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正岡貞雄のブログ一覧

2011年12月29日 イイね!

ああ、ぼくもニュルを走りたい!~WEC1000㎞/決勝レポートから~

ああ、ぼくもニュルを走りたい!~WEC1000㎞/決勝レポートから~  1982年5月30日午前9時30分、サーキット着。10;00、パドックへ。ランチャマルティニに人気が集中。前日のクラッシュと打撲にも負けないでパトレーゼが出ている。
 ロンドーのロルフ・シュトメレンはこの国の英雄、前日、バスでこのコースのガイドをしてくれたドライバー。

 11;00、第28回ADAC1000キロ耐久戦がスタートした。フォーメーションラップは1周22,8キロのコースだから、正面スタンド前のストレ―トから第1コーナーをクルリと回り、ピット裏を抜け、第2コーナーを入るところで右に大きくショートカットし、高速道の流入口のようなバンクを小さくターンして、再び正面前に戻ってくる。
 
 ぼくはピット前にいた。あっという間に青信号になっていた。あれ、あれ。レースは始まっていた。と、第1コーナーでアクシデント発生か。オフィシャルと救急車が慌ただしくコースに飛び出した。と思ったら、ド、ド、バ、バッ、ギューンとトップ集団が第2コーナーを今度は左へ折れ(註:そこからが現在の北コースというわけだ)、下りS字の高速コーナーへ消えた。










*ランチアを脅かした④ヨ―ストポルシェ


*その年の10月、FISCOで圧倒的な強さを発揮するようになるM1軍団  

 7分あまりの静寂。アナウンスの声だけがやたら大きく感じられた。なにやら喚きたてているのは フォードC100がトップにいるかららしい。管制塔の手前に電光掲示板があり、トップがいま、どこを走っているかを教えてくれる。そうでもしなければ、間延びる。豆電球が一つにつながりコース図が浮かび出たとき、轟音とともに先頭集団が還ってきた。ポールポジションを奪ったフォードC100にG6ランチア2台がぴったりくっつく。


*フォーメーションラップに入った先頭集団。ここが第1コーナーで、すぐに右に回り込み、ピット裏の短いストレートが待っている。最初の難所。


 全車が一周を終えた。打合せ通りに、ぼくらは正面スタンド右端の記者席へゾロゾロとし移動。(ここではプレスカードは万能。その発給ぶりも簡単そのもの。富士スピードウェイの勿体ぶったやり方に比べて、どうだ!)
 記者席にたどり着いたのと同時に、2周目を終えたトップグループが時速300キロをこすスピードで駆け抜けていく。この難易度ウルトラのコースに耐え抜いて帰ってくる彼らに「やあ、お帰り」と声をかけてやりたくなる。

 12時からFISAのバレストロス会長とADAC会長とのプレスコンファレンス。かれらは日本のモータースポーツ界を、なんとしても巻き込みたい意向を隠さない。ADACは会員700万人。数こそ、JAFとさほど違わないものの、その質といい、伝統、歴史となると勝負にならないのを、ぼくらははっきり知っている。香港の出資で中国にサーキットが建設されるというニュースの提供。欧州のレギュレーションをもとに汎太平洋、アメリカと一つにして新しい世界選手権を発足させるべく、彼らは走り出そうとしていた。

■第1コーナーのクラッシュに巻き込まれかけた「ふたり」

 先日のアウトバーンクルーズでパートナーとなって以来、すっかり打ち解けてくれたCG誌の笹目さんがただならぬ、青ざめた、ひき吊った表情でそばへ来た。
「死に損なったんです。バーンとラジエターがとんできて、すぐ隣のカメラマンがぶっ飛んで、ぼくは咄嗟に横に伏せていたんです」
「え!? あのスタート直後の第1コーナーに行っていたの!?」
「能登山君と一緒に。彼は金網をよじのぼって逃げました」
「みんなカメラマン?」
「そう、22番(BMW、地元で大人気)がバッと押し出されて、こっちに吹っ飛んできたんです」
彼の報告がグループに行き渡り、みんなが集まって来た。慄然。良助氏も「もし巻き込まれていたら!?」と、首をすくめる。

 一時の興奮が収まると、笹目さんがプレスカードをどこかで紛失しているのに気付く。レースに戻る。ランチアの51番が①フォードC100を抜いた。G6仕様のランチァ集団はレギュレーションの変更で、3年目の今年が最後。なんとしても、いまのうちに勝っておきたい。タイヤはP、ショックがB。今回のテーマにぴったりのマシンなのだ。良助青年が手を叩くわけだ。
「このままで行けば阿部商会は万々歳!」


*フォードC100の脱落でトップに立ったパトレーゼらのランチアマルティニ


*強烈な下り坂から右へターン。コース脇の観客はご覧の通り 

その途端、51番は白煙を吐いてピットIN。慌ただしくピットが動く。51番は一挙に6位まで順位を落とす。①のフォードC1000が逞しく周回を重ねる。局面はしばらく膠着状態に。

 午後1時、バスでコーナーの見える観覧席に移動。 最後の長いストレートに突入する直前の難関に狙いをつけたのだ。腕力だけでランチアを抑えこんでいたC100が、ぼくらの前をたよりないエキゾースト音で通過したとき、レースは決まった。パトレーゼがファビに替わってハンドルを握った。上半身を裸にして日向ぼっこの観衆は大拍手。その人気者が高速コーナーをホッピングしながら駆けおりてきた。たちまち先行車のIN側につき、強引にパスし、丘のむこうへ消えていく。

 見所となるコーナーにはパーキングが設けられていて、クルマと観客が溢れている。キャンピングカー、上半身を裸にした若者たち。思い思いにレースを楽しんでいた。多分、ルマンも同じ光景だろう。

 最初にへばりついたのは、左回りから急坂を駆け下り、谷底から右へ切れ込み、パトレーゼが吹っ飛んだいわくつきのジャンピングスポットが待ち受けるポイントだった。富士のグラチャンマシンに出てくるようなクローズドマシンは、バンバン跳ねながら、ドライバーが腕力でコーナーをクリアしていくのに較べ、サルーンクラスはテールを滑らせ、カウンターを当ててくぐり抜ける。タイヤのスキール音の合奏。

 お次は、少し戻って、最後のストレートに挑むちょいと手前の、左右に捩れ、しかも高低差のある高速ベント。サンドウィッチを齧りながら、熱い日差しをもろに浴びる。観客を掻き分け、叢の斜面に貼りついて、カメラのシャッターを押しまくる。

 300ミリの望遠レンズ。CANON。ドイツの若者の注目の的だった。ビールを飲めと金網越しに執拗に迫る、朗らかに。レース初日からこのポイントに座り、仲間とキャンプ暮らしをしているという。それは親父の世代から引き継がれ慣わしであつた。この辺の違いに衝撃をうけた。
「きみの家の伝統はわかったが、なぜこのポイントなの?」
「だって、ここが一番難しいコーナーでドライバーの腕とマシンが一体になっていないと吹っ飛ぶからさ」

 各車は丘の頂上から左に回り込む。このときマシンがホップする。ステアリングが真っ直ぐでないと、たいへんなことになるはずだ。下るとリアがばたつく。それをがっちりと抑えこんで、右、左のCPにきっちり車首を向けないといけない。それが終わると、アクセル全開で長い、長いストレートへ。C100で時速350Kmに達するという。そのC100がボッ、ボッと頼りない、鈍いエキゾースト音でぼくらの前を通り過ぎる。と、BMW320にあっさりパスされた。ピットにたどり着けるのかな。エムデ氏の話によれば、各車とも5周でピットインして、給油、タイヤ交換、ドライバー交替をやるらしい。

