
日産の社員なら当然知っている日産の歴史を振り返っているが、日産存亡の第二の危機は1970年代に起きた「オイルショック」と、北米で可決された「マスキー法」のダブルパンチであった。
この当時の状況は、日産のみならず他のメーカーも危機的状況であったが、日産の場合は、それに輪をかけて、相変わらず社内にも大きな問題を抱えていた。
1970年、アメリカのマスキー上院議員が提案した、俗に言う「マスキー法」、「大気浄化法改正法」が制定された。
それは、これまで行われてきたクルマが排出するガスの浄化法では到底クリアーできない厳しいものだった。
・1975年以降のに生産車について
1970年初頭の基準から、一酸化炭素(CO)と炭化水素(HC)は90%以上減少させる。
・1976年以降生産車
1970年代初頭の基準からNOxは90%以上減少させなければならない。
という厳しいものだった。9割と言う事は、大気汚染物質を出すなとも置き換えられ、ビックスリー(現代では死語ですが、どことどこのメーカーが分かりますよね)は猛反対したのだが、そこに「できま~す」と手を挙げたのが日本のホンダだったのだ。
それらの基準をクリアーしなければクルマの販売もできないという事で北米のメーカーも含め、ほぼ世界中のメーカーが、マスキー法をクリアーするために莫大な資金と時間をかける事となったのだ。
この後、亜米利加では後述するオイルショックでマスキー法は骨抜きされたが、日本では、そのまま規制が堅持され、50年規制、51年規制、53年規制と排ガスへの要求が厳しくなり、その対応の為にモデルチェンジなんて後回しという危機的な状況に陥った。
なんたってこの排ガス対策の為に日産は、公称で当時の金額で2~300憶円が投入されたという、その時に誕生したエンヂンがツゥプラグのZエンヂンであった。
大量のEGRを掛けても燃焼できるようにプラグを2個配置。この基本スタイルはCAまで続いた。
そしてさらに追い打ちをかけたのが「オイルショック」であった。
1973年10月6日、エジプト軍とシリア軍が、イスラエル軍に一斉に攻撃を開始。それまで不敗を続けていたイスラエルも、不意を突かれた恰好になりシナイ半島の中くらいまで撤退した。
そしてアラブ原油産出国は伝家の宝刀 である原油を武器に、「イスラエルを支援する国には原油を売らない」、「原油価格を大幅に上げる」と宣言し、原油価格はそれまでの、1バレル約3ドルから4倍近くの12ドル近辺になった。
そうなると原油高につられてガソリンの価格も上がり、さらに原油の供給への不安から国は、原油の消費を抑るためにガソリンの販売にも規制をかけて来た。
僕が小学生の頃だったのだが、ガソリンスタンドは夕方になると店を閉め、「輪番」といって、順番で地域のガソリンスタンドの幾つかは開けるが、「輪番」で無いガソリンスタンドは土日休みになった。
金曜までにガソリンを注ぎ忘れたクルマは、土曜日になると「輪番」で開店しているガソリンスタンドを求めて彷徨うなんて光景を良く眺めていたものだ。なんたって今の様にNETなんてないから、情報収集は聞きまわる事くらいしかなかったから「輪番」は切実な問題だった。
そうなってくるとクルマの売り上げも落ちてゆき、普通でもメーカーの台所事情は悪化するのだが、日産にとって痛手だったのが主力である「ブルーバード」、「ヴァイオレット」、「サニー」の販売不振だった。
デヴー当初はコロナとデッドヒートしていたブルUだが、オイルショックで質実剛健さが求められるようになると一気に不人気車種へ。
ここで何度もブログなどで言っているが、610も710もサニーも当初は、「豊かさ」、曲線を生かしたデザインで最初は売れまくっていた。
あたかも、当初から不人気車種街道をまっしぐらという雑誌やブログなどを見るが、あれは間違いだ。
暗転 豊かさが足を引っ張ったバイオレット、ブルUの悲劇
→ https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/36594612/
目線 豊さに振りまわされたバイオレット
→ https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/36552981/
澄玲 見直そう。初代バイオレットの憂鬱
→ https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/36545494/
「排ガス規制」と「省エネ」で日産は新車の開発ができない、それまでの好景気に支えられた豪華絢爛で趣味性の高いデザインも、突如としてユーザーのニーズに合わなくなって売れなくなる。
新車を出したくとも出せない、売れるクルマの手持ちが少ない日産は再び逆境に立たされた。
そんな中、開発費が掛けられない、急遽、燃費を稼ぐために軽くしなくてはならない、排気ガスも綺麗じゃないといけないという事で、当初のコンセプト通りに造れず、さらに発売も予定より一年も遅れた中で、何とか日産は販売を盛り返すために 810ブルーバード を発売した。
開発費無し、コンセプトも曖昧、だけど販売から新車を出せという不幸な生い立ちで生まれた810。
新車効果が出る最初の二ヵ月はそこそこ売れたが、それからはコロナはおろか、次の時代を見据えて作られたギャランΣも参戦してきて810はずるずると売れなくなってしまった。
苦難 人が犬を噛むとニュースに・・・
→ https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/137433/
開発費も試作車の数も、それまでで最小。さらにオイルショックで発売が遅れ、610から見栄えは変ったけどコンセプトを変えられなかった810はブルーバードの歴史の中でも本当に不幸なクルマだったかもしれない。
もちろん、ブルーバード以外の日産車も同じような有様で、販売店からは
「クルマが売れないからと言って鍋釜を売れば良いっていうモンじゃない」
と日産の苦境を訴えていた。
さらに、クルマが売れない事情には日産内部の現場無視の悲惨な状況も日産の足元をすくっていてしまった。日産には社長、会長以外にも「天皇」が居たからだ。
Posted at 2020/01/05 12:23:19 | |
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