サファリといえば、それこそ拳大の大きさの瓦礫が続くラフロードから、細かい砂塵が舞い、一度その砂塵が舞うと視界が遮られてまともに走れないコースなどなど・・その過酷さを表現する言葉で埋め尽くされているが・・・
何よりも、それまで何事も無かったラフロードが、一度のスコールで、人の膝まで沈むような泥濘路に激変するコースが何箇所もあり、それがこれまでのサファリで何度も勝敗を分けた事でも有名だ。。。
そんな泥濘路にハマルと、一度止まってしまうと二度と出れない・・そんな状況になるのだ。
DATSUNは、1969年のサファリラリーで、それを逆手に取った、欧州勢にはやりたくても出来ない空前絶後の作戦で優勝をかっさらったのだった。。
その作戦とは・・・
「タイヤ・チェーン作戦」であった。
ナクールからナイロビへのラリーコースは、一度雨に見舞われると、ケニヤ山の山岳コースと、雨によって変わった粘土質の泥濘路が重なって、サファリでも最大の難コースと言われていた。
果たせるかな、ラリーに合わせた様な大雨となって、瞬く間に路面は酷いマッドロードに激変した。
DATSUNはケニヤ山の入り口で、ブルーバードのタイアを四輪とも交換する作戦に打って出た!
交換されたタイヤというのは・・・フロントにピンの大きな特注のスパイクタイヤ、リヤにはなんと
チェーンを巻いたマッドタイヤをあてがったのだ。
チェーンなんて巻いたタイヤでは速度が出なくて・・・いやいやDATSUNのチェーンの巻き方は一風変わっていた。。
まずタイヤの空気を全て抜き、そこへタイヤの外径よりチェーンの内径が若干小さくなるように巻くのだ。そして、空気を規定の圧力入れると・・・外径より小さく巻かれたチェーンは、タイヤに適度に食い込み、外す事もずらす事も出来なくなる・・というものだ。。。
これで、どんなに高速で走ろうと、チェーンがたるんで切れるとか車体やサスへ干渉するといった現象は無くなった訳だ!!
しかし現場では、ドライヴァーとメカたちの想像を絶する葛藤があった。
四輪全てのタイヤを交換する事をドライヴァーに告げると、誰もが激しく拒否反応を示した。
「ダメダ!タイヤチェンジのロスタイムを縮められない!ヤメロ」
「俺達を信じろ!」
「また抜かれたぞ!滑りながら走った方がマシだ!」
激しく降り続くサファリの豪雨の中、懸命にスパナを回すメカ。その横をフォードがポルシェが次々と追い抜いてゆく・・・
タイヤチェンジを終えてケニヤ山へと次々にコースインするブルーバードを見ながら難波たちは祈った・・・
そして、ケニヤ山を超えたサーヴィスポイントに先回りをした難波たちが見たものは・・・抜かれたハズのライヴァルより早く、四台のブルーバードがサーヴィスポイントになだれ込んで来たのだ!!
「Mr.難波!こんな愉快なラリーは初めてだ!何たって前を走るクルマは、必ず抜けるだんだからな。最高だよ!!」
欧州車は、スパイクを履く事が当たり前で、チェーンを巻く余裕がホイールハウスに無く、チェーンを巻くという発想どころか、やりたくても構造的にできないのであった。。
(後年、日本車がチェーンを巻く余裕が無いといけない・・という規制の為に、ホイールハウスの大きさに比べて大きなタイヤが履けないというジレンマに陥ったが・・・閑話休題)
それまで、モノマネしか出来なかった日本人のラリーが、初めて日本人のオリヂナリティ溢れる作戦で欧州勢に勝った瞬間でもあった・・・
翌年からは、チェーンを巻く行為は日本車しか出来ない・・・という理由から、禁止されてしまった。
スキーのジャンプにしろ、日本にとって欧州の壁は厚く厳しいという現実は昔から変わっていない様だ。。。
ヨンク全盛の今、チェーンを巻いたタイヤなんて、それこそ想像できないだろうが、この作戦でダイナミックな走りをしたブルーバードは、今をもっても泥濘路に強くタフなマシーンとして記憶される事になったのだ。
チェーンを巻いたタイヤで高速走行なんて・・という既成概念をふっ飛ばし、栄光へ導いた日本人の感性とアイディア。
すでに40年近くの時が経ち忘れ去られそうだが、今一度思い出してみてはどうだろうか・・・
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ブルーバード | クルマ
Posted at
2006/07/03 16:26:20