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正岡貞雄のブログ一覧

2015年09月21日 イイね!

人、それを『鬼神の走り』と畏(おそ)れる!

人、それを『鬼神の走り』と畏(おそ)れる!〜あの将門の再来か? ドリキン、筑波に降臨す!そのⅢ〜

 JAFの公認準国内競技となっている「ドリフトマッスル」という競技をナマで見るのははじめてだった。

 Hot-Versionが全戦(6戦)をトレースしてくれるので、それなりの予備知識はあるものの、正直いって、どこでどういうふうな採点で優劣がきまっているのか、よくわかっていない。ちょうどいい機会だ。メディア対抗の決勝レースが始まる午後4時までの時間を使って、ぜひ覗いてみよう。そう決めて、独り、カメラをさげて第1ヘアピンをあとにした。

 パドックのあちこちが共催イベントで華やかに盛り上がっている筑波サーキット。人波を掻き分けて、そのFゲートから一旦、外へ出てオーバルコースのフェンス沿いに「コース1000」を目指した。ふりそそぐ初秋の陽射しが眩(まばゆ)い。道の左側は遮るもののない田園風景。その向こうで、筑波の山塊が孤独な佇まいでこちらをみつめているのが、なぜかその時、印象的だった。



 右手に本コースの第2ヘアピンからバックストレッチに伸びるフェンス。ダンロップブリッジがその向こうに……。二つのサーキットの位置関係がよくわかった。

 ドリキン土屋圭市は、田舎芝居の舞台のように、一段高く組み立てられた審査席にいた。この競技は派手にドリフトする姿を競うのではなく、審査開始のポイントからゴールまでドリフト状態を維持していく技術とタイムを競うものなので、それを採点する審査委員の真剣さは格段だった。こちらから声をかけるのも憚れるピリピリした空気が張りつめている。土屋君と目が合った。「来てるよ」「うん、わかった」言葉のいらないコミュニケーションの成立がうれしい。彼との関わりについては、AE86 が復活した2012年4月に『ドリドリ土屋圭市、降臨! ベスモDNAとHV115号』と題して紹介済みなので、ご参照のほどを。





「マッスルクラス」の勝ち抜き戦は、まだ続きそうだった。2台の競技車が、先行と追走の役割をお互いが入れ替えながら、三つの小さなコーナーを持つ助走区間を並走する。そして勝負の審査区間飛び込み、待ち受ける三つのコーナーを、ドリフト状態を保ちながら、白いタイヤスモークを残して駆け抜ける……なるほど。しばらく観戦したところで、「メディア対抗」の本舞台の方へ戻ることにした。





 さてここからは、当稿のテーマとして謳っている「ドリキン土屋圭市、筑波に降臨」のシーンまでは、フォトストーリー風に、画像を柱にして進めようか。
 再びパドック広場に戻り、ここは「carview/みんカラ」チームに挨拶を、とピットを探していると、お昼から別行動をとっている若手二人組に同じ「ベスモ同窓会」の常連メンバーの「moto’91」君が合流して、出迎えてくれた。決勝スタートのPM:4.00まで、まだ1時間近くはあるようだ。



ーー

 特設イベントステージでは、決勝スタート前のセレモニーとして、壇上に出場チームを順に紹介し始める。サングラス姿の中谷明彦君がいる。むかって右端にカメラマンの北畠主税君のはしゃいだ姿も。





 どうやら時間が押していて、すでに各車のコースインが始まっている。慌ててピットの屋上テラスへ。見下ろすと#86がすでに押しがけでピットロードに並んでいる。グリーンのヘルメット。ファースト・ドライバーは、本田編集長から秘かに聞き込んでいた通り、「ドリフトマッスル」の会場にいるはずのドリキンをぶっつけてきたのだ。ま、後のスケジュールとの兼ね合わせもあるだろうが、タイヤの温まらない序盤に、そんな状態ならお任せ!のドリキンの投入。これは面白いことになるぞ。

それにもう一つ。各チームがエースドライバーを投入するのは後半が多い。ところがもうその時にはライトON.。観客にはその走りはよく見えない。その点、第1走者ならその心配もないしHot-Version
のような映像媒体には夜間は禁物。本田君の遠慮深謀、なかなかなものだ。、


*「マッスルドリフト」会場から急行してきたドリキン、迎えの車の中でレーシングスーツに着替えていた。いよいよコースイン(Photo by MDi)


(photo by MDi)


(Photo by MDi)



 ペースカー先導のフォーメーションLAPのあと、16時15分、27台がスタート。こちらはそれを見届けたところで、予選と同じように、第1ヘアピンに移動。金網の間から200mmレンズを突き出し、これと思うマシンを速写する。そして、唖然とする。5周目で予選3位から出てトップを行く実力派の#27(Tipo)と、予選1位の#55の背後に貼りついている#86。ドリキン土屋の筑波降臨のシーンがやってきた!



この項、ひとまずここで、小休止。インターバルをおいて継続します。ここからが、いいところ、書き込みたいところです。お了承あれ!

ここから再開!



