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徳小寺 無恒のブログ一覧

2016年04月30日 イイね!

子馬 三菱自動車ってなんなんだろう。国民車構想からコルトへ。

子馬 三菱自動車ってなんなんだろう。国民車構想からコルトへ。 シルバーヴィジョンといったスクーターや「みずしま」を代表とするオート三輪で、高い評価を受けていた三菱であったが、戦後四輪への復帰は意外に遅かった。

 しかし、財閥解体によって発足した、「中日本重工業」には戦前から航空機の生産をしていた事もあり、大型のプレス機を持っており、戦後クルマを造ろうにもプレス機が無く、またプレスのノウハウを持っていなかった日産、トヨタのプレスの下請けを行っていた。

 代表的なものとしてはDATSUN110やトヨペットスーパーなどの外板のプレスから架装まで行っていた。自動車会社の外注は、1948年昭和23年から、なんと1955年昭和30年まで続き、それによって、三菱は乗用車づくりのノウハウを蓄えていたのだった。


プレス機なんてモデルチェンジを頻繁にするクルマでは持てないとクルマメーカーはプレスを外注していた。

 そんな中、当時の通産省からクルマの普及を狙って「国民車構想」が発表され、多くのカーメーカーが即発され三菱も「国民車構造」に則った四輪車を開発した。

安悪 日本製は安かろう悪かろう。
https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/34459132/


 1960年昭和35年に、国民車構造に応える形で 「三菱500」 をリリースした。

 直列2気筒OHV空冷エンヂンは、排気量493cc最高出力1PS/5000rpm、最大トルク3.4kgm/3800rpmを発揮し、さらに悪路にも強いようにと、四輪独立懸架も採用されていた。


コロンとしたデザインに装備は簡素に、クルマとしての走る止まる曲がるのメカニズムは手抜かりなくだったのだが・・・

価格は39万円だったが、当時の大学での初任給が 「13,000円」、銀座の一等地の坪単価でも「350~360万円」の時代だ、ローンなんて無かった時代なので如何にクルマが高価だったか。

 質実剛健で加飾もない「三菱500」だったが、驚くべきは発売の二年後、1962年には海外遠征をしてマカオGPに出走。三菱のモータスポーツの芽はこの頃から芽生えていたのだ

 必要最小限の装備に、メカニズムでは一歩も妥協を許さなかった「三菱500」だが、高価で憧れのクルマにしては華が無さ過ぎると言う事で、爆発的な人気とまでは行かず、1962年昭和37年には外観と装備を見直した「コルト600」が発売された。


エッヂを効かせたエクステリアデザインに変更して、装備も充実させた「コルト600」

 「コルト」とは「子馬」の意味で、ギャランのご先祖様である。
 単純に排気量が上がっただけでなく、野暮ったいと言われたデザインも見直し、エッヂを効かせたデザインとなり軽自動車が幅を利かせていた当時の市場に打って出た。
 
 3年間の間に約10,000台が世に出て、新生三菱の足掛かりとなったモデルであった。

 一方、すでに国民の足として普及していた軽自動車についても、1958年昭和33年に発売されたスバル360の爆発的なヒットで一気に普及していた。

一本 ワイパーのスバル360初期型を知ってますか?
https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/1383084/


それに対抗する三菱の軽自動車は、1961年昭和36年に水島製作所で造られた「三菱360」をリリースした。

 1961年発売の三菱360は、それまで隆盛を極めていた三輪トラック「みずしま」の後を見据えたモデルで軽自動車ヴァンであった。本格的な乗用軽自動車は、三菱360のコンポーネンツを利用して翌1962年乗用昭和37年10月発売の「ミニカ」であった。


ライヴァルたちがRRを採用する中、あえてFRを採用して居住性の不利をデザインでカヴァーしていた。

 この頃の軽自動車の主流であった、RRではなく「FR」で登場したが、そのメカニズムによる居住性の不利を改善するためにリヤのルーフを最大限伸ばしリヤスクリーンをスパット切り落としたスタイルを採用していた。

 徐々にクルマが普及してゆき、さらに商品力の向上が望まれ、新時代のクルマの開発が急がれるようになった。
Posted at 2016/04/30 10:11:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ | クルマ
2016年04月29日 イイね!

