
人が何らかの選択を行うとき、十分に検討して納得ずくで行ったとしても、選択しなかった方の対象の長所を得られなくなるという点で、必ず不満が生じる。たとえば、大きな自動車を選ぶと小回り性を得られないことになり、小さな自動車を選ぶと大きな室内空間を得られなくなるという具合に、選択の結果として手放さなければならない要素が出てくる。このような不満が生じると人は不快な感情を覚える。そして、不快な感情を解消しようと自分で自分を正当化しようとする。
正当化には外的正当化と内的正当化がある。外的正当化とは、たとえば、「この車はうんと安かったんだから、不満があってもしょうがない」というような正当化で、その車の個性に対する認知とは別の要因を持ってきて不満をなだめようとするものだ。他方、内的正当化とは、たとえば、「この車は確かに室内が狭いが、これは衝突安全性を重視した設計のせいであって、むしろ他車に対する優位点と見るべきだ」というような正当化で、その車の個性に対する認知そのものを変えてしまおうとするものだ。外的正当化は「諦め」に近いものがあるが、内的正当化はネガティブな評価をポジティブな評価に認知そのものを変えるので、その自動車に対する愛着や満足度を増す効果が生じる。そして、人は外的正当化をまず試み、それが不可能な場合に内的正当化をしようとするという特性がある。認知を変えるのはそれなりにエネルギーを要するので、まず簡単なほうからやってみるということだ。
このように、外的正当化が容易でないと内的正当化を試みるという人の心理からすると、低価格の車は外的正当化が容易(安物だからしょうがない)なため、内的正当化が行われない可能性が高い。そうすると、低価格な車には愛着がわかず、満足も得られないということになる。高価格な車だとどんなに間抜けな(?)欠点があったとしても、「安物だから」と正当化することができない。それが納期が1年くらいかかるとか限定300台だとか、特別な個性を備えるものであればあるほど、敢えてそれを選んだ自分を外的正当化で納得させることはますます難しくなる。やむを得ず、人は内的正当化を行う。単なる技術的欠陥にしか見えないような事でも「味わい」とか「伝統」などと肯定的評価を与えるのである。
同じことは、エコカーについても言える。エコカーに不満があってもすべて「環境のためだから」という外的正当化がすみやかに行われる。だから、内的正当化は行われにくい。エコカーは大抵無味乾燥で運転することが苦痛に感じられるのは、内的正当化の動機付けがゼロになるからではないか。
現在行われている燃費競争と価格競争は、共にユーザーの満足度をどんどん希薄化させているように思われる。
運転日報(トゥインゴ)
天候:曇り 一時 雨
積算走行距離:1899キロ
走行条件:郊外一般道
乗員:1~2名

Posted at 2010/08/05 00:52:23 | |
トラックバック(0) |
クルマ談義 | クルマ