第1ヘアピンから消えると、#86はきっかり1分12〜13 秒で戻ってくる。後続車はどんどん背後で小さくなっていった。場内向けのアナウンサーが一段と声を張り上げた。「土屋選手が到頭、遅れて前を行く集団の中に突っ込みました。あ! それもあっという間に追い抜いて、次の獲物を狙っています。ただ1台、12秒台で周回しています」

抜かれた側には、抜かれたという意識はなかったろう。何者かが近づいてきた、と気づいた瞬間に魔神か何かが、ひらりと抜けていった。そんな感じではなかったろうか。

 このままヘアピンに頑張ることもなかった。それに助っ人ドライバーに与えられた40分も近くなった。そろそろ、Hot-Versionチームのピットに、こちらも戻るとするか。







*はやくもドリキン一人旅


*ご覧ください、このタワーの掲示板。20周が過ぎて、Hot-Versionがトップです、トップです。2位にはピストン西沢が上がってきています! 田部靖彦君なら、こう賑やかに解説してくれるだろう。 


*ピットではリアルタイムで状況が把握できる。#86だけが1分12秒台で周回。あとは1秒以上のタイム差がある。



*車載カメラからの映像もバッチリ、リアルタイムで、ピットでキャッチできる、だからドリキンがどんな走りをしていたか、すっかり堪能できた。Hot-Version10月8日発売の号が待たれる所以だ。


*ピットでの2分STOPというハンディキャップを消化する土屋圭市。




*40分の走行を終わって、どんな走りを心がけたかを語るドリキン。


 第2走者の仁礼義裕君がピットを出て行ったところで、パドック内にある多目的ブリーフィング室で一休み。
目の下が、S字カーブからブレーキングしてヘアピンに進入するポイントだった。ドライバーのステアリングワークがよく分かる。土屋君はこうしたコーナーを、新しいNDで攻めたか。ぜひ車載からの映像で確かめたいところだ。

 一息ついた。そこで、後半のレース観戦はカットして、このまま東京へ帰る提案を、若手2人組にする。実は、土屋君の走りにあたかも鬼神が乗りうつったかのようなオーラを感じたわけを、もう一つ掘り下げたくなったのだ。

 その夜は、結局、その探索は空振りに終わる。翌日……。

『湖水の疾風(かぜ)・平将門』の上・下巻を書棚の片隅でやっと探し当てた。
 著者、童門冬二、学陽書房、1993(昭和68)年刊。
−−−−美しい湖水に囲まれた東国の地に、理想の王国を築こうとした男の夢と戦いの日々!  
「うん、これだ!」
 上下巻、それぞれの表紙カバーの絵の印象が、深く、記憶に残っていた。上巻は湖畔を疾駆する5頭の騎馬。馬上の武者は矢を背負い、左手に弓。下巻は台地から波立つ湖を睥睨(へいげい)する武将。多分、平将門を著したものだろう。なんとも叙情があって、しかも力強い。装画・榎俊幸とある。
 
 早速、時間を見つけては読み返した。図らずも、メデイア対抗ロードスター4耐観戦のため筑波に向かう途中に見た「石下」と「豊田城」が、平将門を思い出させ、さらに数日後に鬼怒川決壊のニュース映像とひとつになった、不思議な記憶の融合はどこから来たのか。その原点らしきものにたどり着いたらしい。

 そこで一つ、この作品の導入部分から、1100年ほど昔の「筑波サーキット」あたりの状況と将門との関わりのある描写を拾い出してみた。







  ★      ★      ★
 都の朝廷の許しを得て故郷へ戻った滝ノ口守衛の武士・平将門が最初に手がけたのは、伯父たちに横領された父の遺領を取り返すことだった。

 父の良将(よしまさ)が支配していたのは下総国の豊田郡四郷である。やがて将門が拠点とする猿島郡七郷はその西方に隣接し、鬼怒川と渡良瀬川にはさまれた地域で、古くから何度となく氾濫が起こる大沼沢地帯である。
 しかも、この二つの大河川の間を、おびただしい小河川が南流し、一大湿地帯となっていた。その中に浮島のような地域がいくつもあった。稲を育てることには不向きなので馬を飼っていた。川や沼や池が自然の柵となっているからだ。鬼怒川は毛野(けぬ)川、絹川あるいは衣(絹)川と書いた。鬼が怒ると書いたのは洪水時の勢いがすさまじく、鬼のような暴れ川だったからだろう。

 そんな、父の領地だから、いつも不安定で貧しかった。しかし、将門はそこに光明を感じ取っていた。この地帯の官牧(国有の牧場)で預かっている高句麗の馬は脚力に優れている。それを育て、思いっきり疾駆させ、馬上から矢を射るようなことができたなら……。
「馬が武器になる」
 その発想こそ、やがて来る武士の時代幕開けの引き金となる。

 五年後、東国の地を疾風のように駆け抜ける強力な騎馬軍団が出現する。その先頭にはいつも将門の姿があった……。たちまち将門は東国武士団の頂点にたつ。その噂は直ちに都に伝わった。
   ★      ★      ★
 いつしか、馬がクルマにすり替わっていた。筑波を独走疾駆するドリキン土屋圭市を、鬼神となった「平将門の再来」と表現してしまった《源流》はこれだった。どこかで新しい情熱がブクブクと湧き上がってくる。そうだ、あれをなんとか創りあげよう。《土屋圭市ドリキン伝説》という、ある時代、若い世代が貪るように読んでくれた彼のレーシングドライバーとしての自叙伝。あれを電子BOOKとして再生したくなった。

  土屋圭市君も「いいですよ」という。また、忙しくなりそうだ。


*ライトON! ひたすら、次の仲間ドライバーにバトンタッチするために周回を重ねる。耐久レースならではのこの光景。1000年も昔、この辺りを疾駆した騎馬軍団の幻が故地・筑波サーキットに出現しているぞ、といったら、キミは笑うか?。
Posted at 2015/09/21 23:49:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | ホットバージョン | 日記
2015年09月17日 イイね!