 やがてC100がリアアクスルのトラブルから息の根をとめた、と知る。
あとはランチァ50番の独壇場だった。51番はタイヤトラブルなどから20周目にリタイヤしている。そこで変だな、と気付いた。なんと51番をドライブしていたパトレーゼが、いまでは50番の方にも乗っているではないか。パトレーゼ、パトレーゼと絶叫する場内アナウンスとラジオの声。2カーエントリーの場合、ダブってエントリーできる仕組みだった。Xという名前で……。なるほど、そんなのアリとは面白い。

 そのパトレーゼが高速ベントを物凄い勢いで駆け降りてきた。オフィシャルが青旗を出す暇もないほどのスピードだった。あっという間に先行するアスコナのINについた。高低差が激しいから、アスコナのミラーに50番の姿は映らなかった。気がついたときはもう、右後方から50番はパスしようとしていた。ハンドル操作とブレーキング。タイヤがロックして左に流れる赤いアスコナ。やった! 身を竦めた瞬間、アスコナは体勢を立て直す。パトレーゼも右のタイヤをコースからはみ出させながら、懸命に耐える。耐えながら高速ベントをクリアする2車。アスコナは50番の強引なパスを許さなかった。

 旗を出し遅れたオフィシャルをよく見ると、20歳前後の可愛いコちゃんだった。
午後4時54分、パトレーゼはシルバーストーン、モナコにつづいて勝利のチェッカーをうけた。2位はすっかりぼくらとお馴染になったシュトメレンのロンドー。日本車ではただ1台決勝に進出したRX―7が大健闘、総合6位、クラス優勝。この耐久戦、やがて10月の富士で再現される。  


*総合6位、クラス優勝と大健闘のRX-7  
 
 フィニッシュはメインスタンドから見た。レンズで捉えた表彰台。ドライバーの真後ろでカメラを向ける山本浩道オーテク氏の姿があった。きっとどこかの世界のモータースポーツ誌面を飾るに違いないぞ。そして、ぼくは誓った。これから日本に帰ったら、もっとドライビング・スキルを磨いて、いつの日か、このコースを走ってみせるぞ、と。 多分、この日の仲間は全員、同じことを考えたに違いない。それがニュルブルクリンクの魔力かも知れない。    

Ps その秋、ロルフ・シュトメレンの哀しい訃報が届く。アメリカのツーリングカー戦で激突死したという。 


*ニュルのボス・エムデ(左)、シュトメレン(中央)とチーフメカの各氏

*ホームストレート前で。今ではグランプリコースに変身。 

(註:この一連の『ピレリ遣欧使節団の記録』は「ベストカーガイド」1982年8月~11月号に連載したぼくのレポート『欧州クルマ見聞録』に、現在の記憶と想いを加えて書き直したものです)    
Posted at 2011/12/29 01:27:06 | コメント(3) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2011年12月28日 イイね!

『悪魔のリンク』初見参! ~『聖地』ニュルブルクリンク①~

『悪魔のリンク』初見参! ~『聖地』ニュルブルクリンク①~■技術を磨き、こころを磨いている。それが歴史を守るということか 

 ぼくは歴史が好きだ。歴史のもつほんものの重み、深い味に触れるのが、とても好きなのだ。今回の17日間の日程で、5つのイベントを盛り込んだ「ピレリ漬けの旅」の終わりを迎えながら、ぼくはずっしりとした手応えを感じていた。本物とは、こうやって熟成され、育てられてのち、やっと世界の一流品となることを。

 これまでは、いくらヨーロッパの一流品をつきつけられても、ぼくのなかでは「日本」を通してしか、その意味合いを、受け止めることができないでいた。ただ単に、その歴史だけをひけらかすものは、もう滅びるしかない、と思っていた。しかし、その歴史を大事に育てながら、新しい世代に対しても開発を怠らない。つねに技術を磨き、こころを磨いているこいつらは、凄い力の持ち主だと知ってしまった。そのときに記しておいたぼくのメモ帖から、その要点を摘出してみると――。

◎ピレリ P7以降の開発ぶり。P8、P5。CN36の古さ=ポルシェ911。いま偏平タイヤを高効率の観点で捉えている。フットワークの研究、それがヘッドワークなのだ。
◎ポルシェ スポーツカーへの揺るぎない自信。アウトバーンとワインディングの両面を同じように征服するマシン。馬力とトルク。やたら馬力だけで売ろうとする輸入総代理店「三和自動車」(その当時)に問題あり。ユーザーを盲だと思っている。なぜ、正しく育てようとしない?
◎ビルシュタイン トリアという古い町。ワイン、アウスレーゼ。ローマ帝国の北限で遺跡がごろごろ。工場見学。ひたすらショック(ガス封入)にこだわるその自信はどこからくるのだろう。
◎ニュルブルクリンク コースを走って、納得。
◎サーブ P8の積極的な採用。東洋的なストイックさ。

 旅も終わりに近づいた5月27日。シュツットガルトのホテルを9時に出立。ビルシュタインからの迎えのバスのシートは硬くてリクライニング式。ライン河のほとりでいったん休憩。4時すぎにトリーアの街に入った。トリーアはローマ帝国の侵入に抵抗して、城壁をつくったというくらい、古い街だった。モーゼル河。古代ローマ浴場、劇場。10キロむこうはもうルクセンブルグの国境。街道筋にあるホテルに一泊。この日もダブルのベッドを一人占め。黄色の壁に花柄模様の安楽椅子。まことに乙女チックなり。


*古代ローマの遺跡、カイザートルメン(皇帝浴場)でサッカーを興じるトリアの街の人たちと

 28日はビルシュタイン本社を訪問したあと、バートナイワ―という、有名な温泉保養地のシュタインベルガーという格式のあるホテルへ。

 5月29日。8時にモーニングコールがあるという。それなのに6時40分には目が覚めていた。9時に出発。バスはニュルブルクリンクへ。1時間足らずで着く。第28回ADAC1000km世界耐久第3戦の観戦が用意されていたのだ。この日も、やたら快晴。おれたちゃ、サンシャイン軍団さ、と笑う。

■人気NO.1のパトレーゼが高速コーナーで消えた?
 
