*霧の中から突然あらわれたF40。この姿にみんなが痺れた。
*瑞浪モーターランドのガンさん。
楽しくなる「宝石」の数々を発見。それが楽しければ楽しいほど、いま、ぼくの胸は痛んでならない。それはさておいて、宝石たちの輝きをもう少し紹介しよう。それらは、それぞれが自動車メーカー勤務をめざしているとか、籍を置いていた「読者」というのも、ひとつの特徴でした。「oukey」さんは大学生。まだクルマは買えない立場ながら、そのドラテクを研究室の教授に褒められたのです。なぜ? 以下、3個の「宝石」を続けて紹介することにします。
①ouKey より: 2011 年 4 月 26 日 9:35 AM
初めてコメントします。僕がベスモに出会ったのは中学生の時です。近い親戚にモータース兼SUBARUの販売をしている人がいまして、その方と一緒に見たのが最初です。
いろいろなレーシングドライバーの方々の面白いトークや素晴らしい運転に心を奪われ、車に興味のなかった自分も、気づけば、無駄に車の知識がついていました(笑)。
大学生になり、車の制御についての研究をしています。最初、研究室のシミュレータでサーキットを走ってみて、先生に「日頃運転してないのに、ライン取りとかブレーキングとかうまいね~」と言われました。これも、べスモを長い間見てきて身に着いたのでしょうか(笑)。
さて、大学生になりましたが、お金がないのでまだ車は買えませんが、いつか買う日のために毎月べスモを見て、後悔しないよう自分に合った車を買おうといつも思っています。
今の若い人達は(自分も若いですが)、車にさほど興味がありません。周囲の人は「乗れればいい」「軽で良い」「見た目で決める」といった残念な意見しか言いません。中身重視のSUBARUはどうしろと、いうんでしょうか (笑)。
日本人の車に対する意識が低いせいで、日本車のレベルは低いままになってしまいそうで心配です。僕が自動車会社に就職して、開発にかかわった車がいつか復活したベスモで紹介される日を夢見て、皆さんに笑われないような車を作れるよう努力します!! 打倒ドイツ!!
②199301 より: 2011 年 5 月 3 日 2:41 AM
「いつかは」と思っていましたが本当に残念です。1993年1月から継続的に購入してきました。ベストモータリングならではの記憶と言えば、やはりフェラーリの走りでした。過去も現在も「フェラーリなんて実はあまり早くないんじゃない」と思っている人は数多くいると思います。
実は私もベストモータリングを見るまではその一人でした。しかしF40の凄まじさ。そしてその後登場する一連のフェラーリの完成度の高い走り。衝撃でした。
私は別にフェラーリを褒めちぎりたいわけではありません。それまで雑誌や漫画、スペック表、プロモーションビデオの様な走りの「イメージ」でしか伝えられてこなかったことが、「リアル」な走りとしてまざまざと発信される。それに本当に衝撃を受けました。
素人目ですが、この18年間で速さでは日本車は世界のトップにたちました。しかし高級車という分野ではまだまだ世界レベルから大きな差があると感じています。この差は「モノづくり」よりも「文化の違い」から生まれており、その文化の違いこそがクルマの最大の魅力だと思います。そしてこの現在の日本の「クルマ文化のレベルの低さ」がBMの休刊へと追いやってしまたのだと思います。
徳大寺さんが「クルマは非常に冷静であり且つ情熱的だ。それはまさに人間そのもの。だから人々は夢中になる」というようなコメントを書かれていました。この「人間そのもの」が日本のクルマ文化に欠如してしまったことが非常に残念です。そして私もその一人になっているのかもしれません……。・
大学で自動車の研究をし、自動車サプライヤーへ就職。設計も。一時はクルマ文化を創る側にいましたが、転職後は半分受け止める側の仕事に。それでも「クルマ文化を創りたい」と思いを今でも持ち続けています。長い間クルマ文化を支えて頂き本当にありがとうございました。休刊になっても皆様の熱い遺伝子は、日本のそして世界のクルマ文化で、そしてクルマを愛する人々の心の中で生き続けると思います。
*「こまッちゃん」の操るMR2(AW11)
③こまっちゃん より: 2011 年 5 月 13 日 2:40 AM