三輪 三菱自動車ってなんなんだろう。財閥解体からオート三輪の時代。

三輪 三菱自動車ってなんなんだろう。財閥解体からオート三輪の時代。 1945年日本に進駐した連合軍の総司令部GHQによって、日本が戦争を遂行する上で、経済的な重要な基盤となった財閥を解体すると発表した。

これによって、戦前から日本経済の主流であった「三井」、「三菱」、「住友」、「安田」の四大財閥は解体された。

 三菱重工業は1950年に、「東日本重工業」・「中日本重工業」・「 西日本重工業」の三社に分割されてしまった。

 分割されたものの、「中日本重工業」・「 西日本重工業」はクルマへの情熱は冷めず、終戦の翌年である1946年に三菱重工で、平和産業の象徴としてスクータが開発され、財閥解体によって生産は「中日本重工業」が引き継ぎ、富士産業の「ラビット」と共に人気を二分し、1964年に生産を終えるまで高い人気を誇った。


画像は最終型ともいえる「シルバーヴィジョンC-240」。あのデボネアのデザイナーでも知られる H・ブレッツナー 氏によってデザインされた幻の名車だ。

 一方、乗用車の開発は戦後の混乱もあり、まずは需要の多かった貨物車、当時人気だったオート三輪が開発され、生産されている工場の地名から「みずしま」というネーミングで発売され、


みずしま「TM6型」。744ccエンジン・750kg積みで価格は当時30万円であったという。

1959年には、三輪車の集大成ともいえる「レオ」が発売された。


ジャングル大帝のパンジャの子「レオ」からネーミングされた。スタイリッシュなデザインだ。

 オールスチール製のボディに、シンクロメッシュのギア。 最高速も何と公称で 72Km/h を誇った。
ちなみに「レオ」のネーミングは手塚治虫氏の「ジャングル大帝」から来ている。

 みずしまは、1946年から1962年まで生産され約10万台が世に出て、レオは、みずしまと同じく1962年までに約3万台が生産され、戦後、三菱の自動車部門の屋台骨を支え続けた。

 その間に、日本は講和条約によって、占領下から解放されると、「東日本重工業」・「中日本重工業」・「 西日本重工業」の三社は、「三菱日本重工業」・「新三菱重工業」・「三菱造船」と改称され、再び1964年(昭和39)に一つの会社となった。

 オート三輪から四輪への飛翔が始まった。
Posted at 2016/04/30 08:34:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ | クルマ
2016年04月26日 イイね!

昇竜 あのピレリ・ドラゴンがモデルチェンジ。

昇竜 あのピレリ・ドラゴンがモデルチェンジ。 実は隠れたベストセラーとも言われている PIRELLI DRAGON(ピレリ・ドラゴン)がようやくモデルチェンジされるとリリースが出た。

 ピレリのラインナップの中にあって、アジアを主体としたモデルで、安価でそこそこの性能を持っていると言う事で、安いタイアは欲しい、でもアジアン・タイアじゃねぇという向きのユーザーにとって、ピレリというブランドも手に入ってと言う事で、知る人ぞ知るというモデルであった。

 新しいモデルノネーミングは 「DRAGON SPORT(ドラゴンスポーツ)」 と名付けられ、よりスポーティさが強調されたイメージなったのだが、ある意味で旧モデルにあった個性的なパターンとは打って変わって、一見するとどこにでもある普通のフェイスとなった。