 ドイツのニュルブルクリンクといえば、世界でもっとも難しいサーキットとして知られている。1周、22.835㎞。鈴鹿の約3・7倍、富士の5・3倍にあたる。

 この気の遠くなるような長丁場には、176のカーブが牙をむいてドライバーとマシンを待ち構えているのだから、コースとの闘いは想像を絶するものがあるに違いない。だが待てよ。ヨーロッパF2選手権シリーズの新着情報によれば、第4戦でT・ブーツェンがニュルブルクリンクをパーフェクトに克服したというではないか。金曜日の練習走行で7分4秒48というF2での最高タイムをマークし、決勝では天候が雨だったため、タイムはあがらなかったが、ホンダ/BS勢として、ことしはじめての優勝を飾っている。調べてみると、このブーツェンの7分4秒48というタイムは、75年にC・レガツォーニがたたき出したF1による7分6秒4を破ってしまうたいへんなものだ。

 ブーツェンといえば、昨年の鈴鹿F2で、なんどか中嶋、星野、松本らに、赤ん坊のように、手もなくあしらわれたドライバー。いくら鈴鹿がスペシャリスト向きかは知らないが、鈴鹿をマスターできないドライバーが、ニュルブルクリンクを昨年につづいて、連続制覇できるくらいだ。「世界一きびしいコース」もあやしいもんだ――そんな単純な疑問を抱きつつ、はじめてのニュルブルクリンクと対面したわけだ。


*注目の的だったのに公式予選で、高速コーナーで飛んでしまったR・パトレーゼ


*初日の予選ではアルボレ―トがドライブしたランチア・マルティーニ・グループ6

 この日は公式予選日。ぼくらをのせた貸し切りバスがリンクに着いたとき、パドックは大揺れに揺れていた。つい先日のF1モナコGPで優勝したばかりの人気ドライバー、パトレーゼが、「シュバルベンシュバンツ」とよばれる丘の高速ブラインドコーナーで10メートルも空中にとんでクラッシュしたという悪いニュースが待っていた。

「じゃあ、明日の決勝には出てこないのか」
 いささか落胆しながら、ビルシュタイン社モータースポーツのボス、H・エムデ氏に問いただした。
「それもパトレーゼ次第ネ。マシンはメカニックが徹夜をしてでも間に合わすはずだ。パトレーゼが首をやられていなければ問題ない」
 エムデ氏にはリンクのできごとが即刻わかるらしい。なにしろ、予選通過の54台中、ビルシュタイン装着車は45台、83%におよんだ。しかも耐久レースともなれば、サスペンションの設定が重要なポインの一つ。各チームのドライバーやメカがレース用ショックを大事そうに抱えて、パドックの入り口中央にデンと据えられたビルシュタインの基地にとびこんでくるからだ。

 そのたびに、エムデ氏は有名と思われるドライバーを、ぼくらに紹介してくれる。 ともかく、ピットを出て、出走車を見ないと、レース気分は盛り上がらない。パドックから地下道をくぐり、右へ折れるアプローチをのぼりつめると、ぽっかり視界がひろがり、明るいサーキット風景が待っていた。

■フルコースをぼくらのバスで1周の大サービス

 ピットは折から、グループCとグループ6、グループGTUで構成されるクラスの第1回目公式予選が終了した直後で、ごった返していた。2回目の走行は、午後2時半からだ。

 富士スピードウェイなら、差し詰め星野一義選手が使用するに違いない、管制塔に近い便利なピットを、ここでもビルシュタインが占領していた。その隣はピレリがフルにタイヤサポートしているランチア・チーム。どうも不思議でならない。ビルシュタインが、なぜこうもこのリンクのパドックといい、ピットといい、いわば“一等地”を与えられるのだろう。鈴鹿や富士でカヤバやトキコが、こんなふうに振舞っている姿は見たこともない。生き生きと各チームの間を飛び回っているのは、BS、ダンロップ、アドバンのタイヤメーカーの担当者であり、レーサーが息抜きに立ち寄るのは、アライやショーエイのヘルメットメーカーのテントである。


*予選トップのフォードC100を見守る観客たち

 やがて、その謎はとけた。午後の予選も終了して、コースが翌日の決勝をひかえて短い休息に入ったとき、例のエムデ氏がヨーロッパ貴族の後裔のような端麗な顔をほころばせながら、ぼくらのバスに至急乗車するように命じた。
「遥かなる極東の国から来てくれたジャーナリスト諸公に、私のできる最大のサービスをしたいと思う。このリンクは1920年代の初めに、ドイツ政府が国策としてアイフェルの山を切り開いた歴史的なサーキットであり、その難しさは走ったものにしか体感できない。明日のレースの観戦ポイントも、それ抜きでは気の抜けたビールみたいなもの。平日なら、1周5マルク(550円)の走行券でじっくりコースを味わっていただけるが、レース開催中はそれも不可能。そこで、諸公らのバスでコースを一周しようじゃないか!」

 一同、大拍手。と、とことこバスにのりこんできたひとりの男。眼鏡の奥の柔和な目が印象的だった。どこかでお目にかかった顔。
「わが社の契約ドライバーのロルフ・シュトメレンだ。モンツァのWEC開幕戦をポルシェ935K3‐81で2位になったのはご存じだろう。彼はリンク・オブ・マスターとよばれ、このコースの隅から隅までしっている男で、今からガイド役をつとめる」

 緊張したのは運転手のホルスト君。彼にとってシュトメレンは憧れの大スター。たとえ観光バスのドでかいやつとはいえ、緊張しない方がおかしい。ぼくはコースを実地検分できると聞いた途端、最前列へとんでいっていたから、その辺の様子がよくわかる。で、ゆったりとコース・イン。ところが入り口で鍵のかかったバリケードに阻まれた。 いたく権威を傷つけられたらしく、エムデ氏は白い顔を紅潮させ、バスから降りるなり、コース管理室の方へ駆けていく。

 シュトメレンがニヤリとしながら解説する。
「彼こそがボス・オブ・リンクである。彼の協力なしにリンクに挑めば、マシンはコースの外に飛び出すか、1周30秒はタイムロスするだろう」と。


*ひときわ背の高い紳士がバスガイド役で登場したシュトメレン選手

■やはりこのコースはただものではない!

 バスは正面スタンドとピットに挟まれたストレートでいったん停止した。そこがスタート地点。コースは時計回りだ。この時、コース図を入手していない失敗に気づいて、ぼくは慌ててノートを開く。せめて、見取り図だけでもとってやろうというのだ。
 第一コーナーはスプーン状にクルリと回って、いま来たばかりのストレートの裏側を、ピットを挟むようにして折り返し、左の上りコーナーへ。そこでコースは二股に分かれる。右にカーブするのは、ショートカット用のエスケープロードで、まるで高速道路の流入口のようにループしていた。本コースの、いったん上りつめたコーナーが直角に折れると、富士の第一コーナーを裏返しにしたような下りの勾配。と、すぐにS字が五つも連続する。それも森の間を縫いながら、谷底に落ちていく感じだ。
 グループCマシンはブレーキングを多用しながら、3速で駆けおりる。 ここが観戦ポイントらしく高速ベントへの入り口だ
 このハッチェンバッハとよばれる難所をクリアすれば、橋をわたって急な上り坂。路面がうねっていて、バスが軽くジャンプするくらいだから、サスペンション・ストロークの短いレーシングカーなら、それはもう、たいへんな跳ね方をするにちがいない。

 さて、アデナウの森。ここで4速から全開へ。ゆるい下り。300km/hに達するという。右手にニュルブルクの古城が見えるあたりから、コースはさらに右に左にカーブし、エクス・ミューテと名づけられた左側が崖、右に土手のある高速下りストレートにさしかかる。


*ポスト64の看板のある地点でニキ・ラウダが大事故に見舞われ、それ以後、このコースでのF1は開催中止

「76年のドイツGPで、ニキ・ラウダがここで大惨事をひきおこし、以来F1はこのコースを使用しなくなった」
 シュトメレンは、左側のガードレールを指さし、ラウダのマシンが右側にふっとんだ地点を教えてくれる。
「ともかく、これほどめまぐるしく変化するコースだから、サスとシャシはよほどハードでなければ耐えられない」

