2011年03月23日
震災の記録2011.3.14の続き
15日の朝、電気が復旧した私の家はほぼ被災前の状態に戻った。電話があいかわらず通じないが、ネット(メール)が使えるようになったのである程度のコミュニケーションは可能になった。家族は全員早朝からスーパーに行列に行っている。私は勤務なので職場に向かった。
用事で仙台市街に車で出てきたら、ガソリンスタンドはほとんど「売り切れ」で閉店していた。営業しているスーパーの前には黒山の人だかりができている。役所の窓口をいくつか回ったがどこも機能マヒしている。職場に戻ると「当分の間営業再開できない」という判断が固まっていた。
ここで、私は家族と共に被災地の外へ避難することを決めた。向かう先は酒田市である。酒田市には物資があり、福島原発からの距離、方向(風向き)とも好ましい。明るいうちに家族にスプラッシュで出発してもらい、私は勤務が終わってからトゥインゴで追いかけた。
私が避難を決めたのは以下の理由による。
1、電話が不通なため、緊急時の連絡手段がない。物資不足が深刻になってきているため、犯罪被害に遭うリスクが高まっている。
2、スーパーの前の行列を取材に来ていたアメリカ人に取材時の注意事項を尋ねたら「取材時間はなるべく短く、終わったら北に向かってできるだけ離れたところに退避するように言われている」とのことだった。放射性物質が飛来している可能性があるのに、何時間も家族を屋外で行列させるわけにはいかない。
3、物資が欠乏して何時間も行列しなければいけないという状況は、病者や老人、幼児をかかえた女性等にとって過酷なものである。これらの人に寒い中朝5時から行列させるわけにはいかない。被災地周辺の物資は、被災地から移動できないなんらかの事情がある人のために優先的に配分されるべきである。動ける人は被災地を出て離れた場所に退避したほうが、動けない人の救援につながる。
Posted at 2011/03/23 21:03:05 | |
トラックバック(0) |
雑感 | 日記