筑波への道、呼び醒まされた「栄光の軌跡」

筑波への道、呼び醒まされた「栄光の軌跡」〜ドリキン土屋圭市、筑波に降臨す・その2〜



 関東平野の臍(へそ)あたりに位置する筑波サーキット(茨城県下妻市)へ通う道は、時代によって様々なルートを選んだものだ。

 常磐自動車道が柏ICから谷田部ICまで開通した1981(昭和56)年4月までは、ひたすら下道を走っていくしかなかった。(註:ベストカー創刊、1977年)音羽の社屋を出ると日暮里あたりから、まず国道4号線に流入する。北千住で荒川を渡る。越谷・草加を過ぎると、利根川の畔(ほとり)で野田、関宿などの水郷の町を抜け、やっと岩井の町辺りでサーキットはもうすぐだ、と一息をつく。
 クルマメディアにかかわったばかりの時代。すべてが新しく、生きていくための糧となったから、それが早朝であろうと、深夜の運転であろうと、平気でクリアできた。が、帰りの走行は睡魔と格闘する難行苦行。あれは辛かった。 

 ガンさんと知り合ったのもそのころ。筑波でのテストにゲストとして参加してくれたガンさんのシビックで、東京・音羽まで送ってもらったのを思い出す。FFのマニュアル車。それがまるでBMの3シリーズでクルージングしているように滑走する。
「これだ!」閃くものがあった。





1985(昭和60)年に三郷と柏IC間がつながり、首都高速から常磐自動車道へ直接に乗れるようになったときは、谷田部のJARIへいくケースも増え、その便利さに感謝。
 1994(昭和69)年、東京外環が大泉IC・三郷間で直結。ストレスなく、練馬の自宅を出て大泉から外環経由で常磐自動車道に乗り、筑波なら谷和原で、JARIなら一つ先に谷田部ICで降りることができるようになる。1時間ちょっとあれば、充分の距離となり、もうそのころはベストモータリングの編集長を誰に任せるべきか、悩んでいる時代になっていた。


 そして2015年9月5日、午前10時。明るい陽射しの下、ベストモータリング同窓会メンバー、2315君の運転するメルセデスCLSの助手席でくつろぎながら、石下大橋から見下ろした鬼怒川の流れと、物成りのいい稲田のひろがり、そして右手に見える「豊田城」の薄緑の屋根と白壁の佇まいを、ひどく平和な田園風景として眺め入っていた。それが、まさか5日後に鬼怒川の決壊によって水没し、ここに生きる人々の平和な暮らしが奪われてしまうとは……。

「1000年以上も昔、平安時代の中期に平将門(たいらのまさかど)という、この辺りを根城にした平氏の豪族がいて、京都の公家政治に反抗して、一時は関東一円に覇を唱え、独立国を創りあげるほどの勢力をつけた。それが承平天慶(じょうへい、てんぎょう)の乱とよばれる、当時は国の根幹を揺るがした事件として歴史に足跡を残してしまう。その将門の父親・良将の居館がここにあって、豊田の館(やかた)と呼ばれたそうだ。少年・将門がこのあたりを馬で疾駆して育ち、長じて……」




 問わず語りに、そんな話を同行の若者ふたりに披露し始めたが、残念ながら、関心を示してもらう気配はなかった。それに彼らは朝食も摂っていないらしい。すぐ先にCOCOSの石下店がある。コーヒーブレイクにしようか、というわたしの提案に、文句なく賛成してくれる。筑波サーキットは、すぐ目と鼻の先である。

−−−(途中、朝食代わりの珈琲ブレークを石下のCOCOSでとったのち)11時前にはプレス受付のあるゲートをくぐった。そこでHOT-VERSIONの本田編集長が預けてくれていたGUESTパスを受け取った。封筒を開いてみると、隣接する筑波コース1000で開催中の『ドリフトマッスル』のゲストパスとプログラムが同封されていた。本田君の印のついたメモも付記されている。
 −−−ロードスター決勝まで土屋さんはコチラです。
 わかった。ロードスターの予選が終わってから「ドリフトマッスル」の会場に向かうとして、ともかくトンネルをくぐって、パドックに陣取った各チームの天幕をたずねることにした。

 どうやら、やっと前回BLOGの終章、筑波サーキットにたどりついたところの記述に合流できたようだ。お待たせ!
  *     *     *     *
 最初のお目当てである『第26回メディア対抗ロードスター4時間耐久レース』の予選は、午後0時35分からの20分だと知らされた。それまで、時間はたっぷりある。まず、Hot-Versionのテントを探した。パドックに入ってすぐの目のつく場所に、そのテントはあった。






*こちらは第2回大会の表彰式。残念ながらプレイボーイ・チームに連覇を阻まれたが、慣れた手つきでシャンパン・ファイト!

