2011年03月22日
震災の記録2011.3.13の続き
朝起きたら相変わらず停電している。私は職場に出勤してから電気と電話が復旧している天童市に移動して連絡や情報収集をする。妻は出勤したものの職場の被災状況が深刻で18日まで自宅待機ということになる。
夕方帰宅して妻から街の様子を聞くと、スーパーが開店したが入場待ちの人の列がスーパーの駐車場を埋め尽くしている、ガソリンスタンドの行列も1キロを超えている、行列の中で人が倒れたり喧嘩が起こったりでパニックの様相を呈しているとのこと。地震から3日経っても電気、電話が不通で情報が思うように入らないし、物資の輸送もストップしたままではパニックを起こすなというほうが無理である。妻も影響されて「明日は朝6時からスーパーで行列する」と言いだす。
この日夕方から電気が復旧した。さっそく自宅からネットで情報収集をする。ネットは繋がるが光電話が繋がらないという不思議な状態。福島原発の様子が気になるが、国内のメディアの情報は「よくわからないけど大丈夫!」というような話ばかりである。仕方が無いのでアメリカやイギリスの記事をネットで読んで自己責任で判断することにする。
震災から3日目、遠くに避難するか自宅に留まるかを判断する時期である。
以下は教訓
1、震災後のスーパーに大行列しても得るものは少ない。すぐに役に立つ乾電池はあっという間に売り切れた。保存食や水、カセットボンベは数量制限販売で、ごくわずかな量を手に入れるために3~4時間も寒い中で行列するなんて、体力・気力の消耗が大きすぎる。
2、この時期にカップめんを買い占めるのはナンセンス。カップ麺はカロリーの割にかさばり、水と燃料がなければ食べられないし、栄養バランスが悪く、食べ終わった後にゴミが出る。ゴミは後で大問題になってくる。
震災の記録2011.3.15に続く
Posted at 2011/03/22 22:50:58 | |
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2011年03月21日
震災の記録2011.3.12の続き
AM2:30頃酒田市に到着、47号線から7号線に入る。道中のガソリンスタンドはすべて閉まっていて、コンビニでは乾電池と弁当、パン類が売り切れている。7号線に入ってすぐのガソリンスタンドが営業していたので行ってみた。すると、レギュラーガソリンは1人3000円までに制限されている。そこで、ハイオクについてたずねるとハイオクは在庫があり無制限に販売できるとのこと。スプラッシュにレギュラー3000円分と携行缶にハイオク20リッターを給油することができた。
給油が終わったら酒田市のスーパー駐車場に移動してそこで仮眠。9時の開店にあわせて入り口で行列して果物類やロウソクを入手。10時には仙台を目指して出発した。47号線沿いのガソリンスタンドは閉まったままで、13号線沿いのガソリンスタンドには長蛇の列ができている。給油待ちの列を避けつつ48号線に入ると関山峠から先が大渋滞している。作並で道路が陥没して片側交互通行になっているためだ。
大渋滞を抜け自宅に帰ったのがPM2:30。電気、電話は相変わらず不通で、さらには携帯電話基地局や電話局の非常用電源が切れて携帯が圏外に、公衆電話も使えなくなってしまった。自宅近くのホームセンターが部分的に営業を開始していて家族が行列して飲料水を入手してきた。地域の避難所を見に行ったが避難している人はいないようだ。
電話が使えないので状況がわからないが、月曜日には通常通り職場に向かおうと妻と打ち合わせた。
以下は教訓
1、非常用食料で過ごすのは3日が限界である。缶詰やレトルト食品、おにぎり、パンなどを1日3食食べ続けていると、栄養の偏りで体の抵抗力がみるみる低下してくる。口内炎ができたり、歯茎が腫れたり、風邪をひいて扁桃腺が腫れたりする。3日を超えて非常食が続くようであれば、ビタミン剤の投与等の対策が必要である。
2、たとえ自宅が無事で食料と水が豊富にあったとしても、被災地にとどまり続けることはリスクが大きい。たとえば、電気が復旧したときに壊れた家電製品から出火することがよくあるが、通信がすべてダウンしていては消防に通報することもできない。また、抵抗力が下がった人が高熱を出して病院に搬送しなければならなくなっても救急車を呼べないし、そもそも病院はほとんど閉まっていて、開いている病院は救急患者で溢れている。
