
タイトル画像引用→https://www.flickr.com/photos/57664366@N08/7827116456/
昨日、街角でネイビーのランチャデルタを見かけた。ラリーでHFインテグラーレが活躍した、初代デルタだ。ドライバーは女性だった。正直、ポカーンと見惚れるしかなかった。時を経ても色褪せないイタルデザインの美しさと、その車をさりげなく普段使いしている「粋」な女性ドライバーに。
この「粋」っていう感覚、なかなか難しい。デザインに優れたイタリア車だから、というわけでもない。チンクチェントやミトに乗っている女性はよくいるけど、同じようには感じない。そこには多分、その女性ドライバーのキャラクターに関する「幻想」が存在しているのだ。
「粋」な車と女性というとまず思い出されるのは、独身時代に住んでいたオクラホマシティーで知り合ったジェニファーと、彼女のコーヴェットである。彼女の車は写真と異なりネイビーで、18歳の誕生日に父親からプレゼントされたものだった。透き通るようなブロンドのジェニファーとそのコーヴェットは、タバコ会社のCMみたいに絵になっていた。だが、それだけでは「粋」とは言えない。ただ、「絵になる」というだけだ。
彼女は愛すべき個性の持ち主だった。困っている人がいれば見て見ぬふりはできず、声を挙げ、行動した。朗らかで、人の話をよく聞き、感情表現が豊かで、不正には強い怒りを示した。それは、最近よく言われる「Great America」が示す姿そのものだ。そして、America が Great だった時代の象徴的マッスルカーであるコーヴェットは、彼女の個性にピッタリとマッチしていた。加えて、この車をプレゼントした父親の、娘に対する「想い」も垣間見ることができた。自動車を通じて、人間性の素晴らしさを「幻視」することができたのである。
「粋」という感覚に「幻想」が関与しているとすると、それは恋愛と同様である。そうだとすると、「粋」と感じるのは、恋愛感情同様各人の個性に応じて様々なので、人それぞれに異なるもの、といえるだろう。とはいえ、現在販売されている車に「粋」と感じるものが見つけられないのは何故だろう。私の感性が衰えて「幻想」することができなくなっただけかもしれないが…。
Posted at 2025/11/28 14:38:48 | |
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