*「大逆転(カルーセル)の谷」の異名をもつ名物コーナー 

 名物のカルーセルの谷底コーナーも抜けた。コースの左半分がバンクになっている。

 コースが大きく開けたところが、どうやら観戦ポイントらしく、林の間にキャンピングカーが点在していたり、若者たちがコース上にとび出してローラースケートをやっていたり、あるいはヒッチハイク気取りで、右手親指を突き出して、ぼくらの貸切りバスを止めようとする愛嬌者もいた。

 パトレーゼがその朝クラッシュしたあたりは高速のブラインドコーナーで、そこからの下りはS字になっており、クリッピングポイントを狙うだけで、目がまわりそうだ。そして、最後のストレートの長いこと。1・5キロもある。それが適当なうねりを隠しもっているから、先行するマシンはポカッと視界から消えてしまうそうだ。 この時はバスで1周しただけの印象記に過ぎないが、2年後に、雨と霧の中を、実際に自分で周回する機会に恵まれる。まさに<悪魔のリンク>であった。その実況レポートはいずれ。



 最後の長いストレートに入ると右手のニュルの古城が見えてきた。

 ニュルのサーキットホテルのプレス夕食会が済んで、バスでバートナイワーの、あの天井の高い、格調のありすぎるホテルに帰り着いた時は、もう11時過ぎ。といっても陽がとっぷり昏(く)れるのは10時近くだから、そんな時間とも思えない。部屋から外を眺める。なんとももったいない街のたたずまい。テラスの向こうを川が走り、尖塔の黒い姿が月の光を浴びて、だんだんに露わになってきた。

 カジノもあるという。ぶらりと散歩に出かかったが、翌日の決勝レース観戦に備えて自粛。決勝の模様は次のアップまで、お待ちあれ。



Posted at 2011/12/28 01:42:58 | コメント(6) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2011年12月26日 イイね!

アウトバーン&ロマンチック街道を翔ぶ!~911SCタルガ蛇行記~

アウトバーン&ロマンチック街道を翔ぶ!~911SCタルガ蛇行記~ ホッケンハイムサーキットでポルシェ944をたのしんだ翌日は、待望の「自由行動」が予定されていた。そこでポルシェ社広報マンのヘーンシャイト氏に、率直に申し入れた。
「内容の充実したスケジュールにわれわれはたいへん満足している。疲労もない。あすは久しぶりの休日だが、ホテルで眠っているつもりもない。もし可能なら、自由に西ドイツのよさを味わってみたい。だが、ぼくらには足がない……」
「わかった。ご希望にそえるよう努力してみよう」
 ヘーンシャイト氏は予期していたように、胸をたたいてくれた。

 1982年5月26日午前9時。6台のポルシェがホテルのアプローチでぼくらを待っていた。なんという心憎い演出!944が2台、928も2台、それに911SCタルガと924ターボが各1台。さて、その配分がたいへんだ。11名の自動車ジャーナリストに、評論家の岡崎宏司氏を加えて合計12名。2名ずつがペアになって6組、それぞれ希望の車種ごとにジャンケンする。商売気からいえば、レポートしやすい944だろうが、ほんもののポルシェの味を堪能するなら、なんといっても911SCタルガだろう。


*成田空港での「ピレリ遣欧使節」結団式 
 
 ここで前回、ピレリ=阿部商会が企画した「遣欧使節団」の試みが、それからの自動車ジャーナリズムに多大な貢献をもたらせた、と触れたことを思い出していただきたい。
 この時代、現行の「日本カー・オブ・ザ・イヤ―」は発足したばかりで、カーマガジン・メディア同士の横の交流は、ないに等しかったし、ヨーロッパのクルマ文化を取り上げるのは、「CG」タイプのハイグレードなマガジンに限られていた。それが、「ベストカー」や「カートップ」「ホリデーオート」といった中綴じタイプの、いわば大衆誌に「新しい風」を持ち込ませるきっかけづくりとなった。たとえば、日本のタイヤメーカーは、なぜポルシェの規格する「R」タイプに合格するような承認タイヤが創れないのか、などといった、「後進性」への指摘がはじまったのである。
 
 そのとき招聘されたメディア名を並べてみようか。手元に成田空港での「遣欧使節団」結団式の写真が残っているので、改めて検証してみた。前列右から、佐藤(阿部商会)、阿部専務(兄)、阿部社長、阿部良助(弟・使節団同行、イタリア語堪能)、CARトップ(宇井)、ルボラン(能登山)、八重洲出版(小島)、後列に行って、CG(笹目)、同行した代理店の方、山海堂=オートテクニック(山本)、ベストカー(正岡)、三栄書房=モーターファン(松本)、モーターマガジン(河原)、ピットイン(辻)、徳大寺有恒、岡崎宏司、カ―&ドライバー(西田)、月刊自家用車(天野)の各氏。(敬称略


*スタート前にホテルのキュートなフロント嬢と記念撮影
 さて、ホテルのロビーで時ならぬジャンケン大会がはじまった。ドイツの人からみれば、なんとも奇怪な〈競技〉にちがいない。怪訝な面持ちのヘーンシャイト氏に、勝負の定理をレクチュアする破目になる。

 944をかちとった幸運児のひとり、「CARトップ」の宇井青年(いまではベストカーを支える編集局長)が、911組のぼくらに巧妙な提案をする。
「ぼくたち、944の写真撮りとちょっとした試乗で結構です」
よかったら、どこかで待ち合わせて911と交換しませんか、という。なるほど。宇井青年は359のオーナーだった。大いに心が動いたが、待ち合わせるといっても、異国の地、ここはやはり目的もなく、古典的ポルシェでアウトバーンを漂ってみたいじゃないか。で、交渉は不成立。この宇井青年、3年後に「ベストカー」に移籍して来る。実はこの旅ですっかり昵懇となり、じっくり時間をかけてスカウトしたわけである。

■アウトバーンを走ればマナーはよくなる
 シュツットガルトからミュンヘンにむかって、アウトバーンを南下した。ドライバーはCG誌の笹目二朗さん。ポルシェ911SCタルガのソフトトップは、もちろんホテルを出るときにとり払った。

 頭上で風が鳴る。レモンを輪切りにして透かしたような5月のドイツの陽光が、あくまでも明るく爽やかに、助手席のぼくにふり注ぐ。204psのパワーを秘める911。乾いた甲高いエンジン音が規則正しく、背後から包む。もう10分間近く、ぼくらは同じテンポでクルージングしている。4速、5600rpm、180㎞/h。メーターの針は微動すらしない。
「いいねぇ」「いいですなア」
 ぼくらの会話はその繰り返しだった。それで充分に、心が通じ合うから不思議だ。
 まず、季節がいい。ヨーロッパは5月下旬から6月上旬にかけて、花々が咲きそろう。雲ひとつない蒼い空がいい。乗っているクルマがいい。速度制限のほとんどないアウトバーンがいい。相棒がいい……etc。



 ミュンヘンまでは約200キロ。アウトバーンに入ってからドライブMAPを用意していないのに気づいた。地図のない旅もいいものだ。パートナーの笹目さんも、むしろ、そのことが気に入ったみたいだ。
 アウトバーンは適度にアップダウンしていた。東名高速の大井松田-御殿場間を思い出させる上りカーブの連続もある。その途中のパーキングエリアでドライバー交替。いよいよ、ぼくの「アウトバーン体験」だ。