3、したがって、ライフラインの途絶状態が3日を超えるようであれば、避難できる人は避難したほうがよい。避難する際にはガスの元栓(メーターのところ)を締め、電気のメインブレーカーを落しておく。
震災の記録2011.3.14に続く
Posted at 2011/03/21 20:47:06 | |
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2011年03月20日
震災の記録2011.3.11の続き
12日は出勤日だったので、いつもどおりの時間に起床した。夜中にひっきりなしに余震があったので眠ったのは4時ごろで、結局2時間ほどしか眠れなかった。停電しているが日が昇れば室内は明るく、普通に朝食をとることができた。
トゥインゴで職場に向かいながら街の様子を見てみる。停電のためほとんどの商店がシャッターを下ろしている。一部のコンビニエンスストアは電力なしで営業していて、店の前に人だかりができている。ガソリンスタンドはポンプが動かないので全て休業している。道沿いの民家や商店の外壁やブロック塀が崩れて歩道に散乱している。揺れによって倒壊した建物はみつからず、損害は軽微に見える。
職場に着いても電気と電話が止まっているので仕事にならない。職場は山間地にあり市街地まで30キロほど離れている。電話が使えないと通信・連絡方法は車で走るしかない。停電によりガソリンが補給できないことが問題となる。この時点で山形県酒田市は停電がなくガソリン補給が可能という情報があった。
夕方に勤務が終わって帰宅した。その日のうちにラジオを通して得た情報を分析して、停電、通信途絶、燃料不足、食糧不足が長期化することを予想した。避難するにせよ、自宅にとどまるにせよ、物資が不足している。そこで、停電がなかった酒田市に物資を補給しに行くことにした。夜11時頃に出発して国道48号線を山形に向かう。関山峠を越えて山形県に入ると信号が作動しており電気が復旧していた。天童市まで行ってコンビニに入りEMOBILEでネットに接続、情報収集をする。PHSもつながり家族に電話することができた。
13号線から47号線でそのまま酒田を目指す。
以下は日記ではないが、震災対策の基本的な考え方について記す
1、震災発生から3日間にすること
自分の身の安全を確保すること。自分の周辺にいる人の救護。病者、障がい者、幼年者等の保護。避難誘導・消火活動。
非常用食料や水の確保は3日分を目処にする。3日分なら避難するときに持ち運ぶことができるし、補充や交換の際に無駄にすることが少なくてすむ。
2、震災発生から3日後以降
状況にもよるが、被害のない場所に避難できる者は避難したほうがよい。今回のような大規模災害だと、広い範囲にわたって物資の不足と衛生状態の悪化が生じる。このような状況下で被災者の支援活動を有効に行えるのは装備が十分な組織(自衛隊や消防・一部企業)に限られる。一般の人が被災地に詰め掛けると物資の不足と衛生状態の悪化に拍車をかけてしまう。それに、余震や火災、交通事故等により支援しようとした人が支援を要する状態になってしまうこともある。
震災の記録2011.3.13に続く
Posted at 2011/03/20 22:46:26 | |
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2011年03月19日
東北太平洋沖地震から1週間経ち、そろそろ被災地への物流が確保されはじめた。被災地に向け救援物資を送りたいと考えている人も多いだろう。ここで、ちょっと聞いてほしいことがある。被災地にはタバコやお酒を送らないでほしいということだ。
被災地にタバコやお酒を送ってやりたいという想いはよくわかる。津波をかぶってタバコがなくなって、喫煙者はさぞかしイライラしているだろう。ニコチンには沈静作用があるから、昂ぶった神経を鎮められればストレスも和らぐ。また、寒い中で眠れぬ夜をすごしている人に熱燗でも提供すればさぞかしほっとできるだろう。飲めば被災のショックを少しでも忘れることができるかもしれない。