 パドックを訪れるゲストたちを、本田俊也編集長があの笑顔で出迎えていた。そのそばでノートPCのモニター画面から『懐かしのメディア4耐』の古い録画シーンが放映されている。見覚えのある青いボディカラーのユーノスが夕闇の中、ライトを灯して第1コーナーへ飛び込んでいる。よく見ると、第1回にベストモータリングチームが優勝した時の、ゼッケン12のマシンではないか。

 そして画面が変わる。栄光のシャンパンファイト。その中央で周りから、恥ずかしそうにシャンパンを浴びせられているSPARCOのレーシングスーツ姿。ジャストタイミングでの表敬訪問となった。



 本田編集長のこころ配りは、それだけではなかった。公式プログラムを用意してくれていて、その上『栄光の軌跡』と大見出しのついたページまで開いて、手渡してくれるのだ。活字が小さくて拡大鏡でもないと読める代物ではないが、辛うじて判読できた。それは第1回から前回までのリザルトが、出場ドラーバー名と一緒に、収録されたものだった。

 1989 ① 車番12 Best MOTORing 大井貴之 正岡貞雄 田部靖彦
 1990 ② 車番01 Best MOTORing 正岡貞雄 大井貴之 田部靖彦

 遥か、4半世紀の昔に「業界最速の編集部」の異名をとった、唯一、わたしの自慢できる『栄光の軌跡』がそこにあった。よく見ると、なぜだったか、1991年だけはレースが催行されてなく、このあと、’92年から’94年まで5回にわたってわたしの名前が残っている。つまり58歳まで出場させてもらったという計算になる。

 その「軌跡=記憶」は党ブログをスタートした2011年6月26日に、書きとどめてあるので、よろしければそちらへどうぞ。題して
『ユーノス:プレス対抗レースin FISCO」。





周りがにわかに慌ただしくなった。出場するプロ・ドライバーや、名の通ったモータージャーナリストのドライビングする「サーキット・タクシー」が終わったらしい。MAZDAのNewカーで来場者を乗せてコースを2周する恒例イベントである。中谷明彦、桂伸一、大井貴之、国沢光宏といった面々が「仕事」を終えて、ピットの前を通る。少し間をおいて津々見友彦さんも。ああ、74歳になる津々見さんがまだ現役で頑張ってくれているんだ。なぜか嬉しくなって、Hot-Versionのピットをあとにする。

 予選の模様は、第1ヘアピンの観客席脇の金網にしがみついて、観戦した。いや、200ミリ望遠レンズを持ち込んで、目星をつけたドライバーの挙動を撮りつづけた、といったほうが正しかった。

 すでに9月9日にUPした『何シテル?』で「今回はNikonに200ミリレンズを装着して第1ヘアピンに陣取る。荒、中谷、大井君らのものより片山右京君を。こんなにばっちり撮れたUPは初めてだ」なんて、浮き浮き気分をすでに披露してしまっているが、「そのレンズを通してわかったことがある」と、先もって紹介したくだりをご記憶だろうか。その辺のことを、すこし踏み込んでみようか。



全車がおろしたてのND5RC型。1.5ℓ、131ps/7000のDOHCエンジン、6MTのトランスミッションはもとより、排気系も純正品で、一切の改造は禁止され、アライメント調整も不可。ただし競技車両らしく専用のロールバーが取り付けられ、ビルシュタイン製の車高調整付きのダンパー、BSのPOTENZA RE-11(195/50R16)、エンドレスの専用ブレーキパッド、ブリッド製フルバケットシート(もちろん、助手席は取り外す)、それにタカタのフルハーネス……つまり、まったくのイコール・コンディションでタイムを争うわけである。

 だからドライバーの技量やセンス、経験度がもろに露出する。






 このメディア対抗、当然プロのドライバーも出場できるが、上手に規制をかけている点も見どころとなる。まずドライバーは4〜5名だが、その中に副編集長以上、もしくは女性を含める必要がある。
 また、過去10年以内に主要レースで入賞経験がある助っ人は1名まで、と。その上、プロの助っ人にはピットで2分間停止するハンディキャップが課せられるから、ややこしくなる。
 それだけではない。一人のドラーバーの連続運転時間は50分、合計運転時間は96分まで。ただし、助っ人の連続運転時間および合計運転時間は40分までという縛りを用意してある。

 そうした「約束事」を頭に入れて第1ヘアピンに陣取り、右まわりの第1コーナーから第2コーナー、そしてS字を舐めるように抜けて最初のヘアピンに飛び込んでくる各車を、Nikonのファインダーからチェックする。そうしながら、「お、いい突っ込みだ、ホレ、立ち上がりで少し丁寧すぎないか」などと語りかける愉しさ。どのチームも、有利なスターティング・グリッドより、プライド優先から、エースドライバーを投入しているから、この20分間は目が離せない。

 濃い時間が終わった。
① #55 荒 聖治(Start Your Engines)1’11.390 4/13
② #13 大井貴之 (ENGINE) 1’11.414 2/7
③ #27 壷林貴哉 (Tipo Daytona) 1’11.500 6/10
④ #111 中谷明彦 (CARトップ) 1’11.639 2/6
⑤ #08 山野哲也(BestCar おとなの週末) 1’11.702 7/9