 視界が広いな。最初の印象がそれだった。中央分離帯はあるが、左側をすっとぶ対向車の流れはよく見える。右側にはガードレールも、防音のための壁もない。つまり、アウトバーンは「すっぽんぽん」なのだ。コースアウトすれば草むらか、畑につっこむしかない。だから、アウトバーンは景色に融けこみ、視界が広いわけだ。

 当然、左のラインにとびこむ。先行するBMW525、メルセデス280SEを軽くパス。やがて真紅のポルシェ928のグラマラスなお尻に追いついた。機敏に右へ寄る928。こんな場合、速やかに追い越してやらないと危険である。928は170㎞/hぐらいをキープしているから、こちらがモタモタしていると928が先行車に追いついて逃げ場所がなくなる。で、加速のきく4速にホールドしたまま、6000rpm、200㎞/hの世界に突入する。

 アウトバーンは速度制限がないと聞いていたが、交通量の多いシュツットガルト―ミュンヘン間は路面の傷みも激しく、工事中のところが多かったし、各パーキングエリアを通過するあたりは時速100キロにスピードダウンせねばならない。そして、すべてのクルマが確実に減速しているうち、アウトバーンの狼たちのマナーのよさが理解できはじめた。

 アウトバーンにはストレスがこれっぽっちもない。料金も払う必要がない。自分のクルマの最上限の速度で走っていたら、そんなに長く緊張が続くものでもない。適度な休息がほしくなる。速度制限の標識、パッシングライトを浴びせてくる後続車にカッカするどころか、ちょいとひと休みするにはもってこいの口実なのだ。

 昼食はミュンヘン中央駅前のカフェテラスでとった。オレンジ色のテントの下は、若いギャルたちでいっぱいだった。こんな場合、彼女たちの関心をひくのは簡単だ。笹目さんの特技にたよればいい。
「やりましょう」
 おもむろに、日本から持参した折り紙をとりだす笹目さん。器用な手付きで「折り鶴」を1羽、2羽、3羽。
「OH! シュラッシュ(鶴)」
 狙い通り、ミュンヘンのギャルが反応。ブロンドの可愛い16歳がさっそく弟子入り。彼女の白い指先につままれた折り鶴が、なぜか白鳥を連想させた。

*ロマンチック街道の終点近く、ノイシュバンシュタイン城が聳える。宇井青年から送られてきた絵ハガキがこれだった。
彼もこの城を訪れてから、移籍を決意てくれたのだろうか。


■ロマンチック街道の終点は「白鳥の城」
 そうだ。白鳥の城を見にいこうよ。それはいい、と笹目さん。 ロマンチック街道の終点、フュッセンの10㌔手前に、白鳥の城とよばれる優雅な外観をもつ名城がある。ノイシュバンシュタイン城。あれはたしかヴィスコンティ監督の「神々の黄昏」という映画の舞台だった。ワグナーに心酔した国王ルードウィヒ2世が、ワグナーのために真実の中世風の居城を建てようと志し、やっと17年目に完成したとき、財政は底をつき、彼は国王の座を追われ、やがて彼は湖に身を投じるという物語。なんとも悲劇的な雰囲気が気に入った。

 ミュンヘンから、いったんアウブスブルクに戻り、そこからロマンチック街道へ。
白樺の並木道。いまもなお、中世に栄えた数々の街が、昔のままの姿で点在し、街がきれると、緑の原野を白い道がうねっている。その道はアルプスにぶつかり、アルプスを越えるとイタリアへ通じるという。 ぼくらの911SCタルガは水を得た魚のように、ワインディングロードを疾駆した。コーナーの奥へむかって思いきりつっこんでから、ブレーキング。と、同時に早めにハンドルを切ってやると、テールは鮮やかに流れだし、ドライバーに「お前はいまスポーツ走行しているんだぞ」と、快い昂奮をめざめさせてくれる。






*ロマチック街道を走れば「蛇行記」というネーミングがどんぴしゃり、と気づくはず。

 アウトバーンをこなし、広い野原を機敏に駆けめぐる。この両局面を、より速く、安定して走れること。それがポルシェというスポーツカーを産み出すドイツの風土というものだろう。
911シリーズもすでに20年を経ている。それでも熟成を重ねながら、いまだに<現役>として頑張っている。その一方で新しい時代に対応した944を問うしたたかさ。シュッツ社長はさらに944ターボ、911の4WDを投入すると宣言した。
 おそらく、どんな難関に直面しても、ポルシェ社はこの911SCタルガのように、小気味よく吹け上がり、絶妙のハンドリングで克服していくだろう。


*やっとたどり着いた「白鳥の城」は、すでに城門が固く閉じられていた。 

 午後6時、白い雲を頂に残したアルプスがグングン迫ってきた。その絶壁の中腹に、白鳥が優美に羽をひろげたようなたたずまいの城が見えるではないか。それがノイシュバンシュタイン城だった。
まだ日が暮れるには間があった。ぼくらは城に通じる山道を、30分もかけて登って行く。標高1000㍍。やっとたどり着いた時には、閉門時間を大きく過ぎていた。人っ子ひとりいない城郭の周辺。深い谷。見渡すと、遠くで湖が光っている。



 汗が引いて、体が冷える。麓のレストランで出されたハウス・スープのなんと美味だったことか! 結局、シュツットガルトのホテルに帰り着いたのは、午前零時。オドメーターは730㎞を指していた。

1982年。この当時のぼくのドライビング・スキルはどの程度だったか。日産レーシングスクールは卒業したものの、FISCOのフレッシュマン・レースもパルサーで出場。予選通過がやっと、という程度。もっとも、出発直前の「レース・ド・ニッポン」(筑波サーキット)のパルサーレースで8位にはいり、賞金2万円をいただくところまでには来ている。それでも、ストレートでアクセルを踏みつけることはできても、たとえばロマンチック街道のワインディングでは、パートナーのCG笹目さんのブレーキングの確かさに、脱帽している。もっと、自分を鍛えなくっちゃ。
 訊くと、笹目さんは、かつて日産自動車の車両実験部に在籍していたという。このあと、世界屈指の難コース、ニュルブルクリンクを知るにおよんで、ぼくの決意は固まっていた。男って、そんなものらしい。



Posted at 2011/12/26 09:34:37 | コメント(3) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2011年12月24日 イイね!