今月号はLF-Aが出ていましたので、Webでチェック~♪ と思い観て見たらびっくりです! 自分は創刊直後くらいから拝見していたと思います。初めて購入したのは確か、「走るパルサーGTI-R」だったと記憶しています。清水和夫さんがドライブするパルサーの助手席に乗っていた、開発主管の方のこわばった表情が印象に残っています。
それ以降はず~っと毎月購入していました。田部さんが参加されていたかと記憶していますが、何号だったか…ゴルフポカールレースもとても楽しそうでした。ガンさんや、土屋さん、中谷さん、大井さん、多くのキャスターさんの車載映像がとても楽しかったです。
当時は、自動車メーカーにおりましたので商品開発の参考にさせていただいたり、自身のドラテク向上にも役立ちました。
90年代はベスモと共に、自分も自社の車も成長できた年でした。10年ほど前に退職し、田舎に帰ってきてからはベスモの購入率も正直落ちてきておりました。企画と車で選んでいた感じです。ホーンバトルやウォッシャー攻撃も懐かしい思い出ですね。
このコメントの主であり「こまっちゃん」は、今でも、グランツーリスモ等でオンラインレース中にはホーンを鳴らしてしまいます、と笑っていますが、この軽い乗りとその名前に、なぜか記憶がある。確か、ガンさんのドラテク道場か、全国行脚シリーズに白の初代MR2(AW11・ジムカーナ仕様)で参加し、みごとにガンさんヘルメットを獲得した、あの「小松」さんではないだろうか。出場希望の応募はがきには、名古屋にあるNO.1メーカーで商品実験の現場勤務(正岡註:テストドライバーだったかな?)と書かれていたような……。
*ベストモータリング1990年9月号「MR2オーナーをしごく!」より
早速、手元にあるバックナンバーから、「追跡調査」を。ありました。1990年9月号でした。
その時期、べスモはクルマという存在を通して、メディアの受け手である「読者」と交流できる舞台として、「ドラテク特訓合宿」や「全国行脚・特訓道場」に力点を置きはじめたところです。そのあたりのいきさつは、『べスモ疾風録』第3回「忘れじのお宝映像たち」や、第10回「素晴らしき門弟たち」で、動画つきで詳しく紹介していますので、そちらも参考にしていただきたいのです。
ドラテクに力を入れ始めたその頃、スカイラインGT-Rが16年ぶりに復活。その富士スピードウェイを疾駆するGT-Rのスクープ映像を巻頭に飾ったのです。もう、余計な説明はいらなかった。赤いRのエンブレム。各コーナーから湧き起こるタイヤのスキール音。エンジンの咆吼。圧倒的なスピード感。クルマファンは目を剥いた。スペックも翔んでいた。おお、このクルマで思いっきり走ってみたい。そのためのドラテクをなんとか体得できないものか!
みんなの「走り心」に火がつきました。それからというものは、製作コストアップを無視して(?)全国各地のサーキットをステージとした「ドラテク特訓」を展開したのです。そして9月号で訪れたのが岐阜県・瑞浪モーターランド。GT-Rの向こうはってTOYOTAからミドシップスポーツMR2が登場。その「MR2オーナーをしごく!」がテーマでした。その時、ガンさんの目に留まったのが「こまっちゃん」こと、小松高人さん、当時21歳。とにかくステアリング操作の乱暴さが目立った。それをガンさんに矯正されると、1キロちょっとの短いサーキットで、あっという間に2秒ほど、タイムを縮めてしまった。
特訓終了後、ガンさんからレプリカ・ヘルメットを手渡されるときの「こまっちゃん」が見せた澄みきった少年の目。それをそのまま、失っていないと思わせるコメントに出会うことができたわけです。
――走り心に火をつける。そうだった。べスモと一緒に育ってきた「宝石」たちの心に焼きつけられた「共通項」は「走り心」でした。どんなにクルマの流行り廃りがあろうとも、クルマを操る「技術」を会得しようとすることからはじまるカーライフとの融合。みんなが待望しているものが、見えつつあります。
ベスモという舞台はなくなったが、もう一度、ガンさんに声をかけて、全国行脚の「ドラテク特訓塾」が開ける、新しい道はないものか。
そんなとき、山口・萩の「波田教官」(「消えたベスモBLOG」に登場)から素晴らしいアイディアをいただくのだが、それは次回の更新ページでお披露目しよう。