勝とうと思うな。
よいよ出発の時、難波達は上司から意外な言葉を聞くことになった。
「勝とうと思うな。勝つよりも、壊れたら修理して必ず完走する事。そして何処がどう壊れたか、他のクルマは、どうだったか観察し、できればデータと取るんだ!」
それは、難波達にとって屈辱的な言葉であった。競技に出るのに何故、勝利に拘ってはダメなのか?俺達は会社に期待されていないのか。
そんな難波達であったが、オーストラリアに旅立つ日、羽田空港では、オーナーズクラブ他、大勢の人達が激励会を催してくれ、難波達を多いに元気付けさせてくれたのだった。
全部、日本製です。
オーストラリアに着くなり、彼らにさらに苦しく辛い現実が待っていた。
終戦から13年が経っており、過去の戦争の傷跡はたいしたことは無いだろう・・と予想していたのだが、実際にはそうでなかったのだ。
領事館からは
「多少、不愉快な事もあるでしょうが・・」と言われたのだが、食事中にクルマの日の丸が削り取られたり、何より、日本と言う『敗戦国』が、まだ戦争の痛手から立ち直っていないと思われており、何処へ行っても、同じ事を質問された。
「これは全部、日本製のクルマか?」
難波達は
「もちろん全部、日本製で出来ています!」
どうせアメリカから部品を買って組立ててるんだろ。そんな声が難波を苦しめた。
と答えるのだが、それでも「バッテリーは?ガラスは?タイヤはどこから輸入したのか?」と矢継ぎ早に質問してくるのだ。
それも無理からぬ事であったのだ、なぜなら当時オーストラリアで国産車と呼べるものは、GMを国産化したホールデンくらいだったのだ。
しかし、難波達を悩ませたのは、そんなナショナリズムだけではなかった。
まずは、こんな小さなクルマに、三人も乗って参加する事に好奇の目が集まった。
ラリー前の「車検」。ここでも小さな DATSUN は注目を浴びた。
しかし、サービス隊を持たない日産は、壊れたら自分達で直して走らなくてはいけなかったのだ。ドライヴァー二人は日本人、もう一人はナヴィゲーターとして現地から人を雇ったのだ。
1000cc にも満たない小さなクルマに三人も乗車してラリーを闘うなんて!?後席と前席の間には仮眠用の遮光カーテンが付けられていた。
今度は、そのナヴィゲーターから疑問を投げかけられてしまった。
「ラリーは軽いクルマが勝つんだ!日産は勝つ気が無いのか?」
難波は言葉の意味が分からなかった。「どうしてだ?」と聞き返すと、
「日産は競技だけでなく工具も売ろうとしているのか?」
「このクルマには、普通の倍の工具を積んでいるではないか?6丁で良いスパナを12丁、ボックスも24駒で良いのではないか?」
もっともである、残念だが当時の日産車は、エンジン周りは、英国のオースチンから技術供与を受けた「ストーンエンヂン」の流れで「インチ」。
それ以外は「メートル」のネジが使われていたので、必然的に工具が二倍分必要になってしまっていたのだ。
当時の日産は、英国のオースチンから技術供与された「ストーンエンヂン」の流れをくむエンヂンだったので、エンヂン周りは「インチネジ」が使われていた。
それまで、当たり前と思っていたことが、国際的には当たり前で無い事に気づかされた。
930Kg の車重で、34馬力の小さなエンヂン。
最高速も99Km/h というクルマに大人3人乗車という、誰もが考えても無謀なラリーへの挑戦に難波たちは旅立っていったのだった。
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Posted at
2021/10/18 00:12:27