
日産が喘いでいる。
長らく続いたゴーン体制の反作用で、フタを開ければ、北米でもまともに商売をしていなかった事が白日の下に晒されたのだ。特に北米での大幅なディスカウントによる利益の圧迫というフレーズは、ゴーンが来る直前の日産そのものの姿であったりする。
結局は、コミットというプレッシャーに、約束は守ったが結果は散々と言う、ブランドを売ってしまった結果が北米での収益の圧迫と言う「反作用」となってしまったのだ。
顧みて国内も散々たるモノで、数が売れる北米や海外ばかりに力を入れた結果、まともに勝負できるクルマが e-POWER を搭載した ノート と セレナ と、粗利の少ない軽自動車しかないというモノで、あのかつてはクラウンとも互角とはいかなかったが、国産高級車の一角として存在感を持っていた「フーガ」も今ではひと月に数台しか売れない商品力の欠片も無い状態にしてしまった。
Lクラスのミニヴァンに至っては、このクラスを作り上げた「エルグランド」もすでに過去の産物となってしまい、トヨタに言わせればアル・ヴェルのライヴァルではないとまで成り下がってしまった。
最近のトヨタのCMで腸が煮えたぎるくらい怒りを覚えたのが、
トヨタイズムの新しいCMだ。
こんなクルマに対する思いが語られるCMに、いったい他のカーメーカーは何をやっているんだと腹が立って、腹が立って仕方なかったのだ。
このCMで印象的だったトヨタ社長の言葉が、
「私自身がセンサーを磨いておかないといけない」
「世界中の皆さん一緒にやりませんか」
というくだりだ。クルマ自体を自分で転がし、そしてトップメーカーとしての発言に他のメーカは一体何をしているんだと感じたからだ。
正直、他のメーカーからこうしたクルマ文化に対する声をここ数年聞いたことが無いからだ。
特に日産からはEVに関して一生懸命さは、ある時期まで伝わって来ていたが、今はどうもメーカーとしての姿勢やクルマ文化へのアプローチがまったく聞こえてこないのは如何なもんだろうか。
何度も言うが今の日産は満身創痍で、ルノーとの関係とも業績が良いという条件で不平等条約の解消を進めるはずだったのが、こうも業績が悪いと、しかもトップの人事がフラフラしていては如何ともしがたいだろう。
実は日産と言う企業は、これまで今回を除いて3回の存続の危機を経験している。日産の社員の皆さんは当然ご存知だろうが、最初の危機は、昭和28年4月4日から始まった「日産百日闘争」だ。
なんと4月4日は、オースチンA40が日産鶴見工場で初めて国内向けに生産が始まった運命の日だったのだ。
戦争で失った技術のギャップを埋めるため日産は英国オースチンと技術提携しA40のノックダウンを始める矢先に。
静岡県伊東市で行われた「全自動車労働組合定期大会」で賃金アップ主体とした労働条件の向上が決意されたが、よりによって日産の組合は、当時の日産の平均賃金約3万円を大会の賃上げ要求より割り増しして、五万三千円を会社側に要求したのだ。
だいたい、当時の自動車業界の平均賃金は 二万四千円 で、日産の賃金は決して安くはなかったのに、余りにも大幅な賃上げに当然の事ながら会社側は要求を「拒否」。
組合側も応戦して、職場放棄、団体交渉は行わず部課長を「交渉」の名のもとに弾劾。さらに会社側への通告のないサボタージュが散発的に行われ、7月には生産が完全に停止してしまった。
それに対して会社側は、8月5日午前4時を期してロックアウトを強行した。ロックアウト後も組合側の執拗なバリケード突破や会社側への嫌がらせなどを断行していたが、そんな組合の中からも、このままで良いのかという空気が起き始めていた。
その中心に居たのが設計部門を中心とした若手が組合批判の活動を始めた。若手の中には、かのサファリラリーで名を馳せた「笠原剛三」もいた。
8月14日、彼らは「会社側にも、ここまで拗らせた責任がある事を認めよ。組合も現状の闘争手段は間違っており、このまま闘争を継続するのであれば執行部不信任を出すぞ」という声明文を打ち出した。
その後、クルマが作れない、クルマが売れない事態にを顧みない組合の闘争に、現場や販売店からも組合批判が沸き起こり、笠原剛三などを中心とした若手を中心に組合に見切りをつけ、新組合の結成となった。
もちろん組合側も手段を択ばない新組合の結成の阻止活動や嫌がらせが続いたが、
「クルマを作りたい」
「クルマを売りたい」
という若手の熱意に押されるように、新組合への加入が相次ぎ、9月24日に新組合が要請した「生産再開」に応じた会社側が生産を再開して、さらに、それに呼応して新組合の勢力が増して一気に闘争状態が終息した。
しかし、この百日、実は昭和24年に始まった「人員整理」に端を発する、日産労組の数か月ごとの会社との闘争も含めて、日産はトヨタに技術、特に販売に関して大幅に戦力がそがれる事となり、販売でトヨタの後塵を拝する事態に陥ってしまった。
この時に、節度のある労働争議であったなら、トヨタに販売で後れを取ることは無かったというのが現代の評価である。
そして若手の「クルマを作りたい」という熱意によって作られた新組合が、日産の衰退をギリギリの線で留めたことは大きな意義であった。ただ、この時、新組合の会計部長であった「塩路一郎」の存在が二度目の日産の危機へと向かわせるとは誰もが想像していなかったのだ。
二度目の日産の危機とは一体。
Posted at 2020/01/04 22:45:08 | |
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