さて!気を取り直して・・・閑話休題
FISCOに合わない、ムーン・シヴォレーエンヂンはとにかく「トラブル連発」で、正直カタログスペックで保障されている最高許容回転数では、まともに最後まで走破出来ない・・という悲壮感が、レース前から漂ってきていた。
その為にレヴ回転数を落とし、なんとか本番に間に合わせることにした。
そしてニッサン・シヴォレーR381には、コーナーが多いFISCOに合わせて新兵器を搭載していた。それが「怪鳥」のニックネームの元となった「エアロ・スタビライザー」と命名された、二分割式ウイングだ。
この「エアロ・スタビライザー」は、開発当初からのアイディアであったらしく、まだクローズドボディだった時の貴重な画像が残っている。
シートに座っているのは 櫻井眞一郎 氏。
もともとのアイディアは、米国の「チャパラル」(シャパラル)が1966年に開発した「2E」が最初だったと記憶している。
この「チャパラル」なんだが、GM製の2速ATを搭載しており、クラッチが無い替わりに、このリアの巨大なウイングの角度をドライヴァーの左足で調整する機構となっており、コーナーやブレーキング時にウイングを立ててダウンフォースを得る構造となっていた。
それから2年後の採用なんだが、櫻井眞一郎 氏の「独創」はオリヂナルを超えようとしていた。
つまり、ウイングを中央で二分割し、コーナーではイン側のウイングがコーナーの状態によって角度が付き、ロールの生成を阻害する事によって、安定性とコーナリングスピードの増大を得る事になった。
昭和43年5月3日14時、快晴の富士の身元、北野元のR381が飛び出し、それに高橋国光のR381が続いた!!
それを追うように田中健二郎、長谷見昌弘のローラ、そして二台のトヨタ7であった。
28週目を境にローラ勢が、ハイペースが祟って全滅、R381も32週目に高橋国光がピットでなんとリヤホイールのトラブルでリタイア。。。砂子のR381も部品が間に合ったとは言え本調子では無い。
そんな中、北野のR381は好調を維持し、40週目には二位以下を周回遅れにする快走を見せ付けた!!
このレースにはR380Ⅲ型が出ていたが、何と倍以上の排気量マシンを相手に互角の勝負を繰り広げていた。
59周目、三位に入っていた黒澤元治のR380が思わずスピン。
「終わってしまった!」と誰もが思ったが、すかさず黒澤はマシンを立ち上げ猛追し最後には表彰台の一角へと上り詰めた。
しかし・・・このスピンの時に重大な何かが起こってしまった。それは、また後日記述しよう。
本題の北野のR381は、ライヴァルと目されたトヨタ7と死闘を繰り広げていたが、何と58周目にトヨタ7はリヤシャフトが切断し、この時点で三台中二台のトヨタ7が消えてしまい、まさに北野の独走となった。
そして80周。
全てのマシンを周回遅れにしてR381は優勝した。
完調では無いムーン・シヴォレーエンヂン。それを持ってしても勝利へと導いたのは、無論、北野の卓越したテクニックだろうが、それを支えた「エアロスタヴィライザー」の存在も忘れてはならないだろう。。。
程なくして・・・F1で同様のウイングを装着したマシンのトラブルが続発し、このタイプのウイングは禁止となってしまった。
R382が登場するまでの間も、「翼をもがれたR381」は闘い続けたのであった。
もがれた翼の余力を取り戻すために、ボディに付加されたスポイラーたちが、R381のプロポーションを次世代のR382に似せている・・と感じてしまうのは僕だけだろうか?
エンヂンが自社製ではないという事から、そして最後には翼までもがれてしまい、その存在がかすれてしまったR381。
しかしR381で得た、大排気量エンヂンの躾の方法、エアロダイナミクスの手法は、次ぎのマシンに生かされた事を忘れてはならないだろう。
R381、まさに歴史に埋もれてしまった名車なのかもしれない。
Posted at 2009/06/17 01:01:29 | |
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