 旧モデルの、排水性も確保したい、ブロック剛性も取りたいという、センター辺りの、スリックタイアにザクッザクッと、溝を切った様な感じから、


最近の大人しいフェイスのタイアが多い中、なかなか個性的な顔つきのタイアだった旧モデル

 排水性を確保しつつ、レスポンスとグリップを確保するために、センターにリブを通し、サイプ(溝)のエッヂにはチャンファリング(面取り)を施してコーナリング時のブロックの変形を抑制しようという意図が見える、まったく今風のパターンに代わっている。

 さらに見るからに、サイプの間隔をバリアブルにして、ロードノイズの低減を狙って共振を防いでいるのが見え見えなのが面白い。

 メーカーからのプライスリストを見ると、普通の!?値段が並んでいるのだが、実勢価格は現行品と同等までになると考えている。




 オーソドックスで、サイプ一本一本の意図が見て取れる様なストレイトなパターンで、従来型のインパクトは薄れたけど、それゆえに汎用性と言うか、タイアそのもののポテンシャルは間違いなく上がったであろう「DRAGON SPORT(ドラゴンスポーツ)」。

 アジアンタイアはちょっとという旧来からのニーズ(生産国を見るとアジアンタイアじゃねぇか!?という噂もあるが・・・)を汲みつつ、どれくらい売れるか大いに注目すべきダークホースだと僕は感じている次第なのだ。
Posted at 2016/04/29 11:24:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | タイア | クルマ
2016年04月25日 イイね!

納車 電動クルマ椅子がやって来た!

納車 電動クルマ椅子がやって来た! 去年の11月に仕様を決めて設計、1月に正式に発注した子供用のクルマ椅子が今日無事に納車された。

 シートバックのカラーや、微妙な装備品の取り付け位置などを子供の意見で作り、漸く、納車となった。
 
 これまで、長い距離が歩けなくって、どんなに頑張っても周りの子たちに後れを取っていたのが、最高時速6Km/hの俊足を得て、春風に向かいながら病院の中庭を嬉しそうに真新しいクルマイスに乗る姿に家族で嬉しさを噛みしめた。

 病院の中庭に続く回廊には、遅咲きの桜が、淡いピンクで咲き誇っていた。その遅咲きの花や葉っぱの間から差し込む早春の日差しが眩しく感じられた。


殆どの桜は散って、葉桜になってしまっているが、ここだけ種類が違うのだろうか、まだ咲き誇っていた。

 周りの桜たちは、もう散ってしまって葉桜になってしまっているが、病院の回廊の、ココだけ一杯に咲き誇っていて、そこから散った花弁が回廊の床に、あたかも絨毯の様に敷き詰められ実に美しかった。


正に桜に花びらの絨毯と呼ぶにふさわしい様子だった。美しい。

 病院のリハビリ室に着くと、よいよオーダーしたクルマイスとの対面だ。
シートやホイール・カヴァーのカラーなど、せっかく作るのならお気に入りのモノをと言う事で、子供に任せてオーダーした。

 最後のチューニングを行う。 座面の調整や固定ベルトの位置などを調整し、合わせて使い方のレクチャーや備品の説明を受けた。


ベルトの調整やシートの微調整、どんどんと子供の身体にフィットしてゆく。

 ちなみに、今回オーダーしたクルマイスのスペックは、CGTVチックに言えば(笑)

全長1,035mm、全幅630mmで路面からグリップまでの高さが870mmと意外にコンパクト。

車重はバッテリーを含めて31.8 Kg と、アルミ合金を多用したフレームなどで軽量化が図られているが重めだ。

ちなみに今回のクルマイスはシートカラーやホイールカヴァーのカラーと、最高速が 6km/hの特別仕様となっている。

お値段は最近の軽自動車の安いグレードが買えるくらいになってしまった


明度を落としたシートバックの赤が印象的。モーターや制御系がありながら、意外にコンパクト。

 実は明日から実践配備なんだが、今日家に帰ってから、できるだけ時間をかけて、勾配の上り下り、傾斜面の走行など練習したが、実際は想定していること以外の事が起きることが往々だ。

 まずは安全に、自分もそうだけど、他人にもケガなどを刺せない様に安全に、電動クルマイスを使いこなしてほしいと願って止まないのだ。

 ところで、クルマ好きの僕が目につけたのが、制御系の、あの企業のロゴだ。


おおぉこんなところにヤマハ発動機の息吹が!!

