
国内のタイアメーカーにあって、脚光を浴びる事が無かった「RIEKN タイヤ」。
そのリケン・タイヤが、スパイクタイアの禁止によって、スタッドレスタイアの開発が脚光を浴び、大手タイアメーカーが足踏みをしている最中に、ゴムメーカーとしての意地を見せて極寒でも硬くならないコンパウンドで一矢を報いたように見えたが、脆弱な販売力で浮上することは無かった。
せっかく掴んだチャンスをものにする事が出来なかった「リケン」にも、もっと大きく飛翔するチャンスが巡っていたのだ。
1980年代初頭、今でさえ高性能で名を馳せているミシュランだが、当時はスキモノが履くマイナーなブランドだった。ミシュランよりダンロップやグッドイヤー、そして高性能な海外分ランドとしては「ピレリー」が一歩も二歩もリードしていた。
これは、70年代に流行ったスーパーカーブームで、その多くがピレリーを履いていた事が日本での躍進になっていたのだ。
それまで見た事の無い、薄さと幅で、このタイアはいったい!?という驚きの目でピレリーは、あっという間に認知された。
欧州では強固なブランドとして君臨していたミシュランだが、世界第二の自動車生産国である日本での躍進を狙っていたのだが、その足掛かりとして商社では無く、餅は餅屋と言う事で、岡本理研ゴムと合弁で 1989年7月 から日本市場での販売を始め、1991年には群馬県でタイヤの生産を始めた。
さらに、低扁平タイアの解禁によって、そのノウハウを豊富に持つミシュランから技術を積極的に・・・というか漫然とだが吸収して、60タイアの市場にも打って出たのだが。。
巨頭とは違う個性的なパターンで低扁平市場にも打って出たが。。。
如何せん、それまでの、「取り敢えずタイアを買うなら」という適当なポジションで売っていたメーカーのタイアが、60タイアも作りましたと言っても、なかなか売れるものでは無かった。
この時に、ミシュランの培ってきたノウハウを吸収して、大手とは違った個性的なタイアを作っていたら、「リケン」というブランドは、もっと違ったモノになっていたかもしれないと感じるのだ。
一方のミシュランは、日本での製造と研究の拠点を得た事によって、それまで以上に販売の自由度が増して、日本向けのチューニングがされたブランドを投入したり、リケンのケミカルノ分野でのテクノロジーを得て、特にスタッドレスの性能向上が果たされた事は大きな成果だったに違いないと思うのだ。
その後、リケン(オカモト)とミシュランの蜜月は長く続かず、2001年には「オカモト」との合弁が解消され、群馬工場と研究所は名目的にも「ミシュラン」の日本のアジア地域での拠点となって、現在のミシュランの大きな快進撃の橋頭保になったのだが、2010年には製造コストの上昇と、設備の老朽化によって研究施設以外は閉鎖になってしまった事は記憶に新しい事実である。
一方のオカモトも、リケンブランドのタイアを細々と、国内より海外で安価な日本製というポジションで売り続けたが、いつの間にか「リケン」ブランドを売ってしまい、タイア事業から撤退したが、一時期、非金属チェーンを開発して、大きなムーブメントを起こしたのが最後の仇花だったのかもしれない。
チェーンを巻いても快適に、そしてグリップもすると、メーカー純正にもなったサイルチェーンが「オカモト」の最後の最後に咲いた花だった。
こう言ってしまっては、当時の関係者に失礼かもしれないが、
「多くのラバーケミカルを扱う専門メーカーとして単純にタイアも作ってますよ」
という感じで、いまひとつタイア造りの熱意が感じられなかったというのが、多くの当時を知るドライヴァーの「リケン」への印象だろう。
「良いモノを持っていたのに」モノづくりの熱意が少々足りなかった事が、「リケン」のすべてだったと僕は感じている次第なのだ。
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タイア | クルマ
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2015/05/17 02:27:55