
1979年11月。ブルーバード910がリリースされ、それまでのうっ憤を晴らすように爆発的に売れた。
910の爆発的なヒットで日産の危機は去ったように見えたが、日産社内では相変わらず権力闘争が続いており、それが後年のルノー提携までの影を落とすことになった。
910の成功は、そんなTOPの軋轢とは関わらず、単純に良いクルマを作ろう、技術者として意匠として納得のゆくクルマ作りをしようと言う集団の熱意で成し遂げられたものだった。
910の開発中に各セクションに貼りだされた手書きのポスター。技術者の熱意は叶ったが、社内は相変わらず権力闘争が続いていた。
910の発売から遡る事1977年。石原 俊が社長に就任した。石原は「グローバル10」を掲げ、世界での日産のシェアを10%までに引き上げるという大胆な構想であった。
もちろんシェア10%という大きな目標が主題であったが、石原は社内の悪しき仕組みの打破と言う目論見もそこには隠されていた。
更に遡る事、1961年、塩路一郎が日産労組組合長になり、翌年には、日産グループ全体の日産労連会長まで昇りつめた。
塩路一郎とは、そう、あの新組合結成時の会計部長であった男だ。普通なら日産労組のトップまで昇りつめたで終わりであったのが、彼の場合は、当時の川又克二社長と労使協調路線を取り、川又のバックを得たことによって、そのうちに日産社内の人事権や管理権まで握って、なんと、塩路の意向が無ければ会社が機能しない、労働組合が会社を事実上取り仕切るという異常な状態にしてしまったのだ。
信じられないが、当時役員の人事異動が行われると、最初に塩路の元にあいさつに行くという信じられない事態が日産には当たり前のように行われていたのだ。
そんな日産社内を変えようと石原は、虎視眈々と狙っていた。まず石原は当時、労組の勢力下であった各工場を廻り、自身の戦略と構想を説明した。もちろん、新社長としての決意表明であったが、社長としての存在感を与える事で工場での労組の影響力の低下を図る意図もあった。
そして、当時の貿易摩擦の解消も含めて、VWとの提携やアルファロメオとの協業、何と言っても1980年にサッチャーと英国国内で日産の工場を作り生産をするという事まで成し遂げた。
VWサンタナの日産の国内生産もグリーバル10の一環だった。
しかし、それらの早急な戦略は、川又、塩路を無視したモノで、ここでオイルショックや排ガス対策で浮上する筈であった日産をさらに暗黒へと陥れる労使10年闘争の幕開けでもあった。
現に石原の戦略に対し、会長になった川又は塩路の「石原グローバル10」反対に賛同し社内は混乱した。
そんな、川又-塩路ラインに対して石原は、まず川又を合法的に「相談役」に退け、次に塩路に対しての反撃を開始した。
事の真偽は謎なんだが、それまで春を謳歌していた塩路だったのだが、突然、女性問題が持ち上がり、日産労組内の「反塩路」を勢いずかせ、塩路を組合のすべての役職から引きずり落とすことに成功した。
これで安泰かと思われたが 1977年石原が社長になってから、1986年に塩路の実質的な引退までの約10年間の権力闘争で、日産の開発力や企画力がそがれてしまっていた。
さらに、石原が半ば強引に進めていた「グローバル10」も、アルファロメオやVWとの競合などがことごとく破綻、さらに北米での DATSUN ブランドの放棄で実は巨額な赤字を生み出してしまい、90年代の日産の衰退の大きな要因となった。
忘却 !アルファロメオ・アルナって、みんな知らなかったのね・・・
→ https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/127604/
ココだけのハナシ、コケ掛けていたアルファの救世主になる筈が、彼ら曰く「汚点」になってしまったとも
ただ、唯一救いだったのが1985年のプラザ合意に始まったバブル経済で、日産の赤字は減ることが無かったが、売り上げが増加してあたかも、日産の未来が開けたように見えたことであった。
日本じゃぁ、不人気車だったT12オースターも、英国で生産し、英国や欧州ではそこそこのヒット車で、英国日産の礎となった。グローバル10の数少ない成功例が英国進出だった。
ブログ一覧 |
クルマ | クルマ
Posted at
2020/01/11 14:14:34