
久しぶりに仙台の街を走っていて、仙台市営バスが白いナンバープレートをつけているのに驚いた。おまけにナンバープレートにペンキをかけられたようなシミがついていて、悪戯までされたようだ。「いつから仙台はニューヨークのハーレムみたいになったんだ?地下鉄もきっと落書きだらけに違いない」などと思っていたら、どのバスもみな同じような白地にシミをつけたナンバーを付けていることに気づいた。そして市役所に行って初めてわかった。これは仙台の「ご当地ナンバープレート」というものらしい。
デザインセンスがどうとか、発想の良し悪しがどうと言うつもりはないが、ただ一言、「何が描いてあるのかわからない」のである。背景が濃すぎると文字が読みにくくなるから、というのは分かるのだが、車に取り付けて走っているときに何が何だかわからないのでは、デザインした意味がないのではなかろうか。せっかく金をかけてオリジナルデザインのナンバープレートを作ったのに、仙台だけではなくそのほとんどが「何が描いてあるのか分からない」のである。
ここで思い出すのはアメリカの各州のナンバープレートだ。私の住んでいたオクラホマ州にはいくつかのデザインのプレートがあるが、一番多かったのは、
このようなデザインである。オクラホマ州はネイティブアメリカン(インディアン)が移住させられた地域で、ネイティブアメリカンの部族のシンボルをハイフンの代わりに配して、下に「NATIVE AMERICA」と記してある。他の州でも似たようなもので、テキサス州は州の形をそのままプレートのデザインに使ったようなものだったし、アーカンソー州は森の形のデザインだったと記憶している。「ご当地ナンバー」の図柄が文字のデザインと一体化していて、日本のようにうっすらとした背景になってはいない。どうして日本でもこのようにできなかったのだろうか。ナンバープレートとして使われたときに図柄が見えないというのでは、オリジナルの図柄の意味がないと思うのだ。
本当はもっと抜本的に、ナンバープレートのデザインそのものを見直したほうがよかったのではないか。例えば数字だけじゃなくてアルファベットも使うとか。そうすれば数字の前の仮名部分は不要になるはずである。オクラホマ州に住んでいたときに近所の一卵性双生児の兄弟が「2-NICE」というプレートの車に乗っていたのを思い出す。そんな言葉遊びも可能になるはずだ。また、ベトナムのナンバープレートでは、省の名前をベトナム語で記すのではなく、二桁の数字で表現している。日本も同じように、県名や都市名を記号化して、アルファベットや数字で表すこともできる。今のままでは、漢字とひらがなが読めない人は、ナンバープレートを記憶することができない。大量の移民を迎え入れようとしている今の時代にはそぐわないのではないだろうか。
なんとなく「無駄なところに労力を使っている」ように感じてしまった。
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Posted at
2019/02/22 22:02:12