しかし、被災地では狭い避難エリアに多数の人がひしめいている。タバコの煙は周囲にいる妊婦や子供、呼吸器系の疾患を持っている人にも容赦なく降りかかる。それに、タバコの火の不始末による失火の危険が大きくなる。被災地では禁煙が求められている。また、酒は酔った人による事件や事故の危険を増やす。さらに困ったことに、災害のような大きなストレス状況で睡眠薬がわりに酒を飲んでいるとあっという間にアルコール依存症に陥る。阪神淡路大震災では多数のアルコール依存症死が見られたということだ。
今この段階では、タバコとお酒は送らないでほしい。もっと落ち着いて、普通の暮らしを取戻してからのことである。
Posted at 2011/03/19 20:28:08 | |
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2011年03月19日
通信網や電力が回復してきたので、震災の記録をブログに残しておこうと思う。
3月11日金曜日。いつもどおりの勤務で朝トゥインゴで自宅を出発した。午前中デスクワークをして昼食をとり、午後から仙台市街に出かけた。仙台市太白区で用事を済ませ、作並の事業所に戻ろうとしていた。車は最終型のマークIIで、上司が運転して私は後席に同乗していた。車は国道48号線のニッカウィスキー仙台工場の脇にさしかかっていた。
午後2時45分、突然、車のテールがグニャグニャと暴れだした。ドライバーが「何だこれ?」と驚いた声を上げた。車のタイヤが全部同時にパンクしたかのようなめちゃくちゃな揺れ方で、私は「パンク?いや・・・地震ですよ、これ」と答えた。ドライバーはハザードランプを点けて車を停止させた。路肩の電信柱がキーキーと軋みながら激しく撓っている。かなり激しい揺れだが、まだ経験したことがある範囲(阪神淡路大震災)だ。20秒くらい揺れが続き、それがだんだん収まってきて「あ~、今ので家の水槽の水がこぼれたかもしれないな」と思った、そのときだった。
「ゴォーッ」というような大きな地鳴りが聞こえ、道端の商店のトタン屋根が「ダダダダダ・・・」と鳴りだした。その後の揺れはおよそ「地震」と呼べるようなものではなく、遊園地の絶叫マシーンで振り回されているようだ。右に左に目が回りそうなほど揺すられながら、私はニッカウィスキーの高い煙突を見ていた。地震の揺れで倒壊するのではと思ったからだ。揺れはなかなか収まらない。こんなに振幅が大きく時間も長いエネルギーの大きな地震は経験したことがない。煙突は倒壊しなかったが、それまで立ち上っていた蒸留装置の黒煙が消え工場が停止したことがうかがえた。揺れはまだ完全に収まっていなかったが近くの事業所のことが気になったので車を発進させた。ニッカ工場入口の信号機が消え、その先の道路情報の掲示板も消えていたので地域が停電したことがわかった。
事業所に戻ると電気が消え、事務所の机の引き出しやキャビネットの中身が飛び出して床に散乱していた。ディーゼル発電機のおかげで非常灯が点いているが薄暗い。防災機器の警報がけたたましく鳴り響いているが、職員は冷静に行動していた。構内にいる人を全員避難させ余震に備えている。とりあえずの安全確保を済ませ、夕方には職場から自宅に戻った。国道48号線の信号はすべて消えていたが大きな混乱はなく交差点では譲り合って整然と流れていた。
自宅に戻ると停電しており電話も不通である。水道とLPGは出る。手回し充電式のラジオを家族全員で囲んで情報を入手しようとするが被害状況がよくわからない。携帯の着信履歴を見ると地震直後に関西の家族から電話があったようなのだが、今はもう携帯もつながらない。通話だけでなくメールも使えないようだ。家族は安否を心配しているだろう。何とか無事を知らせる方法がないかと考えた。そういえば、家族の一人は「みんカラ」の記事を読んでいる。車の中にノートパソコンを持ち込みEMOBILEでネットに接続を試みると何度かはじかれた末に接続に成功、無事を知らせる記事をアップすることができた。
我が家では寝室に家具を置かないようにして震災対応仕様にしてある。他の部屋は物が散乱していたが寝室は何もなかったのでいつもどおり布団を敷いて就寝した。
震災の記録2011.3.12に続く
Posted at 2011/03/19 01:03:52 | |
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