 前回優勝の#813(J-WAVE)はピストン西沢が1’11.856で7位につけ、女性ドライバーでは#04(日経ウーマノミクス)の小松寛子が1’12.732という遜色のないタイムで25位。これはなかなかのポテンシャルだった。で、#86のHot-Versionはどうだったか。86シリーズで優勝するなど、めきめき腕をあげてきた小泉孝太郎を起用、12位に。エースドライバーのドリキン土屋はまだ、すぐ傍の筑波サーキット・コース1000で「お仕事中」。彼に与えられて40分をどう使うのか。
 これはちょっと、面白いことになった。決勝のスタートは午後4時と決まっている。わたしも一旦、サーキットを出て、ドリキンに逢いに行くことにしょう。第1ヘアピンからパドックを抜け、トンネルの地下道を出たところでゲストパスの半券を渡し、のんびり徒歩で、コース1000を目指した。正面に筑波嶺のどっしりした姿がこちらを見下ろしている。フェンスの向こうで、賑やかな幟がはためいて、わたしを招いている。





 「2015 The Drift Muscle Rd.4」の会場がそこだった。慌てて、本田編集長から渡された「PRESSパス」を、クレデンシャル・ケースから取り出した。タイヤのスキール音が、心を急かせる。ドリキン土屋圭市と会うのは、いつ以来だろうか。             (次回につづく)
Posted at 2015/09/17 13:30:38 | コメント(3) | トラックバック(0) | ホットバージョン | 日記
2015年09月09日 イイね!

ドリキン土屋圭市、筑波に降臨す・その序章

ドリキン土屋圭市、筑波に降臨す・その序章〜発端は『ROADSTAR DRIVING BIBLE』〜

 偶数月に発売のはずの『Hot-Version』が、暦(こよみ)が新しく9月にめくられた途端に手元に届いた。なぜかな? 
 封を切って、即座に納得する。本田俊也編集長から嬉しそうに報告のあった『4代目MAZDAロードスター』のスペシャル版が出来上がったのだ、と。
 パッケージの雰囲気はいつもより上品だ。
――25年かけて創りあげた人馬一体
   25年かけて撮りつづけた映像で綴る
  ドライビングバイブル


*『Best Selection』と銘打ったホットバージョン増刊は9月8日発売。本体価格1898円(税別)
土屋圭市のNDワインディングインプレッションに加えて、べスモ映像から2代目、3代目の「筑波バトル」を収録してある。

 うん!? ドライビングバイブル? 最近、だれかが星の名前のついたWebモールで熱心にアピールしている「用語」だ。この連携、悪くない。
  さらに、内容を伝えるサブタイトルが踊っている。
● 新型ロードスター全開インプレッションby土屋圭市
● NA、NB、NC ベストモータリング映像で解るロードスターの進化
● 今だから語れる歴代エンジニア 独占インタビュー

 なんとも「ベスモ遺伝子」が強烈に匂ってくる。心を弾ませて、「お皿」をREGZA PCの再生機に挿しこんだ。記憶が一気に25年を遡っていく不思議な感覚。それを聞き覚えのある声が吸い取ってくれる。
――ぼくが初めて見たときに、なんか面白い格好をしているクルマだな、というのが第1印象で、今のクルマってみんな、スタイルとか機能性に気を使っていて、どちらかというと、このMAZDAのMX−5は面白いなというユニーク的なクルマじゃないかな、と思うわけです。





 1989年.そのオープン2シーターのスポーツカーは、まずシカゴのオートショーに出品され、6月にMX−5 Miataと呼ばれて、北米で発売される予定だった。そのプロトタイプが2台(青と赤)、特別の配慮で当時の谷田部・日本自動車研究所に秘かに持ち込まれたものだった。当然、左ハンドルだった。ドライバーを誰にしようか。それはやっぱり、ドリキン土屋でしょう! スタッフが声をそろえて推薦する。
 その年の2月号で『ガンさんの《究極のFRドラテク道場》に道場破りとして登場した土圭市に、本格的にキャスターとしての役割が確立した、記念すべき瞬間であった。

 甘い、聞きとりやすい声と感性のある語り口。それにも増して「ドリフトキング」という異名を冠せられた特別な走りっぷりがもたらすクルマと人の劇的な挙動に、わたし自身が魅了され始めていた。







 モニターからむせび泣くようなピアノのメロディが流れる。それに乗って、青いオープンスポーツが、早朝の薄明かりのなかを、乾いたエンジン音が画面の奥からこちらに迫り、小気味よく駆け抜けて行く。そして谷田部の内周路を敷き詰めた桜の花びらが舞い上がる次のシーン、何度見ても、後戻りして、また確かめたくなる秀逸なシーンを今こそ、ぜひご覧いただきたい。あの時代にグイグイと回帰して行く……改めて確認してみると、1989年6月号の巻頭コーナーに収められていたものを「復活」させたものだった。

 たっぷりと8分、初代NA型ロードスターの魅力を引き出したドライビング。いつの間にか、赤と青の2台がひらりひらりと絡み合うランデブーラン。そしてテロップが流れる。
――国内では今年の秋頃発売。車名は“ユーノス・ロードスター”。

 こうして初期のベストモータリングの映像表現を満喫させてくれたところで、歴代主査のインタビューが挿入され、そのあと、再びテロップが……。

――あれから25年の月日が流れ……第4世代 Newロードスターを初試乗
舞台は、群馬サイクルセンターに移る。
「みなさん、こんにちは。25年経ったMAZDAロードスター、そして(サングラスをはずしながら)土屋圭市です。え〜、お互いに25年経ったから、大人にはなりましたよね。(初代の)NAが出た時、まわりのジャーナリストはブレーキングからターンインしていくと、オーバーが出て危ない、といっていたんがけど、クルマと一緒に遊ぶって事を考えたとき、すごく楽しいクルマだと感じたんですね。ま、25年経って、貴島さん(初代主査)たちが創った時代から、今のロードスターがどうなっているのか、その辺を確認してみたいと思います」



 群馬サイクルスポーツセンターでのワイディングインプレッションが始まる。持ち込まれたND5RC型ROAD STAR。ここからのHOT-VERSIONの映像表現は、さすがである。とりわけ、路面すれすれにセットしたアングルからの車載映像は、土屋圭市の歓びに弾んだインプレッションとうまく融合していて、感心した。そのドリキンのコメントとは?