ポルシェ漬けの日々 ~3度目の訪欧は『クルマ一流品』の原籍地をゆく~

ポルシェ漬けの日々 ~3度目の訪欧は『クルマ一流品』の原籍地をゆく~ 2度目のヨーロッパ訪問から、次の3度目までには10年を越すインターバルが必要だった。「ヤングレディ編集部」には1972年まで在籍して、2度目の「週刊現代」勤務。2年後、「月刊現代」編集長。1977年10月、「ベストカーガイド」創刊。その5年目、講談社系の新規メディアのなかで、もっとも期待度の高い、勢いのあるクルマ専門の月刊誌として認知されはじめていた。

 その証拠に、ピレリの総輸入代理元の「阿部商会」が、ピレリタイヤの日本市場進出10周年を記念して「日本のモータージャーナリストと相互の理解を深め合おう」と企画した「ヨーロッパのクルマ関係一流品に触れる旅」に、名指しで参加を請われるまでに成長していた。11年ぶりのヨーロッパ。心は昂ぶった。この試みは、その後のこの国のカーマガジンの発展に多大な影響をもたらして行く。

 スケジュールの内容が凄かった。スウェーデンの「サーブ社訪問」にはじまり、イタリー・ミラノの「ピレリ社」、西ドイツ(まだ統一前であった)・シュツットガルトの「ポルシェ社」の見学はもとより、首脳幹部との直撃インタビューまで用意されていた。そのうえ、ホッケンハイム・サーキットでスポーツ走行もできる。そこまでがピレリ社の用意したメインメニューで、阿部商会から出されたデザートメニューには、ショックアブソーバーの名門「ビルシュタイン社」見学と、ニュルブルクリンク1000キロ世界耐久選手権シリーズ観戦がある。心憎いばかりの演出――。というところで、この旅の記録は、「アウトバーン体験」「サーキット走行」の用意されている、中盤の「ポルシェ社」訪問からはじめたい。

 シュツットガルト。舌をかみそうな、いかにもドイツらしい都市名をもつ人口60万人のこの街には、ポルシェ社のほか、ダイムラー・ベンツ、ボッシュなど世界的に有名な企業がある。ドイツ南西部の州都の一つだという。
       ☆     ☆     ☆     ☆
 ぼくらを乗せた「ヨーロッパ特急」が終着駅シュツットガルトに滑りこんだのは、1982年5月23日の午後3時。濃い緑が古い建物をすっぽり包み、それが雨に濡れておだやかな歴史を経た街のたたずまいを強調していた。当初の予定ではミラノから空の旅でシュツットガルト入りするはずが、ミラノ空港管制官のストライキで、願ってもない列車の旅となった。

 コモ湖を過ぎるとアルプスの山峡を縫ってハイウェイが右に左にチョッカイを出してくる。雪を頂いた険しい山肌。氷河。あれが有名なアイガーだろう。3人ずつが向かい合うコンパートメント(個室)からの眺めは抜群だ。

 チューリッヒを経由して6時間の旅が終わり、ポルシェ社が用意してくれたアメリカ式のホテル「ホリデーイン」にチェックイン。旅愁をたのしむのも、そこまでだった。というのも、「ホリデーイン」はシュツットガルト市街を抜けアウトバーンに入るとすぐのミュンヒンゲンICで降りる、畠のド真ん中にあったからだ。まわりにカフェテラス一つありゃしない。えらいところに閉じ込められたぞ。それはまるで、「あなたがたは観光にきたのではない。ポルシェの真髄を識っていただくために招いたのだ」という、ポルシェの折り目正しい意志を、ぼくらにデモンストレーションしているようだった。


*バイザッハ研究所前で記念撮影。カメラはここまで。
*ご覧の超ウエット状態での聖地テストラン 右は山本浩道さん(山海堂)



 その予感は正しかった。ポルシェの広報マン、ウォルター・ヘーンシャイト氏は次から次へと豪華で綿密なスケジュールを用意してくれていた。  

 5月24日、午前8時45分。「グーテン・モルゲン」(おはよう)とかるくウインクしながらヘーンシャイト氏が約束の時間きっかりに、ホテルに迎えにきた。あいにくの空模様だが、バイザッハ開発研究所に着くころには太陽が歓迎してくれるはずだ、という。

 ぼくらを乗せたバスは、アウトバーンには出ないで、林檎の白い花に縁どられた田園の間を坦々と抜けていく。古い町並みを一つパスして、丘をのぼりつめると、赤、黄、緑の積み木を三方向からくっつけたような建物にぶつかる。それがポルシェ社の「頭脳」バイザッハ・ディベロップメント・センター。もちろんカメラの持ち込みは禁止である。建物のまわりには高価なポルシェが無雑作に駐めてある。
 
 さてこれからが、いわゆるポルシェ漬けの連続だった。
 クラッシュ・テストは時速120㎞/hからドーンとやる。どうだ、この衝撃吸収ぶりは? 市街地と同じ状態のギヤボックステスト。圧巻はタイヤ・テスト装置である。巨大なドラムの下端に納められたピレリP7が7度のスリップアングルを与えられ、悲鳴をあげている。これでサイド・フォースを試しているわけだが、ニューカーの開発には、かならずタイヤからショックアブソーバーにいたるまでが、徹底的にチェックされるという。それは関連メーカーとの共同開発というかたちをとるわけだが、たとえば930ターボの場合にはP7がもっとも性能を引き出すものとして標準装着を指定される。

 短時間の見学では、ものものしいポルシェの開発ポリシーを押しつけられた感じだったが、それもやがて氷解する。1周2・5kmのプルービング・テストコースが隣接されており、深紅のポルシェたちが、ぼくらを待っていたからだ。944、924ターボ、911ターボの3台が用意されていた。と、何の因果か、ドライブする直前になって、雨足が激しくなった。したがって、残念ながら助手席での周回となった。

「このコースの路面は目的をもって荒らされている。だから街乗りの7倍くらい厳しい条件を備えているんだ」        
 ドライバーのクレマー青年が解説してくれた。2周で944から降ろされた。つづいて、ほかの2台にも同乗してみたが、この雨では比較もなにもありはしない。

■手作り工場 見学の一部始終
 ポルシェの本社工場、ツッフェンハウゼンまで、ヘーンシャイト氏が彼の所有する924ターボで送ってくれた。彼のようなポストにつくと、年に2台、ポルシェのどの車種であろうと20%引きで割り当てられるという。で、意地悪く聞いてみた。

「944に乗り換えるかい?」
「もちろん。944は2・5リッターエンジンで大きなトルクとパワーをもつ高性能車だが、異例の低燃費を示す。それにドイツ国内の値段で924ターボより約3,000マルク(註・944は3万8900マルク、約420万円)。928は6万マルク。お買い得車だ。しかしポルシェファンがたくさん待っている。ぼくの順番がくるのはずっと先だろうし、この924ターボも気に入っている」
 
みごとな返答をしながら、林檎畑をシュアなテクニックで走り抜けていく。


*ツッフェンハウゼンのポルシェ本社工場

*アッセンブリラインから送り出された911は敷地内のウエット路面で最終チェックを受ける

 午後はアッセンブリ・ラインの見学。928と911が丁寧に、宝石でも磨くような神経の使われ方でくみたてられる。それと944のエンジンも。すこし乱暴にいえば、924シリーズはVWのコンポーネンツを利用したポルシェ製のスポーツカーにすぎない。そこで素姓のいい928のオールアルミV8をタテ切りにして 100%ポルシェ製を実現した。で、このツッフェンハウゼン工場で944エンジンだけを組み立てているのもうなずける。

 ここにはコンピュータはいっさいない。すべてが手作りである。ボディラインの叩きだし、3工程もの塗装。だれが組み上げたすぐにわかる工員ナンバーの刻印。ラインから吐き出されたポルシェはオイルを取り替えてもらうと、あっという間に梯子風の板を渡り、実走する。トラクションをかけ、サスのなじみやよじれをテストする。180カ所におよぶチェックポイントをパスすれば、市街地30kmテストランしたのち、待ち侘びるオーナーの手に渡される。

