最近は国産が多かったので、ここらで外車を。
お国はドイツ、バイエリッシュ モトーレン ウェルケ(BMW)さんからです。
【BMW M1】
はい、BMWのM1行きます。
時は1970年代、BMWには悲願がありました。
あの人とは・・・・シュトゥットガルトのポルシェさんです。
1970年後半、BMWはレースシーンでポルシェに差をつけられて苦戦しており、特に販売に直結する市販ツーリングカーレース市場においてポルシェに勝てる車が必要となり、「BMWモータースポーツ」(つまりM社ですな)を新たに設立、市販車をベースに特殊なチューニングを施したMモデルを開発して、レースシーンにフィードバックしていくという形を取ることにしました。
そこで最初に開発されたのが
歴代BMWのMシリーズの初号機たるM1なのです。
スペックはこちら。
水冷直列6気筒DOHC24バルブ、排気量3453cc、最高出力277馬力です。
さて、BMWさん、M1のレイアウトはMR(ミッドシップ)の2シータークーペで行くよと決めたわけなんですが・・・考えてみたら自社でそんな車を造ったことねーし!と気づいたわけで、ウチはほとんどFRしか造ったことがねーわ!と。
さて困った、自社でやってたらいつ出来るかわからんし、第一MR車を量産するノウハウも設備もウチにはねーわと。しかし、レースでポルシェに勝つためにはこのレイアウトは曲げられない・・・。
そこで、BMWはある車の会社とコンタクトを取りました。
その会社とは?、イタリィのランボルギーニです。
ここなら確かに2シーターMRクーペ開発生産のノウハウはありまくりだし、手慣れているだろうと考えたのかと。
と、いうわけで共同で開発を進めたのですが・・・つまり日抜き独伊二国同盟ですな。
でも実はランボルギーニ社、この当時は経営難に瀕していたんです。1976年より共同開発という形でプロジェクトに着手したんですが、開発期間中でもランボルギーニの経営は悪化の一途をたどり、ランボルギーニに一任していたシャシー関連の開発が大幅に遅れたことからM1の計画は難航、ランボルギーニとの提携を解消せざるを得なくなってしまいました。
しまいには「じゃあ、ウチでランボルギーニさんを買い取りますか?」とBMW側は打診提案をしたのですが、ランボルギーニの下請け会社などの反発が激しくそのお話も無かったことに。
じゃあ・・・どうすんのよこれ!。
そこでドイツのバウア社でシャシーを製造して、イタリアのイタルデザイン社でボディの組み立てとペイントをして、最終的にドイツのBMWでサスペンションやブレーキ関連のパーツを組み上げるという、なんともまあ~独と伊を往復するという二度手間三度手間な、面倒くさ~い方法で生産する事が決定・・・というか、それしか方法が無かったわけなんですが。
実際にはイタリア国内で、更に細かく様々な会社で作業が分担されていたんですけどね、FRPの外装作成装着や、内装製作などもう書くのも面倒くさいレベルです。
そうこうしてようやく、1978年にM1はデビューしたのです。
BMWの車ですが、このウェッジシェイプ(クサビ型)なデザインがイタリア的・・・はい、デザインはイタルデザイン・ジウジアーロが手掛けています、結局生産にも関わることになったわけですが。
シャシー、いわゆる鋼管スペースフレームというヤツです。ランボルギーニやフェラーリがその市販車でよく使っていた手法ですね。底面はフラットに造られており、空力にも大きく貢献しております。このシャシーにFRP製の外装を載せるという手法、これにより車重は1300kg台とかなりの軽量です。
エンジンはスペックのとおり直6のDOHC24バルブNA、これをミッドに搭載、低重心化のために潤滑はドライサンプを採用、これによりオイルパンを薄くすることができ、エンジンの搭載位置を大幅に下げることに成功しています。
当初の予定では、V型12気筒の4.5リッターエンジンを搭載するはずでしたが、この70年代後半はあのオイルショックの時期でもあり、レース(グループ4参戦を予定)ホモロゲーション取得のため市販するとしても、大排気量車では敬遠されてしまうことを恐れ、635CSIから流用した3.5リッターの直6に決定しました。
足回りはレーシングカーさながらの前後に不等長ダブルウィッシュボーン式を採用しております。
内装、案外地味と評されがちですが、レザー張りの内装でイタリア的な華やかさには欠けますが、質実剛健な造りです。
さて、真の開発目的であるレースではどうだったのか?。
参戦目標であった当時のグループ4レースですが、そのホモロゲーション取得のためには「連続する24ヵ月の間に400台を生産した車両」という規定がありました。
ほとんどハンドメイドに近い車であり、しかも生産のためにはドイツ~イタリア間を往復しなければならない効率の悪い生産体制、本来は当初は週に2台と設定されていた生産ペースでしたが、実際には月に3台前後がやっとという有様、このままではレースに出ないまま終わってしまうことに。
そこで、BMWは一計を案じM1によるワンメイクレースのプロカー・レースを開催、1979年途中から1980年末にかけてフォーミュラ1のサポートレースとして、当時のトップクラスのF1パイロットがドライバーを務め、それなりの成功を収めました。
こちらがプロカー仕様のM1、ブリスターフェンダーを前後に装着しトレッドを拡大、エンジンもチューニングしてあります。
1980年末、どうにか規定の400台を達成・・・って3年が過ぎてしまいましたが、ワンメイクレースの効果とFIAによる救済処置もあり、M1はホモロゲーションを取得して、1981年からレースへの参戦が許されました。
同年のニュルブルクリンク1000kmレースでは優勝を果たすなど好成績を収めますが、1982年にはM1が属するグループ4レース自体が終了。新たにグループCが設立され、M1は参戦の場を失ってしまったのです。
ちなみにグループ4レース仕様は、NAのままで470馬力、ターボ化されたグループ5レース仕様は、3.2リッターに排気量を下げられていましたが850馬力を叩き出していました。
そもそもレース参戦、ホモロゲーション取得のための車でしたので、実質1981年ぐらいにはその生産を終了、その生産台数は453台、そのうちの54台はレーシングバージョンだったとか。
しかし、460~470台近くと資料により台数のばらつきがあり、諸説が多すぎなんです。
さて、中古市場・・・実質世界で市販されたのは約400台、あると思います?。
探したら日本では1台のみタマがありました、当然価格は応談(ASK)です。
当時の新車販売価格で約2650万円と高価な車でしたので、海外での相場は6000万~7000万円あたりが主流と言われています。走行距離が3000km行っていないM1は一時期1億の一歩手前までオークションでつり上がったことも。最近海外のクラシックカー市場は少し落ち着いたようですがね。
BMWで初のMの文字を冠した市販車、しかし、開発中からパートナーのトラブルに巻き込まれ、それが原因で発表後も非常に効率が悪い生産態勢を強いられ、月産目標を達成することすら困難極まりなく、レースホモロゲーション取得なんて夢のまた夢。
しかし自社でワンメイクレースを開催し人気を延命、その後どうにか連盟の救済措置でホモロゲーションを取得し、参戦後は活躍したんですが、その翌年にはカテゴリー改変の憂き目で結局その後の参戦が出来なくなってしまった悲運の独伊混血児、それがBMW M1です。
所有・・・・㍉、いや、無理だなw。仮にできたとしたら、一切の改造は御法度でしょう、そのコンディションの維持に心血をそそぐべき車かと。
というか、実物をまだ見たことがありません。まずは実物を見てみたい、そしてその直6NA3.5リッターの排気音を聞いてみたい、まずは観賞をするための車じゃないかなと思います。
そう、これは独伊が力を合わせて生み出した芸術作品なのです。