「1.5ℓでも、こんなに気持ちいいじゃないよう。何秒出たとか、コンマ1秒がどうのこうのっていうクルマじゃないんだよね、ロードスターって。しっかりしてるなあ、いまどきの2シーターオープンだよね。しなやかなんだけどストロークもちゃんと抑えてて、ふにゃふにゃした脚じゃないよね。ギャップの吸収なんかもいいよね。結構、ノーマルで、いい感じだよ。これ!」

 このあと、注文もつける。
「この4代目、よくでき過ぎている。本当に今時のクルマですよ。高い旋回能力とコーナリング速度を維持はするんだけど、それをねじ伏せるのってところまではいかない。う〜ん、これで遊ぶとしたら、大きなフェイントをかけてから、無理矢理、ドリフト、テールスライドに持ち込む、あるいはサイドブレーキを使うという、(初代の)NAロードスターは一切、それを使わない。使わないで人馬一体を求めた。だからそこを、危険ととるか、面白いととるか……4代目がどう育っていくのか、注目したいね」



  この意味深長なコメントの真意を、図らずもドリキン土屋自身が実証してみせる日がやってくるとは思いもしなかった。第26回メディア対抗ロードスター4時間耐久レースがその舞台となったのである。そのあたりの予告をかねて、
9月6日の当ブログの「何シテル?」で、すでにこう紹介しているが、あえて採録しておきたい。

「人、それを鬼神の走りと呼ぶ。メディア対抗ロードスター4時間耐久の決勝スタートはピット上から観戦。予選12位#86のHot-Versionのドライバーを確認後第1ヘアピンへ移動。と、すでに予選1位#55の背後に張り付いていた。30分後の交替時には全車をパス。これには筑波全体が唖然!」



 されば、こちらの記述も、急遽、そちらへチャンネルを切り替えることにしよう。
 
 9月5日の午前9時、このところ、わたしの「ポルシェ漬け」の先導役を務めてくれている「ベスモ同窓会」メンバーの2315君のCLSに迎えられて、筑波サーキットへ向かった。同行者には、過日、1枚だけゲットしておいた「メディア対抗」の招待券を希望者にプレゼントするとメッセージしたところ、一番乗りで応募してきた「えむしぃ@34」君(至近距離の中野区在住)。

 途中、朝食代わりの珈琲ブレークを石下(いしげ)のCOCOSでとったのち、11時前にはプレス受付のあるゲートをくぐった。そこでHOT-VERSIONの本田編集長が預けてくれていたGUESTパスを受け取った。封筒を開いてみると、隣接する筑波コース1000で開催中の『ドリフトマッスル』のゲストパスとプログラムが同封されていた。本田君の印のついたメモも付記されている。

−−−ロードスター決勝まで土屋さんはコチラです。





 わかった。ロードスターの予選が終わってから「ドリフトマッスル」の会場に向かうとして、ともかくトンネルをくぐって、パドックに陣取った各チームの天幕をたずねることにした。    


*この笑顔で迎えてくれた「べスモ遺伝子」の守護神
                                  
            

*パドックウォークをしていると「お仕事中」の田部君とばったり                                              

              (この項、つづく)
Posted at 2015/09/09 03:20:50 | コメント(1) | トラックバック(0) | ホットバージョン | 日記
2015年09月01日 イイね!

9月1日は『越中おわら風の盆』と……

9月1日は『越中おわら風の盆』と……~来年こそ「最後の1台」で、きっとあなたを~


 箱根の峠道に行けば、この季節は紫陽花の花叢が満開で、道の両側から出迎えてくれるはずなのに……が、霧がはれても、それらしい饗宴に預かれない。おかしい。

 湖尻峠の駐車用の広場でAudi Q3 を一休みさせる。そこからは芦ノ湖スカイラインに入らずに、Uターンしなければならなかった。残念だな。ここからの芦ノ湖スカイラインが美味しいのに。

 その瞬間にひょいと思い出した。そうか、箱根の紫陽花を楽しもうとするなら、この芦ノ湖スカイラインを突っ切って箱根峠に出ればいい。そこは箱根ターンパイク(いまではMAZDAターンパイクはこね、と呼ばれている)の上りきった終点で、大観山の景観とあいまって、その周辺こそ、紫陽花の名所だったのを……。

  この際、紫陽花鑑賞は諦めよう。そろそろ出発基地に引き返すべき時間だ。急がねば。と、クォーンと、結構、ご機嫌なエンジンサウンドを奏でて、白いAudi Q3が箱根スカイラインを駆け下りてきた。試乗会仲間の一人が、いいパフォーマンスを披露している。


*箱根湖尻で峠合流したQ3

 ザザーッと非舗装ゾーンでQ3の4輪機構をチェックしてから、滑らかに減速しながら、やわらかく停止した。ドアが開く。顔見知りのドライバーが微笑みながら、こちらへ近づいて来る。ちょうどいい機会だ。同じ白のQ3同士で、記念の2ショットといくか。
 


