)をくだっていくことにした。



 まだ少しばかり明るさの残った一車線ギリギリの、下り一辺倒の道。右に抜井川の渓流が伴走しているのだろうが、それも気配が感じとれるだけで、なにも見えない。

 発作的に、遅い時間に東京を飛び出してきたのを、いまさら悔いたところで、どうにもならない。回生ブレーキを多用しながら、ヘッドライトをたよりに、もう一つ、次の目的地を目指すしかなかった。

 それにしても、このごろ、New Carに試乗する機会が増えたこともあって、ドライビング・スキルが少しは蘇ってくれたのかな。それとも、アウトランダーの低重心構造のバランスがいいのか。すこぶる快適に下っていくではないか。



 やっと、道が開けた。右手に稲田越しに大日向の集落が近づいてくる。

 根岸君夫画伯が「16 鎮台兵襲来(馬流)」で、簡潔に「それから」を伝える。

――11月7日、大日向村、竜興寺に宿営した困民軍は8日に高利貸ら数軒を襲い、軍勢を5〜600人に増大させながら馬流(まながし)に至り、井出家を本陣として宿営した。
 この頃、高崎から急派された鎮台兵1中隊120名、長野警官隊90名は千曲川下流10キロの臼田に待機していた。



 9日明けがた,弾圧軍は全面的な襲撃を開始した。
 応戦もあったが、一方的な戦いで、逃げ惑う者を背後から突き刺すなどの官軍の暴圧ぶりが伝えられている。村の妊婦が鎮台兵の銃弾によって命を落としている。
 困民軍は13人の死者、60数名を残し、海の口に向かって逃れていった。
  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 武州街道こと299号線を下りきって、やっと佐久から清里方面へ南下する141号線に合流した時、あたりはすっぽり、夜の帳(とばり)に包まれていた。

 それでも、困民党の戦士たちが、最後の力をふり絞って、命をかけて抵抗し、散華していった戦場に、暗闇の中を手探りしてでも、この目で確かめなくては、という気力は萎えていなかった。

 実は目指す馬流には、すでに土地勘があった。つい1週間前の9月5日に、わがプログレのドライビングを飯嶋洋治さんに委ねて、秩父から吉田、小鹿野の町を抜けている。





 屋久峠越えで困民党軍の足取りを忠実にトレースしながら、神流川沿いに山中谷には入り、そこでは十石峠越えを後回しにして、霧の出た「ぶどう(武道)峠」の方角をあえて選んで、新しいリーダー・菊池貫平を送り出した信州・北相木村を訪ねることにした。そのあと141号線に出て、東馬流を取材しているのだが、このとき、「散華の地」を見逃してしまった。その後始末が今回の「発作的・十石峠アタック」であった。

 時計の針が午後6時25分を指していた。左側を千曲川が南下している。「そろそろだな」と感じた瞬間、「東馬流」の標識と「秩父事件戦死者の墓」の案内板が同時に目に入った。まるで、だれかが案内してくれているみたいだ。


*R141から東馬流へ。「秩父事件戦死者の墓」とあるのは、この項では触れていない「暴徒鎮魂碑」を指す。


*困民党軍が最後に本陣を構えた井出家。

 記憶のある橋を渡る。小さな集落の中を抜け、クルマが往き来する突き当たりの生活道路を左折。暗がりなのに1本の道がはっきり見える。

  困民軍の首脳が最後の夜の本陣とした井出家の立派な家構えが右手にあらわれた。そうか、この道を真っ直ぐ行くとJRの小海線馬流駅があり、その先の「天狗岩」の真向かいに『秩父困民党散華(さんげ)之地』碑があるはずだ。  

 人家の絶えた田圃の道。頼りになるのはアウトランダーのヘッドライトだけ。「馬流」の簡素な駅舎を過ぎ、それらしい木造の立て標識を発見する。
「掛樋と棚橋跡 秩父事件戦跡」と読める。とすると、お目当ての「散華之地」は?


*JR小海線の馬流駅。130年前の激戦地に囲まれている。



 アウトランダーを停め、辺りを見回すが、何も見えない。その時だった。左斜めの台地のような暗がりから、1台の軽4輪が賑やかにエンジン音を響かせ、こちらに近づいてきたと思うと、あっという間にそばを抜けていく……。地元のクルマに違いないが、なんだか、あなたの探しているものはこちらだよ、と告げに来た、誰かからの使者ではなかろうか。

 よし、いってみよう。アウトランダーのノーズを、賑やかに消えていった軽4輪の方向にあわせたのである。
 このあとは、暗闇から浮かび上がる「散華の碑」と、それと一緒の浮かび上がって来たふたりの男の不思議な像をご覧いただきたい。左が菊池貫平、右が井出為吉。どちらも地元・北相木村から、秩父事件の首脳として参画し、最後まで闘い抜いた男であった。


*真っ暗な闇の仲、アウトランダーのヘッドライトとnikonのフラッシュライトで、どうしてこんなに鮮やかに撮れたのか、いまでも不思議でならない。パワースポットと呼ぶ所以です。



 午後10時25分、練馬の自宅に帰り着いた時間である。

この1日は、長かったのか、短かったのか。どちらにせよ、まだ心残りだらけの『散華之地』との対面である。そこで、今度の土曜日(10月4日)、改めて飯嶋洋治さんを誘って、再訪するスケジュールを樹てた。今度は途中でクルマを乗り捨ててでも、十石峠への旧道を探し、可能な限り、奴らの見たもの。感じたもの、そしてやってのけたことに、すこしでも近づけたら……と願いなが.ら。  (この項、終わる)
Posted at 2014/10/01 16:26:41 | コメント(9) | トラックバック(0) | 秩父こころ旅 | 日記
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何シテル?   08/06 09:17
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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