 YAMAHA のロゴと、栄光の三音叉のマークが「ヤマハ発動機」のモノだった事!! ヤマハファンの僕にとって、ちょっとした事なんですが、これが嬉しかったりして。

 中学への進学と共に、明日からは電動クルマイスによる新しい生活がはじまる。

病気の進行は残念ながら止められないが、少しでも日常の生活が苦にならない様に、新しいクルマイスが活躍してほしいと思う次第なのだ。
Posted at 2016/04/25 22:45:06 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日常 | 暮らし/家族
2016年04月24日 イイね!

老舗 三菱自動車ってなんなんだろう。黎明期から戦後

老舗 三菱自動車ってなんなんだろう。黎明期から戦後 2016年4月20日。
 その日は、何の前触れもなくやって来た。 三菱自動車が軽自動車で、燃費試験の不正を行っていたことが大きなニュースとして流された。
 三菱にとって、3G83エンジン、車軸破損のクレーム隠しという大きな問題から、毎回の様に再生を誓っていた筈なのに、また歴史は繰り返された。
 
 しかし僕たちは三菱と言うメーカーをどれくらい知っているのだろうか。
そこから、今回に続く問題を紐解くカギは無いのか、僕なりに三菱の歴史を顧みてみることにした。

 三菱自動車の歴史は意外に古く、遡る事、1917年というから大正6年に三菱造船神戸造船所で一台の国産車が産声を上げた。
 その名は「三菱A型」。


どうだ!日本人にもクルマが作れたんだという自信に満ち溢れた表情が。この初心はどこへ。

 フィアットA3-3を参考にして造られたという、三菱A型は1919年には、恐らくわが国最初の量産車として製造が始まったが、当時の環境下では国産車は売れず、1921年までに20数台を製作したところで三菱の産業転換によって製造が中止された。

 三菱は航空機の製造を主力に移したのだ。

 日産の前身である、快進社自働車工場が1911年、実用自動車製造株式会社が1919年には設立されていたが、まだまだ量産というには程遠い状況であった。


同じころの日産の前進である「ダット自動車製造株式会社」のDAT号

 そうした先進性は、クルマの開発だけではなく、現代にも通じるメカニズムの先取りにも三菱の歴史に見られる。

 その一つが、フルタイムヨンクだ。

 1936年に、「野戦指揮官用全輪起動乗用車」の製造を軍から命じられ「PX33型軍用四輪駆動車試作車」という形で作り上げた。


当時のレヴェルからしてみれば、まったく外観は乗用車然としているが、中身はディーゼルを心臓に持つ、フルタイムヨンクだ!

 残念なことに、このPX33型軍用四輪駆動車は、正式に軍から製造命令が下らず、四台製造されたのみで終わってしまった。

 日本は軍靴が響き、よいよ第二次世界大戦へと突入。ゼロ戦を始め三菱の戦闘機は活躍をしたが、


三菱と言えば「ゼロ戦」が有名だが、その他の軍機も名作が多い。画像は「100式司令部偵察機」

 敢え無く終戦。

三菱は財閥解体によって、1950年には、「東日本重工業」・「中日本重工業」・「 西日本重工業」の三社に分割されてしまった。
Posted at 2016/04/25 08:33:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ | クルマ

プロフィール

「後視 いやぁこんなに簡単なバックカメラがあったなんて!! http://cvw.jp/b/124785/23876370/
何シテル?   01/04 14:54
無類のクルマ好きで、日産車を愛してやみません。 徳小寺 無恒のHNを引っさげ、かつての愛車、ワインレッド・パール・ツゥートンのU14ブルーバードの話題を軸...

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