 そんな風に、2ヶ月も前の記憶をまさぐっている。今日から9月か。そうだ、越中八尾の「おわら風の盆」が始まる日だ。夜になると、坂の町を胡弓の音に導かれて、菅笠をかぶった男と女が、しなやかに、想いを込めて踊りながら、虫追いの儀式を踏襲する。随分と昔に、取材で一度だけ、その「幻想の夜」に足を踏み入れたことがあった。


*左が直木賞作家の高橋治さん。わが師、藤原審爾さんの愛弟子の一人だった。真ん中が在りし日の歌舞伎役者、坂東八十助さん。



 その時に会った「風の盆 恋歌」の著者、高橋治さんも、ご一緒だった歌舞伎役者の坂東八十助さん(のちに10代目三津五郎襲名)も先だって、幽界へ旅立たれてしまった。そうだ。その時の写真がどこかにあったはずだ。

 ――唄が辻を抜ける。風が囃(はや)す。胡弓が追う。

 そんなコピーをあしらったポスターがあった。「いい日旅立ち」という言葉がヒットした時代だった。

 講談社系の女性月刊誌に、「金沢」を軸にしてクルマで行く旅の企画を相談されたのも、そのころだった。ただ単に金沢の「古都の風趣」をありがたがって、街の紹介をするのではなく、ひと味違う、個性的で、知的で、行動的な女性に変身できるような、アクティブで、それでいて繊細なメロディにでも浸っているような、どこか切ないところのあるものにしたいよね。たとえば、この旅のレポートにふれて、すぐにでも旅立ちたくなるような衝動に駆られる……あるいはいまは一緒にいってくれる彼はいないひとにでも、きっとそんなひとにめぐりあったら連れてってほしくなるような切なさというか、ロマンティックな旅への誘いが仕掛けられたら……つまり旅の基地を金沢にして、そこから 越中おわら『風の盆』に紛れ込み、白山スーパー林道(全長34km)に挑もうというプランを提案した。

 若い担当者が大きく頷いてくれた。その時の企画書が残っていたので、そっくり書き写してみよう。

 さて構成はこうだ。
 はじめにやっぱり、かつての百万石の城下町・金沢という街をじっくりと歩いて、見て、食べる――からとりかかる。武家屋敷の長い土塀が遺っている長町は香林坊のすぐ裏手。土蔵造りの商家が軒を連ねる尾張町、浅野川沿いにつづく紅殻格子のお茶屋街・東の廓あたりもぜひ歩いてみたいですね。
 そして日本三大名園の一つとして、四季折々の表情をみせてくれる兼六園。冬になれば風花が舞い、雪吊りを見に、もう一度ここへ戻ってきたくなる。トレビの泉ではないが、そっと百円玉を庭の池に滑りこませる……。そして、百間堀をはさんだ向かい側の金沢城跡へ。海鼠壁と黒々と輝く石川門の屋根瓦のコントラスト。苔むした石垣の上に建つ三十間長屋。なにかが耳元に囁きかけてこないか。


*市中を流れる浅野川と泉鏡花の句碑


*金沢へ行ったら『治部煮」をぜひどうぞ


*金沢の台所・近江町市場

 金沢はグルメの街でもある。能登の漁場をひかえ、日本海の海の幸がふんだん。とろけるような甘えび、脂ののりきったブリの刺身。季節によっては北陸ならではのズワイ蟹と格闘することだってできる。早朝の近江町市場を覗いてみると、まあなんとふんだんな海の幸・山の幸。ここから加賀百万石の経済力と結びついて、華やぎが売りの「加賀料理」が育った。それって、どこへいけば手の届く範囲で食べさせて貰えるのか。

 料理とはきってもきれない関わりとして、器にも注目。金粉銀粉で彩った加賀蒔絵の漆器も、五彩色の上絵もあでやかな九谷焼も、季節の移ろいを風雅に盛るための粋な演出からうまれ、伝統工芸として育っていったのです。加賀友禅、金箔工芸、茶の湯がうんだ大樋焼……金沢はまさにアートの街だった。
 室生犀星、泉鏡花、そして五木寛之。この街を愛したことで知られる作家たちはどこでお茶を喫んだり、お酒に酔ったりしたんだろう。「お婦久」の餡ドーナツは食べたかな。五木寛之といえば金沢を舞台にたくさんの作品をうんでいるが、彼の「風の盆」を主題にした小説『風の柩』が発表されてから気になっている「風の盆」という年に一回の催しに、なぜか惹かれるのも、金沢にやってきたからだろうか。

§オプション1 胡弓と三味線の音色と旋律に、なぜ泣きたくなったのだろう。ひたむきに踊りつづけるうちに朝を迎えた……越中おわらの『風の盆』に紛れこむ!