 なんという完璧主義。それでいながら、ここで働く工員たちの伸びやかな勤務ぶり。バーナーでタバコに火をつける肥っちょ。トンカチをふるうのに口笛でリズムをとるものもいる。トヨタや日産の最新鋭機をズラリ揃えたライン風景にくらべれば、ここは町工場の延長でしかない。が、間違いなく、彼らは一人一人が「ポルシェ作り」の芸術家たちであった。とはいってもそれは30年前の記憶。いまもなお伝承されているかどうか、確かめてみる必要がありそうだ。


 その夜のホテルでの晩餐は盛会だった。創立者フェルディナンド・ポルシェの甥であり、初代秘書室長でもあったE・J・ケース氏が高齢にもかかわらずぼくらをもてなしてくれた。枯れたジョーク、シリアスな目、ポルシェへの愛情は、創立者のユニークなエピソードをふんだんに披露しながら、ポルシェというスポーツカーの原像を語ってくれた。




*インフィールドのショートカット・コースを使っての試乗会。先頭がぼく

 さて、お目当てのホッケンハイムサーキットである。幸い、翌日は晴れ。シュツットガルトからアウトバーンで一時間たらず、フランクフルトへむかう途中の、ハイデルベルヒという町の近くの森の中にサーキットはあった。1周6・79㎞の高速コースで、人工的なシケインでスピードダウンを図らねばならない。

 944が3台と、911SCタルガ、928、924ターボの各1台がぼくらの試乗車だった。ポルシェのワークス・ドライバー、J・バルト氏がコースの説明と模範走行をしたあとでいよいよぼくらの出番!
 しかし残念ながら、当日はベンツのテストグループが外周を専有使用しているため、名物の長い直線路が使えない。

 スタンド前から右へ大きく回ったところで、森の手前にあるショートカット・コースに入る。二つのS字から、最終ストレートに合流し、すぐにヘアピンを隠しもったシケインへ逃げ、再び正面スタンド前に戻るという変則コースであった。これではタイム・アタックもできないが、ぼくらの腕からいって妥当な処置だったかもしれない。

 初めにぼくに割り当てられたのはベージュメタリックの928だった。もちろんAT。ピレリP6、215/60VR15のタイヤを装着している。Dレンジにセットしたまま、ゆっくりとパドックを出る。4・5リッターの巨大なエンジンが吠えたがるのを極度に抑えながら路面の感じを確かめる。

 つぎは911SCタルガ。黒のソフトトップを装着したままだと、ボディの白が際立って鮮やかだ。直角に立っているペダルの位置を気にしながら、クラッチ・ミート。うまくいった。アクセルを踏みこむ。鋭い加速。S字ではやくもテールが流れるのだ。タイヤはもちろんP7。ステアリングも快適にCPを狙ってくれる。
 やっと944にありついた。シルバーメタのボディは、まさにGTカレラのそれだった。ポリウレタン製のノーズと巨大なスポイラーは、精悍な走りを保証しているみたいだ。
 
ドライバーズ・シートにおさまり、計器類をチェック。小振りな3本スポークのステアリングを軽く右、左に切ってみる。針の色は黄色で統一されていた。で、タコメーターは2時の位置からはじまり、4000回転で真下にくる。911を操作した直後なので、クラッチがひどく軽く感じられた。

 ここで改めて1速に入れ、スタートした。いっきに5000回転までひっぱったところで2速へ。静かだ。しかし、3300回転を超えたあたりからたくましく加速すると同時にターボ音に近いフィーンというサウンドが加わった。あれっ、ターボ車かい? 「あれっ!?」はさらに続く。S字から最終ストレートに入り。右のシケインへ抜ける大事なあたりで6300回転にメーターが届くとゴクンとドロップするではないか。あわてて3速へシフトアップ。あとで知ったことだが、そこに944の新しさがあるという。レブリミットで点火のカットと燃料カットが同時にはたらくシステムだった。これで燃費効率を高め、省燃費時代に対応するポルシェの高度な技術を世に問うわけだが、当時のわが国のマキシマム・スピードで襲ってくる燃料カットとは、ずいぶんと異なるシステムであった。

 944でさらに1周。慣れてくると、安定した走りっぷりはやはりポルシェそのものだった。背後からエンジンノイズが襲ってくる911もいいが、前に出ようとするドライバーのこころをさらにくすぐってくれるバランスのいい944のレスポンスにぼくは酔った。先行する深紅の928をヘアピンのアウト側から、かるくパスしてやった。

 さてこの944に日本仕様は排ガス規制をパスするためには、どれほどの牙を抜かれるのだろうか。ちなみにポルシェ自身の性能公表値は使用燃料がオクタン以上で、163㎞/5800rpm、20・9㎞m/3000rp、最高速度、220㎞/h、0~100㎞/h、8・4秒だという。
 ホッケンハイム走行会を終わって、つぎの〈アウトバーン体験〉は、911SCカブリオレをぜひ選びたいな、なぜかぼくはそう思った。
 
 なお、83年から製造・販売された944はベストハンドリングカーとして、ひところ一世を風靡したあと、92年春に販売が中止され、後継モデルとして968が登場する。
Posted at 2011/12/24 23:15:10 | コメント(3) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2011年12月23日 イイね!

愛が扉をたたく ~「独占スクープ」のご褒美で再びヨーロッパへ~

愛が扉をたたく ~「独占スクープ」のご褒美で再びヨーロッパへ~   前回にお約束したように、ただただ、クルマ好きというだけの一雑誌編集者が、1970年に、なぜ身分保相応な「気ままなドライブひとり旅」ができたのか、その辺の説明からはじめよう。

 赤いフィアットで「太陽の道」を疾ったときのぼくは、青春後期の34歳。女性週刊誌花盛りの時代で、光文社の「女性自身」、小学館の「女性セブン」、講談社の「ヤングレディ」の3誌が週に70万部前後の発行部数で鎬を削っていた。(失礼ながら最老舗の「週刊女性」はランク下だった)その中の一つ、芸能種に強いところから「ギャングレディ」と、タレントに怖れられていた「ヤングレディ」の副編集長をやらされていた。

 その当時の講談社という出版社は、若い社員をどんどん海外に送り出していた。4代目の野間省一社長が健在のころで、これからの出版文化に携わる者は、国際的な視野をもたなければならない――この考えをもとに、いろんな施策を打ち出した時期で、1ヶ月間の短期海外留学制度も発表されたばかりだった。どこでもいい、好きなところへいってこい! それを君達がどうやって将来の講談社に花開かせてくれるか、楽しみにしているからね。そうおっしゃった野間社長の温かい声が、今も耳元に残っている。

 前の年(1969年)、最初に選抜された同世代の社員がそれぞれの国へ向かって旅立って行った。業績のいい、太い幹の部署がまず優先された。先を越された、と思った。それでも二年目に指名を受けたのは、女性週刊誌という部署を考えると、幸運そのものだった。ヨーロッパへいこう! 無条件に決めた。前年の経験者、川鍋孝文君(「日刊ゲンダイ」の創始者)に一応は相談したが、例えばパリに行って何を勉強してくるのか、具体的な煮詰めもしないで、ともかく文化先進国であるヨーロッパの出版社を歴訪してこよう、それも女性誌を中心に、と決めてしまった。今では、この国の夕刊紙を代表するメディアの社長(今は会長)として、確固たる世界を創りあげた川鍋君も、ロンドンで「サンデイ」という夕刊紙にとりつかれたのが、そもそもの始まりだった。