*男衆の胡弓と三味線に導かれて…雨が苦手なわけだ


 金沢市から東に四〇キロ。富山県婦負(ねい)郡八尾町は立山山麓にある坂道のまち。その町が九月一日からの三日間だけ顔つきが変わる。「風の盆」とよびならわされた年に一度の行事のせいだ。独特な音色をだす胡弓が加わった民謡「越中おわら節」を、町の人たちはのびやかに歌い、歌に合わせてゆるやかな振りの踊りを舞いつづける。もともとは風を鎮め、穀物の豊かな稔りを祈る祭りだったが、いまではこの行事だけがひとり歩きしてしまった。十一の町内から、それぞれの町の歌自慢、踊り自慢が、どこからともなく湧いて来るように現れ、八尾の町を歌に合わせて踊りながら流れていく。揃いの着物を着た女たちは赤緒、法被に股引き姿の男たちは黒緒の草履をはいているため、この踊りには足音がない。どこからともなく踊りの群れが近づいてきて、どこへともなく消え去る。
……近ごろではTVやマスコミにとりあげられることも多くなった。全国から観光客もおしかけるようになった。が、それが踊りの特徴でもあるのだが、女達は笠を深くかぶって、目を動かさずに踊るので、どこかつきつめたものを漂わせ、そんな外の評判なんかは全く気にしてない。だから、ここの行事にはひとを惹きつける純粋さがある。酔わせるものがある。この国にこんなロマンティックな祭りがあっていいのだろうか。なぜか泣きたくなってしまう。いつかきっと彼とここへ帰ってこよう、と。

§オプション2 ダイナミックに秘境「白山スーパー林道」を駆け抜ける! と、そこにポッカリと夢にまでみたもうひとつの秘境が待っていた……。
 金沢からR157を南へ二〇キロ。鶴来の町を抜ける。夏でも白雪を頂いた姿のいい山並みが鼻面を突きつけるように迫ってくる。ほんとうにクルマであの山が越えられるのだろうか、すこしばかり不安が頭をもたげてしまう。このあたりの水は白山の雪が溶けてながれてくるから、ひどく美味しいことで有名だ。幻の名酒「菊姫」大吟釀がここで磨くようにして育てられるのも納得できる。やがて手取渓谷。あっ、鶴来でとても古くて神さびた神社(白山の女神を祭っているといわれる白山比咩神社)で道中の無事を祈願してお賽銭をあげたのを報告し忘れてた。
 さて「白山スーパー林道」の入り口に到着。このルートは十二月から四月末と夜間は通行できない。それに大型車もバイクも通行禁止だからね。
 白山連峰は高山植物の宝庫。ハクサンコザクラ、クロユリにコバイケソウが競うように咲き乱れる夏はとくに狙い目。きついRのコーナーが続く。路面はけっこう整備されている。今回の使用車、デビューしたての「ランエボⅣ」はこんなケースでもっとも威力を発揮するはずだ。ちょっとオーバースピードかな、と警戒しながらコーナーに飛び込んだとしても、クルマの速度と荷重Gを「AYC」と名づけられたヨー・コントロール装置が働いて、適切なスピードとパワーを準備してくれるからだ。快適にコーナーと遊んだあとは、見晴らし最高のポイントで一休み。蛇谷、ドスの湯、姥が滝といった仙境にも足が伸ばせるようになった。
 あっという間の四〇キロ弱のドライブの終点にきて驚いた。なんと、そこは合掌造りの里・白川郷,いまや世界遺産に登録された秘境だったのだ。

*日程とルートについて
「風の盆」を実際に取材するなら、早めに手をうたないとホテルの手配がかなり厳しいことが予測される。
 東京から関越に入り、長岡から北陸自動車道へ。富山ICで降りてから1時間たらずで八尾の町に。早朝に発てば、午後のやや遅い時間には着く。その日はロケハンをかねて「風の盆」を見物し、いったん金沢へ向かい、一泊し、次の昼間は金沢取材。夕方から再び「風の盆」へ。深夜、金沢へ戻る。
 三日目は金沢に取り組み、四日目に、いよいよ白山へ。これは通過するだけでいいでしょうが、とまりは白川郷かな。
 五日目、帰京。帰りのコースは富山へ北上し、北陸道からがベターでしょう。



 こんな旅のプラン。そうだ、来年の8月の終わりに、このオプション・プランで家人を誘ってみよう。旅のお供も、そのころには……。おお、わが胸にも満ちてくるものがある。

 なぜこんなにも9月1日にこだわるのか。じつは家人の誕生日でもある。お互い、いまさら誕生日を祝う歳でもあるまい。が、今日の夕食だけは、一度立ち寄ってみたいと目星をつけていたイタリアン・レストランに誘ってみよう。

 今年はそれくらいで許してもらおう。おや、また道草をしてしまった。「SUVと紫陽花の関係」はいつになったら、書き上げることができるのだろう。すっかり、怪しくなってきたぞ。

【追記】「おわら風の盆」は雨に弱い。心配していたら北陸地方は天候不順にたたられていた。9月5日の『メディア対抗ロードスターレース』の件でMAZDA広報部を訪れた帰りの車。Carラジオをつけると富山アルペンスタジアムでの巨人・ヤクルト戦は中止に。多分、おわら風の盆も同じ運命に。

 どうぞ明日は晴れてほしい。
Posted at 2015/09/01 21:43:24 | コメント(4) | トラックバック(0) | ちょっと一服 | 日記
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「チームの勝利を至上のテーマとしている大谷翔平が心配だ。ついさっき(8月13日午後1時過ぎ)の対エンゼルス戦9回表5-5の同点から翔平が右翼席に強烈なライナーを撃ち込んだ。勝負ありか。ところが腰抜けの救援陣が守り切れない。で古巣に3連敗。その上、明日は先発。エライことになりそうだ!」
何シテル?   08/13 14:22
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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