 そんなわけで、5月の21日にJAL機で羽田を発ち、パリを目指した(成田国際空港は1978年から)。パリからはミュンヘン、ハンブルグ、コペンハーゲン、ストックホルムの各都市にある出版社・雑誌社を訪ね、そこで5日間の休暇をとって北欧から空路、ローマへ飛び、さらにフィレンツェからレンタカーでニース入り。で、残りの1週間を再びパリで、という段取りだった。

 それにしても、異国でレンタカーを使うという発想は、当時としては、相当に無鉄砲であったらしい。帰国して「出張旅費精算」を提出したところ、さっそく経理部長と人事課長の呼び出しを受けた。
「もし、外国で事故でも起こしでもしたら、どういうことになるか、考えなかったのか」
「はい。なにしろ、各国の出版社を回って雑誌類を集めて来ました。それが20キロ以上に増えてしまって、重くって……」
 そんな言い訳が通るわけはなかった。厳重注意を受け、以降、海外出張で社員が運転するレンタカ―の使用は、講談社では全面禁止とあいなった。
 日を置かず、再び、人事課長から呼び出しを受けた。今度は、新しい辞令が待っていた。「ヤングレディ編集次長とする」と。ワンランクUPの昇進だった。


*デザインも絵も石坂浩二さん。1971年5月14日発行(講談社刊)


*石坂浩二が本名の「武藤兵吉」として、素直な慕情を絵筆に託した絵と詩である。

 翌年の5月、ぼくは再び、ヨーロッパに飛ぶことができた。ローマで、トレビの噴水にコインを投げ入れたご利益だったのだろうか。
 その年の3月、当時人気絶頂のタレント、石坂浩二さんから電話が入った。これからすぐに「稽古場」に来てもらえるか、と。ぼくの場合、芸能記事は専門ではない。しかし、劇団四季の代表・浅利慶太さんと懇意にしていることもあって、例えばひと頃、四季に在籍した石坂浩二さんが多彩な才能の持ち主であることに注目し、「ヤングレディ」誌上に『石坂浩二の部屋』というカラーページのコーナーを用意したのが評判をよんでいた。絵もいい。詩もいい。文章もいい。その評判連載を通じて、石坂さんと肝胆相照らすほどの仲に進展していた。彼がポルシェ914を手に入れたときにも、早速、ぼくを誘って日比谷公園を振り出しに皇居の周りをカッ飛んでくれたりもした。そういえば、彼と最初に会ったときは、フェアレディSR311に乗っていた。

 その日の石坂さんはひどく緊張していた。今夜、ある女性のお宅に「お嬢さんをください」と伺うのだけれど、同行してくれないか、と。
「どこまで?」
と、ぼくが問う。
「調布」
 と、いう答え。
「おめでとう。それはよかったね」
「はい。ありがとう。このことをもう記事にしていただいて結構です。わかっていながら書かなかった。ぼくらのことを大事にしてくれたお礼です」
 たしかに、ぼくには石坂さんが誰に心を注いでいるのか、見抜いていた。彼の描き上げる女人像が、連続ドラマで共演しているヒロインに、だんだん似てきたことから、今回は本物だぞ、と感じ取っていたのだ。


*ローマ南郊の遺跡の町、オスティア・アンティカに遊ぶ。


*紀元前4世紀ころに要塞都市として栄えていたが、廃墟となって埋もれていたのを、20世紀初頭に発掘された。

 1971年4月5日号の「ヤングレディ」の表紙に謳うタイトルは、印刷にかかるギリギリまでダミーのもので進行していた。ライバルの「女性セブン」が、石坂浩二がどこやらの女子大生と熱烈交際中、と踏みきっているのは、ある筋を通して分かっていた。
「独占スクープ、浅丘ルリ子と石坂浩二が電撃婚約!」
 これがぼくの用意したタイトルだった。もちろん、石坂さんに同行して浅丘家の門を潜ってからのレポートもそえて。
 発売と同時に、完売。世の中は大騒ぎとなった。同時発売の「女性セブン」の表紙のタイトルの一つには、墨のインクが被せてあった。こちらだっていつかはやられるだろうから、情無用の世界だ。
 いまでもワイド・ショーで活躍中の福岡翼さん(「セブン」の記者だった)あたりは、その時の屈辱を、多分記憶しているはずだ。

 5月14日、二人は東京赤坂・霊南坂教会で挙式、帝国ホテルで披露宴。ぼくも招かれた。15日、羽田からヨーロッパへ新婚旅行で飛び立った。同行したメディアが3つあった。まず「週刊明星」のカメラマン。浅丘ルリ子さんの妹さんのご主人である。そして二人の婚約報道で独走したご褒美で「ヤングレディ」のぼく。TV局はフジTV。
 コペンハーゲンのチボリ公園で遊んだ後はパリへ飛び、そこからローマへ。ぼくら「お邪魔虫」は、そこで消えて、ふたりはギリシャのエーゲ海へ……。


*ローマの中心部、ヴェネット通りでの「コーヒー・タイム」を愉しむふたり。



 さて表題を、なぜ「愛が扉をたたく」としたか。
 ドアが軽く、トントンとノックされる。「アントレ」(フランス語で、お入り)と石坂さんが応える。そんなムードで「石坂浩二の部屋」を構成して来たのを生かしたくて、ふたりの結婚を記念する1冊の本を用意した。その中にカラーグラビアを挿入したが、それを見てもらうと、あの頃の石坂さんの想いの深さは一発で読める。浅丘さんさえ受け止めてくれれば、「兵ちゃん」(石坂さんの愛称)は求婚するだろう、とぼくが確信した作品を本にして、お二人へのプレゼントとしたわけであった。ただ、残念なのは、近年、ふたりに破局が訪れたことだ。そんな二人の蜜月時代を、いまさら写真付きで紹介してどうなる、と考えないでもないが、それらの出来事を通して、いまのぼくの「それから」ができあがったのだから、失礼を顧みず、触れさせていただいた。

 その石坂さんは、たいへんなクルマ・フリークだった。「ベストカー・ガイド」が創刊されると、その記念イベントであった「愛車オークション」にも率先して参加、イエローの猛牛、ランボルギーニをもちこんでくれたり、ホィールデザイン賞の選考委員になってくれたり……。今回のブログのアイ・キャッチに使用したクラシックカーの写真は、ローマの街角で石坂君が目ざとく見つけて、あたかもぼくが乗っているような振付でシャッターをおしてくれたものだった。アルファロメオのエンブレムに似たものが見える。そして201の数字。どなたか、このクラシックカーが何者なのか、お分かりの方はいないだろうか。

(みんカラ友人「霧島」君のサポートでプジョー201と判明しました。となると、ローマの街角で、というのは記憶違いで、パリの街角に訂正しなければならない。そうだ、サンジェルマンでショッピング歩きのお供ををした時の出来事だった)

 さて、2度目のヨーロッパはそこまで。で、3度目のヨーロッパは1982年。つまり10年ものインターバルができてしまうが、その3度目のヨーロッパの旅は、ちょっと豪華なメニューが揃っている。なにしろ、ポルシェ911タルガでアウトバーンを堪能した上に、ポルシェ944でホッケンハイムのサーキット走行、最後はニュルブルクリンクでパトレーゼが優勝した第1回世界耐久選手権を観戦するのだから。乞う、ご期待、である。

Posted at 2011/12/23 03:52:27 | コメント(5) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
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何シテル?   08/06 09:17
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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